2011/07/31

「許せるか、許せないか」はどう判断するか (2)

(1のつづき)


あることを目の当たりにしたときに、それを許せるか許せないかという判断は、しばしば正義感が強いかどうか、という人柄と結びつけて論じられます。


たとえば花見に行ったときに、桜の花があまりにも綺麗だったもので、枝を折って持って帰ろうとした人がいるとしましょう。
それを見た自分の友人が、それはいいアイデアだと言って、自分たちもやろうと言い出したとしたら、あなたはどういう態度で臨めばいいでしょうか。

もしこれがいけないことだと思って、たしなめようと理由を探したとすると、こんなふうな言い方になるかもしれません。
「同じことを他の人が真似したら、どうなるか考えてみなさい。これだけの数の人間が、みな一枝ずつ持って行ってしまったとしたら、この公園の桜の木はほとんどの枝を失って枯れてしまうではないですか。」

この意見はそれなりの説得力を持っているように聞こえますが、すこしつっこんで考えてみると、「たくさんの人が同じことをし始めると困る」というのは、やってはいけないことの理由の焦点が「数」にあるかのようにも聞こえてきます。
ところがこれは、やってはいけないと言いたいがために理由を探したところ、こういう説明にならざるを得なかったに過ぎず、本当のところは、ひとりでも、誰も見ていなくてもやってはいけないのだ、と言いたかったわけですね。

かといって、法律や看板に「〜べからず」と書かれているからダメなのだと説明することになると、「ダメだと言われていないことならなにをやってもいいんだな」などという安直な反論を許してしまうことにもなりそうです。

そうなると、自分の内面にあった「これは許せない!」という気持ちが、結局のところルールや決まりごとといった外部に依存しているにすぎないもののようにも感じられてきて、自分の感じ方は主体性を欠いているにすぎないのでは、ということさえ思えてくるわけです。

◆◆◆

このように、自分が自分自身の内から発せられていると感じられているところの意志というものが、突き詰めれば突き詰めるほどに外部からの影響や社会性とは切っても切り離せない関係にあることが自覚されるのです。
ここを「あれかこれか」という考え方で論じることになると、人間という個人はあくまでも自由な自分の意志によって行動するのだという個人主義か、人間というものは実体としては個別の個人でありながらもその行動はすべて外部からの影響の反射によるものにすぎないのであるという全体主義のどちらか、という結論になってしまいます。

ところが実のところ、わたしたちは幼少の頃から両親に言われてきたところの、「〜しなさい」、「〜してはいけません」ということばが、わたしたちの意志のなかに刻み込まれたというよりも、そういった働きかけの繰り返しが意志そのものを創り上げてきた、ということなのです。

鋭い読者のなかには、ここでの「〜しなさい」、「〜してはいけません」というのはどこから出てきた発想なのか、と訝しく思われる方もおられるでしょうが、結論から言うならば、これは「人間として」という尺度に照らして導きだされてきたところの、「〜しなさい」、「〜してはいけません」という規範です。

それでも、それを言うならば、「人間として」という肝心の「人間」とは何かを特定できていなければならないではないかという反駁には、「人間」というのは、歴史的に生成されてきたところの人間観である、と、とりあえず形式的なところを表明しておきます。

ここでの問題は、対象化された観念のひとつである規範のあり方と、自由意志とのあいだに矛盾が起こっていることに由来しています。
形而上学的な論理では、矛盾を統一して考えることはできませんから、ここもやはり、現実がもつ立体的な構造に合わせて、弁証法的な論理をもって考えを進めてゆく必要があります。

◆◆◆

ところで、こういう形式的な説明だけでは、今回例に挙げた学生さんの思い悩みというものは解決したことにはなりません。

ここまででアドバイスできるのは、「あなたの許せないという気持ちは、あなたがこれまでに受け入れてきたところの規範によって生成されてきたんだよ」ということでしかありませんから、こんなことを言っても、本人はなにも納得できはしないでしょう。

形式的な説明は、現実から抽象されてきたものであるとはいえ、現実とはかけ離れたところにあるものですから、本人に納得してもらうためには、抽象と具体とを結びつけるところの、表象段階の説明を使って、当人の頭の中にうまくイメージを作り上げてもらわねばなりません。

それを、以下で考えていきましょう。


(3につづく)

2011/07/30

「お勉強」が嫌いな人は資格試験にどう取り組むか (3)

(2のつづき)


もしあなたがお勉強が嫌いだけれど、それでも取らなければならない資格があるときには、まずはその資格が、「自分にとって」どのような必要性に基づくものなのかを確認しておくとよいでしょう。
資格というものは、それなければ給与が上がらないだとかいう理由で、得てして外部的な必要性に迫られて取ることになりがちですが、それに引きずられて作業的な面ばかりになってしまわないように、主体的な理由を見つけておくのです。

◆◆◆

そのあと実際的な方法でも、やはり自分の問題意識を活かすべく学習を進めてゆくわけですが、そのときには「参考書」ではなくて「問題集」を主軸に据えて取り組む、ということをお奨めしたいと思います。

問題集はほとんどの場合、過去に出題された問題の中から、頻出の問題を類型化したものが収録されていますから、資格全体の傾向をつかみやすいと共に、問を出す者と答えを出す者との討論の中に身をおくような形で、誤解しやすい部分や引っ掛けなどの間違え方をも含めて学んでゆけるのです。

大きめの本屋さんに行って、取り組む資格についての本の中で、「答え」そのもの(結論)ではなく「解説」が詳しいもののうち、「答えに至る考え方(過程)」が書いてあるものを選ぶとよいでしょう。

そうしてまず、効率化のために、答えと問題集が別冊になっていない場合には、カッターなどで切り離してしまいます。
参考書などは丁寧に扱っても年次がすぎれば古本屋でも二束三文の買取価格になりますから、汚しても破いても自分のものになればよいと考えて、思い切ってどんどん書き込んだり切ったり貼ったりして自分流の使い方で使うとよいと思います。

◆◆◆

次には、オレンジ色の細字蛍光ペン(あまりキラキラ光るものは見にくいですよ)などで、問題集に答えを書き込んでしまいます。
このときに、選択問題の場合には正答の番号にマルを書き込んでゆくわけですが、「間違った解答のどの部分が間違っているのか」に波線などを引くとともに、どうすれば正答になるのかを書き込み、わかりやすく記しておくことが必要です。

この段階ではそれほど集中する必要はありませんから、わたしの場合は、休み時間の合間を縫って、雑然とした場所や時間でも、それなりのアタマの使い方で手を動かしながら気楽に取り組んで、勉強の準備をしていました。
こうしておくと、あとでまとまった時間で理解を進めるときにも、すでにかなりの既視感がありますから、本番の勉強が始まっても、「ああここはさっき見ておいたからわかるな」、ととても楽な気持ちで進めることができます。

どんなに食わず嫌いが激しい人でも、自分の趣味の話題が出てきたときには、水を得た魚のように話に加わるでしょう。
新しいジャンルに取り組むときには、はじめの一歩を乗り越えることに、いちばんの努力が払われるものです。

まとまった時間での理解の段階では、赤い透明のシートをかぶせながら問題を解いて、その答えや関連する専門用語を裏紙(必要なくなった紙の裏)を書いて書いて書きまくって覚えると、しっかりと記憶に定着してゆきます。

◆◆◆

こうやって、問題集をわからないなりに解いていると「ここが知りたいのだけど解説には出てこないから知りたいな」、という問題意識が生まれていますから、次に書店で参考書を見た時にも、「この参考書はうまく説明してくれる」、「こっちは大事なことが書いていない」という判断も自然にすることができます。

こうして、自分にとっての必要性が明確に意識できた段階ならば、同じ2000円を出して参考書を買うときにも、「とりあえず言われたから揃えた」ときよりも、自分の知りたかったことが載っているという意味で、ずっとずっと価値のあるものとして映るでしょう。

ここは裏返しにすると、「モノから入る」式の人たちが、なぜに飽き性なのか、なぜさほどに探究心を発揮し得ないのかという問題も自然に解けてきます。

どこぞの自己啓発セミナーにつかまってなんとかメソッドだのにお金を使ったり、たいした資格でもないのに資格取得講座なんかに行って時間を使うよりも、資格勉強に取り組むくらいであれば、ディナー一食ぶんのお金でけっこうな勉強をすることができます。

わたしは大学生のころ、友人がお菓子を食べたり漫画雑誌を読んだりしているお金を使って参考書を1冊だけ買い、10分単位の空き時間を使って、1年ごとにだいたい10つずつ資格をとりました。
傍から見れば一時期流行った資格マニアのようなものだったでしょうが、細かな知識そのものや就職に有利だとかはあまり意味のあることとも思えないわたしにとって、資格勉強は、効率良く知識的な習得をするにはどうすればよいか、という過程における構造を事実的に調べてゆくための実験にすぎなかったというわけです。

事実、資格をいくらたくさん持っていても、それだけでは雑学ハカセくらいの意味しかありません。知識的にまる覚えしているだけの単なる雑学ハカセは、新しいものごとに向き合うときに、それと向き合う「術」を知りません。大事なのは、新しいものごととの、「向き合い方」のほうなのです。

◆◆◆

ここで挙げたのは、わたしが試してきたことのひとつです。

わたしはアタマを動かしてものごとを考えるのは好きですが、機械的に知識を習得することだけは、まるっきり気が進みません。ですが、学問をするには、知識がどうしても必要です。

あなたにも、感情的にやりたくはないし知らないことなので物怖じしてやりたくない、ということがらが多かれ少なかれあるでしょう。

人間に与えられた環境は人それぞれ違いますし、どれだけ望んでも自分で選ぶことの出来なかったものもあります。
苦もなくお勉強ができる人もあれば、活字を見るだけでもアタマが痛くなる、という感情をもつ人もあります。
わたしの場合は小さい頃失読症だったらしく、ことばの意味がうまくとれませんでしたから、人よりも多くの工夫が必要でした。

それでも、人間というものは、自分の生まれ育った環境や自らの能力という条件に縛られることなく、自らの創意工夫によって、生まれ持った条件を乗り越えてゆくことができます。
新しい一歩を踏み出すことにはとても勇気が要りますが、そのやり方を工夫して繰り返してゆく中で自分が食わず嫌いであったことに気付かされ、しだいに新しいことをするのが好きになってゆき、ついには困難に出合ったときにこれぞ成長の機会だと飛びつくといった姿勢として身についてゆくものです。
わたしは今では、毎日1冊の本を読み、2万字ほどの文章を欠かさず書くようになりました。

苦手だけれどどうしてもやりたい、どうしても必要なんだ、そういうことがあるときには、ものごとの原理・原則的をふまえたうえでの柔軟な考え方が、よき指針になってくれるでしょう。

わたしは新しい語学の単語を修練する必要があるときには、絵ばかり描いています。
それも、ひとつの工夫です。

物心ついたときに、自分の才能と人のそれとの大きな差を感じるときには、どれだけ必要があったりどれだけ好きな事であっても、「もともと向いていなかったのだ、諦めよう」と言って自分の気持ちを押し殺してしまう場合が、残念ながら少なくありません。

しかし、決められたコースやお定まりの勉強法だけが、人生を左右する条件であるとは限りません。
もちろん、持ち前の才能がどうであるかも、同じことです。


(了)

2011/07/29

「お勉強」が嫌いな人は資格試験にどう取り組むか (2)

(1のつづき)


前回のおわりでは、「いま嫌いなこと」は、ずっと嫌いなままで、決して「好きなこと」にはならないのだろうか?と問いかけました。


これを乗り越える手助けをしてくれるのが、「問題意識」というものです。

キッチンになどまともに立ったことがなくても、バレンタインデーともなれば、四苦八苦しながらレシピを読み進めて、すこしでも味の良いチョコレートやクッキーで好きな男の子の気を引こうとするでしょう。
どれだけ一人稽古だけで技を磨いていた人間でも、いざ人の上に立つともなれば、後輩にバカにされないようにと修練に身が入りますし、自分なりのやり方で後輩の面倒を見ようとするでしょう。
どれだけの子供嫌いであっても、生まれたばかりの我が子の、紅葉の葉のような手のひらを握ってみれば、親としての責任を感じて仕事にも身が入る、というのが人間というものです。

わたしたちが物心ついてからなにかに取り組むときには、どの努力の中にも、あることがらが念頭に置かれています。
ここの、人間というものは動物のように本能で動くのではなく、まずもってこうしたい、ああなりたい、という像を頭の中に持った上で実践に取り組むことをふまえて、学問でも、「人間は、目的意識をもって行動する動物である」との定式化がなされているわけです。

そういう問題意識というものが生まれるもともとのきっかけを探ると、自分が目指すところの目標と、現在の自分とを比べたときに、そこに矛盾があることを意識せざるをえないからです。
簡単にいえば、「今の自分には必要なだけの力がまだないなあ、なんとかしなければ」と思う、ということですね。

ここでの記事は、読者を手取り足取り目標まで導いてゆくという手びきをするものではありませんので、ここに、必要性を強く持った目標を設定することや、いまの自分の力を明確に自省することなど、どのような前提があるのかはご自分の必要に照らして考えてみてください。

ともあれ、料理が苦手の人が家族を持ったことによってその面白さに気づいたり、人の上に立つ必要性がそのもの自身を変えてゆくことは十分にありうるのですから、いま好きではないからとか、いまは能力がないからといった理由だけで、取り組むべきことを諦めなくてもよいわけです。

◆◆◆

好きや嫌いという感情は、現在の自分から見ると、どうにも動かせないほどたしかなもののように感じられることが多く、「現時点に時間を固定して、内なる感情に向きあうとしたなら」、ひとつの真理です。
そういった感情的な理由で新しい一歩を踏み出せない場合もありますが、新しい一歩を踏み出すことによって新しい気づきや意外な楽しさを見出すことがあると、食わず嫌いを克服して新しいことに積極的に取り組んでみようという姿勢となって定着してゆくことも少なくないのです。

わたしは義務教育、高校、大学へと進んでいった中でこのようなことにしだいしだいに気付かされてきました。

現実からの要請が、好きなものは嫌いなものではないものである式の、「あれかこれか」という形而上学的な考え方から、「あれからこれへ」・「あれもこれも」という弁証法的な考え方への変遷を迫ってきたのです。

そうしてそのことは、人を指導する立場に立つようになると、さらに推し進める必要が出てきました。

そうした中で、子供たちや後輩への指導をするにあたって、「勉強するにはまず姿勢から」ということを念頭におくようになっていったのです。


たとえばアルバイトで勤めた学習塾では、はじめの数コマを、「なぜ勉強をしなければならないのか」の話に割きました。
まずもって、学校の成績が悪かったり、学習塾に来るという事実そのものが、「勉強をしたくない」からなのですから。

言い換えれば、「どうしても嫌い!」を、自分の将来を想像することによって勉学の必要性と楽しさに目覚めてもらうことをとおして、「あれ、意外と面白いかも」、「ちょっとやりたくなってきた」に持っていくための工夫をしてきた、ということです。

「勉強ができない」、「論理力がない」というのは、単なる結果にしか過ぎません。問題はいつでも、その過程にどのような原因があり、どのようなきっかけがなかったか、ということなのです。

◆◆◆

「あるものごとに取り組むためにはまず問題意識から整えねばならない、自分にとっての必要性を強く認識できていなければならない」ということは、今回例にとった資格勉強の際にも、十分に役立てられる気づきです。

これをとりあえず、「問題意識」方式、と呼ぶことにしておきましょうか。
「お勉強」方式と対比させるための便宜的なものなので、言葉を深堀りする必要はありません。

さて、そういったやり方を目指すのならば、「お勉強」方式の、参考書をまる覚えしたあとに問題集を解く、というやりかたは、とても効率が悪いことになります。

なぜなら、参考書をまる覚えしたところで問題意識など出て来ようもないのですから。


(2につづく)

2011/07/28

「お勉強」が嫌いな人は資格試験にどう取り組むか (1)

ハウトゥばなしはつまらないのでほとんどしませんが、


学問的にものごとの根っこを抑えておくと、たとえば資格の勉強なども、ずっと効率的に進めることができます。

◆◆◆

資格でも取ろうかと思って大きな本屋さんに行ってみると、ひとつの資格にも数社からの出版物が見つかりますし、同じシリーズの書籍を眺めてみても、数巻からなる構成をとっていることが少なくありません。

参考書、問題集、用語集、過去問などがそれに当たりますが、資格によっては十数冊に及ぶことも少なくありませんから、すべてに目を通すだけでもかなりの労力が必要ですし、もし不合格になったときには次年度もまた同じ出費がかさむのかと思うと資格の取得自体を断念せざるを得なくなる場合もあります。

こういった制限をうまく乗り越えるために、みなさんは、どんな順番で取り組むでしょうか?

義務教育の学習の進め方では多くの場合、先生からの授業をノートを取りながらじっくり聞いたあとに、宿題として出された問題集を解きながら学習を進めていきますから、その類推で言えば、参考書から問題集へと進んでゆくのがよさそうに思えます。

この「お勉強」的な方法は、知識的なまる覚えの習慣が見に付いている人にはそれなりの安心感をもたらしますし、内実への理解はともかくとにかくまる覚えして資格がとれてしまえばそれでよいという場合には、いちおうの効果が得られるものです。

ところが、この場合にはあくまで知識を丸呑みにしているだけに過ぎませんから、それを実際の実務で活かそうとするときには、その間に相応の隔たりを感じることが少なくありません。

そして覚えて使う以前の習得の段階にも問題があり、「お勉強」が大嫌い、という人には、このやり方は使うことが出来ません。
アタマでは資格が必要なことを理解していても、「ここはどうしてなの?なぜなの?」ということが気になるあまりに、過程を飛ばした結論だけを受け入れることを、ココロが拒否することがあるからです。

「勉強が好きだと言えるのは、頭をちゃんと使える時だけだ」、「勉強は嫌いだけれど、頭はそれなりに回るほうだ」というタイプの読者の方は、たしかに覚えがある、と頷いてくれているのではないかと思います。

◆◆◆

それでも、仕事上どうしても資格が必要になることもありますね。

そんなときにも、資格をとれるのはお勉強が好きな人間だけなのでしょうか?
そのことを、人間の認識のあり方を踏まえながらごく簡単に考えてみましょうか。

さきほどの「お勉強」方式は、とにかくひととおりまる覚えした後に、問題集に取り組んで応用問題を解けるようになる、という学習過程を持っていました。

ところが、まる覚えがどうしてもやれない場合には、そのやり方を採用しにくいのですから、別の方法を考えてゆかねばなりません。

わたしは学生のころなどは、まさにそういった気質であったので、短期的な試験の結果などにまるで興味を持てず、「この勉強が自分の人生にとって必要だ」と心の底から納得できるまで、何もしませんでした。

ほかの成績優秀な人たちは、先生が指さした方向がどれほどの真っ暗闇でも、やれと言われているからとか、みんなが行っているから乗り遅れまい、という気持ちだけ歩みを進められていたようですが、わたしにとっては、真っ暗闇の中どこへ向かってゆくのかもわからないまま、崖から転げ落ちてそれまでの過程が無に帰するかもしれないような道程を歩いてゆくなどは、狂気の沙汰でしかなかったからです。

そんな博打に時間を使うなら、映画を観たり川辺を散歩している方が、人生にとってはずっと堅実な前進になると思っていました。

◆◆◆

その代わりに、授業を受け持ってくださる先生のことを、とてもよく見ました。

授業中に発せられる知識の裏側に、明確な根拠を持っておられるどうかを見出そうとしました。
それが学問だけではなくて人生観にまで通った一本の筋として確立されているかを、見ようとしました。

そういう視点から、この人は信頼がおける、自分の人生を預けるにふさわしい人物だと思えたときには、「この勉強をすれば、いつかはこんな人になれるんだ」と、心から安心して、何も言われなくとも自ら進んで勉学に取り組めたものです。

授業中に取ったノートの隅には人生の先達の失敗談や人生訓が冗談交じりで書かれてあり、直接的に受け止めて見直すだけでもくすくす笑えてくるほどの楽しさがあるのに加えて、その裏側からは、失敗から学んでこられたからこそ今では笑い飛ばせるほどの謙虚でおおらかな人格を持ち得たのだ、という人間への信頼を感じ取っていたものです。

そんなときに、どこかに悪い点数をとる理由があるでしょうか?
高校3年間の半分を人生についての煩悶のうちに過ごしたのち、残りは主席で過ごしました。
わたしはアタマが良かったのではなくて、ただ授業に感動していたからこその、好きこそ物の上手なれ、だと思っています。
授業を受けるだけで主席になれるのに、塾などに行く必要があるでしょうか。

わたしがこのときに見出したのは、「強い動機」が備わっていれば、勉強などというものは、「誰かにやらされるもの」ではなくて、「自分で進んでやりたくてたまらないもの」でしかないのだ、ということでした。

いまのわたしがここでの気づきを言い換えるなら、「ある能力の習得には、強い問題意識が欠かせない」ということです。

わたしたちが子供の頃には、なにもないところに両親の影響がどんどん浸透してゆき、それが知らず知らずのうちに物心として生成されてゆくために、そこでの心身ともの努力は努力とも思えないほどのものなのですが、それとは違ってすでにそれなりの物心がついてしまった人間の場合には、「好きなこと、好きではないこと」、「やりたいこと、やりたくないこと」の差が、まるで超えられない壁として立ちはだかっているようにも思えます。

自分のやることは「好きだからする」のであって、「嫌いだからやる」のではない、ということになると、嫌いなことは未来永劫嫌いなままのようにも思えてきます。

ところで、「嫌いなこと」は、この先もずっと、「好きなこと」にはならないのでしょうか?


(2につづく)

2011/07/27

MacOS X Lion (4):前を見据える者はどんな橋を渡ってゆくか


MacOS X Lion (4):前を見据える者はどんな橋を渡ってゆくか

(3のつづき)


前回までは、Appleが、自ら世に問うたタブレット型のコンピュータiPadがユーザーにどのような利便性をもたらしたのかを学び、その長所を取り入れいたものがMacに合流されることによって"OS X Lion"が生まれたという経緯と、その設計思想について見てきた。

ものごとをゼロから考えるということは、自分が築きあげてきたものをも、一旦はなかったものとして考えた上で、根本的な土台の作りなおしを要請するものだから、誰にも知られることのない数えきれぬ試行錯誤の末に、そういう設計思想を持つものが世に出たときは、当然のことながらある種の革新性を帯びているわけである。

iPhoneは、それまでの携帯電話業界とそれを使うユーザーが縛られていた「テンキー」から解放されたところに、その革新性があった。
今回取り上げた"Lion"は、それまでのPC業界とユーザーが縛られていた「PCの独自ルール」から解放されたところに、その革新性があったのである。

そしてそのどちらもが、その当事者であった誰もが、「自分が縛られている」という事実に気づいていなかったことなのである。

そんな中で発売された"OS X Lion"は、世界ではじめてオンラインでのみ販売されたOS(USBメモリ版は後日)であるが、そのダウンロード可能になった時間というのがアポロ11号が月に着陸したのと同じ7月20日の21:30であったところにも、Apple自身の自負が伺える。

◆◆◆

わたしが前回の記事で、この"Lion"には未成熟の部分もあると書いたように、このOSの発売をもって、新しい時代への流れが明確に生まれたとは考えてはいけないと思っている。

言い換えるなら、このOSは「ポストPC」時代に向けた革新的な第一歩ではあっても、それが根底から、PCに初めて触るユーザーのためのものになっているとは言えない、ということである。

ずっと未来にどうあるべきかという話でなく、単にiPadと比べてみても、そのユーザー志向とは比ぶべくもない大きな差がある。

それは、「帰るべきホームがない」ということだ。


iPhoneやiPadが、相当に複雑で高度な機能を持っているにもかかわらず、女性を始めとした一般大衆、ときには子どもや年配の方にまでなぜ受け入れられたのかといえば、そういうコンピュータを苦手とするユーザーにとって、画面の中央下に位置する「ホームボタン」が、いちばんの安心感をもたらしているからだと思う。

iPhoneの画面下部に位置するホームボタン。
カドのとれた正方形のアイコンが描かれており、本体を横向けで使うときにも同じ模様になる。
iOS機器では、すべてのアプリケーションがここから起動し、使い終わったときには必ずここに戻ってくることになっている。

もしあなたがあるアプリケーションを使っているときに、それが固まって動かなくなったり、深い階層に潜りすぎていま自分がどこにいるかがわからなくなったりしたときには、このホームボタンを押すだけで、すべてのはじまりである場所へと戻ることができる。

これをホーム(家)と呼ぶのは、その意味で実にふさわしい表現なのであって、物理ボタンによるカチッとした確かな手応えと共に、それを使うユーザーに「困ったときにはホームに戻る」という安心感をもたらす効果を果たしている。

おなじスマートフォンの系列に属するAndroidを見ると、iPhoneの場合にはホームボタンが鎮座している画面下部には、「メニュー」、「ホーム」、「バック」、「検索」ボタンがある。
しかも、このボタンのどれを搭載するか、またどの順番で搭載するかは機種によってバラバラなのである。

Engadgetの記事(Android の分断化問題がよく分かる一枚の写真)より
こういった思想性に直結する部分を、1個であろうが4個であろうが変わらない、というわけにはいかないのであって、そこから透けて見える設計思想を確認すれば、それらの表向きはよく似ていながら、実のところ似て非なるものであることが読み取れる。

Androidのボタンについては、メーカーの試行錯誤の中から、最近ではようやく事実上の標準(デファクト・スタンダード)の構成が決まりつつある状態であるが、メーカーの試行錯誤に付き合わされたのは、他ならぬユーザーであるし、押下感のないタッチセンサー式のボタンを搭載した機種も未だ多いことから考えると、形だけを真似した、やはり似て非なるもの、と言わざるを得ない。

◆◆◆

ものごとをゼロから考える者は、橋を作りながら渡ってゆく者である。

その橋というのは、他ならぬユーザーがものごとをうまく運ぶための橋なのであるが、それがすでに目の前に出来上がったものとしてしか映らない同業他社にとっては、それは単に金のなる木であり、一刻も早くコピーするだけの対象となってしまうのである。

しかもここで言う模倣者は、革新者が寝る間も惜しんで橋をかけている間に、「あんなところに橋がかかるか」と言わんばかりに狂人扱いしていた、当の本人なのだ!
誰かが動き出したときすでに、その目指すところが見えその価値が知れているのなら、それが結果を表さずとも、自ら動いていたはずではないだろうか。

わたしは前に、人間には「以心伝心」というものはありえない、と言ったけれども、あれは、どんなに気心の知れた人間であっても、人の気持ちを読み取るためには、その相手が物質的な形で表現したものを、まずは見なければならない、ということである。

わたしたちは相手が笑ったり、手紙を書いてくれたり、自分のために音楽を奏でてくれることを対象として受け取り、自分の頭の中に、相手のこめた感情を再現してみるのである。

ここを要せば、わたしたちは相手の「物質的な」表現を対象として受け取ったものを、「精神的な」認識の上に持った上で、相手が認識→表現と進んできたことを逆向きに遡るように理解しなおすことと直接に、相手の思いを受け止めるのであって、相手の精神を直接に読み取るわけ「ではない」。

◆◆◆

この表現にまつわる過程における構造は、企業が他社製品をコピーするときにもやはり横たわっている。

模倣者が、向こう岸に橋を渡しきった者の功績を横目に見つつ、それを真似て橋を作るときには、何も無いところから良い橋を作ることを考えて、時には崖下に転落しそうになりながらも歩みを止めずに歩ききったという革新者のその過程を、「どれだけ自らのものとして繰り返すことができたか」が問われねばならない。

多くの場合には、革新者が橋を作り終えて休んでいる間に、ほかでもないその橋を使って向こう岸にロープをわたした上で、何食わぬ顔で同じような橋を模倣しているにすぎないことがほとんどなのである。
こういった敬意のなさ、過程というものにものごとの本質があるのだという理解なしに、真の模倣というものがあり得るはずがない。

結果だけを真似してみても、あらゆるところに綻びが見えているものなのである。


わたしにとってAppleという会社は、会社組織としては例外的に、誰よりも前を見据える者が、どれだけの厳しさの中で歩みを続けなければならないかを、饒舌にではなくあくまでも背中のみで学ばせてくれた、ひとりの偉大な師でもある。


(了)

2011/07/26

MacOS X Lion (3):前を見据える者はどんな橋を渡ってゆくか

(2のつづき)


今回Appleが新しい時代に向けて"OS X Lion"で取り組んだのは、「ポストPC」時代をどう考えるか、ということである。

ポストPCとは、スマートフォンなどの携帯機器が、それまでの携帯電話とは質的に違った性能にまで向上することになり、それと直接にそれまではパーソナルコンピュータと呼ばれていた一般的なデスクトップやノートブック型PCが、その役割を終えるかのように思われはじめたことを指す。

それまでにも、PCの世界では、全体的な性能の底上げによって、日常的な作業はデスクトップでなくともノートブックで十分に事足りるまでになっていたから、ノートブック型の台頭は目に見える形で現れていた。

当時までのその変遷を将来に向けて延長させたところに、「PCの死」は囁かれるようになっていたから、それと同時に、各メーカーは「ポストPC」機器を他社より先取りして開発することを目指していたわけである。

◆◆◆

それが、いまでは手のひらに乗るコンピュータでも行えるまでになったということなのであるが、画面を指でタッチして操作することによって、アプリケーション次第でどんな用途にでも使えるまでに携帯電話の可能性をiPhoneで実現したのは、ほかでもないAppleである。

人々にパーソナルコンピュータをPCの形で普及させた当のAppleの手によって、同社自らが発表したiPhoneや、それを大画面化しタブレット型に発展させたiPadによって、PCを消滅させるかにも見えた。
(事実的にはiPhoneの開発は、タブレット型の試作段階を見たCEOジョブズが、タッチパネル操作に感銘を受けて、それを携帯電話に応用できないかというところから始まっている。だからこそ同社は、iPhoneの発売からわずか3年足らずでiPadを発売できたのである。)

すでにiOS機器(iPhone、iPad)は、この秋にも母艦となるPCと繋ぐ必要がなくなると発表されているから、そうなると、もっともユーザーに近いコンピュータはそういった携帯機器に移り変わり、それは直接に「PCの死」を意味していてもおかしくない。

ところが、Appleは、「PCは死んだのか?」の問に、"No."という答えを出した。
それが、今回発表されたMacOS X Lionである。

◆◆◆

このOSは、世界的に極めて急速に多くのユーザーに浸透したiOS機器の中でも、とくにiPadの操作系を、Mac OSに取り組むことを目的に開発されたものである。

図1. MacとiPxx系機器の系譜
もともとは独立していたMacとiPxxの流れが、Lionにおいて合流している。

ここで紹介するのは個別の機能ではなくて、それらが目指す考え方、いわば設計思想である。
それは、「コンピュータが、どれだけ本当の意味で『パーソナル』なものになっているか」、という尺度での発展が目指されている。

今回の"Lion"では、以下のことに焦点が当てられていると考えられる。

a. 保存を意識しなくてもよい
b. 前回の作業内容を思い出さなくてもよい
c. ファイルの概念を把握しなくともよい

◆◆◆

a.〜c.のどれもが、AppleがMac OSを世に問うてからそれに影響を受けたWindowsなどのOSまでもが、これまでずっと、何ら疑問に感じてはいなかったか、問題として挙げられてはいてもすでにユーザーが習得しているので改善の余地を見いだせなかった事柄である。

ユーザーがPCを使うときに、もしアプリケーションがエラーを起こして落ちてしまって、作業中のファイルが失われたら、ユーザーが保存していないから悪いのだとされた。

PCの電源を落として再起動したときに、前回の作業の続きをするために、いくつかのアプリケーションとファイルを開き直すのは、ユーザーの仕事であった。

作業中のファイルをいくつかのバージョンに分けて保存し、以前のバージョンに戻したい時にはファイルブラウザで見つけて開き直すのも、ユーザーの仕事であった。

――これまでは。


これから新しいMacを使うユーザーは、それらを気にする必要がない。

ファイルや作業中の環境は、アプリケーションを閉じても、PCをスリープさせても、たとえ再起動したときにも、「すべて自動的に」復帰される。

◆◆◆

これほど、当たり前の機能があるだろうか。

わたしたちが自宅で仕事や趣味をしているときに、家族がそれを見だしたり、もし善意であっても片付けをされるのがかえって迷惑なときには、とりもなおさずそれが、作業中だから、である。

机の上のバラバラに見える書類も、ベランダの散らばった水槽も、すべて、それなりの理由を持ってその状態になっている。

傍から見れば本に紙切れが挟まっているだけかもしれないが、やっと見付け出した引用部を書き写すまではそのままになっていなければ困るのだし、親魚が生んだ卵を無事に孵化させるには、水草ごと別の水槽に分けておかねばならないのである。

PCの世界では、これが当たり前ではなかった。

こうして書き表してみると、PCというものは、今までいかに致命的な事柄が、手付かずのままに残されて来たのか、と思えてくるであろう。

◆◆◆

そうだからこそ、わたしがこの"OS X Lion"を使ってみたときに、この会社は、ものごとを当たり前のところから見なおして、それが実現できていないことに言い訳せず、どうすれば当たり前のことが当たり前になされるようになるのか、と考えてみることのできる、数少ない会社組織なのだな、と思わされたのである。

細部を見ればまだ整理しきれていない機能がありはするけれども、これが他社へも波及して、「ポストPC」のあり方を大きく変えてゆくことに、今から期待してやまない。


ではさいごに、「どうすればLionが示した『アタリマエ』志向を前に進められるか」を考えてみよう。

(4につづく)

2011/07/25

MacOS X Lion (2):前を見据える者はどんな橋を渡ってゆくか

(1のつづき)


わたしは、同社が自社ロゴに虹色のアップルマークを使っていた頃からいままで、興味を持ってAppleのやり方を見ていたけれども、そうして十数年にわたって見てくると、しだいに同社の、ものごとの運びかた、というものが透けて見えてくるような思いがさせられたものである。

迷走しはじめた同社の経営をめぐって混乱が起こったのち、創業者が復帰したあとのこと、
それまでの虹色アップルマークを単色のアップルマークへと改訂したこと、
それまで使ってきた端子をiMacのリリースと共に単一規格に置き換えたこと、
最近では新モデルからDVDドライブをバッサリと切り捨てたこと、などなどをわたしは見てきた。

前々からそれほど明確に意識していたわけではなかったが、こういった、ある個人やある組織のふるまいを見ていると、その主体がどういう考え方をし、どのような思想を持っているかがだんだんわかってくることがある。

整理された言い方をすれば、ある主体が表現したものを対象として受け取り続けると、自分の頭の中にその表象が描かれてくるのと同時に、その表現者「らしさ」がわかってくる、ということである。

こうやって生成されてくる「〜らしさ」によって照らしてみたときに、わたしたちはあるものをそれと比べた上で、「今回はいかにも〜らしい出来栄えになったな」、「これは〜らしくないから、きっと贋作だろう」などと判断することができる。

◆◆◆

Appleの場合に「Appleらしさ」といえば、これは「ものごとをゼロから考える」ことだと思う。

「イチから」ではなく「ゼロから」と言ったのは、自分がすでに創り上げてきたもののうえに胡坐をかかない、ということをふくめて言い表そうと思ったときに、「すでにあるものをいったん壊してゼロから創り上げなおす」といったほうが適切であると思うからだ。

自分たちの創り上げてきたものはもちろん、ライバルメーカーのやっていること、顧客からの要望を聞きはするけれども、そういった過去の出来事にとらわれずに、常に前のめりでなにかを見据えている、わたしにとって同社は、そんな存在である。

◆◆◆

あまり個別の知識を披露しても読者にはつまらないから、妙な横文字をたくさんならべたくはないのだけれど、iPod、という名前ならばだいたいの読者の方は聞いたことがあるだろう。

発売当初はまるで注目されなかったこの音楽プレーヤーは、FireWireという端子を使って、母艦となるコンピュータと、データの転送や充電を行っていた。

この端子は当時、その開発の一部や命名などをAppleが担当しており、事実上、Apple公認の規格であったから、それを採用することは、そのときの事情を鑑みれば理にかなったことであった。

ところが、初代iPodの発売から2年を待たずして投入された第3世代では、本体側のFireWireの代わりに、新しい端子を採用したのである。
ユーザーにとっては、このことによって、「初代のときに使っていた接続ケーブルを第3世代では使えない」という事態になり、これはiPodが誰にも注目されていなかった初代からのユーザーにとっては、少なからぬ同様をもたらしたものである。

それから5年経った頃にリリースされたiPhoneなどは、PCとの接続にFireWireを採用せず、代わりに、事実上の標準規格であるUSB 2.0という規格を採用した。
これは、一時はFireWireと規格争いしていたところの、いわば敵対的な規格であった。

◆◆◆

AppleがFireWireを推すからということで、それにあわせて周辺機器を買い揃えたユーザーにとっては、これはいわば、はしごを外されたような出来事であった。

ところが、冒頭でも少し述べたように、Appleという会社は、いかに自社が手塩にかけて育ててきた規格やソフトウェアであっても、それが時代にそぐわないと見れば、躊躇なくそれらをなげうって、新しい時代へと歩みをすすめる会社なのである。

これは単に、「古いから」捨てる、というわけではないが、新しい時代にふさわしいものとの整合性がとれなかったり、そのために余分なコストを強いるときには、まったく遠慮無く足枷を外して歩み続ける。

これを外野から見ていると、「Appleはあれといったら次にはこれだなどという、やりかたが一貫していない企業である」、などという意見が出てくるし、より悪くは、「あれこれと規格を変えることによって、無意味な買い替えを迫る企業である」などといった意見も出されてくる。

とくに、同社のCEOであるスティーブ・ジョブズは、基調講演でのプレゼンテーションが魅力的に映ることもあり、一般の大衆にも存在を知られていることから、その発言が断片的に伝えられることが多いのである。

たとえば、ビデオの再生機能を搭載した他社製音楽プレーヤーに対して、「彼らは違うところを掘っている」との発言のあと、自社のiPodにもビデオ機能を搭載したり、「TVなど誰も見ない」と言ったあとのTV機器の発表など、表面上では矛盾をした発言が目立つようにもとられる。

こういう表面的な見方しかできなければ、彼らが何を見て、何をしようとしているのかがうまく理解できないから、他の多くの企業のように、時流にのせられて漂いながら、「下手な鉄砲数うちゃ当たる」式でヒットを飛ばすというヒットメーカーのような扱いをされがちなのである。

わたしも、自分で稼いだお金を支払って買うべきものを選んでいるひとりの消費者だから、Appleのやり方が性急に過ぎると映ることもあるけれども、それでも、表面上はあっちにいったりこっちにいったりとのジグザグの道を進んでいるように見える場合にも、それが向かうまなざしは一所を見据えているということがあるのだと知っている。

時代の変化は不可避であるから、それにただ乗っていようと、ひとところを見据えていようとも、揺れ動きというものは避けることができない。
前者は、そのときそのときで対応の仕方を臆面も無くころころ変えるけれども、後者とて、時代の流れに合わせるように、ときにはあたらしい時代を作り出すために、同じような振る舞いをしているようにも見えるものなのだ。


(3につづく)

2011/07/24

「許せるか、許せないか」はどう判断するか (1)

週末は、学生さんと会ってきました。


学生さんといっても、昔わたしと関わりのあった人のうち、同業者じゃない人のことを今でもそう呼ぶだけなので、この人の場合はもう立派な社会人です。

そういう「学生」さんからいきなり連絡があったときには、たいていは大事な話なので、仕事の状態がどんなであろうと、できるだけ早くに会えるように手配します。

◆◆◆

会ってみるとやはりというか、仕事をはじめて辞めようと思った、苛立ちのあまり一生のうちモノに当たったのは2回目だ、というほどの出来事があったのだそうな。

どんなことがあったのかと聞けば、1年をかけて全社的に取り組んできたアンケートの回収率が一定数に満たないというので、上の方から通達があったらしいのですね。
その通達の内容というのは、統計的に有意な数が揃うまでアンケート結果を水増しせよ、というもの。

予定の隙間を縫っては必要な部数をコピーし、顧客が字が小さすぎて読めないときには口頭で、例外的な遠方の客にも自分の足でと、ひとりコツコツと調査を進めていた当人にとっては、いまさらのちゃぶ台返しは、到底受け入れられるものではなかったようなのです。

本心を同期の友人に言ったところ、「それくらいいいんじゃないの、みんなやってるし」と、お客さんの手によらねばならぬはずのアンケート用紙に自筆で書き込む有様で、上司に相談しようにも、その通達を伝えてきたのが他ならぬその上司であったそうで、どうしようもなくむしゃくしゃしてゴミ箱を蹴飛ばしたあと我に返り、これはいかんということで、この思いを誰にぶつけたものかと思ったときに思い出したのがわたしであったというわけです。

◆◆◆

この人は、くり返しくり返し、「ワタシのわだかまりの中には、自分がやってきたことが無駄になったという意味もありますが、それよりも、ダメだったらダメだったなりに結果を出したあとで、そこから学ぼうとする人が一人もいないことにいちばん驚いて、信じられない気持ちになったのです。」と言っておられました。

そうはいっても、内部告発だとかで出すところに出したところで、外面的にはそれほどの大きな問題でもないし、事実的に問題になるのかということもわからないし、内部の人間の大多数がそれでよいのだというのなら組織の中ではそれが正義になるのかしらと思い始めると、「もしかしたら、自分は偏屈なんだろうか?おかしいのだろうか?」とも思えてきて、自分の中にいかにたしかなものがないのかを思い知らされた、というのです。

◆◆◆

わたしのまわりには、一言でいったばあいには生真面目というか、生真面目にふるまうつもりがなくても人柄のなかにそういう面が強いために、人からの「それくらい、別にいいんじゃないの」という一言に打ちのめされる思いがする、という人たちが少なくありません。

友人が、コンビニの駐車場の縁石に腰掛けて食事しているのを注意したら、偏屈扱いされただとか、友人の恋人が他の異性と手をつないでいるのを見て、友人に伝えようかどうかと思い悩むとか、がそれです。


これは一見すると、「ここまでは許せる」か、「ここからは許せない」というだけの問題に見えるようで、事実そういった占いやテレビ番組もありますが、事実はそんな平面的な理解では割り切れないほどの内容があります。

このことに気づけない場合には、いくつかの質問項目を用意した上で、それについたマルが多ければ正義感が強いといえる、などという結論を出してしまうことがありますが、その質問項目をいくら詳しくしたところで、また調査する人数をいくら増やしたところで、一歩も人間のココロなるものには近づいてゆくことはできません。

なぜなら、この問題は、もっと立体的な構造を持っているからです。


(2につづく)

2011/07/23

今日のぶんの更新は、

まだ帰宅していないため、日が変わった頃になりそうです。
読者のみなさんは待たずに先に寝ておいてくださいね。

2011/07/22

MacOS X Lion (1):前を見据える者はどんな橋を渡ってゆくか

誰かが新しいことをやったあとに、


「ワタシも同じことを考えてたよ!」という人がいる。

ところが、「想像してみた」のと、「本当に実行した」のとでは、天と地ほどの開きがあるものである。

◆◆◆

個人においてこの発言が為される場合には、テスラとエジソンのあいだの電流戦争などの例外をのぞいて先取権がどちらにあるかはうやむやになりがちだから、「自分にも先見の明はあったのだ、お前はそれをやったにすぎぬ」という負け惜しみが強く出たとしてもそれほど目に見える形の結果を示さないけれども、それが会社の場合に、あるところから革新的な製品が出たときには、ライバル企業もその裏側で大量の特許が動いていることを察知しないわけにはいかないから、事実上、ほとんど言い訳の余地が無いのである。

先をゆく者とあとに続くものは、かなり明確に「パクられ」「パクリ」という関係が目に見える。

では、なぜに「同じことを考えていた」のに「実際にはやらなかった」のかといえば、リスクを負うだけの覚悟がなかった、ということに尽きる。

同じ時代をそれなりの姿勢を生きる者にとって、ほとんど同じものを対象として接してきているし、先の時代についてのある程度の必然性というものは、表象として意識されているものである。

地球の裏側の情報が一瞬にして手に入る現代ならいざしらず、人類の歴史においては同時代にまったく独立に、同様の発見がなされるというのは、歴史的な必然性が存在していることを示している。

◆◆◆

それなのにこういった言い訳が出てきてしまうのはなぜだろうか?

「虎穴に入らずんば虎児を得ず」ということわざや、「ハイリスク・ハイリターン」というわかりやすいことばが示しているように、手に入るリターンは、リスクを冒すことによってはじめて手に入るものである。
ところがそこを明確に認識し、覚悟をもって実践したことがなければ、先進的な企業がまるで「運良く」革新的な製品を開発できたかのような解釈をしてしまうのである。

木の根っ子に兎がぶつかるのを待っているような人間や企業はたくさんいるから、そのうちのどれかはなんらの努力をしなくとも転んだ兎を焼いて食うことができるのだが、革新的な存在を、それと同じような単なる強運の持ち主であると見るのは、まったくの誤りである。

◆◆◆

自分のアタマで考えて、誰に何と言われようと先を見据える企業は、周りが到底理解できないほどの危険な橋を渡っているが、それを渡りきったときには大きな見返りがあるというのは、たとえば近年の任天堂が示しているところである。

その名を上げるのは、前回の記事でテレビ業界についてこう書いたことと関連がある。

そういうときには、現在テレビを見ている人がどの番組を見ているのかよりも、「人気のあるはずの番組を見なかった」人が、「なぜ見なかったのか」、「なぜ面白くないと思われているのか」と、その内実につっこんで調べてみなければならない。

これを書いているときに、ではこういう考え方ができているのはどこだろうかと思い返したときに真っ先に出てきた企業が、他ならぬ任天堂であった。

同社というのは、かつて出していた「ゲームキューブ」というゲーム機で、ライバル2社との間にいわゆる性能競争を作り出してしまい、他社の先行優位を覆すことができずに後塵を拝した経験があるのである。

そういったときに、「我々は目指すものを間違っていた」としっかりと自覚し、ライバル会社ではなくてユーザーの方をしっかり見据えたものづくりをしようと考えを改めたところに、リモコン型のインターフェイスを採用した「Wii」という製品が生まれることになった。

いわば、「『いまゲームを好きになっている人間』だけを取り合っていても業界全体としては先細りになるだけであるし、待っているのは死のみである。我々はどんなリスクを冒してでも、『ゲームに見向きもしない人たち』に、いかにゲームをしてもらうか、を考えてゆかねばならない」、と考えたわけである。

"Revolution"というコードネームが指す通り、「異質なゲーム体験をもたらす」ことを念頭に開発されたこのゲーム機が発表された時のメディアの反応は、冷ややかなものであった。
そこでは、「性能競争から脱落した負け犬の遠吠え」という見方が浸透していたが、これはまさに、「性能競争」というイデオロギーに慣れ親しんだメディアの側から出された評価なのである。

◆◆◆

ところが、2世代にわたって続いた「性能競争」の流れをさらに推し進める形で、高性能コンピュータと同等の性能を持つライバル社製品は、販売台数において任天堂にはるかに水を開けられた状態にある。

現在では、任天堂のWiiは、その独特にすぎるインターフェイスをソフトメーカーが生かしきれていないことと、他社製品よりも性能が劣ることによって、ハイビジョンTVが普及しはじめた2010年頃から各種の批判にさらされてきたけれども、わたしはその逆風の中で発表された次世代Wiiを見て、「この会社の目は、まだ死んでいない」という思いを強めたのである。

なぜなら、それが採用しているまた新しいインターフェイスから透けて見える思想性をみたときに、「またもや危ない橋を渡ろうとしている」ことがはっきりとわかったからだ。

これはなにも、「とにかく危ない橋を渡ればなんでもよい」というわけではないことは、ここを読みに来てくださる読者にとってはもはや断り書きをすることが失礼に思えるほどの常識だけれども、頭の働きの悪い会社やメディアがそのような論調でこき下ろすから、少なくない問題が残るのである。

◆◆◆

どんな場合であれ、「新しいことをやる」のはそれだけで、本当に深い、深い溜息がつい出てきてしまうほど、恐ろしい不理解によって足を引っ張られるものだ。

いつのときにも時代の前をゆく者は、その重圧を甘んじて受けながら、自らの力でいつ果てるともしれぬ道程を歩ききらなければならない。

その道は、周囲から見るところによればまさにひとつの狂気そのものに映るのであるが、それは当人が見据えている目標が、たどり着いたときでなければ明らかならしめることのできない、という必然性によって規定されているのである。

当然に、道半ばで諦めることは、狂人として死ぬことを意味する。

ところが目標にたどり着いた暁には、それまで狂人扱いされていた当人の達成とその道程が、衆目にとっても浮き彫りになるとともに、それがもはや辿りつけぬ高みにあると知られることになる。

こういう過程が、危ない橋を渡る、ということのなかにあるのだし、過程を歩ききるという重みを知らぬ者にとっては、生まれつきの天才という形で羨望の対象になるわけである。

◆◆◆

ところで、ここまで言っておいてはしごを外すようにも聞こえるけれども、感性的なことを言えば、わたしは任天堂のものづくりが好きではない。

その製品はあまりにも全年齢向けに作ってあるから、モノとして余分なものを削ぎ落したような静謐さはないし、ソフトウェアを含めた設計思想についても、「あまりに作られすぎている」から、より広い範囲で柔軟に遊んでみたい、使ってみたい向きにとっては、かえって遊び方が限定されるのである。

ではどこなら自分の感性がぴったり合うのかと言われれば、これは米Apple社である。

会社という組織の作ったものからなにかを学ぶ、ということはとても珍しいけれど、自分にとって、この会社は例外的にそういった位置づけの組織だ。

そこが、新しい製品を出した。


前書きが長くなったので、分けましょうか。

(2につづく)

2011/07/21

どうでもいい雑記:テレビ番組はなぜスベるか

前回まで4回に分けた記事の中で、


とあるヘリクツがほんとうに正しいと言えるのか、と考えてきた。

その命題というのは、「もともと空気中には水分が含まれているから、晴れの日も雨の日も同じだよ。」というもので、アタマの中だけで考えてきた結論と、経験的な事実における矛盾が形而上学的な考え方では乗り越えられないことを確認し、その裏返しとして弁証法の有用性を見てきたのである。

◆◆◆

ところでこのヘリクツは、実はわたしが自転車ツアーのときに雨が降って尻込みする友人たちを笑わせてやろうと、どこぞで見た誤り方の論理性を取り出してその場で考えたものだ。

残念なことに学問の世界でも、形而上学的な考え方から脱却できずに、これと論理的に同一の誤りを平気で述べている者がいる。
そうしてそれが一般の常識とはかけ離れているところに衆目が惹きつけられているにすぎないことを論理的に反省できないと、読者に飽きられるまで浮き上がった思想のまま宙を漂うという茶番を披露する仕儀となる。
ところがそれを舞い上げているのは、内実の正しさにたいしてではなくて奇を衒った新奇性への黄色い声援なのであるから、いつかは必ず飽きられるものであり、そうなるとどうなるかは読者の想像されるとおりである。

わたしは幸いにも友人たちに恵まれているから、彼女や彼らにあっては、仮にも学者を名乗る人間がこんなナンセンスを言うなんて、という正しい理解といっしょに、わたしの思惑を読み取って、機嫌よく笑い飛ばしてくれるものである。

ほかにも、上り坂で音を上げそうになっている自転車仲間に対しての、「平地でもでこぼこがあるのだから、上りも平地のようなものである」だとか、「坂道も逆から見たら下りであるから、上りと思うでない」だとか、いろいろな冗談が作られることになった。
前者は<量質転化>の意図的な踏み外し、後者は自転車と坂のありかたの関係性が上りであるという<相互浸透>を意図的に踏み外したところの冗談である。

そんな中から、「いま必死に上っているのは、いつか風を切って気持ちよく下り降りるためである」との<相互浸透>をふまえたまっとうな意見も出てくるから面白い。
これはこれで、冗談を言おうと思っていたのにまともなことを言ってしまった、という裏返しの面白さがあるのである。

◆◆◆

ともあれ、こういった場を和ませる冗談のたぐいが、合理性によって説明できるというのは、現実に存在するものは、それがどのように見える場合にもそれなりの合理性を持っているのだ、という根本的な規定によるものである。

ジョークやギャグや漫才といったものも、どれだけナンセンスに見えたとしても、それなりに笑えるものの中には合理性が含まれている。
より正確に言えば、合理性がふまえられていないものにたいして、わたしたちはどうしても笑えない、ということである。
このことは単純なようでいて、なかなかにうまくふまえられていないことが多いので、すこし考えてみよう。

たとえば漫才が、わたしたち観客に娯楽として受け止められるのはなぜだろうか。
それは受け取り手のアタマの中に、冗談を聞き取る過程で「こうなればこうなるだろう」という合理的な予想が生まれたことに対して、漫才を終える頃には漫才師が観客のそういった予想をすこしばかり裏切ったところの非合理を与えるところに、「こうなると思っていたのにああなった!」という意外性があるからである。

ここでの非合理性は、あくまでも観客が想像したところの合理性に基づいた非合理性でなければならないから、「とにかく非合理であればなんでもよい」といった傾向や、それとは逆に「合理的すぎて何らの意外性もなかった」という両極端がつづく場合には、その漫才は成立根拠そのものを問われることになるから、自然と下火になってゆく。

◆◆◆

現代におけるテレビ業界は、娯楽の多様化の波に押されてその立場が危うくなってきたと指摘されているけれども、それはなにも、デジタル化で経費がかかったとか、テレビ以外のメディアが魅力を増して拡大しているという外的な事情だけによるものではなくて、テレビ番組を作る際の考え方そのものという内的な事情にも、それなりの原因があるといわねばならない。

たしかに観客が娯楽を眺める場合には、そこから多かれ少なかれ刺激を受け取ることを期待しているし、その刺激の中に意外性というものが位置づけられているのだが、当の意外性がどこから来るものなのかということは、人によって異なるのである。

たとえばわたしの場合は、目的意識なしにテレビをつける習慣がないから、毎朝、新聞を読みながらめぼしい番組がある場合には、その時間に目覚まし時計をかけておくことにしている。
その時間に帰宅できていれば料理を作りながらでもちらちらと目をやるが、時間がなければそのままお流れになる。
レコーダーなどというものは持っていないから、わたしにとってテレビは、そんなゆるい付き合いである。

そういったテレビの番組事情そのものに疎い人間の場合には、「意外性」というものは、たとえば科学観に照らした、ある科学的な知識についての新事実や、異国の事情や歴史についてのなるほどそうだったのか、という知的な満足を伴う意外性がほとんどであり、テレビ観に照らした「変わった番組が始まったな」などという観点からは意外性を感じない、ということになる。

◆◆◆

わたしの場合は極端にすぎる視聴スタイルのようだけど、暇さえあればアルバイト、空き時間には携帯電話でのコミュニケーションやらスマートフォンでのゲームに興じる学生さんたちを見ていても、とても毎週決まった時間に見なければならないテレビドラマに縛られた生活を送っているようには見えない。

そうするとどうしても、彼女や彼らのアタマの中に、「テレビ観」という表象が明確に描かれることは難しいのである。

暇があればテレビのながら見に時間が使われていた時代には、『水戸黄門』や『サザエさん』が、毎回飽きずに同じような構成を用いていても、視聴者がながら見のなかで表象を作り出し、そしてまたその表象に基づいて番組を見ることで、「今回もこうなった、思ったとおり」との安心感を得るという相互浸透によって、長寿番組が作られていった。

ところが視聴者がこのような生活スタイルをとっている時代には、視聴者側の条件が移り変わり、そのことに期待ができなくなる。

とくにテレビを見るということが「習慣」として定着していない場合には致命的で、視聴者はパッとテレビを付けてみてそれがつまらないということになれば、遠慮なしに他の娯楽に移っていってしまうからである。

見たところ、テレビ側の認識は、テレビの番組が、作り手の創意工夫によるものであるという観念がいまだに根強く残っており、「とにかくいい番組を作れば評価される」との一心で、視聴者側の事情をうまくふまえられていないように思われる。

◆◆◆

テレビ番組に限らず芸術一般は、それが「鑑賞に耐えうるものであるか否かに価値がある」のだから、作り手側がいくら努力をしても、その努力が視聴者側の条件をうまくふまえたものでなければ、どうしても空回りしてしまう運命におかれている。

視聴者の頭の中に、テレビに登場する芸能人それぞれについての表象が満足に作られていないところに、「あの芸能人がこんなことをするなんて」という企画で視聴者側の意外性を引き出し笑いをとろうというのはそもそも無理なのであるが、番組の制作側は、そのことを十分に理解しているであろうか。

わたしのところにいた学生さんも、それなりの数がテレビ業界に進んでいったけれども、その経験からしても、テレビ業界に採用される人というのは、幼少の頃からのテレビっ子、根っからのテレビ好きであることはほとんど間違いない。
仮に給与を目当てにしてテレビ業界を志望する人間がいたとしても、あちらから断られるからである。

ところが、子供の頃からの習慣で、とりあえず家に帰ったらテレビをつけることが当たり前であるという人たちは、「新しくテレビを好きになってくれるかもしれない人たち」が、今現在どんなふうな生活スタイルを送っているかということは、気にもとめないし、想像してみること自体がとても難しいのである。

そういうときには、現在テレビを見ている人がどの番組を見ているのかよりも、「人気のあるはずの番組を見なかった」人が、「なぜ見なかったのか」、「なぜ面白くないと思われているのか」と、その内実につっこんで調べてみなければならない。

◆◆◆

以前には、たとえば、お笑い芸人になるにも頭が良くなくてはならない、などといった理解がそれなりにあったように思う。

もし番組の作り方に、そういった理解がある場合なら、「あの芸人がこんなことをするなんて」式の、視聴者の努力に頼る形式ではなくて、「こうなるかと思っていたのにそうきたか!」式の、どんな視聴者でも見てすぐにわかり、また見ようと思える面白さの追究へと焦点が移り変わっていってもおかしくないはずである。

非合理性によって笑いを取るというやり方は間違っていないけれども、それは合理性を基礎とした非合理でなければならないし、その肝心の合理性というものは、視聴者が当たり前に表象として獲得してきたところの合理性でなければならない。

非合理であればなんでもよいとか、そういった矛盾のあり方そのものにまったく気を留めないから、新しい視聴者から見れば「スベって」しまっていることに、作り手側が気づかないままになっていることが、新規の顧客の取り込みを忘れた先細りを作り上げてしまっているのではないだろうか。


ってわけで、テレビ業界のひとたちは、テレビっ子なんかよりもむしろ、テレビが嫌いで嫌いでたらまらないというような学生さんをちょっとは採用しておいたほうが、将来的にはずっと有意義なのではないかしら。
もっとも、どんな業界にとってもそうなんだけどね。

2011/07/20

弁証法とはどのような形をしているか (4)

(3のつづき)


前回は、「もともと空気中には水分が含まれているから、晴れの日も雨の日も同じだよ。」というお題をとりあげて、「リクツの上で考えてみたとき」と、「現実に向きあって体験したとき」のあいだに矛盾が起きることがあることを紹介しました。

「起きることがある」と言っても、これは日常生活だけではなく学問や文芸の世界でも、常に起こっていることなのです。
ただそのことの解決をせずに思考を止めてしまい問題を放り投げてしまうか、問題を横に退けて側面からつつくのに汲々とするか、「あれ」の立場に立って「これ」の立場を攻撃するかとなってしまうことが多いために、突き詰めて考えることが少ないにすぎません。


そんな姿勢をとらずとも、わたしたちは弁証法の存在を知っていますから、この問題にも「真正面から」取り組むことができます。

たしかにどんな晴れの時にでも、多少の水蒸気は空気中に含まれています。
それが量的に増加して、ある一定量を超えると、質的な変化が起きることを、<量質転化>と言うのでした。
雨の場合には、空気中の水蒸気が、気温の変化などのきっかけによって凝結することで、雨となって降ってくることになるわけです。

<量質転化>をはじめとした弁証法の3法則がどのような過程を経て歴史的に獲得されてきたかは、哲学史と科学史を述べねばなりませんので今回はさておくとしても、自分の考え方の中に<量質転化>という法則が把握できているのなら、「量的な変化は、質的な変化として現れることがある」のだから、量が増えただけだからそのものの性質は何も変わりはしないという短絡は、誤りに繋がっていることを意識することができます。

◆◆◆

そうすると、友人の考え方は、現実から得られた素材をアタマの中で考えようとしたところまではよかったものの、その論理性が形而上学的であったことに引きずられて、誤った結論に辿りついてしまった、ということなのです。
その人がもし、量の変化が質的な変化をもたらすのであるという<量質転化>という考え方を採用して、少しでも弁証法を自覚的にでも使ってみることが出来れば、誤りは防げたはずですね。

このことをふまえればこの例は、<量質転化>という考え方が欠けていたことがもっとも大きな失敗の原因でしたが、同じ例をとって、他の法則は働いていないか、と考えてみることもできます。

「雨が降る」という現象は、さきほど挙げたように空気中の水蒸気が集まって<量質転化>したところにおこるものでしたが、そのきっかけとなっているのは温度の変化などによるのですから、そういう意味では<相互浸透>です。
また、雨となって流れた水は川となり海へと合流するどこかの過程で水蒸気に形を変えて、雨になって降るのを待つことになるのですから、これは<否定の否定>です。

また考え方そのものに目を向けても、些細ではあっても原理的な誤りの積み重ねが大きな誤った結論を導くことは<量質転化>といえます。
同じようにすこし大きな観点に立って、一面の真理を度外れに押し広げて解釈するところに誤りがあるのだと理解すれば、真理は誤謬に転化するという<対立物の相互浸透>が示されていたのだとわかります。
より大きな観点に立てば、あなたの、「リクツではそうだけれど現実には濡れてしまうじゃないの」という、現実的で素朴なものごとの見方のほうが、友人のリクツよりも結論としてはかえって真理に近いものであったということを見てとれますから、これは<否定の否定>である、ということができます。

◆◆◆

これらのことを指摘するのに、いちいち「ええと、弁証法の法則はなんだっけな」と考えてみなくても、見たまま自然に「あれっ、どこかおかしいな」と気づけることこそ、弁証法が使えるようになった、という段階なので、わたしはそれを、「技」のようなものですよ、とお伝えしたのです。

たとえば語学があるていど身についてくると、相手のしゃべる発音や文法に誤りがあることに気づけるでしょう。
熟練の職人さんは図ることなしにアルミの板をきれいな半球に仕上げますし、学者ならば書籍の目次を見ただけで一流の本であるかどうかがわかります。
それがごく自然に身について、特別に意識しなくても使えるという段階になると、「技」としていちおう身についた、ということができます。

この技が、どのようなイメージとして自覚されるかといえば、はじめはバラバラに修練していたはずの3つの法則が、「ひとつのものだったのだ!」とわかることから、アタマのなかにひとつの球体があって、それがすべてを照らしてくれる、といったような言い方をすることもあります。また弁証法をつかって歴史をしらべていると、それが3つの法則がひとつになったという螺旋階段として意識されることもあります。(後者については、以前にも書いたことがありますね。気になる人は探してください。あのときも無茶をやりました。)
ただここをどんなふうに表現するにせよ、認識のなかのものを実体として説明することは、わたしが意図していることとは反して観念論的になってしまいますし、もっと悪くはオカルト的な響きも帯びてきますから、このくらいにしておきましょう。

とにもかくにも、知識的にはほとんどなにも必要のない当たり前のことがらを扱うときにも、ここまでの視点から正しさを突き詰めてみることができるのか、と思ってもらえれば、これは身につけたいな、という気も少しは起こしてもらえたのではないかと思います。

◆◆◆

それでもなぜここまで無理をして弁証法を薦め、ものごとを平面的に見る「形而上学」ではなく、ものごとの立体的な構造をみようとする「弁証法」でなければ、正しい結論にはならないのだと強調するかといえば、以下の理由によるのです。

この世界にある森羅万象、つまり自然や社会や精神といったものは、無限の広がりを持っています。
ところが、わたしたち人間がそれを対象として認識するときには、そのすべてを一挙に理解しつくすことはできません。
森羅万象が広大すぎる、という理由だけであれば長く生きればすべてを把握できるかもしれませんが、世界は常に変わり続けているのです。
もしあなたがある時点のことをすべて知り得たとしても、「万物は流転する」(ヘラクレイトス)という性質に規定されて、原理的にこの限界と、それと直接に森羅万象と認識とのあいだの矛盾が出てくるわけです。

そうすると、人間が森羅万象を理解しようとしたときには、ある一面を切り取って、それに基づいて認識を創り上げることになりますね。
ところが、それは一面であるかぎり、他の一面が存在することを認めねばなりません。
そういうわけで、ひとつのものごとを見るときにも、多種多様な見方が存在することになるわけです。

多種多様な見方をそのままにしておけば、解決できない矛盾がそのままの形で保存されてしまうのですから、それをどうにかして「総合」して、ひとつの実体としてとらえることが、森羅万象の本質的な理解のためにはどうしても必要になってきます。
このことはなにも、「とにかくたくさんの経験をしなければならない」ということなのではなくて、「正しい考え方で考え進めてみたときに、どうしても避けられない矛盾があるように見えるときには、それが本当に正しいと言えるのかと考え、一方ではそれを『あれもこれも』と総合して考えてみなければならない」、ということなのです。

弁証法は「論理」であって、目には見えませんから、これを使える人は、同じくそれを使える人としか本質的な議論をすすめることができません。
そのあり方に差がありすぎる場合には、切れ味の鋭い刀で斬られた人間が、何事もなかったかのように去ってしまうために、人も斬れぬ根性なしにナマクラ刀、と評されることさえあるのです。
そういう意味で、「近所の物知り」になりたいだけなのなら、むしろ無用の長物ともいえるのですが、一度きりの人生、名実ともの一流を目指したいという方には、どうしても自らの力で磨いてもらわねばならない刀である、と念じ、決意を新たに、日々を歩んでいただく必要があります。

(了)


◆補足◆
わたしのたとえは、読者の便益を考えて、あまり知識的なことを例にあげませんが、だからといって「弁証法さえあれば知識はいらない」とは短絡しないでくださいね。
弁証法はあくまでも、歴史的にもっとも進んだ分野でそれを駆使しながら活躍するときに本質的な発展を遂げるものですから。

とはいえ、いきなり専門書のなかから弁証法を見つけ出すのはほとんど不可能ですし、そもそも弁証法を使えている専門書もほとんどないので、三浦つとむ先生の本を土台にしながら以下の本の読みすすめて、弁証法の法則を見つけて線を引き、書きだしてゆくことをおすすめします。(前にも言いましたけれども)

・『発展コラム式 中学理科の教科書 第一分野』
・『同 第二分野』
・林健太郎『歴史の流れ』

2011/07/19

弁証法とはどのような形をしているか (3)

(2のつづき)


前回では、技の習得過程を「知る」、「身につける」、「使う」として、「使ってみることのできる弁証法」がどんなものなのかを簡単に触れるところにまでたどり着きました。

この記事で目指すところは、弁証法を学び始めた人を対象に、そのいちおうの完成形がどのような形をしているのかをイメージし、目標にできるようにもってゆく、ということだったので、いくつか例示をしながら「ああ、なんとなくわかってきた」とぼんやりとでも感じてもらわねば意味がありません。

その「弁証法とはどのような形をしているか」は、冒頭で述べておいたように、過程を経なければわからないはずのものを、過程を経ていない人にもわかってもらうということであり、問いの立て方そのものがかなり無茶なのですが、できるところまで論じてみましょう。

そういう理由で、初学者の方には過程を飛ばして結論を先取りする形になってしまいますが、それなりの形で使ってみることのできる弁証法が身につくと、日常生活でぶつかる問題を解決するための手がかりが、ごく自然に見えてきます。

◆◆◆

たとえば、あなたが友人と散歩しているとき、突然の雨に降られたとしましょう。

持ち物を見ると、折り畳み傘を持ってきていないことに気づき、困ったな、雨が止むまで待とうかな、と思っているときのことを想像してみてください。

そんなとき友人から、こんなふうに言われたらどうでしょうか。
「もともと空気中には水分が含まれているから、晴れの日も雨の日も同じだよ。」


あなたは「あれっ、そういうふうに考えたらたしかにそうなるな」と判断して歩き続けることにするかもしれませんが、それでもどこかの魔法のように、見えない力があなたたちだけを守ってくれたりはしませんから、そのまま歩き続けてみて濡れてしまうことが、その判断が誤りであることを教えてくれます。

同じようにその意見をあまり吟味しない場合でも、その反応とは逆に、「なにをヘリクツを!」と怒ることもできますね。

極端に見えるこの正反対の立場は、そのどちらもが、「なんだかおかしいような気がするけれどうまく指摘できない」というところで思考が止まっており、正しく反論できないという面では共通しています。

さて果たして、それがなぜヘリクツだといえるのかを、しっかりと説明できるでしょうか。
なるほど、リクツの上ではたしかに晴れの時にも空気中には水分が含まれていますから、晴れの日にも多少なりとも水分があり、雨の日には同じように水分が含まれているのだということになると、晴れでも雨でもそう大差ないようにも思えてきます。

ところが、歩いてみれば実際に濡れてしまうことが、その明確な反証となっているわけです。
そうするとこれらを一見すると、「リクツの上で考えてみたとき」と、「現実に向きあって体験したとき」のことが、相容れない矛盾の関係におかれているかのように思えます。

あなたがもし、そこまでしか考えを進めてみることのできない場合には、あなたはリクツっぽい友人の意見に賛成するか、それともその友人の発言を冗談として笑うかヘリクツとして詰るか、どちらかの立場を選ばなければならないことになります。

◆◆◆

種明かしをすれば、実のところわたしが「リクツ」とカタカナで書いたところの理屈(=論理性)は、世界を立体的にとらえるやりかたである「弁証法的」な論理ではなくて、世界の一面だけを切り離してあれかこれか、としか考えられない「形而上学的」な論理、なのです。

ある人がこういったふうな、自分自身が現実を目の当たりにしたときの素朴な実感と反するリクツを持ち出したときに、その考え方のどこが間違っているのか、どうすれば正しい考え方になるのかを明確に指摘できるために、弁証法は大きな力を貸してくれます。

あなたがもし、弁証法を自然に使えるようになっているのなら、「あれかこれか」を極端に割りきろうとする姿勢に、「おやっ、なにかヘンだな?」と気づくことができるでしょう。

この場合には、あなたの友人は、リクツではこうだ、現実ではこうだ、という矛盾にぶつかって、自分が積み上げたリクツを手放せなかったことに引きずられて、結局のところ「あれかこれか」と考えることになったのでした。
この場合には、「あれ」と「これ」とが、永遠に相いれることのない切り離された関係であると解釈することが誤りのもとだったようです。

弁証法は、どんなに正しいことであっても、それを度外れに押し広げることは誤謬に繋がることを主張し、一般に考えられているような、正しいものはどこまでいっても正しく、間違っていることはどこまでいっても間違っているという「あれかこれか」の考え方を排除します。
つまり弁証法は、「あれもこれも」と考え、ものごとが正しいと言えるのはどこからどこまでなのか、また逆に間違っているのはどこからどこまでなのか、と考えるのです。

そうするとあなたは、ここに弁証法の、どのような法則を持ち込めば、その矛盾を正しく解決することができるでしょうか。

リクツに引きずられて「裸の王様」にならないために、まずはものごとをありのままに見つめてみましょう。
いくら学問的な裏付けがまだとれていない場合にも、わたしたちが日常生活のなかで自然に培っている判断のあり方は、それなりの合理性をもっているものです。

このたとえを例にとったときにも、わたしたちが日常的にそう判断しているように、やはり晴れと雨という現象は質的に違うとみなしておく意味がありそうです。


ここまで言うと、わかってきたでしょうか。

(4につづく)

2011/07/18

ものごとの本質とはどこにあるか

昨日は「更新できる環境にない」と言いながら、


その記事そのものをしっかり書き込んでいるということは更新できているではないか、と思われたかもしれません。

実はこのBloggerというシステム、携帯電話のメールを使って更新したりもできるのです。
その場合には、件名がBlogの記事のタイトル、本文がBlogの本文になるという仕組みで、昨日はそれを使ったというわけです。

その場合には、長文を書くのには向いていませんし、画像を好きなところに貼り付けることもしにくいと思うので、どうしても機能的には制限がありますが、それでも便利なものです。

◆◆◆

ところがこの便利さというのはなかなか曲者で、たとえば携帯電話というものは、それを買った途端に、旅行中であろうがなんであろうが、こちらの事情はおかまいなしにひっきりなしの連絡が入ってくるという面も持っています。
それが嫌で国外旅行を中心にしようと思っても、最近ではスマートフォンなんかもありますから、国内だろうが海外だろうがそれまではPCを立ち上げて確認していたメールも入ってきてしまいます。

わたしはどちらかと言うまでもなく、あまりに便利すぎるのは好きではありません。

利便性を実現するために、失ってしまったものがどうしても目に付くからです。
都会に屹立する高層住宅や、途方も無く大きく長い大橋なんかをみていると、「なにもここまでしなくても…」といった、人間の文明に対するなんともいえない物悲しさを感じます。

なにを感傷に浸っておる、お前もその利便性を享受しておるではないか、と言われればたしかに直接・間接問わず、暮らしを支えてもらっているのは否定することができません。

人が社会性を持った動物であるということは、どれだけ努力してみたところで、社会性から切り離されてはまともに生存することすら叶わない、という意味でもあるのです。

◆◆◆

ただそれでも、「便利になる」というのは、本来ならばその中にあった過程を飛ばして、結果だけを享受する、という意味合いも含んでいます。

デジタルなペイントツールではなく、鉛筆や絵筆を使って自分の手でキャンパスに表現するのは――
キーボードを叩くのではなく、万年筆を使ってノートをとるのは――
メールを使って一瞬で意思疎通ができるところを、自筆の手紙として認めて送るのは――
ナイロン製のバッグを使えば雨の日にでも濡れずに済むところを、革の鞄を手入れしながら使うのは――
電車を使えば5分で着くところを、あえて自分の足で景色を見ながら歩いてみるのは――
――そこに、損なってはいけない過程があると思うからです。


この問題について、美術表現ひとつとってみても、絵画などの平面的な表現は、デジタルで作成できるが、彫刻などの立体的な表現はプリンタからでは出力できないので、そこから先は人の手によればよいのだ、という使い分けを提唱する人がいます。

ところがこの考え方は、現時点ではこうである、という現象をみたところの考え方なのであって、いまではプリンタも平面的なものにとどまらず、立体プリンタというものまであるのです。

これは、コンピュータで取り込んだ立体データを、石膏のような素材で立体化して出力するというもので、形だけはかなり精密なレプリカを作ることができます。
しかしそれでは色がついていないのでは、という意見に対して、立体物に色を吹き付けるものまであるのだから驚きです。
わたしもこういった企業の研究に参加したことがありますが、これらは現在、とても大型なのものの、小型化がすすめば10年ほどで家庭の中に入ってきてもおかしくないのではないかと思います。

言い換えれば、人のやらねばならない範囲は、放っておけばいくらでも狭まってくる、ということです。

このような、「向こう岸まで簡単に渡りたい」、「できるだけ短い時間で情報をやり取りしたい」、といったような、想像できるものはすべて、何らかの形で実現しようとする人間の力を見ていると、残る問題は、目標を実現するのにどれくらいの時間がかかるかどうか、といったことだけに限定されるようにも思えてきます。
かつては人類にとって、「火が森を焼くのは困るけれど、必要なときには自由に使いたい」、「走るのをはるかに超える速さで荷物を運びたい」、「鳥のように空を飛びたい」、といった願いも、当たり前に叶えられるものではなかったのですから。

そういった大きな目標に立ち向かい、失敗の中でもくじけずに歩んできた人類の力を十分に認めるとしても、「何らかの手段でできることならすべて、それに頼り切る」という姿勢だけでは、本来的にその過程が担っていた意味合いとはどのようなものだったのか、と実感することは、やはり意識的に過程を辿ることで取り戻してみなければならなぬものだということになります。

◆◆◆

わたしは、ともすれば結果だけを享受しておしまいになりがちなところを、過程をふまえるためにといろいろな工夫をしてみて、一流だと信じられる人とのやりとりを通して、やはり、「結論そのものにはさほどの意味がない」ということが、深く、深く理解できるようになってきました。

こういうことは、ある程度齢を重ねてみなければ、とてもとても、わかりにくいことです。

この連休のうちの1日は外に出かけてきましたけれども、その時にであった人とも、自然とそういうお話になりました。
その人が何気なく口にした、上の言葉を聞いたときには、背筋がぞくぞくするようなうれしさがあったものです。

◆◆◆

実は今日までの1ヶ月は、「ここに毎日記事を書くことは、本当に可能だろうか?」という目標に向かって、わたしなりに取り組んできました。
Blogを毎日更新されている方はほかにいくらでもおられるようですが、毎日、それなりに意味のあることを、そのとき進めることのできた研究の一端を使って書き進めることができるか、という目標は、わたしにとっては試練でした。

そのことに取り組むことになった直接の理由はといえば、7月のはじめに「毎日の暮らしを整えるには」という記事を公開したとき、こんなことを言ったからです。

基本的には、毎日同じペースでコツコツ前に進んで、結果としていつのまにか力がついているという、<量質転化>ができる環境を生活の中で整える、ということに最大限の注意を払ってください。
わたしのBlogは、一般的な問題を取り扱っているように見えて、その裏側には、わたしの周りにいる人がぶつかっている問題などを解決する手助けになれば、という側面があり、これもそういった類のメッセージを含んだものでした。

率直に言えば、ある理由でそれまでの生活が崩れざるをえなかった人に対して、こうすれば生活を整えて、自分のペースを作って一流の道を歩むことができますよ、というメッセージがあったのですが、そう言ったところの当の本人が、実際にそれをできていなければ、なんの手助けにもならないどころか失望の種をさらに増やすことにしかならないのです。

言うことだけは一丁前なのに、自分は涼しい部屋で寝そべってだらだら映画などを観ている人間などは、信用するに値しません。
そしてまた、一生をとおして化けの皮を被っていられるほど、時間の流れというものは甘くないものです。

◆◆◆

そうであれば、過程をくどくど述べなくとも、結論として提示した一語、一語のなかに、当人の生き方をなみなみとたたえていることを感じさせるような、そんな人物になってゆきたいものです。

そうは言っても、やはり正しくものごとを伝える表現というものは欠くことのできぬゆえ、読者のみなさまには、これからさきもそのとおりご了解いただき、ともに歩んでいただければ、これほどのうれしさは他にありません。

弁証法とはどのような形をしているか (2)

(1のつづき)


前回では、弁証法のイメージとして、それはひとつの「技」である、としておきました。

このたとえで強調したかったのは、お茶の煎れ方を知ってはいてもそれが身についていなければ意味がないように、弁証法の3法則をいくら暗記してみたところで、それを実際に使ってみることができなければ実質的な意味はないのだ、ということです。

◆◆◆

では「使える」というのがどういう段階なのかと考えてみましょう。

どんなものごとにでも、はじめは人や書物から習う、という段階がありますね。
「習うより慣れろ」とはたしかに一面の真理をとらえていますが、習う対象がなければ慣れることもできないのですから、はじめはお手本にするものが、どうしても必要になってきます。

たとえば「ピアノを習う」ということについて考えてみるとしても、はじめにはまず、弾きたい曲がなければ弾きようもありませんから、通常の場合であれば、楽譜を読む練習をするでしょう。
それが理解できるようになるのと前後して運指の訓練ができるようになるわけですが、どれだけ初心者向けの楽譜であっても、はじめて見たときには途方にくれるような感覚があるものです。
「こんな指の組み合わせ、こんな運指の速さは、とても人間にはできるはずがない!」
ところがそれを、それでも他に弾けてる人が居るんだからと励まし励まし練習を続けるという毎日の積み重ねのはてに、数カ月後にはようやく、楽譜一つをいちおうの形で「なんとかさいごまで弾ける!?」というところにまで到達することができるのです。
ともあれそれは、形の上で鍵盤が押さえられているというに過ぎず、人に聴かせるレベルの演奏とはまだまだ大きな隔たりがあるのですから、それがピアニストにとってのいわばスタートラインであって、そこからどこまでの高みに昇ってゆけるかどうか、ということが、当人のピアニスト人生を左右するわけです。

この、楽譜が弾けるようになるという過程を考えてみてわかるとおり、初見ではまったく味気のない運指の繰り返しで基礎力がついたことによって、徐々に次の段階へと昇ってゆけるということなのです。
こういったひとつの技術の習得過程をおおざっぱに言えば、「知る」、「身につける」、「使う」、という段階がふくまれていることになります。

◆◆◆

その仮定をつかってお話を進めると、ここでわたしが述べてきたのは、「弁証法の3法則」はこれこれこういうものなのだと知識的に「知った」あと、「身につける」にはどうすればよいか、というところまででした。
その修練の方法のひとつは、日常生活の中で、毎日弁証法の法則を見つけて日記に記しておく、ということでしたね。

たとえば、こんなふうに記されることになるのではないでしょうか。

「今日実家に帰ったら、『だんだんお嫁さんと笑い方が似てきたね』と言われた。
これは、近くにいる人間同士が似てくるという意味だから、<対立物の相互浸透>ということだろう。
もしかすると世の中で言われている「バイオリズム」というものも、こういうことを、生活習慣の面で指したときのことばなのかもしれない。」


この身につける、という過程は、さきほども言ったように、単調な作業を繰り返し要求されるのですから、感情的に言えば、これは実につまらないものであると思います。
世の中を知るための新聞購読、剣道のための素振り、体力づくりと姿勢を整えるためのランニング、などもそうですね。
実のところ、わたしにとってこのBlogに何かを書くというのもそれらと同じことなのですが、毎日の変わらぬ繰り返しという倦怠をどうして乗り越えるかといえば、つまるところ習慣付けてしまうのがいちばんよいのです。

習慣付けるにはどうすればよいかというと、毎日決まった時間にランニングしたり楽器の練習をするように、「この時間にはこれ」ということを毎日の繰り返しの中で身体的な感覚として身体に覚えさせてしまい、たとえば例外的な来客があっていつもの時間になってもそれをやれないというときに、「やらなければ身体がムズムズする」というところにまで持って行く、ということです。

以前20110714の記事で、「毎日の昼休みなどにすこし時間を作って、」日記に見つけた弁証法を記すと良い、と書いておいたのは、1日のうちにいつかやる、というよりも、決められた時間にやったほうが、はるかに習慣として定着ししやすいから、という理由がありました。

◆◆◆

ただわたしたちはもう物心がついてしまっていますから、毎日の繰り返しを習慣として持つことが苦手な人もいるでしょう。
下宿先が学校の近くにあって、毎日のように気ままな友人の来訪を受けるような状況にあれば、これは毎日決まった時間になにかをしたいのになかなか流されてしまってそうできない、という人もいるかもしれません。

それでもわたしたちはみな、ほとんどの場合には例外なく、赤ん坊の頃には寝返りをうてるようになり、ハイハイを十分にして四肢の実力をつけたあとに、つかまり立ちを何度も何度も繰り返し、転んで泣きながらでも二本の足で立って歩けるようになっていったという過去を持っているのです。

これが赤ん坊の場合なら自然成長にまかせていれば、まず間違いなくある程度の、人間としての身体運用を身につけることができますが、もし単に「大人になりたい、父親になりたい」といった形式的なものではなく、「立派な人格の大人になりたい」、「父親として尊敬されたい」という、質的に高い目標を掲げるとすれば、これは自然成長にまかせるわけにもゆきません。
そういう意味で、ここでの努力というものは、物心つくまでのそれとは違って、他律などではなく、自ら必要性を認識して取り組むという、自律的な動機が、どうしても必要なのです。

ですから、その目標だけは自分で決めたうえで、自分の生涯をかけて守り抜き、自らの足で進み続ける意志を持って欲しいと思います。
これは、物心つくまでの子どもが、両親に褒められるために何かをする、というのは質的に違った意志でなければならないのです。

学生さんの一部には、「努力する」ということが泥臭くていやだ、もっとスマートに成果を出したい、といった誤った観念が浸透することがありますが、そんなときにでも、遊ぶときと真剣に取り組むときにはきちんとメリハリをつけて自分の道を目指すという姿勢をもって、周囲の友人にも範を示すといったような人物になられんことを、願ってやみません。

どんな努力家でも例外なく、毎日の決意、決意の繰り返しで、軟弱だった意志の力を少しずつ、少しずつ増すと共に人柄として定着していったという過程を持っているのですから、これは誰にとっても不可能ではないのだと考えて、毎日を大事に過ごして欲しいものです。

◆◆◆

さて話を戻すことにすると、さきほどは技術の習得過程の2つめの段階、「身につける」という段階について触れてゆきました。

そこでの数限りない繰り返しによって、ようやく自分の身体に技が馴染んできたときになると、いよいよ「使う」というところにまで進むことができはじめます。

ここが、なぜ「できる」ではなく、「できはじめる」と、なんだかぼかしたような言い方になっているのかといえば、ここで述べた段階というのは、互いに行き来しあう過程であるからです。
たとえば楽譜がある程度弾けるようになったあとにも、バイエルに戻って基礎を整えなおしたり、同じひとつの鍵盤をすべての指でたたき続けるという訓練することも、本質的な上達にとっては必要なことであるように、です。

弁証法というものの見方が「使えはじめる」というところになると、自分の認識が、弁証法と浸透しあう形でものごとを見ることになります。
言い換えればそれまではアタマの中で、三法則、三法則、と念頭におかなければ見つからなかったものが、「自然と、ごく当たり前のように」認識にのぼってくる、ということです。

この場合には、今まで長い間疑問に感じていたことが、実のところさほど難しいものではなかったのだなと気付かされることも多くなってきます。
また、同じものごとを誰かと一緒に見たときにも、他の人には見えない問題点が、自分だけは意識できることに気づくと、これまでの毎日の積み重ねは、このためにあったのかと、それこそ<量質転化>の成果に気付かされることになり、ここまで来るとはじめて、「やっててよかった弁証法」と実感できるのです。


次回では、ではその使えるまでに身についた弁証法が、どのようなものなのか、というお題について、迫ってみましょう。

(3につづく)

2011/07/17

本日のお詫び

今日は日が変わるまでに更新できる環境になりそうにないので、
今日の分の記事は明日の記事とまとめて公開します。

毎日楽しみに来てくれているみなさんは、申し訳ありませんが、
明日の21時くらいを目安にまた来てみてください。

2011/07/16

弁証法とはどのような形をしているか (1)

前回の一連の記事は、


最近ここに来られた新しい読者に向けてのものでした。

こんな文字ばかりのBlogを熱心に読んでくださる方は、人生における限られた時間を、単に面白ければいいというのでは悲しいとか、自堕落なものに留めておくことはしたくないとかいう理由で、多かれ少なかれ「本質的な前進」に関心を向けられている方々だと思っています。

そういう方と直接おはなしをしていると、「この人はわたしと出会わなくとも、他の何らかのやりかたで、ある程度までには自分の道を突き詰められたであろうな」と思える人も数人おられます。

◆◆◆

ところが、それが「ある程度まで」よりも先に進もうとなったときには、自分の賢さというものを自然成長性にまかせておいてもよいはずがなく、とくに自分の道では誰にも負けぬ一流のところにまで昇りつめたい、となったときには、自然と限界を自覚されるはずです。

目標が高ければ高いほどに、どれだけ流行りの思想や考え方を調べてみても、「あれでもない」、「これでもない」、自分のいいたいことはこれではないはずだけれど、だからといって正しいものを見つけたわけでも考えたわけでもないから、やっぱり私には才能がないのだろうか、と思ってしまう人も少なくありません。
もしあなたが「近所の物知りおばさん」とか、「近所の力自慢おじさん」などと呼ばれていれば満足していられるような人なのであれば、こういう打ちのめされるような無力感に苛まれることもないわけです。

「自分の道」というのは、なにも文芸や学問などのような、人間の文化に直接残るような営みとは違って、「単に優しいだけではない、叱るべきところはちゃんと叱れる最高の母親になりたい」とか、「子供にだけは軽蔑される父親にはなりたくない」というような目標の決め方も、十分にありえますし、そのことが上記したようなことに劣る、ということはありません。
どれだけ間接的な方法であっても、伝える対象が少数であっても、伝えることそのものの正しさは、損なわれることはありません。

しかし反面、書店に行けば、育児の本ひとつとっても、あれやこれやの主義主張があり、あれをするなこれをするなと言われると何も出来ないような気がするだとか、たくさん買い込んで読んでみたけど、さて実際の子供と向き合ったら結局なにもできなかった、こんな当たり前のこともできないのだろうか、と情けなくなることも少なくありません。

このようなとき、どれだけ当たり前に見える営みの中にも、やはり「ここは違うだろう」、と考える基準がなければ、自分のやることに自信は持てないはずです。
そこを「近所の力自慢おじさん」は、「おれがそう思うからそれでいいんだよ!」と胸をはって太鼓判を押すかもしれませんし、「近所の物知りおばさん」は、「昔からこうやってるからこれでいいのよ」と言ったりするかもしれません。

しかし、そういうことを、「納得する」と言うのでしょうか?

彼や彼女たちはそれでよいことにして済ますことができるのかもしれませんが、ものごとをなんとなく「思う」ことではなくて、「考える」人にとっては、「たしかに伝統にはそれなりの意味があるけれど、どうしてそうするのが良いのかを知りたいんだよね」、ということもあるでしょう。
そういう場合には、どうしても、自分なりのものごとを考える尺度が必要になってきます。

◆◆◆

すでにあるものを、それなりの存在理由はあるのだと認めた上で、それをもっと良くするために、そこから先のことを、自分の責任でもって考えてゆく、という考え方があります。
また考え方に加えて、表現することを含めた方法があります。

これを、学問の世界では「批判する」と呼ぶことになっており、一般の方にはこのことばの響きが刺々しく感じられるためか非常によく誤解されますが、これはなにも、「頭ごなしにお前は間違っている」と表明することではありません。

内容の不足について理解するという認識の問題と、それを当人に向けて伝える表現の問題は、繋がってはいますが独立(相対的な独立)の関係にありますから、「批判する」ということの内実を偏見をもとに度外れに押し広げて、「馬鹿にする」とか、「全人格を否定する」などと思わないでくださるよう、お願いしておきます。
あくまで、みなで高めあってゆくための方法なのです。

さて前回の記事でふれたとおり、そもそも人間は、ひとりでは生きてはゆけないのでした。
そういう観点から先のことを考えてゆくことにするとなると、総体として生きる人類の一人として人間文化を前に進めるためには、「巨人の肩に乗る」、つまり先人に学び、それを現代的なものとして新たにつくり変えるということをしてゆかねばならないわけです。

その歴史の流れが、人間を本質的に前に進める方法「弁証法」として、学問の世界では伝えられてきたのだ、ということです。

◆◆◆

ところで、このくどくどと述べられている弁証法なるもの、いったいどのようなものか?と言うと、辞書を調べてもなんだか納得のゆく説明がでてきません。

わたしは、とりあえず3つの法則を日常生活のなかに見つけてほしい、と言いましたが、「そういう修練をするのはわかったけれど、最終的にどうなっていればよいのか?」と、まずはおぼろげにでも完成したときの形を目標にするためにも教えてほしい、という読者の方もおられるでしょう。

あくまで「形としてのイメージ」に限りますが、たとえば一つの「球体」であったりとか、「螺旋階段」などと説明したことがあります。
しかしそんな説明をしたところで、結局のところ身についた人には、「ああ、そんな感じだね」と納得してもらえるのですが、それがまだの人にとっては、雲をつかむような話かもしれません。

たしかにそのとおり、先に結論を与えられてもその過程が踏まえられていなければ、何の意味もないわけですが、結論をすこし先取りしてイメージを掴んでおくことも、目標の設定には有意義なものです。
こういうときに、ちゃんとした学問的な修練を積んだ人間と直接に話してみることが、もっともよいイメージ作りになるとは思いますので、わたしでよければ時間が許す限りお手伝いしたいと思っていますが、弁証法の修練をなさっていない人に完成形をイメージしてもらうというのは、そもそも問いの立て方に無理があるのだ、ということも踏まえておいてください。

しかしともかく、無理を押してご説明することにしてゆきましょう。
「できた」という実感がもっとも意義深いものであるという場合は、「できないところがどこまでかがわかった」ということがその裏側に踏まえられている場合に限るものですから。

さしあたって弁証法を、学問はさておき、とりあえず日常生活の中で、自分の考える土台としたいという人に向けてご説明してゆきます。
弁証法は3つの法則からなるものである、という知識的なお勉強をしようということはさておき、弁証法は「技術」や「技」のようなものだ、とイメージしてくださるとよいかもしれません。

◆◆◆

わたしたちがお茶屋さんで振舞われたお茶がおいしいというので、これが家で飲めたらなあと思い、奮発していちばん良い茶葉を買ってきたとしましょう。
ところが、家で説明書き通りに入れてみても、あのときの味が出ない。
急須が悪いのか湯のみが悪いのかと買い換えても、やはり違う。

その理由はなんだと思いますか?

そういうものが、「技」と呼ばれるものです。


続けましょうか。

(2につづく)

2011/07/15

はじめはどうして肝心なのか (3):子供と向きあうための弁証法

※今回の記事で、弁証法の3つの法則にはすべて触れてきたことになりますが、日常生活でそれぞれどの法則が働いているかを見つけることをとおして、最終的には、法則同士のかかわりあい方をアタマの中にイメージできるようになるのと直接に、3法則が一体となって弁証法がひとつの像として結ばれるようになれば、基礎的な理解は終えたと思って良いでしょう。
ヒントとしては、3つの法則は、まず一般にはなじむ機会がないほどに抽象度が高いため、たとえば<相互浸透>について、今回は「人が人と似てくる」ことだけを挙げましたが、ほかにも、「夜空が暗いからこそ月が明るく見える」、「死がなければ生もまたありえない」、などということも同じ法則として挙げられることを知っておいてください。
柔軟に考えてみて、わからなければどんどん質問してください。

(2のつづき)


◆量質転化◆

さて、その柔軟であるはずの子供の頭が、つまり認識のあり方が、どのように整えられてゆくか、そうしてどのように土台として定着してゆくかというところに着目してみよう。

そのために必要な観点は、一言で言えば「過程」に眼を向けるということであり、毎日毎日、毎瞬毎瞬の積み重ねが、あるときひとつの質的な結果となって現れるという<量質転化>に着目する、ということである。

真面目な努力家が生まれながらの天才を追い抜かしてゆくという物語は枚挙にいとまがないし、ついこの前まで喃語まじりだった子供はいつのまにか生意気になっている。
また後進に対して「なぜこんなこともできないのか!?」と叱りつける連中を、わたしたちはよく目にするものである。

そのようなわたしたちの経験は、「継続は力なり」、「涓滴岩を穿つ」、「千里の道も一歩から」ということわざを明確に裏付けてはいるけれども、そのもうひとつの側面として、「すでに力となってしまった能力が、どのような継続(過程)によって生成されてきたのか」は、自覚していなければ意識されにくい、ということが挙げられる。
ピラミッドは見たところ、それを作る労力は現代人の想像をはるかに超えていたために、宇宙人のせいにする学者もいるほどであった。「バッと来てガッと打つ」と教えれば野球がうまくなるのなら、誰でも野球ができるはずである。

ところが、ピラミッドは紛れもない人の手によるものであるし、名選手と名監督はまったく異なる才能なのである。専門家でもそういったことがわからなくなるのは、どちらも「過程」に眼を向けることがとても難しいからである。



子育てについて考えてみれば、すでに育ちきってしまった大人が、現時点での自分が当たり前だと思っているやり方、つまり大人のやり方を的外れに子供にまで押し付けるという失敗をしがちなのは、「物心つくまでに周囲の大人が自分のことをどのように創り上げてきたのか」ということが、意識的に特別な方法で努力しなければ、どうしてもわからないからである。

これは、物心がついていなければ自分の育ち方を自省的に見ることができないにもかかわらず、その肝心の物心が育ちつつあるものでしかないゆえに、思い出そうと努力すればなんとかなる問題ではないという、原理的につきまとう困難があるからである。

であるから、大人が自分の育ってきた過程を思い返して反省したり、それを自分の子供の育て方に役立てようとするときには、「自分はこれがいいと思う」という当て推量に頼ってはいけないのであって、あくまでも子育ての勉強が必要なのであり、そのひとつは、「追体験」と呼ばれるものであるということになる。

それというのは、大人に育ったのと直接にほぼ発展し終えた現時点での認識でもって、他の子供の置かれた環境を見ながらそれを観念的に(=アタマの中で自分のことのように)追体験してみることをとおして、「ああ、自分もこういったふうに育てられてきたのだな」と、他人の姿を、自分のアタマのなかのもう一人として立ててみる、ということだ。


◆相互浸透◆

そうすることで、自分がまともに育ってきたことは、決して偶然や自分の独力によるものなのではなくて、周囲の人間たちの関わりによってはじめて、「人間として育てられてきてはじめて、人間となってきたのだな」、とわかってくる。

おぎゃあと生まれてなんにもわからず泣きっぱなしだったところを、お母さんの胸に抱かれて泣き止むことをしだいに覚えてゆくのは、ロボットに育てられているからではない。
笑えば微笑み返してくれる心身とものぬくもりある母親があってこそであり、また母親にとっては、子供がいなければ笑う理由もないものである。

一人で動けるようになったあとも、四つん這いで駆け出してハトの首根っこに噛み付くのでないのは、狼に育てられたわけではないからである。
物心ついたあと、友人関係が当人の人格形成を大きく左右するのも、赤の他人だったはずの男女が夫婦になると口癖も笑い方も歩く歩幅も似てくるのも、これらとおなじ、あるものが相手へ、相手があるものへと働きかけ合うという<対立物の相互浸透>のあり方である。



わたしたち大人は、すでに浸透しきって大人になっているから、「トイレ掃除をした雑巾で顔を拭いたりしない」、「お風呂のお湯を止めるときには赤い方から」、などといった習慣を、努力して意識しておかなくともこなすことができる。
動物とは質的に異なる認識をもつ人間にあっては、「便器の前に立つと尿意を催す」、「停止中のエスカレーターを歩くと違和感がある」といったふうに、感覚そのものにすら、人間らしさが浸透しているのである。

注意してほしい、人間らしさが浸透しているのは、「精神」のみならず、「物質」である「感覚」にまで、である!

人間としての土台がどのように創られてゆくのかという「過程」に眼を向け始め、そのはじまりはどこにあったのか、それらはどう積み上げられてきたのかと遡って考えてみると、砂の上に造られた城は、いかに荘厳で強固な佇まいを構えていたとしても、少しの揺れでろくも崩れ去ることもわかってくる。

物心ついてから、どれほどに大切な事柄を教わったとしても、それを受け止める土台がないのだとしたら、せっかくの力を間違った方向に使うことにもなりかねないのである。
幼少の頃からの丸覚え式受験勉強が、子供のアタマに、つまり人間らしさの土台に、どのような影響を与えるのかを、いまいちど考えてみてもらいたい。



習い事でも仕事でも、新しくものごとを学ぶときに、わたしたちはすでにある程度の判断能力が備わっているから、自分の力で人格・技ともに優れた先生は誰かと探し、その人に師事することができるけれども、子供たちは、それを選ぶ能力すら培ってゆく途上にあるのだ、という恐ろしさがある。

あらゆる分野でも、同様のことを強調している人間を見つけるのは難しいことではない。「すべて端初は困難である。――ということはどの学問にも当てはまる。」(マルクス『資本論』)のだし、大衆の経験も、「三つ子の魂百まで」、「雀百まで踊り忘れず」と教えてくれる。

「何事もはじめが肝心」だとよくいわれるのは、人間ならば人間の中での<相互浸透>的な<量質転化>によって人間らしく育てられてくるからなのであり、はじめに学んだことが土台となるがゆえに、「あと」よりも、土台を作る「はじめ」のほうが、はるかに肝心なのだ、このような内実をもっているわけである。


(了)

2011/07/14

はじめはどうして肝心なのか (2):子供と向きあうための弁証法

※以下では、弁証法の3つの法則「否定の否定」、「対立物の相互浸透」、「量質転化」に照らして子供との向き合い方について論じてゆきますが、その際には、前回の記事で述べた参考書を読みながら理解を深めてください。
また文章を受け身に読むだけではなくて、自分の身の回りの生活のなかの、どこにその法則が働いているか、と積極的に考えてみてください。
毎日の昼休みなどにすこし時間を作って、日記帳にでも「今日はどの法則をどんなところに見つけたか」を書き記してゆくと、1年後には見違えるほどに賢くなっている自分に気づかれることと思います。
さらに進んで、日記そのものや知人への手紙などに、法則性を意識しながら「表現する」ことを心がけると、飛躍的に効果が増します。
ここでの「賢さ」というのは、なにも一般に思われているような「勉強がよく出来る」などに限ることではなく、ましてや「議論で相手をとにかく打ち負かせる理屈がうまい」といったようなことでもなく、これから述べてゆくように、子供を健やかに育てたり、人に優しくしたりといったようなことを目指すためにも、どうしても必要な物事の考え方の基礎のことです。

(1のつづき)



◆否定の否定◆

形式論理なんていうことばは子供は知らないけれど、すこし「自分のアタマで」考えてみることができれば、「バスケットのゴールに野球のボールを投げ入れることはできるけれど、野球用のキャッチャーミットでバスケットボールを受け止めることはできない」といったことくらいは経験から引き出してくることができよう。

そうして、それを手がかりにすれば、小さな穴にはそれより明らかに大きなものは通らない、というところくらいまでは実感として持つことができる。

子供たちは身の回りのことしか知らないけれども、そのおかげで、大人が慣れてしまったせいで疑問に感じなくなったようなことや、言い訳で塗り固めて見ないようにしているところでも、敏感に反応する。「なぜなの?どうなってるの?」と。

身近な経験だけから地に足の着いた知識を引き出してきているから、すこしでも宙に浮いた考え方があるときには、変だな、と気づくことができる。
子供が大人よりも優っていることは、まさにこういう考え方をしている、というところにある。

それは、大人が、自分の実際には見たことや経験したことのないことをも、「自分のアタマで」考えることなしに丸呑みにしてしまう習慣を身につけてしまっていることに対して、子供は、それがどれだけ限られたものであろうと、その数少ない経験を「自分のアタマで」総合して、知識を創り上げるとともに、自分のアタマそのものの仕組みも整えている最中だからである。
言ってみれば、知識的に学んで間接的に追体験するしかないことがらを理解するための能力を、直接的な体験によって養っているところなのである。



子供のほうがその純朴さで大人よりも真理に近いということは、童話『はだかの王様』でも根底のテーマとなっているところであるし、一休禅師が「嬰児(みどりご)のしだいしだいに智慧づきて仏に遠くなるぞ悲しき」と詠んだところにも現れている。
また「負うた子に教えられて浅瀬を渡る」ということわざも、大衆の経験が歴史的な風雪に耐えたものが純化されて伝えられてきたものなのである。

こういった格言や経験は、過程も知らないものごとを「まる覚えした」ということを、「わかった」ことだと勘違いしたり、大人が子供に歳の差や強力で訴えかけたり、講壇学者が使えもしない理論を大衆に押し付けたりといった過ちを、未然に防ぐための反省を促してくれる。

このような、「知識のない子供のほうが、知識にまみれすぎた大人よりも『かえって』、より正しく真理をとらえている」という例は、ひとつの<否定の否定>のあり方を示している。



もし子供が、大人の考え方が飛躍しすぎていることや踏み外しがあることに気づいて指摘してくれたのなら、本来ならば大人はそのことについて頭ごなしに叱りつけたりせずに、いちどいっしょに立ち止まって考えるべきなのである。

「たしかに、言われてみると、なんでなのかよくわかっていなかったな」、と。

子供が直感で「どうして?」と気づいて指摘したことに大人が腹を立ててしまうのは、大人たちがたとえば会社の中で行っているような、言葉尻を捕まえて相手の揚げ足をとったりするような経験で身につけた作法を、そういった悪意をまだ持たない子供にまで度外れに押し付けて解釈してしまうからである。

この場合には、まだ何色にも染まっていない子供が鏡の役割をしていることに気づかず、それに向かって眉根を寄せているわけであるが、実のところそこに映っているのは他でもない、自分自身のしかめっ面なのである。

子どもの認識のあり方が、大人のそれとは質的に違うということをふまえるならば、「子供の立場に立って」とのスローガンが、いかに過程を忘れて掲げられがちなのかも知れてくる。
あれはなにも、「とにかく子供を大事にすればよい」といったイデオロギーを指しているのではなく、子供とまっとうに向きあうためには、ひとつの技術が必要なのだ、ということだ。

子供の土台を創り上げることを、ほとんど本能のみによって行える動物と、人間との分水嶺はここにあるのであって、人間の場合は本能にまかせることではなく、人類の歴史が創り上げてきた人間らしさの尺度に照らして、教育を与えてゆかねばならないわけである。


(3につづく)

2011/07/13

はじめはどうして肝心なのか (1):「クジラは何を食べていますか?」

※この記事は、新しい読者が増えてきたことと、昨日の記事で受験勉強の消極面を書いたことに関連があり、身近な例を正しい考え方で考えてもらうための側面をもっています。(学問の見方を、身近なところから適用してみることの大切さにもふれてあります)
これまでの読者のみなさん、とくに最近の記事が難しすぎる、という人にも再入門・再確認のきっかけになればいいなと思っています。
また以前からお伝えしていることなのですが、新しい読者のみなさんは、当Blogで<括弧書き>されている用語については、三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』で学びながら読み進めると、理解が深まります。


表題の問題を問われたら、


「ハイっ先生!オキアミです!」

それが、小学校低学年の模範解答であった。

◆◆◆

あんなに大きな生き物が、あんなに小さな生き物を食べて生きているなんて!
という意味での驚きをともなって、この事実は子供たちの記憶に刻まれるものである。

ここで驚きがあるというのは、子供たちにとっては、自分がお父さんほどには食事をたくさん食べられなかったり、飼い犬がドッグフードを口からこぼしながら食べたり、スズメはパンくずでも食べるのに必死であったりといったような経験を一般化したところに、「生き物は身体にあったものを食べるものである」というおおまかな知識が形成されていることと、クジラの食事のあり方のあいだに矛盾があるからである。

それまで知っていた事柄と、新しく得た知識が矛盾するときに、なぜだろうなぜかしら、と理由を知ろうとするところに、知識が自分のものとして身につくための第一歩がある。

わたしが子供であった頃の先生も、理由を聞きたがる子供たちのまなざしに応えて、「クジラには、外からは見えないけれど口の中にヒゲがあって、海水ごと飲み込んだオキアミだけを濾しとって食べているのですよ」と説明してくれたものであった。

◆◆◆

まわりのみなは、素直に「へぇ〜」と話を聞いたり、表現に引きずられて「口の中にヒゲがあるなんて!」とくすくす笑ったりしていたけれども、齢十つにも満たない私の頭の中には、ある疑問が首をもたげてきていたのである。

「なるほど、ひとつひとつはあんなに小さくても、それだけたくさんのオキアミを食べているから、クジラはあの大きなからだを動かしていてもしんどくないんだな。
それはそうだと思うけれど、そんな小さなオキアミを濾すほどのヒゲなら、引っかかるのはオキアミだけなのだろうか?」

処世術を知らないわたしは、「わからないことはなんでも聞いてください」との言葉を頼りに、そのままの質問を先生にぶつけたのであった。

クジラがオキアミを食べるのはわかりましたが、ヒゲに引っかかった他の魚も食べちゃいませんか?
それとも、クジラはやさしくて、オキアミ以外の魚は逃がしてあげるのでしょうか?、と。

そのときの担任の先生は、後者の疑問については、クジラが人間のいう「やさしさ」を解するものではない、というところまでは知識的に知ってはいたけれども、前者についてはわかりかねたのであろう。

冷水をぶっかけられたような顔のあとに返ってきたのは、
「屁理屈ばっかり言う人は、えらい大人にはなれませんよ!」
という言葉であった。

もうご本人の名前も思い出せないが、いまでも能楽を観に行くと、この時のことを思い出さずにはおれない、そんな経験である。

そのときは、般若のような顔で叱られた、わたしが般若にしてしまった、という事実そのものが堪えたものだけれど、その疑問は、それでもなおアタマの片隅にくすぶり続けていたのであって、やはりココロのほうにも、「納得しないことはどうしても忘れられない」という足あとを刻んでいったのであった。

◆◆◆

その後もそういうやりとりが何回かあって、先生からの扱いが「屁理屈こき」として定着した頃をすぎて、そのあと進級して別の先生から通知簿に「授業中に文句を言わないようにしましょう」と書かれる頃になっても、やっぱり謎は解けなかった。

疑問が氷解したのは中学校の頃、ふと目に留まった新聞記事である。

見出しは、「マグロの漁獲高減少」だかというもので、当時の私にはなぜその記事が目に留まったのか検討もつかず、これはいわゆる運命というものかと、その邂逅に身を震わせるほどの出来事であったのだが、ともかく内容は、こういうものであった。

曰く、「捕鯨の規制で、マグロの漁獲高が目減りしてきた。この方針の是非が問われるところである」。

中学生であったわたしは、新聞記事に使われている難しい漢字を読むだけでもやっとであったが、ここには何か重要なことが書いてあるとの一念で漢字辞典を引っ張り出してきて部首から調べ、その漢字が「クジラ」を指していることを突き止めたあと、とうとうものごとの真相を理解したのであった。

「…やっぱ、クジラってマグロ食べてるやん。しかもけっこう大量だし!」


そのときからわたしは、あらゆるオトナを、「その人がオトナであるという理由『だけ』では」、まるっきり信じなくなった。

やっぱり、矛盾していることは、放っておいちゃダメなんだ。

それが、そのとき自分で掴みとった、世界を照らす灯火であった。

◆◆◆

さて、「クジラにはオキアミを濾すことのできるヒゲがある」という事実を、まずは知識的に受け止めることにしよう。
そうしたときにも、「クジラはオキアミを食べる」ということ自体は、たしかに誤りではないのである。

これは、「日本人は米を食べる」と言うのと同じであるが、それでも、わたしたちは米だけを食べているわけではなくて、パンも食べるしラーメンも食べる。
そのことを踏まえようとするときには、誤解を招かない表現の形に整えて、「日本人は米を主食としている」と言うわけである。

言い換えれば、「日本人は米を食べる」というのは正しいけれども、そこから「日本人は米だけしか食べない」というまでになると、これは誤りだということになる。


ところが、ここでの問題は、そういった知識的な事柄を知っているかどうか、ということにとどまらないのである。

なぜなら、「クジラにはオキアミを濾すことのできるヒゲがある」という条件から、類推できることもあるからだ。

クジラのヒゲはオキアミを濾すことができる。
マグロはオキアミよりも大きい。
よって、クジラのヒゲはマグロも濾すことができる。

これは弁証法でも何でもなく、よくいわれる「アリストテレスは死ぬ」の論証で知られるような形の、ごく一般的な形式論理さえあれば、じゅうぶんに引き出せる範囲のことである。(ただ、あの論証がアリストテレスのものである、というのは誤解だけれども)


今思えばおそらくわたしの担任の先生は、「クジラはオキアミを食べる、クジラはオキアミを食べる」、という知識で、頭がいっぱいになっていたのであろう。
意外なところからの反論は、それを追い詰めるには十分だったのだ。


(2につづく)

2011/07/12

日常を「あれもこれも」と考えるには:人は信じるに値するか (2)

(1のつづき)


わたしにとっては、「学生を信じるべきかどうか」ということは、これはニワトリとタマゴの問題ほど単純明快な答えを出せるような類のものではないけれど、それでもひとつ言えるのは、こういう問いかけに興じること自体が、やはりある一定の考え方を示しているのだな、と思えてしまうということだ。

たとえば、「私は学生のことを信じていますから」という信念を持っていて、ゼミにも来ずに学生を自由放任にしたままでいるというのは、これは聞こえがいいだけの、単なる体のよい責任逃れということになろう。

それよりもむしろ、「私は学生のことはまるで信じない」という立場で、恋愛から研究まで仔細にわたって注意深く見ておこうとする先生のほうが、ある意味で優れているとさえ言えるかもしれない。

そうすると、「信じるか信じないか」ということだけを振りかざしても、学生たちと向きあう実践的な方針としてはほとんど役に立たない、ということになる。


上で、今回の問題を議論しようとすること自体が「ある一定の考え方」を示している、と言ったのは、わたしにとっては、信じるか信じないかという姿勢が、どのような場合に発揮されるべきなのかと問わずに、単にあれかこれかと議論するという、その姿そのものが、大いに疑問符のつくものだからである。

果たして教育というのは、教える相手を信じたり信じなかったりなどといったような、何らの状況も想定しないところで議論できるものなのだろうか。

こういった、机の上だけで考え出したような極端なあれかこれかが、本当の教育指針として通用しうると思っておられる先生方は、いったいどんな教育「実践」を持たれているのだろうか?

◆◆◆

実際の大学生たちに向きあってみればわかるとおり、彼女や彼らはまだ未熟な側面もありながら、それでも、ひとりの人間としてほとんどのことを過不足なくやりうるし、また逆に言えばできてしまう、という存在なのである。

そうして仮にも、学ぶ者、「学生」として、大学というところに入学してくるからには、大学側も十分な役割を果たさねばならない、というのが筋であろう。

もし少しでもそういう意識があるのなら、一人の人間の未来を大きく左右する立場にあったれば、単に学生がそれまでの20年前後で身につけてきた、自然成長的な能力を放っておけばよいということでは、そのそもそもの存在意義すら問われることになろう。

わたしから見れば、大学入学当初から、「まるごと信じて放っておいて」、非の打ち所のない立派な人間に育ってゆくことが明確な学生、というものは、ひとりも見たことがない。

ところがいるのである、学生を散々ほったらかしにした後に、「我がゼミの誇る諸君らにあっては」としたり顔で述べる輩が!

どんなに正義感が強い人間の中にも、一度折れたらもとに戻らない性質が潜んでいるし、
どんなに人に尽くす人間の中にも、ある種の強い依存心が見え隠れすることも少なくない。
学問という分野に限っても、ものごとはある面とは切り離せない他の面を持っているから、どんなに成績優秀な人間であろうとも、眼に見える面とは裏側に、いったいどのような消極面があるのかと考えておかねばならない。

たとえばいわゆる受験秀才などというのは、実際にはやりもしないことをことばだけで丸呑みにさせられているという意味で、言ってみればひとりの人間としては極めて歪な存在なのであって、彼女や彼らは学業成績とは裏腹に就職活動でたいへんな苦労をするばかりか、研究職としても本質的な研究が「できない」可能性のほうが、はるかに高いのである。

◆◆◆

人類の残してきた文化に、新しい1ページを書き加えようともすれば、ヨーロッパのどこぞの学者が残した本の中に、たくさんの細かな誤りを見つけたり新しく注釈を付け足したりといった研究に耽溺しているだけでよいはずがない。

本質的に新しいものを創り上げるためには、誰かと誰かが作ったものを貼りあわせてオリジナルのアイデアだなどと売り出すのではなくて、人類が総体として歩んできた歴史を自分の足で歩き通しながら、ジグザグに入り組んだ道を足を棒にしながら歩き直し、泥まみれになってそこに一筋に光る本道を見出したうえで、そしてまた一歩一歩と歩み続けるということを、あくまでも自分の力でやれねばならないのである。

こういう仕事をしなければならないときに、意味もわからないままの丸呑み・丸覚えの能力が、いったいどこで発揮されるというのだろうか?

自分で判断する力を養えない場合の、「たまたま」上司になった者の言いなりになったり、「たまたま」捕まった新興宗教の勧誘にコロッとやられたり、「たまたま」手の触れ合った異性と触れ合うしかなくなることの顛末がどのようなものであるかは、大衆メディアを賑わせるニュースで厭というほど耳にしてきているはずである。

◆◆◆

そういうわけで、わたしは学生のことをあらためて考えてみれば、その可能性は信じているけれども、その可能性がどういった方向にも拓かれていることを信じているがゆえに、間違った道に陥りがちであるということも、同様に信じている。

こういった姿勢をとっている場合には、傍から見ればどうでもいいと映るような事柄についても、学問を目指すにはまず生活から、志を養うには毎日の過ごし方を大事にしろ、付き合う相手を選べなどと偉そうに、あれやこれやとダメ出しするのであるから、これはまるきり学生のことを信用していないようにも見えるであろう。

しかしこれは、指導の内容を学問的にするだけにとどまらず、指導の方針をも学問的に整えていなければならないはずの、「学者」としての責任があるからである。
その責任に照らして、学生を見ているからである。


さて以上を要して、わたしは「あれかこれか」の質問に、なんと答えるべきであろうか?


(了)

2011/07/11

日常を「あれもこれも」と考えるには:人は信じるに値するか (1)

大学生を教える立場にある人たちが、こういうことを言っていたことがある。


“人を信じるべきか、信じぬべきか。”

◆◆◆

どうやら、学生が真面目に講義に出るか出ないか、出たとしても真面目に講義を聞くかどうかということを議論なさっていたようで、こういう話によくあるように、「ウチの学生にはこんな人間がいる」、「いいやそれとは反対にこんなのもいるぞ」と、学生を信じる派と信じない派に分かれての議論であったようである。

なぜにこんな他人事のように書くかというと、わたしのような輩がこういう議論に参加すると、場を乱してしまって、結局誰にもいい顔をされないことを、ようやく学んできたからだ。

それもそのはずで、「あれかこれか」、結局のところ、どちらの陣営の有利に終わるかということに焦点が当てられている場合には、ニワトリ派とタマゴ派のあいだに「あれもこれも」と割って入る人間などは、邪魔者以外の何者でもない。

「お前は結局、どちらの立場なのだ?」、
ということである。

◆◆◆

しかしこういった議論、見れば見るほど複雑なものである。

複雑というのは議論の中身ではなくて、実のところ、残念ながらと言うべきか、それに参加する人間模様が複雑なのである。

タマゴ派の筆頭が、政界にも通じている名のある先生ならば、直接の利害関係はなくとも嫌われるとよろしくない。
ニワトリ派の言いだしっぺが、有力視されている若手研究者というのなら、恩を売っておくのも悪くない。

そういうわけで、はじめはみな、場の空気を読みながら牽制しあって、どちらが有利になりそうかと出処を伺うということになる。
そんな中で場は徐々に動き始めるが、単に有利な方に属して自らの先見の明を明らかならしめるだけにとどまらず、勝ち方が後に遺恨を残さないようにも工夫が必要であり、これは文字通り、立派な政治的な駆け引きなのである。

◆◆◆

議論の本質が議論そのものではなくて、それをとりまく政治にあるような場合には、そこで扱われているお題そのものは、それが正しいかどうかよりも有利に見えるかどうかのほうがはるかに重要なのであって、もっと言えば解かれようが解かれまいがどちらでもよい、ということさえありうるのである。

ところで、せっかく出したこのお題を、代わって考えてみることにしよう。

よく出されるニワトリが先か、タマゴが先か、という問題は、現実に存在するニワトリとタマゴとを比べて、それがあたかも「いきなり」この世に登場させられたものだとしたときに、ニワトリがなければタマゴが生むものがいないし、タマゴがなければ親ニワトリも生まれない、という矛盾のように映るというものであった。

ところがこの問題でおかしいのは、ニワトリという存在と、タマゴという存在が、まるで魔法のように、いきなりポンとこの世に出現したという前提そのものなのであるから、そこが実際にはどうであったか、と考えてゆけばよい。

生命史に類するどんな本の、目次だけでも眺めてみればすぐに了解されるとおり、タマゴという仕組みは、生命体が地球の環境につながっていながらもつながらない部分をつくろうと、つまり自身と地球とを相対的に独立した形に置こうとしたところにその発生のきっかけがあったのであって、ニワトリという鳥類の生成よりも、はるかに昔のことなのである。

タマゴという仕組みを持った生命体は、そのあと魚類、硬い殻を持ったタマゴをもって陸上へと進出した爬虫類を経たのち空へ、つまり鳥類へと発展していったのであるから、こういう観点から見れば、答えは明白そのものなのである。

◆◆◆

もし、より範囲を限定して、「いやあの問題はそういうことではなくて、『ニワトリ』と、『ニワトリのタマゴ』のどちらが先か、と問うているのだ」、などということであったとしても、ただそれもやはり、現代わたしたちが眼にしているような形の「ニワトリ」を、未来永劫かわらぬものとして存在してきたという固定化された理解に基づく誤解でしかない。

ニワトリの場合には、野鶏であったものが長い時間をかけて家禽として生成されてきたものなのだから、やはりこれも、過程をとばしていきなり結果だけを論じることはできない。
正しい答えは、ニワトリはニワトリとして生成されてきたものであって、これからも僅かながらとはいえ新しいかたちをとりつつある一つの動物なのであって、成体とタマゴの仕組みは互いに浸透しあって生成されてゆくものだから、どちらが先だとは言えない、というものである。

このふたつの例から類推して、聡明な読者は、「なるほど、目の前にあるものごとの間に、あちらを立てればこちらが立たずという矛盾があるばあいには、『そのものがどうやってできてきた(生成されてきた)のか』と考えてみればよいのか」と理解してくださるかもしれない。

これはそのとおりで、「あれかこれか」ではなくて、「あれもこれも」と考えてゆくのが「弁証法」の基本姿勢だけれど、これはなにも、たんに「中道をとる」という発想で、問いかけそのものから逃げることを目的としたものではない。
ものごとが正しくありうる範囲は、どこからどこまでなのか、という姿勢で、正しい答えを出すことを目指すのである。


長くなるので分けましょうか。

(2につづく)

2011/07/10

どうでもいい雑記:休日の過ごし方

「休暇とはなんぞや?」


いつもの調子で問いかけるとすると、
「ついに気が狂れたか、休みに決まっているだろうが」
と言われるかもしれないけれども、わたしの問いかけというのはだいたいがそういう類のものなので、これが狂気ならば根こそぎ狂気である。

何が言いたいかというと、わたしにとっては、休みの日というのは、どういうふうに過ごすものなのかがいまいちよくわからないのである。
一般の人たちが休みの日となるとこぞって出かける、あのレジャーや観光、そういう具体的になにをするか、ということよりも、形式的にどういった位置づけのものなのかがうまく合点できない。

「休み」というのが、「労働」と対比させてのものであるなら、後者は、目的意識を持った営み、ということだから、前者は、「目的意識を持たない営み」などということになるのであろうか。

◆◆◆

ただ、どんなにぶらり旅にでかけたとしても、どこかの興味を惹かれた駅で降りたり、風情のある旅館に泊まったりするわけだから、どうしても目的意識は働いていることになってしまう。
目的意識を働かさないように工夫して、家でゴロゴロ寝っ転がりながら冷房をきかせて映画でも観ることにするとしても、映画を選んだ途端に元の木阿弥になってしまうから、人間にとって、目的意識をまるで含まない行動というものが、習慣として身についていることなど以外には、やはりどうしても見つけ難い。

そうして、人間の営みの内実を、目的意識があるかどうかではなくて、目的意識が高いか低いかという段階のうちの、どこに位置づけられるかということで理解しようとすると、やはりこれは、「なにをやっているか」ではなくて、「どうやるか」ということが、主だった主題となってくる。
つまり、なにをやるかはともかく、「やることについてどういう姿勢で向き合っているか」、ということである。

◆◆◆

もし単にいつもやっているような買出しに行く時にも、「今日は結婚記念日だから夫の喜ぶものを選ぼう」と思っていれば、自然と購買行動も変わってくる。
もしどんなクルマ好きでも、子どもをはじめて乗せたときに「できるだけ揺れを少なくしよう」と念頭におくとすると、自然と運転も変わってくる。

多くの人たちにとって、そういう特別な目的意識を持つというのは、ハレの日だけに限られる場合が多いのかもしれないが、わたしにとってのテーマは、特別な日に限らず、毎日の当たり前に行っている事柄のなかに、どれだけ深い目的意識を持てるかどうか、ということである。

そういうわけで、わたしにとっての数少ない休日は、目的意識のレベルだけは仕事の時の真剣勝負を維持したままに、どれだけそれを好きなことの中に見いだせるか、という姿勢になってしまう。

ひとはこれを見て、「休日もそんなに気合入れて過ごしてたら休みにならんわ」とあきれ果てているけれども、毎日やっていることを休日だからと止めてしまうから、月曜日が辛くなってしまうのである。

むしろ、仕事の疲れを引っ張った休日の朝の怠け心で、いつもより多めに寝てしまったりすると、「もったいないことをしちゃったなあ」と思ってしまう。
で、「なんとかして取り返そう!」、そんな具合。

これを病気というのなら、たしかにそうかもしれない。
そういえば、高校生の時の心理テストだかなにかのスコア、笑っちゃうくらい凄まじい偏り方をしていたっけ。

いまではもっと酷くなっているかもしれない。
目的意識の強い対象化された意志を、悪く解釈すれば強迫観念ということになっちゃうんだもの。

◆◆◆

さていつものとおり、どうでもいい前書きをしていたら、本論にたどり着くのが遅くなってしまった。

今週はめずらしく、時間を作って人と会っていたのだけれど、その人というのが、ここのBlogの熱心な読者で、どんな話になっても、「その話は覚えがある、あそこで君も書いていたよね」とおっしゃるので、ずいぶん恐縮してしまった。
なんでも、未読の記事を指折り数え、全部読むまでやめるつもりはないとのこと、恐れ入りました。

限られた時間の中で出来る限りのことを、と思って書き認めてきたことではあるけれども、やはり時間の制約というものは大きく、昨日のことにどれだけ手直ししたいことが見つかっても今日が迫る故、今の自分に無理なことは無理と言うしかないこの足あとだけれど、それほどに人の支えになっているとは、これは、有り難い、と、しみじみと感じ入ったものであった。

こういう時間が過ごせるというのは、それなりに歳をとらねばわからないことのうちのひとつ、ということかもしれない。

ただこういうときに、単に歳をとればよいというものではないのも事実なので、学生のみなさんには、ちゃんとした人と、ちゃんとした休みをと、「休みの過ごし方」を工夫してほしいものです。

ちなみに、「人のマトモさ」を、「どれだけたくさんの人がそうしているか」を根拠に論じるような大人のことを聞いちゃうと、やっぱりこういう過ごし方には、なりにくいのじゃないかなあ。

2011/07/09

どうでもいい雑記:火星人はなぜタコの形をしているか

昨日オカルトの話をしてしまったので、


ついでに、以前に近しい人たちと話し合ったことを載せておくことにする。
だって、こんな機会がなけりゃ、こんな話題の記事なんか永遠に載せないような気がするもの。

それから、中断中の連続記事があるのを忘れたわけではないのだけれど、ちゃんとした文章の続きを書くためのまとまった時間がなかなか確保できていないので、まだ読者にわかるように例示なりを工夫するところまで整理できていないのだ。
いちおう関連する記事を選んで載せてはいるものの、早く続きを、と楽しみにしている人には申し訳ない。忘れたわけではないのであしからず。

◆◆◆

さて、表題の件、「火星人はなぜタコ型か」というお題を考えてみる。

わたしが覚えている範囲でも、図鑑で「宇宙」のものを見ていると、火星人の絵が載っていた。
最近の図鑑をめくってみても、さすがに上に載せたような典型的な姿の火星人は見当たらず、いまの子供たちのこころにはそれほど深く刻まれてはいないのではないかと思う。

わたしの持っている古い図鑑には、「イギリスの作家H.G.ウェルズ」が考えたもので、「火星には空気が少なく、引力も小さいので、」という根拠によって、それがタコ型になったのだ、と説明書きがある。

◆◆◆

さてそうすると、わたしの立てた問いは、「ウェルズが考えたから」、これで答えが出たことになるのであろうか?

もし学問というものを、知識的に受け止める研究者ならば、ここでやるべきことは、図書館に行くか、インターネットで「H.G.ウェルズ」の項目を調べることである。
そうして彼が火星人について言及する箇所を見つけたことを使って、「火星人の起源は〜というものであり、〜と言われている」というレポートを作成する。

たしかに、ちゃんとした報告書を提出する場合には、こういった知識的な事柄も誤りのないように調べておかねばならないけれども、そういうことにもまして大事なことは、なぜ誰かが火星人をタコ型に描いたことが、「たしかに有り得そうだ、もっともらしい、と思われていたのか」、という大衆の認識についての問題である。

どんなことにも言えることだが、ある謎について本質的な解を与えるのは、「どこからか答えを調べてくる」ということなのではなく、「それを手がかりにして自分のアタマで考える」という行動によるものなのだ。

◆◆◆

そういうわけで、今回のお題をそういう向きに考えてみることにすると、エリア51の宇宙人やUFO、火を吐いて街を焼き尽くすドラゴンや、柳の下の幽霊といった、いわゆるオカルトが、どういう経緯で出てくることになったのか、ということをふまえなければならない。

ここで気をつけてほしいのは、なぜ宇宙人はタコ型や人型で、ドラゴンはトカゲ、幽霊は髪の長い女として「現れてこなければならないのか」ということだ。

幽霊は死んだ人間が化けてでたものであるという定義からしてもっともらしいけれど、たとえば宇宙人ならば、もっと得体のしれない形をしていてもよいのではないか、そう思ったことはないだろうか。

うねうねした粘性の、とらえどころのない生命体かもしれないし、人間には見えない存在かもしれないのに、なぜ「我々にわかる形をしているのか」、「我々にわかる形でなければならないのか」。そのことを、考えてみてほしい。

◆◆◆

答えを言ってしまえば、その理由は、
どんな空想の産物であっても、わたしたちが認識の像としてとらえているものは、もとを正せば物質的な対象が、感覚器官によって反映されてきたものだからである。

どれほど現実とはかけ離れた空想であっても、それは、現実に存在する事物を素材として作られたものなのだ。

このことは、誰かが認識の中で空想をつくりあげ、それを絵や文や立体物で表現する、という創作過程においてもそうである。
それは、空想をつくりあげて発表する作家が、それを見る者の鑑賞過程を逆向きに想像することによって、「よりもっともらしい」ものとして受け止めてもらえるように配慮する、という鑑賞過程とも浸透してゆくことになるのである。

◆◆◆

ここで説明したことを、ものづくりのヒントにしようという人は、どういうふうに「使う」か、と考えてみているはずである。

原則を押さえておけば、アイデアなどというものはいくらでも出てくるのだ、ということがよくわかるところだけれど、たとえばどれほどファンタジーもので創作活動をしてみたいとなったときにでも、結局のところ、その「素材」についての知識がなければ、良い創作活動はできないのだ、ということがわかる。
なぜなら、読者にとっての「もっともらしさ」を提供するのは、わたしたちの当たり前の現実を取り巻いている「素材」から提供されたものだから、である。

ここの理解が乏しければ、ファンタジーものを創作するとなったときに、もともと世にある、誰かの作った「ファンタジーもの」を参考にしてしまう、という落とし穴に嵌ることがある。

しかしこれは、極端に単純化した例で言えば、ペン習字の「お手本」眺めながら真似して書いてゆくときに、本当に倣うべきお手本ではなくて、自分の書いた習作をお手本にしてしまう、という誤り方に似ている。
これでは、素材としてのあるべき姿が、どんどんと劣ったものになっていってしまうのだ。

◆◆◆

現象的にしかものごとを見られない場合には、すでに市民権を得ている空想物ばかりが目に付くから、それに引きずられて、いきおい、ゾンビや宇宙人というカテゴリーがはじめにあって、そのなかでものづくりをしなければならないようにも思えるけれども、事実はそれと逆なのである。

過程を追ってみると、宇宙人のなかでもタコ型や人型やアメーバ型、ゾウ型などがあったところを、大衆の認識がもつ「もっともらしさ」という尺度に照らして選別されてきた、ということがわかる。

だから、20世紀の半ばを過ぎた頃から、火星には人間の考える生命体がいそうもない、ということに大衆が気付き始めたころになると、「宇宙人」というカテゴリの中から、「タコ型の火星人」という存在そのものに関心が示されなくなってきた、ということなのである。

この先に人々が、いまの時代の人間が考えている地球外生命体というものが、「月と太陽との交互作用によって育まれた地球における生命現象」のあり方を、太陽系の外にも「的外れに」押し付けた解釈でしかない、ということに気づき始めると、そこでの生命さがしも、また違った形となって現れることになってゆくだろう。

このように、いくら極端な空想の産物であっても、それが見る者を持った表現として成立するからには、やはり、そこで使われた素材についての理解が欠かせぬことになるというわけである。

2011/07/08

現代社会を裏であやつる秘密結社は存在するか

「…へぇ?」


今回のタイトルを見てそんなふうな、気の抜けた返事が出れば、わたしとおんなじ反応である。

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なんでも職場で、こんなふうな話題が出て盛り上がったのだと。
この話を、他ならぬ自分の親戚の口から聞いたときは、穴があったら入りたい、そんな気分であった。

ただ話を聞く前から、頭ごなしに「ナンセンス極まれり」とか言うのもよくないと思って、神妙な顔をして聞いていたら、こんなふうである。

この世には世界中の有力者を集めた地下組織(原文ママ)があって、世界の動きを牛耳っており、用心が暗殺されたり竜巻が起こったり、そんな大きな事件にはすべて関わっており、今回の日本の地震も、この地下組織が一枚噛んでいる(原文ママ)のだと。
メディアはそれを知ってはいるが、報道に載せると「海に浮かぶ」(原文ママ)らしく、表立っては明らかにならない、だが確実に存在する(原文ママ)というわけなのである。

…わけなのである、と書いてみて…せっかく毎日の限られた時間をこじ開けて、車内ではメモを取り風呂でもトイレでもキーボードを叩き、少しでも意味のある文章を書こうと前途ある後進とともに歩んできたこのBlogで…こんな心底どうでもいい文章を書いてしまうと、なんだか自分たちでつくりあげてきた庭園に泥のついた足で踏み込んでしまったような悲しさを覚えてしまう。

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読者にとっても少なからずそうかもしれないけれども、いい大人がこんなレベルの話で時間を潰しているのを見て見ぬふりもしたくないしで、なぜにこんな話になってしまうのかをまじめに考えてみよう。

結論から言ってしまえば、この話題がつまらないのは、「組織とはどういうものか、がちっともわかっていない」ということである。

すこし前置きをしておくと、なにもここで、UFOの話をしているから駄目なのだとか、オカルトだから駄目なのだとか、話題の内容がどうだからダメだとか言っているのではない。
どうでもいいことだけど、わたしは海外ドラマ『X-Files』も大好きだし、エイリアンものの映画はほとんど観ているほど好きである。
それに、科学をはじめ学問というものが、あらゆることがありうる可能性を頭ごなしに排除しないことも知っている。

だけれど、原則をしっかりと押さえていない考え方は、どうあがいてもまともな結論にはならないのだ、ということは、学者として、大人として言っておきたい。

学問は、本質的な話題になればなるほど一般の人がいうところの「そもそも論」から説明するので、それが原理的であるということによって、現実には適用しにくいものなのである。
ただ、この「そもそも論」も、こういった、発想の原点そのものに誤りがある妄想を振り払うには、十分に効果を発揮する。

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ここでの話題は秘密結社だの地下組織だのらしいので、
では「そもそも」、組織とはいったいなんなのか?
と問いかけてみよう。

たとえば、あなたに帰るべき家があり、そこに誰かがいるとすれば、あなたはそこの成員である。
たとえば、あなたに働ける職場があり、そこに上司や同期、部下がいるとすれば、あなたはそこの成員である。
たとえば、あなたが税金を収めることの見返りに、強盗に襲われたときには守ってくれる警察があるとすれば、あなたはそこの成員である。

そういうふうに、家族、会社、国家などの例で考えてみればわかるとおり、組織というのは、2人以上の成員からなるものなのは間違いない。

そしてその内容に目を向ければ、たとえば家族は、働いて疲れた心身を休ませるための組織だし、社会は、あなたが働いた見返りに給与を与える組織だし、国家は、あなたが国家意志と契約し、税金を収める代わりに個人ではまかないきれない危険や不安から、あなたの身の安全や財産を保障する組織である。

そうすると、これは隠されていて見えにくいものだし、成員それぞれが明確に自覚していない場合もあるけれど、組織には、ある「目的」があるということになる。

以上を要すると、組織というものは、2人以上の人間が一つの目的のために集まるときに成立しうるものである、と一般的に言うことができる。

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もし、目的をなにも設定せずに秘密結社が結成されるとしてみよう。
あなたはその成員として加わり、本日より会合を持つことになった。
そんなとき、いちばんはじめに議題に上がるのはこれである。

「…ところで、今日から何をしましょうか?」


どうも、形を作ったり社名をつけたりすると組織ができあがると思っている人がいるようなのだが、「イレモノ」を作ったら中身が勝手に埋まるというのは、とんでもない勘違いである。
言い換えるなら、組織の本質というのは、よくある組織図や組織の名前にあるのではなくて、むしろ成員同氏の関係性と、それらが全体として目指す目的こそにある。

ある目的を達成するために設立された組織が、活動を続けてゆく中で目的が徐々に変容してゆくことはありえるけれども、それとて、組織のあり方とその目指すところが相対的に独立しているというにすぎない。

組織というのは、人数が決まっていて役割が決まっていて長期にわたって同じことをしているような、固定化されたものではなくて、もっと有機的なものなのである。

目的があってもそれが弱まったりなくなったりすれば、成立根拠を奪われて解体するのだし、もし目的は統一されていても成員たちの欲求を満たすことができないのならば、それでも解体されるものだ。

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世界中で起こっていることの理由がわからないからといって、たとえばあれもこれもひとつの秘密結社の手によるものなのだとか言い始めると、話がどんどん怪しげな方向に進んでしまうのは、あれもこれもとぜんぶの原因をひとつの組織に押し付けてしまうことによって、「結局のところ、何がしたいのか?」が、ぼやけてきてしまうからである。

ダイアナ妃もマイケル・ジャクソンも日本の地震もカトリーナも温暖化も、もし単一の組織の手によるものだとしたら、彼女や彼らの目的は、いったいなんなのだろうか。


人間の歴史をたどれば、現代社会だけではなくてずっと昔から、天変地異や災害などの人智の及ばぬ自然の驚異を、ただありのままに受け止めることのできなかった人類は、それに対抗する手段を講じるのとは裏腹に、それに何らかの意味を見出すことを考えた。

前世の悪行のゆえか、人にもともと備わった罪のゆえか。
そういうふうに、自然の中にも人間の精神のあり方を押し付けて、「ある者の意志」を読み取ろうとしたところに、宗教の原始的な形態がうまれたわけである。

そこで「神」や「仏」と呼ばれていたものを、オカルトに齧りつくような人たちは「秘密結社」と言い換えているわけであるが、そのことに彼や彼女たちは気づいているだろうか。
もっとも、ちゃんとした信心を兼ね備えている人は、こんなオカルトには手を出さないから、比べるのも失礼というものであるが。

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こんなレベルの考え方のどこがおかしいかを指摘するのは、お化けが出て独りで眠れないという子どもに、聞かせる話と同じようなものである。

「部屋の隅っこにお化けがいて、怖いから眠れないって?
じゃあ、こんなふうに考えてみたらどうかな。
お化けっていうのは、こうやってふつうに過ごしている人たちが、天国に行ったときにそうなるんだったよね。
そうしたら、お化けは、もともとはふつうの人間だったってことになるね。
きみは、今日外で遊んでいるときになにか怖い人に出会ったかな?
これまではどう、あしたはどうだろうね。
もちろん、少しは悪い人もいるし、怖いことも起きるけれど、今日は外に出たらきっと怖い目に合うだろうなって、いつもビクビクしてるわけじゃないでしょう。
もしそんなだったら、みんな外には出ないもの。
そうだとすると、もしお化けがいたとしても、もともとはこんなふうな世の中にいた人たちがお化けになったんだから、お化けたちのことも、そんなに怖がることないんじゃないかな。」


こっちはこっちで、内容のいい加減さはともかく、子どもの不安を払拭するという意味があるし、ちょっとは考えて納得しようという気持ちも読み取れるけれども、いくら世の中の不条理を身に染みて味わっているからといって、いい大人が悪いことの元凶を誰かに引っかぶせるというような姿勢で、子どもをまともに育てられるだろうか。

世の中が不条理に満ち溢れているというのなら、自分だけはまっすぐに立って範を示しなさい。
世の中がうまくまわっていないと思うのなら、どうすればいいのかを、逃げずに考えなさい。
もういい大人なんだから。

2011/07/07

弁証法は日常生活の中でどう見出すか (2)

前回の記事では、わたしの体験を例にあげて、日常生活を突っ込んで見てゆく、ということをお題として挙げたのでした。


そこでは、わたしが知人の荷物を運んだ時に、「キャリングケースをキャリーバーを使わず、取っ手を掴んで運んだのはなぜか」という問いかけがありましたね。

わたしとしての答えは、こういうものです。
わたしはなにもキャリングケースをはじめて見たわけではないのだし、それがキャリーバーとコロを使って転がすように荷物を運べるものなのだを知っていたにもかかわらず、そうしなかった。
それは、それまでに身についた生活態度や振る舞い方からして、いつもやっているように行動を起こしたときに、自然と取っ手をつかんで運ぼうとしたのだろう、というものです。

そのときにぼんやりと念頭にあったのは、自分の後ろに荷物を引きずって歩くのは、なんだか気持ちが悪い、という違和感です。

これはとりあえず、生まれた環境や、そこでの習慣が身についたものだと考えてよさそうです。
習慣というのはそもそも、この世に生を受けてから両親を始めとした人間たちの影響を受けながら、育てられるとともに人間として完成してゆく途上で育まれてきたところの、生活に対するふるまい方なのです。
そういうわけで、こういった環境に規定されながら作り、作られされてゆく人間の姿を、弁証法の法則で言えば「相互浸透」である、と言ってもよかったわけです。

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いわゆる「ライフスタイル」というものも、このようにして生成されてくるものですから、そのことが理由で、わたしはキャリングケースのバーではなくて、取っ手を掴んで運ぶ、ということになりました。

ところで、わたしがその際に、「取っ手を引っ張ってカバンを斜めに引きずるような格好で歩く」ということを人ごみの中でやりたくなかった、と判断をしたのは、自分が身につけている鞄や、連れ歩いている人たち、つまり「自分が伴っているモノやヒト」についても、自分の身体が延長されたものとして意識しながら生活をしている、ということが原因です。

そのようにして生活するようになった理由を、仔細にわたってすべて挙げることはあまり意味がありませんが、それでもあえて大きな理由を思いつこうとすれば、これまでやってきた武道や、自転車でのツアーなどがわかりやすい例だと思います。(個人的な話で申し訳ありませんが、具体的にお話しするほうがわかりやすいので、もうすこしついてきてください)

たとえば武道家などが街中に出るときには、周囲に居る人間が突然切りつけてきても対処できるように常に気を払っているものですし、自転車ツアーで先頭車を担当する場合には、後続車も自分の一部であるかのように意識しながら運転せねばなりません。

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どちらも、「自分だけは」人とぶつからず、事故に遭わずに目的地までつけばよい、という人と比べて、そのようなやり方で生活を送っている人間が、とくにそういった修練をはじめた当初にはたとえようもないほどに気疲れする、ということがわかってもらえるでしょうか。
それは一言で言えば、刻一刻と変わりゆく人の流れ、車の流れ、天候や道路状況を、「自分の実体的な身体とは違ったところにまで、観念的に延長させて気を払っておかねばならない」からです。

このためには、「危ない!」と思って避ければよいだけにとどまらず、「あそこは危ないだろうな」という予測、という観点が欠かせません。
空間に占める自分の占める割合が大きくなることに規定されて、「先読み」ということを常に行ってゆかねばならなくなるのです。


これは、物心がつき始めた子どもを連れて遠足に行く新人の保育士さんの疲れ方とも似ています。
彼女や彼らが相手にしているのは、友だちを追いかけてトラックの前に駆けてゆくかもしれない、押し合ってホームから転げ落ちるかも知れないといったような、気を抜けばどこへ走ってゆくかも知れない子供たちです。
これは、それなりに育って言うことを聞いてくれるし、また自分の判断で危険を回避できる学生たちを連れた大学教授、などとはわけがちがう存在なのです。

ここでなぜ気づかれするのかといえば、説明するまでもないことながら、保育士さんたちの中に、「自分の連れている子どもに万が一のことがあれば、かわいい子供たちにも保護者にも申し訳が立たないし、そうなれば自分の身も危うい」という思いがあるからですね。

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さて今回のお題の焦点は、この「思い」というものに向けられているのですが、読者のみなさんは、一連の記事も含めたこれまでの流れを読み取って、わたしがここでどういうことをお伝えしたいのかがだんだんわかってきたでしょうか。

読者のみなさんにも考えてもらいたいので、答えは次回で出す予定ですが、たとえばさきほどの保育士さんの例で考えてみてください。
新人の保育士さんは、「子供たちを見ておかねば、子供たちの安全は私が守らねば」という「思い」がアタマの中にありますから、そのことに突き動かされるようにして意識しておかねばならないために疲れるのでしたね。
それでは、同じ保育を年配の保育士さんがしたときには、これほどの疲れがあるものでしょうか。

もし、その答えが「それほどではないはずだ」と推測するとするなら、それはなぜでしょうか?
もっといえば、新人保育士さんは、いつからベテラン保育士さんになったのでしょう。
ある日突然、レベルが上がったからでしょうか、そうではないですね。

その過程の中に、どのような意志があったのかと考えてみてください。


(3につづく)