2013/07/31

サリバン(著)『ヘレン・ケラーはどう教育されたか』はどう読むか(2):1887.03.06 (その1)

(1のつづき)


前回の記事では、これから取り組む書籍を挙げたうえで、それを単にうまくいった障害児教育のケーススタディとして見るのでなく、そこにサリバン女史の人間観と、認識論的な裏付けがあったればこその類まれなる成功例となったのだと読んでほしい、とお伝えしておいたのでした。(※前回の記事も含めて、本書並びに類書にあわせるかたちで「障害児」の表記を整えました。差別的な意味合いは当然ありません)



これからこの書籍の内容に入ってゆきますが、この本では、アン・サリバンがヘレン・ケラーの家庭教師となり、彼女の知的生活の最初の2年をいかに過ごしたかが述べられています。

ここで「知的生活」とことわらねばならないのは、当時6歳の女の子であったヘレンは、1歳8ヶ月のときに思い病気にかかり、聴力と視力を失ったことがきっかけとなり、何の教育も受けずにおかれていたからです。

そのようなヘレンの現状を見た時、サリバン女史は彼女がどのような状態であると見たのか、そしてそこへどのように働きかけたのか、をこれから追ってゆきましょう。

さてその前に確認しておいてほしいのは、この二人を描いた映画のタイトルや、ヘレン本人の手になる『わたしの生涯』(角川文庫)の裏表紙には、「奇跡(奇蹟)の人」ということばが出てくるということです。

これは一般には、盲・聾・唖という三重苦を乗り越えたヘレンのことを指している、とされることが多いようですが、本来の意味合いとしてはいったいどちらのことであったのか、と考えてみてもらいたいのです。

この問いは、答えるだけであるなら簡単で、映画の原題が“the Miracle Worker”であることを考え合わせれば、もはや答えは出ているようなものなのですが、「ではどの辺りが奇跡的であるのか?」と聞き返されたときには、生半可な読み方ではとても答えることはできないはずです。

みなさんに問いかけられているのは、まさにその部分、つまりサリバン女史の教育の、いったいどこが奇跡的な手腕であると言えるのか、という問題であるのです。

はじめに、教師・サリバンの出生について触れておき、内容に立ち入ってゆくことにしましょう。

1866(0)アイルランド移民の貧しい家にて生まれる
1876(10)救貧院に入れられる。目の病気を患いほぼ全盲に
1880.10(14)パーキンス盲学校入学。視力は幾分回復
1886 学校を卒業、ヘレンの家庭教師へ推薦される
~1887.01 半年間、ハウ博士の報告書から学ぶ
1887.03 ヘレンの教育はじまる

◆◆◆

以下は、学生さんのレポートにわたしがコメントするといういつものかたちで書き進めてゆきます。

ただ率直に言ってこの本は、認識論がどういうものかがわかっていない人、人間の認識のあり方を論理の光を当てながら見てくることがなかった人にとっては、ほとんど手に負えないものです。サリバン女史の手紙には、難しいことばは出てきませんが、その内容はそれだけ、とても高度だということです。言い方を変えれば、この本をアッサリ、どこにもつまづかずに読み終わってしまった人は、自分のわからなさすらわかることができていない状態である、ということです。

そのため一見すると、レポートをさっさと脇に片付けて、わたしだけがしゃべっているようにも見えることがあるでしょうが、「せっかく書いたのに無視しなくとも…」という気持ちをぐっとこらえて、より深い読み方ができるように、より深く人間の認識のあり方をたぐり寄せることができ、またそこにより上手に働きかけてゆける人物になっていってもらいたいと思います。


◆1887.03.06(ノブくんによるレポート:文学考察
(以下、本書の表記に倣って日ごとに分けて考察してゆく。以前公開したマインドマップも参照のこと。適宜書き足しながら読み進めることが望ましい。)
 この作品ではタイトルにもある通り、アン・サリバンによるヘレン・ケラーへの実践記録を中心にして、ヘレンがどのように教育されていったのかが描かれています。その中でサリバンは、彼女が人間的な感情を一切持ちあわせておらず、ただ快不快だけがある野生の動物のようであると規定しました。そしてこの野生児を制服をすることで教育の土台をつくり、言葉を獲得させることで知性をあたえていったのです。 
 そこで、ここでは具体的にサリバンがどのようにして上記のような方針を固め、具体的な実践に至ったのかを彼女の記録のひとつひとつを見ながら確認していきたいと思います。 
 サリバンとヘレンが最初に出会った日、サリバンは彼女がどのような人間であるのかをじっくり「観察」していました。ここで注意しなければならないのは、「観察」というとなんだか受動的な意味合いが強いようなイメージがありますが、彼女のそれはあくまで教育という実践を前提とした積極的なものなのです。というのも、彼女はヘレンに指文字を感じさせたり、ビーズを糸に通させたりして、彼女は何が出来るのか、何について興味があるのかを探し当てようとしたのでした。その結果、ヘレン・ケラーという女の子は知的ではあるが、人間的な感情の機微については他の子ども達に比べて乏しい少女であるという結論に至ったのです。

◆わたしのコメント

1887年の3月3日のこと、ケラー宅へ到着したサリバンは、熱い期待のなかヘレンと出会います。

さきほどの出生でも見たとおり、サリバン女史はヘレンの家庭教師に推薦されてから半年のあいだ、ハウ博士がローラ・ブリッジマンの教育にあたった記録を読んできていました。

このときのサリバン女史には、ヘレンが満7歳になる3ヶ月前の女の子で、1歳8ヵ月のときにかかった重い病気のために聴力と視力を失い、これまで何の教育も受けずにおかれていた、という情報が伝えられていました。

しかしハウ博士の記録からの連想で「なんとなく青白くて神経質な子供を想像していた」彼女の予想は裏切られ、出てきたのは「大きくて丈夫そうで血色もよく、子馬のようにたえず動いて、じっとしていることは」ない、そんな少女でありました。

彼女がヘレンの第一印象を具体的に述べているところを見てみましょう。
彼女の顔は大きくて、肩の上にまっすぐにのっています。顔は描写するのが困難です。顔つきは知的ですが、でも、動き、あるいは魂みたいなものが欠けています。口は大きくて、美しい形をしています。誰でも一目で、彼女が盲目であることに気づくでしょう。一方の目は他方より大きく、めだってとび出ています。彼女はめったに笑いません。私がこちらに来てから、彼女の笑い顔を見たのはほんの一度か二度です。また、反応がにぶく、母親以外の人に愛撫されるのが我慢ならないようです。ひどく短気で、わがままで、兄のジェイムズの外は誰も彼女をおさえようとしませんでした。
さて、ここからどのようなことを読み取ればよいでしょうか。

まず体格からすれば、ヘレンは健康そのものであることは間違いないようです。「聴力と視力を奪われてしまったあの病気以来、一日も病気をしたことがない、というケラー夫人のことばもそれを裏付けています。

しかし視線を上げると、彼女の顔は、顔つきは知的で口の形は美しい、つまり器量としては悪くないけれども、少なくない違和感がある、とサリバンはとらえたのです。
(目の様子については、幼少期の病とともに、目が見えないことから、たとえば鏡を見て自分の左右の目のバランスを意識して整えるといったことのための、認識的な前提が得られないことから来ているでしょうから、これはサリバン女史にとっては大きな問題としては映らなかったはずです)

ではその違和感とは何だったのかといえば、その表情に「動き、あるいは魂みたいなものが欠けてい」ることと、「めったに笑」わないこと、です。

サリバンにとっては、当人のすがたかたち、器量などといった肉体的なところに問題があるのではなくて、サリバン流に言うところの「魂」や「笑顔」の不足というかたちで現象するおおもとの、ヘレンの精神状態のほうにこそ、これからの教育において焦点を当てるべき問題があるとしたのです。

ですから、論者が「ヘレン・ケラーという女の子は知的ではあるが、人間的な感情の機微については他の子ども達に比べて乏しい少女である」としたのは、「知的」という一語が指している内容が、肉体にあるのか精神にあるのかを明確に判別せずに読み進めてしまったことを示していることになります。さらに言えば、次回以降のレポートで展開されている「サリバンはヘレンの生まれ持った知性を延ばしてゆこうとした」、という見方も誤りです。サリバンが現地に赴いて見たのは、ヘレンの、肉体的には健康であるが、精神的・情緒的には同じ年齢の子どもと比べると明らかな未発達が見られる、という姿でした。

それは、顔つきだけでなく全体として、「反応がにぶく、母親以外の人に愛撫されるのが我慢ならない」ことに加えて、「ひどく短気で、わがまま」である、というところにも顕れています。


では、こういったヘレンの、肉体的には不足ないが精神的には未発達のままであるようすを見て取ったとき、サリバン女史が脳裏に描いた、彼女への教育方針というものはどんなものだったのでしょうか。

彼女の言うところを聞いてみましょう。
彼女の気質をそこなわずに、どうやって彼女を訓練し、しつけるかがこれから解決すべき最大の課題です。私はまずゆっくりやりはじめて、彼女の愛情をかちとろうと考えています。力だけで彼女を征服しようとはしないつもりです。でも、最初から正しい意味での従順さは要求するでしょう。
論者にとっては、ここでサリバンが言う「気質」というものが、あたかも「知性」と呼ぶべきものであるかのように受け取られていますが、これは子ども特有の活発さ、内的な衝動などといった意味なのであって、奥底に秘めた知性などというものではありません。

このことは、サリバンがのちに、言語を知的に使うためには話す事柄を得ることが必要であり、またそのためにはとりもなおさず経験することこそが必要なのだと述べている(本書末尾の「サリバン女史の論文からの引用」内)ことからもわかるとおりです。ここを勘違いしていると、本書を読み進めるにあたっての大きな障害となりますから、正しく押さえておいてもらいたいと思います。


説教は続きますがあとに回すとして、ひとまず彼女が続けるところを見ておきましょう。
ヘレンの疲れを知らない活動は誰をも感心させます。ここにいたかと思うとあそこというふうにどこにでも動きまわり、一瞬たりともじっとしていません。手であらゆる物にさわりますが、長い間彼女の興味をひきつけておくものは何もありません。かわいい子どもです。彼女の休息を知らない魂は暗黒のなかを手探りしています。教えられたことがなく、満足することのない彼女の手は、物をどう扱っていいかわからないために、さわる物は何んでもこわしてしまいます。
さきほどサリバンは、出会ったその日のうちにヘレンが「正しくしつけられていない」と見ぬいたわけですが、これはケラー宅で過ごすうちに後になって、ヘレンがその障害のせいで大目に見られ、甘やかされて育てられているという裏付けによって確信に変わってゆきます。

これを見たみなさんは、では、これほどまでに彼女が初対面の少女の本質を見ぬきえたのはどうしてなのか?と考えておかねばなりません。そして本書を検討してみたとき、サリバンが、正しい人間観を持っており、また、個々人としての人間の発達段階における少女期というものの位置づけ(=特殊性)をわかっていたことが非常に大きいのだ、とわかってもらいたいと思います。だからこそ、その観点に照らしてヘレンの状態を見たとき、一般的な6歳の女の子としては未発達の部分が見え、さらに、このままの状態を積み重ねてしまってはひとりの人間としての可能性が閉ざされたままとなってしまうというところにまで意識を向けることができたのです。

原則をしっかりと持っているからこそ現象が正しく理解できるのであって、現象なしの原則は空文であり、原則なしの現象は雑多な事実のモザイクでしかないことを示すのは<弁証法>ですが、その論理を土台とし、現実を生きる人間を正しく見る方法を教えるのは<認識論>です。

さてその、認識論の観点から見れば、この引用部はどのように読めるでしょうか。

ここにいたかと思うとあそこというふうにどこにでも動きまわり、一瞬たりともじっとしてい」ないのはなぜでしょうか。「さわる物は何んでもこわしてしま」うのはなぜでしょうか。何がヘレンをそうさせて、どうすれば正しい道へと導いてゆくことができるのでしょうか。この本を全体として読んで、この日サリバンがヘレンについて気づいたことと、そこにどう働きかけて訓練してゆくかを計画したことを、大きな流れとして位置づけることができたのであれば、この本から学べたことになるでしょう。




論者のレポートだけでなく、これまでに見せてもらったどのレポートにも言えることですが、あまりにも、この本を簡単に済ませてしまおうという姿勢が目についてしまいます。わたしはこの本を読むことに決めたとき、思っているよりもずっと難しいからじっくりと読んでくださいとお伝えしていましたが、もし「あれ、意外と簡単だな。もう読めてしまったぞ?」と思ってしまっているのだとしたら、それは能力が高いからではなく、自分自身がわかっていないということがわかっていない、と言うべきなのです。

わたしはこの本を今回の課題のために読みなおしたとき、マインドマップを作りなおして全体像を掴み、そこに本書に書かれている「サリバンの得た教訓」と、「彼女が見たヘレンのその日の状態」のふたつを適宜書きだしてみたあと、全体の流れを自分がその場にいたら同じことができたであろうか?と問いかけてみて追ってみましたが、「エッ、ここはどうしてこしたの?」という場面の連続であり、あまりにもわからないところが多すぎて、自分の認識論的な実力の無さに少々呆れたものです…と言うと、あまりに卑下しすぎに聞こえるでしょうか。

しかしたとえば、その日、その日のヘレンの現状が書かれている箇所を読んだあと、サリバンが導き出した方針や指導内容の箇所を「隠して見えなくしたとしても」、「同じことを根拠をもって脳裏に描き出せたであろうか?」と問うてみて、それができる!という状態になってはじめて、本書を本当に理解した、と言うことができるのです。

認識論の素材は、われわれが生きているこの社会のなかにいくらでも転がっていますが、そこで学び得るか否かということは、わたしたち自身の志こそが決めていることなのです。それを格好の素材としてみなすことができるかどうかは、それを見る者が自分の人生をどのようなものにしたいか、という原則に照らされて浮かび上がってきているのです。だから、人の気持ちがわからない人は何歳になってもわからないのであり、わかろうとする人はこの若さでお見事、と言える経験を日々積み上げ、それにふさわしい人格を創りあげていけるのです。アン・サリバンその人は、大学を出たばかりの年齢で、ここまでのことをやり遂げたのです!この大事さ、恐ろしさが本当に、わが身に直接関係のあることとして、捉えてもらえているでしょうか…。内容に立ち入って議論する前に、そこをしっかりと確認してもらいたいと思います。




ところで、苦言だけでは先に進めにくいでしょうから、基本的なことを押さえておきましょう。まずは、一般的に、ひとつの書籍を本当に理解するためにはどうすればよいのか?という問題から振り返りましょう。

一般的に言って、対象となる事物・事象のあり方を正しく押さえるためには、まずは全体を見渡しその一般性を押さえた上で、それに照らすように各部分の特殊性を明らかにしておかねばなりませんでしたね。たとえば生物の身体を調べるときには、それが全体として生きている、つまり代謝しているということを見て取った上で、呼吸器系とは何なのか、消化器系とは何なのか…と、各部分・各器官がそれぞれ個々別々・特殊的に働きながら、それにもかかわらず全体としては調和がとれている、というかたちで、矛盾が統一されているものと見なければなりません。

ですからこの本も、全体を貫くサリバンその人の指導方針と、日々それぞれの指導内容が、「サリバンの中にはこのような大きな見立て・大きな絵地図があって、そこにまでヘレンを導いてゆくためには、この日こういうことをしなければいけなかったのだな」というふうに、読者の頭脳のなかに統一されたものとして体系立てられていないのなら、彼女がいかなる奇跡を起こしたのかは到底見て取れないことになるのです。

それなのにあたかも、本書をはじめのページからめくっていって、片っ端から要約でもすれば全体を理解したことになるかのような姿勢は、あまりに寂しいばかりの思い違いであると言わねばなりません。教育、とくに変化の激しい子どものそれは、毎日の積み重ねがその個性という質として現象してゆくのですから、日々の記録をばらばらに理解するのでなく、一日一日が刻一刻と積み重なることで重層的な構造を作り上げながら現象してゆくという大きな流れをしっかりと掴んでおかねばなりません。これは、その日の出来事がその日に起こっていなければならない、という必然性を伴うものであって、あの日とこの日が入れ替わっても大して違いがない、といった生易しいものでは決してありません。

みなさんに足りないのは、その、<必然性>という観点です。全体としてこのような到達点があったのであるからには、そこにまで至る過程において、このような積み重ねがあったからなのだな、ないといけなかったのだな、とわかるということが、必然性を把握する、ということです。とても難しいとは思いますが、まずはそこを意識しながら書いてみてほしいと思います。それが書けるというのは、ヘレン・ケラー教育の2年間の過程のうち、この日の特殊性はこのようなものであった、という、全体の中でのその日の位置づけ、その日が積み上がることでの全体、というものが言えていることでなければなりません。

こう書き置いただけでも、「えっと…それで…これからなにをすればいいのかな…??」と、はてなマークが頭のなかを飛び回っているかもしれませんので、念押しのために、サリバン女史がのちに、ヘレンへの訓練を振り返って書き残してくれている箇所を引用しておきましょう。



さまざまな現象を観察する範囲が広くなり、語彙が豊富さと微妙さを増してくると、彼女は自分自身の考えを表現することができ、また他人の思想をも理解できるようになり、やがて人間を創造した力について考えるようになり、何か人間のではない力が地球や太陽や彼女のよく知っている数多くの自然物を創り出したとうことを感じるようになった。
(「サリバン女史の報告書からの抜粋」より)

「最初、私の生徒の心はまったく空虚であった。彼女は理解できない世界に住んでいた。…ヘレンがすべての物は名前をもっているということに、また、指文字を使ってこれらの名前を人から人へ伝えることができるということに気づくや否や、私は彼女が喜びながら名前を綴ることを覚えたその対象について、さらに深い関心を目覚めさせるようにした。」
(巻末「サリバン女史の論文からの引用」より)


さて、次回は本書の内容に立ち入って議論ができるでしょうか。

まずは1887年の3月6日その日が、ヘレンの訓練全体のうちでどのような意味を持っていたのか、を鮮やかにとらえたようなレポートが出てくることを願ってやみません。「こういうことかな?」というものができたら、恐れず飛び込んで見せてもらいたいと思います。

わたしが「長い道のりになる」と言ったのは、なにもサリバン女史の手紙の数が多い、といった表面的な意味だけではなかったのでした。じわりじわりと、理解すべきことの重みが、みなさんにも浸透してきたでしょうか。


(3につづく)

2013/07/29

サリバン(著)『ヘレン・ケラーはどう教育されたか』はどう読むか (1)


長い記事になりそうですが、


よろしくお付き合いください。

今回からはじまる一連の記事の中での参考文献は、以下の書籍です。

サリバン(著)/遠山啓序・槇恭子(訳)『ヘレン・ケラーはどう教育されたか サリバン先生の記録』(明治図書)

◆◆◆

そもそもこの本を参考書に選んだのは、学生のみなさん、とくに将来、人を教えたり導いたりすることを目指している人たちに、目の前の被指導者たちのあり方のどこに問題があり、それはどのようにすれば改善させてゆけるのかを考えるにあたって大きな指針となるものであるはずだ、と考えたからです。

ジャンルで言えば、認識論や、指導論のおはなしが中心となってゆくことでしょう。

これからの記事では、この書籍をいかに読むべきか、ということをみなさんとともに議論しながら書いてゆくことになります。

そのときに注意していただきたいのは、これを単に障害児教育の類い稀なるケーススタディであるということとして読むのではなく、「目の前の人物のあり方に問題がある場合に、いかにして働きかけるのか」という、教育・指導・コミュニケーションにおける<論理>を掴み取るためにこそ読んでもらいたい、ということなのです。

この、いわば教育実践における論理を引き出す際に必要なのは、やはり弁証法的に読んでゆく姿勢である、ということになります。しかもそれは、現実から考え始めるという唯物論の立場によってなされるべきだ、ということになります。

この前の一連の記事で、弁証法と形而上学、唯物論と観念論の違いについて例をあげながら述べましたが、この本においても、唯物論的弁証法の立場において読んでゆくことで、サリバン女史がヘレン・ケラーをどのように見て、どのように働きかけたのか、を、自分自身がその場で指導者であったなら同じことができたであろうか、とわが身に捉え返して考えていってほしいのです。



ここで念のため、すこし確認をしておきましょうか。わたしが先ほど、
「目の前の人物のあり方に問題がある場合に、いかにして働きかけるのか」
と述べた時に、アレ?と感じたり考えたりした人はいないでしょうか。

たとえばこんなふうに、です。
「『問題』と言っても、見る者によってどこをそういうものとして見るかはずいぶんと違うではないか」とか、
「『働きかける』といっても、結局のところ子どもの主体性に任せるのが最良ではないか」といった意見がそれにあたります。

こういった考え方は、一見すると常識的かつ穏当・良識的なもののように映るのですが、いざこれらを実践のための指針とする段になると、その過程・結果において、どうしても問題が起こってこざるを得ないという現実が待っているのです。

これらがなぜダメなのかは、サリバン女史の認識をわが身に捉え返しながら本書を読むことを通して、次第しだいに明らかになってゆくことではあります。

ここでは結論から簡単に述べれば、わたしたちが育てる対象は、決してサルではなく人間でなければならないのであり、そうであるからには、「人間とはどうあるべきか」という原則を絶対に持たねばならないのであり、またその原則に照らしてこそ対象が鮮やかに見えてくるのであり、さらにそれに従って相手を導いてゆかねばならないのだ、ということなのです。

それでも、そんなものは大人の勝手な言い草で、子供はとにかく自由に振舞わせるべきであり、食事だけ与えておけば勝手に育つものであり、それが最善である、といった反論が出てくる場合には、そもそもの目指しているレベルが違うのだ、と言わねばなりません。

自分が指導した人間が将来的に、誇るべき人格を持ち得ないような人物に育ってしまったり、果ては救いようのない理由で犯罪を犯したり、歪んだ人間観の持ち主となった場合に、「あれは生まれつきおかしかったのだ」と言い訳をすればよいと考えている、人を育てるということを「そういうレベルで捉えてしまっている」のであれば、やはりここで強調していることは、同じレベルでは把握してもらえないことになるでしょう。

もしそれでも、どうしてもこの穏当・良識的な考え方で指導論を展開したいという場合には、もし仮に、その考え方でヘレン・ケラーの教育にあたったとしたら、あなたのもたらした結果が、サリバン女史の達成とはいかにちがったかたちとして現象したのか、と考えてみられることは決して無駄ではないと思うのです。

このことは、ここまでの記事、最低でも今年に入ってからの記事を、先入観なしに読んできてくださっている方には基本的な方針としては理解してもらえることと思います。

ともあれ、賽は投げられました。
他の記事をはさみつつ、長い道のりになりますが、倦むことなくともに歩んでくださるようお願いいたします。


(2につづく)

2013/07/22

【メモ】サリバン(著)『ヘレン・ケラーはどう教育されたか』のマインドマップ(※7/25更新)

※7/25に、本書の落丁を追加しました。

表題の書籍のマインドマップです。

より解像度の高いPDFファイルはこちら(Google Driveへのリンク)

プリントアウトしたあと、コピー機でA4→A3へ拡大(141%)しておくと便利です。

◆◆◆


◆改版(オフセット印刷版)の落丁

・p29 一八九七年 四月三日→一八八七年 四月三日

・p51 teacher wil cry→teacher will cry

・p92 「ヘレンに関する報告の中で〜」の段落中
 なぜならヘレンは興奮して「何を見たの?」と尋ねた。
 →なぜならヘレンは興奮して「何を見たの?」と尋ねたからだ。

・P111 「彼女は、手を使う作業よりも〜」の段落中
 何にでも加わりたがった、習字式タイプライターの
 →何にでも加わりたがった。習字式タイプライターの

・P145 「ヘレン・ケラーの著作を読むと、〜」の段落中
 感情が裸のまま飛び出る小さいな野生児が
 →感情が裸のまま飛び出る小さな野生児が

2013/07/18

『道は開ける』の一般性はどのように引き出されたか (4):議論の内容

(3のつづき)


前回の記事を公開してから、色々と意見をいただいたのですが、その印象としては、わかる人にはちゃんと伝わるものだな、というものでした。
(逆から言えば、「わからない人は、悪気はないながら、わかっていないということがわからないのだな…」ということでもあるのですが)

いちばん印象に残った感想を簡潔に書くと、「あなたは学者として(の目的意識に照らして、引用者補足)こういうものごとの見方をしようと決意し、常々そうしてきており、またそうできてきているから、学生さんが自分では意図していない踏み外しをしているときには一瞬でそれに気づくことができ、また引っ張りあげてゆくことができるのだとわかりました」というものです。

指導について、結論として出てくる叱咤激励がどういうものになるかということではなく、その過程について着目しようとしてくださるこのご意見は、とても嬉しく受け止めたものです。わかってもらえないほうのご意見にこそお返事をしたいと考えていますので、わかってもらえている方へのお返事はこのとおり遅くなりがちですが、ご容赦ください。

さてご指摘のとおり、ある指導方法を決めるときには、以心伝心があり得ない以上、ひとりの学生の表現からその認識をたぐり寄せて考えてみて、「その考え方は間違っていますよ、こうしなければ踏み外しますよ」ということを、その学生の感性・理性のあり方に照らしてひとつの指導的な表現として伝えてゆくことになります。

一般の書店にあるリーダーシップの本には、概念は難しくともその内容として、結局は「飴と鞭の使い分けが大事だ」などとあったりしますが、事実を言えば、叱った後はなだめる手間を惜しまなければ学生に最高の認識のあり方を植え付けることができるのかといえば、絶対にそんなことはありません。

鞭のあとに鞭が続くこともあれば、同様の解答を出した学生それぞれに対する反応が飴であったり鞭であることだってあります。しかしこれらは、相手の目指すものがどのようなものであるか、その人格がどのようなものであるか、そこへどう働きかけるのがその目的をもっともよく叶えるものか、といった指導上の必要性によって決まってきます。あれが来たから次はこれ、というような内容を無視した形式主義を採用し、また期待させてしまっては、正しい道がどれであるかということなど伝わりようもないのです。



ものごころつく時には必要以上に恐怖を感じさせてはいけない、などということであればいざしらず、一人の人間として新しい一歩を人類の歴史に付け加えたいなどというあまりに大それた志を持った相手に対しては、当然にそれにふさわしい導き方というものがあってしかるべきですし、その志に応えることを考えればよりいっそうそうあらねばならないというべきです。

傍から見ている人たちからは、叱ってばかりいると恨まれるぞとか、人格を否定するつもりか、お前はそんなに偉いのか、などなどといった温情主義(?)的な意見が出されるものですし、それはそれで感情的にはわからないわけではないのですが、そこだけを切り取って非難されたとしても、ひとつの意見として聞き入れようもありません。

どうしても断っておきたいのは、自ら立てたひとつの原則によって目の前の対象のあり方(学生の人格や実力)を、その生成の段階から過程的に照らして、つまりその時の必然性をこそ考える場合に、指導者としての立場からして絶対に言わねばならないこと、やらねばならないことがあるときには、わたしは何を言われてもそれを真正面に据えて逃げるつもりはありません、ということです。

漫画『ブラック・ジャック』のある物語のなかに、主人公であるモグリの医師、ブラック・ジャックその人が危険度の高い手術をすることを決めたとき、周囲から「お前は人間の身体を使って実験でもするつもりか?」となじられるシーンがあります。そのとき彼が応えたことばは、このようなものでした。
「じゃああなたがたはカケていないのかっ
あなたがたはいつも患者がかならずなおると保障して治療をしているのですかっ
そんな保障のできるものは神しかいないっ
…われわれは神じゃない…人間なんだ!!
…人間が人間のからだをなおすのは…カケるしかないでしょう…?」
この言葉は、単なる(実態よりも低く見られがちな)漫画というメディアの中の、単に聞こえの良いだけのことばではなく、筆者である手塚治虫が漫画家としての進路に迷ったとき、この作品に「カケた」想いであるとしてよいと考えての引用です。

指導をするということも、これと同じなのです。

最終的にうまくいくかいかないかということは、究極的には手探りの中で掴んでゆくしかない。それでも、博打に賭けるということと決定的に違うことは、一人の指導者がつぎ込むのは自らの指導者としての人生そのものであり、また、「こうすればこうなってもらえるはずだということは、今現在の自分の人格と判断力にかけて言える、厳しい道になるだろうし一時は恨まれることになるだろうが、この学生にあっても自らの志に照らして見事に耐え切って、いつの日かその指導内容に根拠があったことをわかってもらえるはずだ」、という現時点でのこれ以上無い見通し(=論理)にカケる、ということです。

対象の過程をふまえ、その必然性を把握した上で考え行動するということは、考えるのが面倒くさいからこのくらいでいいや、と決めた方向性に博打よろしく「賭ける」ということや、良くないことと知りながら開き直って何かをするということとは違います。前者で得た意思決定の強度は覚悟と呼んでもよいでしょうが、後者は単なる犯罪者の論理と呼ぶべきであって、この場合、あれに転ぼうがこれに転ぼうが、うまくいこうがいくまいが、運任せになるのは当然です。

同じ「カケる」という場合にも、人生がけと博打的に賭けるのとを平面的に受け取ったり見えてしまうという印象をいったん棚上げして、どういう根拠(=認識のあり方)に基いてこの人間はこうしているのかな?と考えてみてほしいと思います。この姿勢の必要性をここで書かねばならなかったことは、いただいた意見を見ていると、「ワタシも前からそう思っていた!つまりこういうことですね?」と言う方に限って、結論のところにのみ着目し、自分のわかりかたの段階にまで引きずり下ろしたうえで、論理的に理解するのでなしに感情的に同調していることが、あまりにも残念に映るからです(だからといって、意見を出すことを躊躇する必要はないのですが…)。

ともあれその時点で自分が得た印象をひとまず棚上げして、そこに潜んでいる根拠や必然性を過程的に追ってみるということは、客観視という認識のあり方を学ぶための第一歩です。思い当たることがある方は、ぜひに前回までの記事を読みなおしていただきたいと思います。また同じように、自分で身近な問題を作ってみて、それぞれの世界観・考え方であればどのような答え方になるのか?、を考えてみてください。その4つの区分のうち、あなたのいつもしている考え方はどこに属しているのかというふうに考えてみて、まずは自分の立ち位置をしっかりと確認してほしいのです。

そうしなければ、毎日毎日、あらゆる表現をする際に踏み外しをしまくることになり、数年で帳尻が合わなくなった挙句、妙な言い訳を考えつかねばならなくなりますから…。

さて、ではいよいよ本題です。
ここでの議論では二人の学生さんが主に登場しますが、わたしが彼らのことを、どのように導きたいから、どのような踏み外しをしてもらいたくないから、そのような指導になっているのか、というところを考えていってください。<>で強調した括弧書きは、文字として書き起こす際に加筆したものですが、わたしのところに前から出入りしている学生さんは、こういう断り方をしなくても、わたしの言い方の中に、こういう概念と論理構造が含まれていることをわかっていますし、そのための訓練を熱心に積んできています。そういうわけで、実際には日常言語でのやりとりとなっていたところを、独学する読者のみなさんのために補助してあるのだ、この補助がなくても読み進められる実力が求められているのだ、ということをおさえておいてください。

◆◆◆

◆1◆学生たちの一般論を検討する

わたし:今回の課題は、D.カーネギー『道は開ける』の一般論を出す、ということだったね。二人に準備してもらっていたと思うので、まずそれを聞きましょうか。いちおうおさらいをしておくと、科学的看護論における看護一般論は、「生命力の消耗を最小にするよう生活過程をととのえる」ということであり、それぞれが対象論・目的論・方法論であるのだったね。

ノブくん:はい。僕がその看護一般論を参考にしながら出したのは、
「問題を、悩まず解決する為に、心身を整える」
というものです。

Oくん:私はこうなりました。
「人生を前向きに生きるために自分の世界との向き合い方を考える」
、です。

わたし:なるほど。この一般論が出てきたのは、本書をどういうふうに読み取ったからなのか、簡単に説明してもらえるかな?

ノブくん:わかりました。僕がこう考えた理由については、私達が最終的に取り組まなければならないのは、自身の頭の中にある悩みなのではなく、現実に存在している問題そのものであり、それらを悩まずに取り組むというところに本書の目的が存在しているのだ、そうしなければ「道は開け」てこないのだ、という考えに基づくものでした。

Oくん:私の場合、目次と序論を基に、いったん仮説として、「悩みを克服するために人生の問題をどの様に考えるかを示す(こと)」と置いてみました。
そうした上で、その仮説的な一般論にしたがって一度全体を読んでみた結果、対象論が「悩み」では一般論たりえず、目的論が「克服する」では悩み以外を対象とした時に意味が不明になると判断したので、このような表現として落ち着いたのです。

ここでは、まず対象論をより大きなくくりである「人生」に変更し、目的論を他人からの批判や自身の精神状態についても言及できる上で「人生」に合致するであろう「前向きに生きる」に変更しました。次に方法論を「自身と自身の周囲を含む、『自身の認識する世界』との向き合い方、考え方について記述しているであろう」と考え、「自分の世界との向き合い方を考える」に変更したものです。

◆2◆「悩み」とは何かから対象論へ

わたし:なるほど、ではふたりとも、表現がどのようにまとまるかによって扱い方が変わるけれども、本書の内容としては「悩み」というものを扱っており、現実的な生活の上での問題を解決し「道を開く」ためには何らかの方法でそれを取り除くべきである、というふうに見たわけだね。それは正しい指摘でしょうから、まずはそこから考えてゆきましょうか。ところで、ここでいう「悩み」とはどういうものか、考えてみましたか。

ノブくん:…頭の中にあるもの…でしょうか…。

わたし:一般的に言えばそういうことになるでしょう。しかしここで<唯物論>の立場に立って探究を続ける時に大事なのは、あくまでも目の前の<事実>から考え始めること、つまりあくまでも本書の内容を正面に据えて、そこに忠実に一般論を引き出すということなのであって、本書を外れたところにある一般的な意味、というものではなかったはず。本書中に、カーネギーが考える「悩み」がどのようなものであるか、は書かれていなかっただろうか。

ふたり:(本書にあたりながら)うーん…。

わたし:本書の目次を見たとき、「悩み」ということばが何回も出てくることから、いちおうはそのことについて注意しておかねばならないことは、ふたりともわかったとおりだね。一般的に言って、ひとつの概念を本質的に考えようとするときには、必ずそれがどのように出てくるのか、という<生成>の段階にこそ着目しなければならない、ということだね。

たとえばひとつの病気であれば、どのような生活によってその(悪い)環境が用意され、実体にどのように働きかけることによって域値を越えて病気という質的な状態として出てくるのか、を追わねばならない。そういう観点から言えば、本書は、「悩み」がどのように生成されるものとしてとらえているのだろうか。

ふたり:…。

わたし:そういう観点はまだ持てていなかったようなのでやや残念ではあるが、答えを言ってしまうと、81頁にある引用を読んでもらいたい。筆者が知り合いのことばを引用して、こう書いているね。『私が思うに、問題をある限度以上に考え続けると、混乱や不安が生じやすい。それ以上考えたりすれば、かえって有害となる時機がある。』

いいだろうか、繰り返しになるがふたりとも、<弁証法>的に考えてゆくときには、必ずこの<生成>の段階に着目しなければいけないよ。どんな本を読むときにも、どんな表現を受け止めるときにも、いちばんのそもそも、いちばんのはじめの段階、どういった環境のなかからそれが生まれでたのか、という0から1について語っている箇所があるなら、必ずそこに注目してよく検討すること。それを鮮やかに論じられる人ならば、まずはホンモノと考えてよいと思う。

ふたり:はい、わかりました。心に留めておきます。

ノブくん:ひとつここでわかったのは、対立物への転化、ということであると思います。ここで書かれている生成過程というのは、問題というものがあるときに、それがある限度以上に考えられてゆくことになると、かえってそれが有害となる、ということですね。

Oくん:問題というのは客観的にあるけれども、それを受け止める人間が限度を越して考え続けると悩みになってゆくということか…。

ノブくん:質的な転化…。なんだかわかってきそうなのですが…。

Oくん:問題は客観にあり、悩みは主観にあるということは…。

わたし:みんな、ちょっといいかな。さきほどからずいぶんとうなっているけれども、<唯物論的弁証法>の立場と考え方をしっかりと押さえながら考えているだろうか。わたしたちの立場からすれば、ひとつの概念をアタマの中のイメージを整理したりくっつけたりするのでなしに、あくまでも対象を正面に据えて考えてゆかねばならないのだったね。客観と主観ということばがまだ手に負えないのであれば、もっと明確な像を描けるように、具体的に考えてゆけばよい。

たとえば、部屋の中に蜂が入ってきた時に、母親はあわてふためいて殺虫スプレーを探しまわっている一方、父親は蜂を刺激しないようそっと窓際に行って窓を開け、そばにあった新聞紙でやさしく外へと導いていった、というような場合があるね。こういったときに、「蜂が侵入してきた」というのは確かにひとつの問題であるけれども、それをどう感じるか、どう考えるかは人によって大きく違ってくる。受け止める人間の許容量を越えていればヒステリーになって、考えるどころではなくなるし、それが十分であれば、力関係をしっかり把握して、お互いが住む環境の線引きがうまくできる。

ノブくん:そうすると…客観的な問題はたしかにある種の問題ではあるけれども、それを悩みとして抱え込んでしまう人もいるし、悩みにせずに笑い飛ばしておしまいにできる人もいると…。そうするとこの本は、問題を認識することが度を過ぎるあまりに悩みに転化しがちな人に、処方箋を与えているのだと考えるとしっくりきますね。

Oくん:なるほど、明確に整理できてきているように思います。

ノブくん:この本は、現実にある問題とどう向き合うのかという問題意識を養っていく目的で書かれたものではなく、自身の頭の中で膨らんでいる混乱や不安を取り除く事で、悩みを取り除いたり予防したりするために書かれているものなのだということですね。ですから、本書で扱っている対象とは、「問題」ではなく、「悩み」なのだということになります。当然に対象論には、「悩み」が含まれてくることになりますね。

Oくん:そうすると、我々の対象論は考えなおさないといけませんね…。

ノブくん:目的論や方法論も変えないと…。少し時間をください。
「悩みを××にするよう○○をととのえる」
、というところからもう一度考えます。

◆3◆悩みによって失うものは何か、から対象論へ

Oくん:…目次を見ると、ハウトゥ本らしく、気持ちを整理する方法のことはたくさん書かれているようなので、そこを一般化できれば方法論になると思うのですが、「なんのためにそうするのか?」という目的論がないような…。

わたし:「悩みを解消すれば何が得られるのか?」という向きでは、直接の答えが提示されていない、ということだろうか。みなさんにはよくたとえとして出しているように、月が明るく輝くのは暗闇があるからであり、生があるのは死があるからであった。同じようにたとえば、下宿を始めた時に両親や家族のありがたみがわかったのではないかな。

ノブくん:はい、大事なものが見えにくいときには、「それがなかったらどうなるだろうか」と考えてみるとよい…つまり、<対立物の相互浸透>で考えてみればよい、ということですね。

わたし:そうだね。では本書の中で、何が悩みのもたらす最悪の状態であり、その状態に陥ることで何が失われていくのかを考えてみるとよいのではないかな。ここでは直接的に何を得るのかを目的においているというよりも、「何を失わないようにするのか」という観点があるのではないだろうか。

ノブくん:悩みのもたらす最悪の事態ですか…。

Oくん:…「悩み」によって失うものは、「自分の資産」、と言えるのではないでしょうか。

わたし:なるほど言いたいことはわかるけれど、資産、という言葉の響きが、経済性に重きをおいた意味合いにとられてしまうのではないだろうか。無理なところまで一般化してしまってはやはり誤りという<対立物へ転化>してしまうから、本書に即したかたちでまとめておけば、複数の同じレベルのことばを併記するというのでも良いと思うよ。

ノブくん:わかりました。いきなりはまとまらないので、いくつか思いつくところを挙げてみます。「小事に食いつぶされること」(3-7)、「生活の安らぎや喜びが失われること」(4-12)、「精神的・情緒的態度を失うこと」(7-24)、といったことでしょうか。悩み続けることで、これらのことを失うことになる、と。そうすると、これを<対立物の相互浸透>的に裏返してみれば、悩みを断つことによって得られるものも見えてきますね!

本書で扱われている最悪の状態とは悩み続けることであり、それによって時間、精神、身体といった日常生活に必要な要素が失われていく事が最大の問題なのである、ということになりましょうか。なので、ここでの目的論とは、「健康や時間を損失させない為」ということになります。

わたし:ではここまでを一度整理すると、対象論と目的論は仮説として固まってきたわけだから、
「悩みによって健康や時間を損失させないために○○をととのえる」
ということでいいかな。

ふたり:はい。

◆4◆ハウトゥ本としての内容から方法論へ、まとめて一般論へ

ノブくん:じゃあ、残るは方法論ですね。目次を見るだけでも、本書はハウトゥ本らしい構成ですし、事実中身もそうなので、言ってみればそういう話に始終してはいるのですが…なんだか、コレ!といったものがなくて、雑多なケースをたくさん書いてあるだけにも見えますね。

わたし:そうだね。それを一般化するのが、ふたりの力の見せ所ということになるでしょうね。先ほど、「悩み」とはどういうものか、を本書に即して考えてきた君たちであれば、どうすべきであるのかを推測できそうだとも思うのだけど。

ノブくん:第3部は、「悩みの習慣を早期に断とう」とありますから、まさに本書で最もハウトゥ的な部分、私たちにとっては方法論として見据えるべきところと言えると思います。ここで悩みを断つための方法論らしきものは順に、「仕事に没頭する」、「力点を変えてみる」、「確率を出してみる」、「運命には従え」、「悩みに歯止めを設けよう」、「過去の失敗を冷静に分析したら忘れよう」、となっています。

Oくん:これと先ほど整理した、「悩みとはどういうものか」を考え合わせると…本書では、問題について考えることは否定していないながら、それが度を過ぎるといけないと言っているのですから、考え方を整えよ、といったことを言っているのではないかと。

ノブくん:たしかに。僕も、「ものの見方を整える」というようなことが方法論であると考えました。ここまでをまとめると、
「悩みによって、健康や時間を損失させない為、ものの見方を整える」
、となるように思います。

わたし:ふたりとも、それでいいかな。二人ははじめそれぞれ、
「問題を、悩まず解決する為に、心身を整える」、
「人生を前向きに生きるために自分の世界との向き合い方を考える」
という一般論を出してきていたけれども、それと比べていま作ったものはどう変わっただろうか。

ノブくん:まず「悩み」というのを対象に据えられたことで、対象論以外も組み立てやすくなり、目的論・方法論も明確になりましたね。とくに目的論については、僕が当初出した一般論のなかには含まれておらず、今思えば良くなかったなと思います。

わたし:そうだね。それぞれの論理のあり方がしっかりと組み合っていることが、体系化というものにとっては最も大事だから、今回の課題をとおしてその感触を掴んでもらえるといいと思う。

Oくん:ノブさんと同じで、対象が「悩み」とわかったときに、うまく議論が運び始めたように思います。また私のはじめに出した一般論は、今見るとあまりに一般的すぎて、どんな本についてもこう言えてしまうような…。

わたし:そのとおり、一般論を出すときには、そこをうまく掴んでほしい。一般論といっても、あくまでもその書籍がその分野でどのような位置づけにあるか、ということ、つまりその分野での特殊性が提示されていなければならないから、あまりに一般的すぎるものはかえって一般論ではなくなるという<対立物への転化>が起きてしまうことを覚えておいてほしい。論理に振り回される人というのは、この誤りがいちばん多いから…。

さて議論する中で、このように一般論が明確になってきたね。いちおう、わたしの前もって出しておいた一般論を見てもらうことにすると、それはこのようなものだった。
「悩みによる時間・精神・身体の消耗を最小にするよう正しい考え方を選ぶ」こと。
これはみなに、巨人の肩に乗る=科学的看護論の一般論から学ぶ、という姿勢をわかってもらうために、その表現のあり方に似せて書かれてある。

学問的な段階で概念規定をする場合には、こうしてお互いに出してきた一般論などをより議論しぶつけあって、互いにより高い高みの認識に到達してゆく、ということをやるのだけれども、今回の課題にあってはとりあえず、ここまででよいとしておこう。

扱った本書の内容についてよりも、君たちには取り組まねばならないことがあるでしょうから。ただ今回議論して、その中で互いの認識が高まってきたという過程については、しっかりと押さえておいてほしい。次の課題は、唯物論的・論理的に見るという姿勢はそのままに、認識論寄りの課題について取り組んでゆきましょう。みなさん、がんばってください。



以下は、MindNode ProというMac用のアプリケーションで作ったマインドマップを手元に置きながら、本文を読んで要約を書き加えていったものです。


(了)