あけましておめでとうございます。
こちらのBlogの更新も、昨年はすっかり滞ってしまい、直接の弟子や学生たち以外の読者のみなさんには不便な思いをさせてしまいました。
直接の面識がある方はご存知のことなのですが、現在わたしの研究および指導の内実が、その内容の進展とともに、一時的ではあっても、非常に個別性の強いものになっているために、不特定多数の人たちにお見せできる記事がとても書きにくいこととなってきているという問題があるのです。
加えて指導の中身というものは、時には厳しい現実を当人に突きつけるというかたちの叱咤激励ともなっているだけに、叱られている学生のことを考えれば、こういった公の場でその内容を公開するということは、当人のためにも、わたしの心情としてもあまりにも憚られるものでした。
とはいえ、厳しい指導の甲斐あってか昨年末ごろから、数人の問題児もなんとか前を向き始めたことでもありました。
そこでのやり取りのうち、当人の事情を伏せつつお見せできるものに関してはこちらの記事として手直ししたいところです。
はっきりとしたお約束ができないのは心苦しいですが、そういった事情があっての更新停滞です。研究が滞っていたわけでは決してなく、むしろ、これまたその厳しさの甲斐あって、学生だけでなくわたしにとっても少なくない発見があったものです。
時間を経るにつれて、自分と話を真正面から交わせる人物は減ってゆくというのが常ですが、それとともに議論しうる学生たちを何もない地点にまで立ち返って、そこから改めて育てられる(育て直しうる)だけの能力がついてきていることもまた事実ですから、今年度もその思想性と方法論を把持して、しっかりと歩みを進めてゆくつもりです。
世の中の片隅で生涯がけの研鑽をされている方々との、切磋琢磨を祈念して。
2016/01/01
2015/03/10
志を込めて表現するとはどういうことか (1) 「文学考察: 未亡人ー豊島与志雄(修正版4)」を中心にして
前回の記事では、
取り上げた評論について、<過程性>という観点が欠如しつつあるということを指摘し、なぜそれが無くては作家としての大道から外れてしまうのかを考えてきました。
その失敗の構造としては、わたしからの指導と互いの議論によって作品の理解が深められたところまではよかったものの、そのことに引きずられるかたちで、いわば「わからせられてしまった」ことをも自分一人の実力であるかのように錯覚し、過程的な鍛錬を怠ってしまった、ということになります。
身近な例を挙げても、人のつくった公式に数字を当てはめて答えを出すことと公式そのものを導き出すことは違いますし、ひとつの漢字をキーボードで入力することとそれを自らのアタマにしっかりと像を思い浮かべながら手を動かして万年筆で書き付けることとは違います。
いったい何が違うのか?それが、<過程>というものなのです。
ある問題に対して、誰かに手を引かれたり背中を押されたり事細かにヒントを与えられたりしながらその答えに辿り着いた場合であっても、問題がほんの少し変わっただけで途端に解けなくなるようでは意味がありません。
ましてや、森羅万象は「変化するという性質だけは不変」であるだけに現実の問題は常に変化し続けていますから、過去の問題がいくら解けたとしても、そのことだけでは一歩も先へは進めないことになります。
変わり続け、また無限の広がりを持っている事物や事象から、自らの頭脳活動において問題そのものを浮上させ、さらにまた自らの頭脳活動においてそれを解く、ということができなければ、文化に携わる仕事をしたことにはならないのです。
ですから、過程がわからなくても問題が解ければいいじゃないの、という意見がありうるとするならば、それは自分で問題を解いたことのない人のそれだということができます。
文化人が最後まで手放してはならないのは、誰かの出してきた結論を自分のことのように言いふらすことでもなく、またそれを組み合わせて自分のオリジナルであるかのように吹いて回ることでもなく、あくまでも自らのアタマで現実の問題を解く、ということです。
過去に解かれた問題とその答え、また解法は、新しく浮上した問題を解くための手がかりにはなっても、決して答えそのものではありません。
厳しくココロに刻んでもらいたいと思います。
さて今回は、「自らを作家として規定すること」の、いわば志レベルの不足、についてお話しするところでした。
まずは前回に転載した評論である(修正版3)と、それにたいする<過程性>と志についての指摘を受けて書かれた、今回の(修正版4)を読み比べてもらいたいと思います。
いったいどこに違いがあるでしょうか。
◆ノブくんの評論
山男の四月ー宮沢賢治(修正版4)
◆わたしのコメント
どうでしょうか。読者のみなさんのアタマにも、その違いがはっきりと映ってきたでしょうか。
まずわかりやすい点として、今回のものは前回のものよりも作品の流れを細かく追いながら、この作品が、なぜ「謎の人物から届く手紙」のかたちをとっているのか、そして未亡人の身辺を詳しく知る「謎の人物」とはいったい誰なのか、について考えを進めていっています。
前回指摘しておいた、<過程性>が、今回はしっかりと含められていることがわかるのではないでしょうか。
もし自分が誰からの指導も受けずに、独力で現象から問題を引き出し、さらにその問題を解こうとしてゆくのならば、必ずこういった解き方になるはずなのです。
そうして、自らが問題を「解いた」結論のみならず、「解いていった」過程をこそ描き出し論証してゆこうとするならば、読者にとってもそれはわかりやすい表現になってゆくはずなのです。
指導されて答えをすでに聞いてしまった、というのはひとつの事実ですが、それをいったん棚上げしたのちに、自分自身の頭脳活動によって、なにもなかったところから一歩一歩を積み重ねることでひとつの結論を出し、その結論を出してはじめて、すでに聞いておいた答えと照らし合わせる、という<過程>こそが、頭脳活動を高めるためには必要不可欠なアタマの働かせ方になってきます。
またここでいう<過程>が、ほかならぬ<否定の否定>であることもわかってもらえているとよいのですが、どうだったでしょうか。
そこからさらに進んで、人間の頭脳活動を過程的にしらべてゆく認識論という学問分野においても、その下敷きには<弁証法>がなければならないのだな、とか、今度は具体的に、こういう法則性を何度も何度も意識して繰り返しておくことが、わかりやすい指導のためには必要なのだな、とかいうふうに、他の論理や具体例としっかりと関連させて確認しておいてもらいたいと思います。「独学」というのはそういうもの!なのですから。
◆
さて、今回の評論で変わったこと、のお話に戻りますと、その他にもう一点、前回から大きく修正された箇所があります。
「箇所」といっても、この変更点は目に見える明確なかたちを持った表現としては現されてはいない論理性であるために、「ものごとの見る目」を高く持とうとしなければ少しわかりにくいのでは、と思います。
その鍵となる部分を引用するならば、次になります。
そうであるだけにアタマのはたらきの物理的な基盤となる頭脳も、ひとつしかないはずです。ここまではそれはそうだね、とわかってもらえますね。
ところが問題は、そうであるにもかかわらず、人間というものは、常日頃から、思い悩みや自問自答をする存在でもある、ということです。
これはよく考えれば、少々不思議なことではないでしょうか。
一つのアタマの中であるのに、なぜか相反する思いや考えがある、というのが<敵対的な矛盾>であるとしか映らない頭の硬い人(=形而上学的な論理しか持たない人)にとっては、これは永遠の謎!となってもおかしくないほどのことだとは思いませんか。
ですが論者の言うとおり、これが現実にある、ということは揺るがし難い事実です。
ついでに言っておけば、なにもこれは分裂症でない健常者でもあるものです。
たとえば、あなたが数十年来のヘビースモーカーであるとしましょう。
休憩時間にも仕事の合間にもタバコ、タバコ。気づけばタバコを吸っていないと頭がはっきりしない、という状態にまでなっていました。
そんなとき身体を壊し医者にかかったところ、「このままの喫煙を続けていては間違いなく肺がんになります。あと10年持つかも怪しいですよ。ご家族のためにも今すぐ止めてください」と言われました。
あなたの頭には、お医者さんの言葉が重くのしかかります。「あと10年か…」
落ち込む気持ちをなんとか振り払おうとして、病院を出てすぐ自然にライターに手が伸びる自分の現状を見て、ことの重大さに気づきます。
さて、ここでのあなたのアタマの中はどうなっているでしょうか。
一方では、これまでの習慣で身についたアタマの働きとして、「タバコを吸いたい!」という欲求が強烈に浮上してくるでしょう。
しかし今やもう一方からは、「このままでは死ぬぞ!」というお医者さんのことばがアタマの中に響きわたるようになってもいます。
まずはこの具体例について、この先あなたのアタマの中はどのように変化してゆくだろうかと考えてみてください。
そのとき、ずっとこのままの状態ではいられないだろうな、という素朴な実感がひとつの手がかりです。
このことは評論の中でも(少々言葉足らずであることは残念ですが)指摘していることであり、さらにそのことをあくまでも作家の流儀に従って、そこにこだわって書き出そうとしているところに今回の評価できる点、つまり「志」があるのです。
記事を分けて考えてゆくことにしましょう。
(次回へつづく)
取り上げた評論について、<過程性>という観点が欠如しつつあるということを指摘し、なぜそれが無くては作家としての大道から外れてしまうのかを考えてきました。
その失敗の構造としては、わたしからの指導と互いの議論によって作品の理解が深められたところまではよかったものの、そのことに引きずられるかたちで、いわば「わからせられてしまった」ことをも自分一人の実力であるかのように錯覚し、過程的な鍛錬を怠ってしまった、ということになります。
身近な例を挙げても、人のつくった公式に数字を当てはめて答えを出すことと公式そのものを導き出すことは違いますし、ひとつの漢字をキーボードで入力することとそれを自らのアタマにしっかりと像を思い浮かべながら手を動かして万年筆で書き付けることとは違います。
いったい何が違うのか?それが、<過程>というものなのです。
ある問題に対して、誰かに手を引かれたり背中を押されたり事細かにヒントを与えられたりしながらその答えに辿り着いた場合であっても、問題がほんの少し変わっただけで途端に解けなくなるようでは意味がありません。
ましてや、森羅万象は「変化するという性質だけは不変」であるだけに現実の問題は常に変化し続けていますから、過去の問題がいくら解けたとしても、そのことだけでは一歩も先へは進めないことになります。
変わり続け、また無限の広がりを持っている事物や事象から、自らの頭脳活動において問題そのものを浮上させ、さらにまた自らの頭脳活動においてそれを解く、ということができなければ、文化に携わる仕事をしたことにはならないのです。
ですから、過程がわからなくても問題が解ければいいじゃないの、という意見がありうるとするならば、それは自分で問題を解いたことのない人のそれだということができます。
文化人が最後まで手放してはならないのは、誰かの出してきた結論を自分のことのように言いふらすことでもなく、またそれを組み合わせて自分のオリジナルであるかのように吹いて回ることでもなく、あくまでも自らのアタマで現実の問題を解く、ということです。
過去に解かれた問題とその答え、また解法は、新しく浮上した問題を解くための手がかりにはなっても、決して答えそのものではありません。
厳しくココロに刻んでもらいたいと思います。
さて今回は、「自らを作家として規定すること」の、いわば志レベルの不足、についてお話しするところでした。
まずは前回に転載した評論である(修正版3)と、それにたいする<過程性>と志についての指摘を受けて書かれた、今回の(修正版4)を読み比べてもらいたいと思います。
いったいどこに違いがあるでしょうか。
◆ノブくんの評論
山男の四月ー宮沢賢治(修正版4)
この作品は差出人不明の、「守山未亡人千賀子さん」宛の3通の手紙から成り立っています。
1通目においては、差出人と千賀子についてと、選挙への出馬の事が綴られていました。
千賀子はどうやら差出人を見ると、「擽ったいような表情」をされて、差出人は戸惑うことがあるというのです。しかし千賀子自身は差出人への身の振り方を考えなければ、その存在が千賀子を破滅される恐れがあるといいます。
また彼女はその時、猫のように居眠りをしたり猫を擽ったりしながら、秋山という人物から50万円という大金が届く知らせを待っていました。その大金を政治資金にして、千賀子は出馬を考えていたのです。そしてその姿は、差出人から見れば幾らか醜いものに見えていたようでした。
2通目では、息子の友人である「高木」が家に遊びに来た時の事が綴られています。
出馬を考えはじめた千賀子は、次にこの「高木」という人物に政治の勉強をさせて、自身の政治活動に役立てようとしたのです。ですが高木は彼女に恋慕していた為に、政治に利用されようとしている事が見抜けません。
更に高木よりも15も年上の千賀子は、恐らく以前から高木の気持ちを知っており、政界への前途が開けた事に気を良くして、彼で遊んでみようと考えはじめたのです。彼女は「肩がこった」と言って服をずらし艶かしい素肌を露にして、彼に肩を揉ませてみました。そうして彼女は彼の純粋無垢な反応を楽しんだのです。
差出人はこれにも矢張り呆れていました。ですが息子が帰ってきて政治の話をしたのですが、沈黙の合間に「冷たい微風に似た静寂」を感じた事については幾分か評価しています。
3通目では、その翌日の事が綴られています。
その前夜で家の者達に選挙への出馬を表明した千賀子は、手始めに夫への墓参りを決意していきました。これは差出人も意外だったと述べています。そしてその彼女の墓参りの姿を、差出人は高く評価したのです。曰く、彼女は「白痴」のように何も考える事を持ちあわせておらず、未亡人のようないやらしさがなくなり、1個の女になっていたというのです。
やがて墓参りを終えた千賀子は、活動活動の日々に追われる事となり、「瞳を複雑に濁らせていく」のでした。
一体差出人は何物なのでしょうか。一体千賀子のどういったところを具体的に非難しているのでしょうか。
この作品では、〈野望も希望もない未亡人が政治に出馬し暇つぶしをする様に、自分自身に呆れられる様子〉が描かれています。
上記の問題に答えるにあたり、物語をもう一度、差出人と宛先人の、各場面での心情を整理してみましょう。
1通目において、宛先人は差出人を見ると擽ったい表情をしますが、その差出人が彼女を殺すことだって有り得る、という風な事が書かれてあります。それは決して差出人が直接手を下すというような事ではないでしょう。差出人は、自分の存在そのものが彼女を破滅へと追いやるかもしれないと考えているようです。
では差出人とは一体何者で、宛先人にとってどのような存在なのでしょうか。思えば、差出人はあたかも宛先人の傍をピッタリと張り付いているかのようにその行動を把握しており、また行動どころか、その心情すらも、「他人であるならば」憶測で物語るしかないところすらも断言し綴っています。ですから、こうした心情すらも断言して述べているあたり、他人ではなく本人、と考えるのが自然と言うものです。
つまり差出人と宛先人は、同一人物でありながらも、対立した、それぞれ別の人格であると言えるのではないでしょうか。(因みに作中では、「ーーいいえ、それはきまっていました。」「ーーわたしは人間ですもの。」というように、手紙であるにも拘わらず宛先人の台詞らしきものが書かれてありましたが、2者が同一人物ということになると、これにも説明がつきます。)
すると、同一人物で差出人たる彼女が、一体何故、その存在が身を滅ぼすことになるかもしれないと考えているのでしょう。それは差出人が宛先人の何を非難しているのかについて理解できれば、おのずと見えてきます。
彼女は宛先人が猫を擽ったり昼寝をしていた時、選挙の出馬を決めた時、高木を弄んだ時に、厳しく自分を非難していました。何故ならそれらは全て、彼女の本音や本当にしたいことではなく、ただの暇つぶしに過ぎなかったからに他なりません。猫を擽りながら昼寝をしていた時は、その裏で50万という大金を待っていましたし、選挙への出馬を決めた理由についても、なんとなく神々しくその将来に惹かれていったからに過ぎないのです。(「本文中には、「厚生参与官という言葉は、あなたにとっては、何等の内容もない架空のもので、またそれだけに一層光栄あるものと見えたでしょう。」と書かれています。)そして高木に関しても、本当に高木の事を想っていたのであれば良かったものの、そうではないどころか、寧ろそれを弄ぼうとしたところに差出人は愚劣さを感じずにはいられませんでした。
こうした事を非難しているところから察するに、おそらく宛先人たる千賀子というものは、彼女の本音、或いは暇つぶしをする前の彼女と言うべき存在なのでしょう。ですから彼女は、息子と政治の話をしている最中に無意味な空論にふと寂しさを感じたこと、墓参りの際に何も祈ることがなかったことに対し、ほんらいの自分と向き合ったと見なし、評価したのです。
しかし、墓参りを終えた後、再び宛先人千賀子は活動という暇つぶしに明け暮れる事となり、差出人たる彼女はより一層自分の首を絞める事となるでしょう。
つまり自分で自分の身を滅ぼすとは、人生において暇つぶしや嘘をついている彼女が、別の人格の自分によって攻撃されて、自らによって息の根をとめられるという事だったのです。
しかしここまで読み進めてみると、ひとつの人物から違った2つの人格が生まれて、自分を養護したり攻撃したりする、というのは何か奇妙なことのように思われる事でしょう。ですが、私たちにもこうした出来事はあるはずです。
例えば意中の女性の気を引きたいが為に、彼女の気に入りそうな言葉を並べ立てる一方で、「僕ってこんな人間だっけ?」、「かえってこの人に失礼なことをしているのではないか」という思いをしたことは誰にでもある経験ではないでしょうか。
そして物語に登場する守山千賀子も同じです。未亡人で夫がおらず退屈し、世間から憐れみの目で見られ、ある側面からは優遇されているようなところもあり、これを面白がって政治活動したい気持ちに彼女は駆られていきます。しかしその一方で、ほんらいあったはずの彼女がこれを許さず、自分からは離れすぎた行動であるとして戒めようとしているのです。
そしてこの両者の思いというものは、彼女の中で拮抗しており、絶妙な力関係を維持しながら長い間ひとつの精神に宿っていたのでしょう。やがてある時点からは、それがあたかも独立した、別の人格であるかのように両者は独立し、一方が手紙を宛てて自分を強く戒めようという考えに至ったのです。
まさに千賀子の悲劇は未亡人になったことそのものであり、それが自分で自分の首を絞めるきっかけとなっていったのでした。
◆わたしのコメント
どうでしょうか。読者のみなさんのアタマにも、その違いがはっきりと映ってきたでしょうか。
まずわかりやすい点として、今回のものは前回のものよりも作品の流れを細かく追いながら、この作品が、なぜ「謎の人物から届く手紙」のかたちをとっているのか、そして未亡人の身辺を詳しく知る「謎の人物」とはいったい誰なのか、について考えを進めていっています。
前回指摘しておいた、<過程性>が、今回はしっかりと含められていることがわかるのではないでしょうか。
もし自分が誰からの指導も受けずに、独力で現象から問題を引き出し、さらにその問題を解こうとしてゆくのならば、必ずこういった解き方になるはずなのです。
そうして、自らが問題を「解いた」結論のみならず、「解いていった」過程をこそ描き出し論証してゆこうとするならば、読者にとってもそれはわかりやすい表現になってゆくはずなのです。
指導されて答えをすでに聞いてしまった、というのはひとつの事実ですが、それをいったん棚上げしたのちに、自分自身の頭脳活動によって、なにもなかったところから一歩一歩を積み重ねることでひとつの結論を出し、その結論を出してはじめて、すでに聞いておいた答えと照らし合わせる、という<過程>こそが、頭脳活動を高めるためには必要不可欠なアタマの働かせ方になってきます。
またここでいう<過程>が、ほかならぬ<否定の否定>であることもわかってもらえているとよいのですが、どうだったでしょうか。
そこからさらに進んで、人間の頭脳活動を過程的にしらべてゆく認識論という学問分野においても、その下敷きには<弁証法>がなければならないのだな、とか、今度は具体的に、こういう法則性を何度も何度も意識して繰り返しておくことが、わかりやすい指導のためには必要なのだな、とかいうふうに、他の論理や具体例としっかりと関連させて確認しておいてもらいたいと思います。「独学」というのはそういうもの!なのですから。
◆
さて、今回の評論で変わったこと、のお話に戻りますと、その他にもう一点、前回から大きく修正された箇所があります。
「箇所」といっても、この変更点は目に見える明確なかたちを持った表現としては現されてはいない論理性であるために、「ものごとの見る目」を高く持とうとしなければ少しわかりにくいのでは、と思います。
その鍵となる部分を引用するならば、次になります。
しかしここまで読み進めてみると、ひとつの人物から違った2つの人格が生まれて、自分を養護(コメント者註:正しくは「擁護」)したり攻撃したりする、というのは何か奇妙なことのように思われる事でしょう。ですが、私たちにもこうした出来事はあるはずです。作中の柱として扱われているように、わたしたち人間は、そのそれぞれの存在としてはひとつの個体であることに間違いはありません。
そうであるだけにアタマのはたらきの物理的な基盤となる頭脳も、ひとつしかないはずです。ここまではそれはそうだね、とわかってもらえますね。
ところが問題は、そうであるにもかかわらず、人間というものは、常日頃から、思い悩みや自問自答をする存在でもある、ということです。
これはよく考えれば、少々不思議なことではないでしょうか。
一つのアタマの中であるのに、なぜか相反する思いや考えがある、というのが<敵対的な矛盾>であるとしか映らない頭の硬い人(=形而上学的な論理しか持たない人)にとっては、これは永遠の謎!となってもおかしくないほどのことだとは思いませんか。
ですが論者の言うとおり、これが現実にある、ということは揺るがし難い事実です。
ついでに言っておけば、なにもこれは分裂症でない健常者でもあるものです。
たとえば、あなたが数十年来のヘビースモーカーであるとしましょう。
休憩時間にも仕事の合間にもタバコ、タバコ。気づけばタバコを吸っていないと頭がはっきりしない、という状態にまでなっていました。
そんなとき身体を壊し医者にかかったところ、「このままの喫煙を続けていては間違いなく肺がんになります。あと10年持つかも怪しいですよ。ご家族のためにも今すぐ止めてください」と言われました。
あなたの頭には、お医者さんの言葉が重くのしかかります。「あと10年か…」
落ち込む気持ちをなんとか振り払おうとして、病院を出てすぐ自然にライターに手が伸びる自分の現状を見て、ことの重大さに気づきます。
さて、ここでのあなたのアタマの中はどうなっているでしょうか。
一方では、これまでの習慣で身についたアタマの働きとして、「タバコを吸いたい!」という欲求が強烈に浮上してくるでしょう。
しかし今やもう一方からは、「このままでは死ぬぞ!」というお医者さんのことばがアタマの中に響きわたるようになってもいます。
まずはこの具体例について、この先あなたのアタマの中はどのように変化してゆくだろうかと考えてみてください。
そのとき、ずっとこのままの状態ではいられないだろうな、という素朴な実感がひとつの手がかりです。
このことは評論の中でも(少々言葉足らずであることは残念ですが)指摘していることであり、さらにそのことをあくまでも作家の流儀に従って、そこにこだわって書き出そうとしているところに今回の評価できる点、つまり「志」があるのです。
記事を分けて考えてゆくことにしましょう。
(次回へつづく)
2015/02/17
過程性を捉えるとはどういうことか 「文学考察: 未亡人ー豊島与志雄(修正版3)」を中心にして
元旦にごあいさつしてから、
一ヶ月以上もの時間をいただいてしまいました。
元旦を明けての1月、その一ヶ月間という期間は、一般的にも一年のうちの大きな節目ではありますが、生涯をかけての文化人たろうとする人間にあっては、その後の一年間の成果を規定しつくしてしまうほどに大事な位置づけにあるものです。
というのも、この時期に、その年のいっぱいまでの目標と、それを達成するための研究計画を完成しておかねばならないからです。
それゆえ、学生諸君の研究計画を評価するというこれ以上無く大切な時期だったのでした。
この時期は卒業論文や発表などと重なるため、日本の学期構成に合わせて4月期を境としても良いのですが、ああいった提出物は前もって準備しておきさえすればどうにでもなり、そのための計画であるとも言えるだけに、それよりも年初という季節感の中で心機一転するということを、より優先してきています。
さて目標がなぜそんなに重要なのか?と問われれば、我々が他でもなく人間だから、というのが答えということになります。
「えっと…?」というみなさんでしょうか、それとも「それはそうだよね」というみなさんでしょうか。
後者であることを願いますが、ここは基本的なことながら大事なことなので、その答えではなく、そういう結論を出さざるをえないその過程について、いまいちど確認しておきましょう。
人類は認識的実在であると言われるとおり、動物がその形態と運動のあり方を「本能」と呼ばれる脳のはたらきによって統括されているのに対し、人類は、それとは相対的に独立したところの「認識」によって統括してきています。
動物の本能は、脳という器官において外界を反映した像を描き、それと直接に運動するためのはたらきですが、人間の認識は、感覚器官をとおしてその頭脳に外界をただ反映するのみにとどまらず、それとは相対的に独立した像すら創りあげてゆくという質的な違いを持っています。
このことによって我々人類は、現時点での外界の状態を「このようである」と反映することから進んで、「このようであったら(もっと)いいな」という認識を創りあげることさえできるようになってきているのです。
そうであるからこそ、人間はその特殊性として、「こうならいいな」という認識を絵地図として(この認識は「未だ現実化されていない」、という点に注意してください!)、それを実現するべく外界へと働きかける「労働」をなしえるのだ、ということです。
ここまで述べれば、冒頭の「目標」というものがなぜ必要なのか、ということが<過程的>な流れをもって頭脳に描けてきたのではないでしょうか。
今回の場合で言えば、一年間という期間を「人間らしく」過ごすためには、必ずそれをどう過ごすか、という絵地図を頭脳にもっておかねばならない、ということが言えるのです。
文化の仕事をしようとするならば当然に、食いっぱぐれずに生活ができ、周りからそれなりに評価される、という立身出世のレベルにとどまっているわけにはゆかず、時にはそれを度外視したり場合によっては逆行する危険性を乗り越えてでも、このことを人類の歴史性を正面に据えた<人間>のレベルで捉え返さねばならなくなるのが必然性であるというわけです。
目標なくして人間足りえぬ、という一事がじわりとココロに伝わってくる感性のある(残っている)、読者のみなさんであればよいと願っています。
さて、そのような「人間観」、そしていわば「文化人観」に照らして今回は評論を扱いますが、それだけに厳しく評価されねばなりません。
◆文学作品◆
豊島与志雄 未亡人
◆ノブくんの評論◆
文学考察: 未亡人ー豊島与志雄(修正版3)
◆わたしのコメント◆
この文学作品は、去年から度々取り組んでもらっているもので、直接の講義もあわせれば三訂版ではすまないほどの議論を重ねてきているものです。
ここでの指導の目的は、わたしが読めている構造的な把握に、論者の認識をいかに近づけてゆくか、というものですから、その議論は、徐々にではあっても論者のこの作品についての認識が質的に深まってゆくような内実を持つものでなくてはなりません。
今回の評価が厳しいものになるとことわったのは、残念ながらそのことの意味を論者が大きく勘違いしているのでは、と思わされる記述になってしまっているからです。
論証部で、論者はこう切り出します。
そうであるだけに論者にとっては、この「手紙の主が『千賀子』のもうひとつの人格である」という前提は、すでに自明のものとなってしまっているのです。
ここで一般のみなさんの中には、「知っていることを書いてなにがダメなのかな?」と思われる方もおられるかもしれませんね。
たしかに、知識的な習得が問題である場合には、答え自体が問題になる場合もありえます。
しかし、こと歴史性を掲げて文化人たろうとする人間にあっては、そのような姿勢を続けては百害あって一利なし、ということになるのです。
なぜならば、そこで絶対的なレベルで厳しく要求されるのは、大きく言えば<過程性>というものを何よりも重視する、という姿勢でなければならないからです。
歴史的なひとつの作品を正面に据えてしっかりと学びたいという時には、その時代を生きたその作り手が、それをどうやって表現し得たのか、という観点がなければ、上っ面をなぞらえただけになるのであって、そのものを正しく学び切ることはできません。
学問においても芸術においても、その著作や作品というものはかたちとして、物理的に目に見え、手に取れる状態で残ってきています。
ですが、肝腎の、「なぜその当人が、それほどのまでの作品を残し得たか」ということについては、決してすべてが微細にわたって詳らかにされるということはないのです。
ではそれをいかにして読み取り、読み解き、さらには現代的な創作へと活かしてゆくかということは、現代を生きる我々が、その論理と認識の力にかけて、自らの頭脳に捉え返すかたちで追ってゆかねばならないことなのであって、これは極めて論理的な問題である!といえるのです。
◆
このためには、当人の自伝を読むということも必要であるとは言えますが、そうはいっても自伝をしっかりと残している人ばかりではないですし、作者との観念的な二重化をはたすために必要な情報が自伝だけで賄われると考えるのも間違いなのです。
当時の時代的な背景、当時の人間のものごとの感じ方や考え方がわからなければ、歴史的な読み物というのは、「当たり前なことばかり言いやがって」、と無味乾燥なお勉強となってもおかしくありません。
過去の偉人から、人類の文化遺産から正しく学ぶために大事なのは、あくまでもその時代性にありながら、つまりその時代的な制約の中に身を置きながら、しかもそれだけの業績を残しえたという当人の努力、覚悟、後世から見るところの先見性をこそ、正しく学ばねばならないのです。
歴史上の偉人とされる人物は、当時を生きる人々の誰もが気づきえなかったことに目を向けることができたり、辿りつけなかった場所へと歩みを進めることができたりしたからこそ、そう呼ばれることになったのではなかったでしょうか。
このことを現代に置き換えるならば、現代人の誰もが気づきえなかったことに「なぜか」気づくことができ、そのことを(時には狂人扱いされながら!)生涯かけての努力でもって持ち続け実行しえた人間が、歴史に残ることになってゆくのだ、とわからなければなりません。
見えないものを見なければならぬというのはひとつの矛盾ですが、そのことを達成するための「ものごとを見る目」は、大きく、この<過程性>というものが身にしみてわかり、その重要性にしっかりと着目できていなければ、それを身につける端緒につくことすらできません。
今回の評論の場合で言えば、論者その人が、わたしが提示した答えをあたかも自明のものとして提出したとき、そのことをはっきりと意識していたかどうかが問われねばならない、ということです。
今回の指摘は、数層の構造からなる問題を見て取ってのものですから、そのほかのご説明は後日に譲るとしても、結論から言ってこれはもはや言い逃れしようのない欠陥としてわたしの目には現象しており、そのことは論者には直接指摘していることでもあります。
論者が<過程性>にしっかりと目を向けながらこの作品を正しく理解してゆくためには、この作品は「千賀子」が自問自答する構造を持っているという結論だけでなく、その結論に至った論理的な経緯をこそ、しっかりと書いてゆくことが絶対的に必要です。
その営みはほかならず、歴史上の作家の仕事を正しく評価し受け継いでゆくための正道ともなっているのです。
この作品に則してさらに言うならば、あくまでも作品そのものをつぶさに追ってみることをとおして、わたしの指導内容を手がかりにしながらも、作品の構造がいわゆる<自由意志>と<対象化された観念>のやりとりなのであるという論理を改めて独力で!引き出すことができなければならない、と言えるでしょう。
繰り返し念押ししますが、これはあくまでも「作品そのものを正しく理解しようとしてはじめて」、ごく自然にそのような概念が浮上してくるということなのであって、「コメント者に<対象化された観念>に着目しろといわれたので探してみるか」という姿勢では絶対にダメ!ということが厳しくつきつけられているのです。
この観点こそが、<過程性>というものなのだ、とわかってもらえているでしょうか。
これと類する欠陥として、「自らを作家として規定すること」の、いわば「作家としての志」の不足については、次回以降みなさんにも考えてもらうことになると思います。
※評論中の誤字訂正については略。
一ヶ月以上もの時間をいただいてしまいました。
元旦を明けての1月、その一ヶ月間という期間は、一般的にも一年のうちの大きな節目ではありますが、生涯をかけての文化人たろうとする人間にあっては、その後の一年間の成果を規定しつくしてしまうほどに大事な位置づけにあるものです。
というのも、この時期に、その年のいっぱいまでの目標と、それを達成するための研究計画を完成しておかねばならないからです。
それゆえ、学生諸君の研究計画を評価するというこれ以上無く大切な時期だったのでした。
この時期は卒業論文や発表などと重なるため、日本の学期構成に合わせて4月期を境としても良いのですが、ああいった提出物は前もって準備しておきさえすればどうにでもなり、そのための計画であるとも言えるだけに、それよりも年初という季節感の中で心機一転するということを、より優先してきています。
さて目標がなぜそんなに重要なのか?と問われれば、我々が他でもなく人間だから、というのが答えということになります。
「えっと…?」というみなさんでしょうか、それとも「それはそうだよね」というみなさんでしょうか。
後者であることを願いますが、ここは基本的なことながら大事なことなので、その答えではなく、そういう結論を出さざるをえないその過程について、いまいちど確認しておきましょう。
人類は認識的実在であると言われるとおり、動物がその形態と運動のあり方を「本能」と呼ばれる脳のはたらきによって統括されているのに対し、人類は、それとは相対的に独立したところの「認識」によって統括してきています。
動物の本能は、脳という器官において外界を反映した像を描き、それと直接に運動するためのはたらきですが、人間の認識は、感覚器官をとおしてその頭脳に外界をただ反映するのみにとどまらず、それとは相対的に独立した像すら創りあげてゆくという質的な違いを持っています。
このことによって我々人類は、現時点での外界の状態を「このようである」と反映することから進んで、「このようであったら(もっと)いいな」という認識を創りあげることさえできるようになってきているのです。
そうであるからこそ、人間はその特殊性として、「こうならいいな」という認識を絵地図として(この認識は「未だ現実化されていない」、という点に注意してください!)、それを実現するべく外界へと働きかける「労働」をなしえるのだ、ということです。
ここまで述べれば、冒頭の「目標」というものがなぜ必要なのか、ということが<過程的>な流れをもって頭脳に描けてきたのではないでしょうか。
今回の場合で言えば、一年間という期間を「人間らしく」過ごすためには、必ずそれをどう過ごすか、という絵地図を頭脳にもっておかねばならない、ということが言えるのです。
文化の仕事をしようとするならば当然に、食いっぱぐれずに生活ができ、周りからそれなりに評価される、という立身出世のレベルにとどまっているわけにはゆかず、時にはそれを度外視したり場合によっては逆行する危険性を乗り越えてでも、このことを人類の歴史性を正面に据えた<人間>のレベルで捉え返さねばならなくなるのが必然性であるというわけです。
目標なくして人間足りえぬ、という一事がじわりとココロに伝わってくる感性のある(残っている)、読者のみなさんであればよいと願っています。
さて、そのような「人間観」、そしていわば「文化人観」に照らして今回は評論を扱いますが、それだけに厳しく評価されねばなりません。
◆文学作品◆
豊島与志雄 未亡人
◆ノブくんの評論◆
文学考察: 未亡人ー豊島与志雄(修正版3)
この作品は、生前は有力な政治家の妻であった「守山未亡人千賀子」宛の、差出人不明の3通の手紙から成り立っています。その3通はどれも未亡人たる千賀子の一挙一動を非難するものばかり。と言いますのも、未亡人となった彼女は、その性質を活用し、人々の同情の眼差しを集め政治家になろうとしたり、男を知った女特有の艶かしさで、年下の男の気持ちを弄んだりしていたのです。
またその手紙には少し奇妙なところがあり、
ーーいいえ、それはきまっていました。
ーーわたしは人間ですもの。
といったように、あたかも彼女の答えを想定しているかのように、彼女と会話しているかのように、千賀子の台詞らしきものが書かれています。
そんな手紙の差出人ですが、唯一、彼女が選挙の出馬を決めた後に夫の墓参りをしている場面において、彼女自身が「白痴」のように何も考える事を持っていなかったところについては一定の評価をしているのです。
一体差出人は、何を評価したのでしょうか。何故彼女の挙動のひとつひとつがそうも気に入らないのでしょうか。
この作品では、〈ある政治家の妻が「未亡人」になってしまったが故に、世間に対して画策するつもりが寧ろその言葉に振り回されていく様〉が描かれています。
上記の問題を解くにあたって、はじめにこの手紙の差出人は誰なのかを得敵せねばなりません。差出人は少なくとも千賀子の生活を事細かく知っており、また手紙の中で彼女と問答している事を考えると彼女自身についてもよく知っているようです。恐らくこの手紙の主は、守山千賀子の別の人格が彼女自身を非難しているのではないでしょうか。そのように考えると、この2つの疑問に対しても一応の説明はつきますので、そう仮定した上で話を進めていきたいと思います。
差出人たる千賀子はあらすじにもある通り、どうやら自分が夫に先立たれ、哀れで妖艶な「未亡人」としての社会的な付加価値のようなものを利用し、選挙に出馬しようとしたり、年下の男で遊んだりしているところを不純なものとして強く非難しています。
では、何故そんな彼女は、墓参りに行った時自分を評価したのでしょうか。それは、まるで「白痴」のように、そうした不純な考えを少しも持っていなかったというところにあります。恐らく、夫が行きている頃の千賀子は、現在のように身の回りにあるものを使って世間の人々に対して画策を企てるような人物ではなかったのでしょう。ところが「未亡人」なってしまってからは、彼女を見る世間の人々の目が急に変わったことを面白がり、自身の性質でいろいろと小賢しい事を考えるようになっていってしまったのです。
以来、彼女の中には、「未亡人」としての魅力で世間を惹きつけたいという欲求と、「未亡人」などといういやらしいものに負けてそれまでの自分を見失いたくないという、2つの相反した感情が葛藤するようになっていったのでしょう。ですから墓参りを終えた後の彼女は、政治家としての華々しい人生を期待しながらも、心の内では「これで自分はいいのだろうか」という不安を抱いており、瞳を濁らせていたのです。
◆わたしのコメント◆
この文学作品は、去年から度々取り組んでもらっているもので、直接の講義もあわせれば三訂版ではすまないほどの議論を重ねてきているものです。
ここでの指導の目的は、わたしが読めている構造的な把握に、論者の認識をいかに近づけてゆくか、というものですから、その議論は、徐々にではあっても論者のこの作品についての認識が質的に深まってゆくような内実を持つものでなくてはなりません。
今回の評価が厳しいものになるとことわったのは、残念ながらそのことの意味を論者が大きく勘違いしているのでは、と思わされる記述になってしまっているからです。
論証部で、論者はこう切り出します。
上記の問題を解くにあたって、はじめにこの手紙の差出人は誰なのかを得敵(コメント者註:「特定」の誤り)せねばなりません。差出人は少なくとも千賀子の生活を事細かく知っており、また手紙の中で彼女と問答している事を考えると彼女自身についてもよく知っているようです。恐らくこの手紙の主は、守山千賀子の別の人格が彼女自身を非難しているのではないでしょうか。そのように考えると、この2つの疑問に対しても一応の説明はつきますので、そう仮定した上で話を進めていきたいと思います。読者のみなさんがこの箇所を読んで、どういう感想を持たれるかはわかりませんが、この指摘というものはわたしが数度の講義をとおして、問いを立てながら(=答えそのものを伝えてしまわないように工夫して)論者がその頭脳活動において、あくまでも「自らの独力で」辿り着くよう苦心して指導してきたものでした。
そうであるだけに論者にとっては、この「手紙の主が『千賀子』のもうひとつの人格である」という前提は、すでに自明のものとなってしまっているのです。
ここで一般のみなさんの中には、「知っていることを書いてなにがダメなのかな?」と思われる方もおられるかもしれませんね。
たしかに、知識的な習得が問題である場合には、答え自体が問題になる場合もありえます。
しかし、こと歴史性を掲げて文化人たろうとする人間にあっては、そのような姿勢を続けては百害あって一利なし、ということになるのです。
なぜならば、そこで絶対的なレベルで厳しく要求されるのは、大きく言えば<過程性>というものを何よりも重視する、という姿勢でなければならないからです。
歴史的なひとつの作品を正面に据えてしっかりと学びたいという時には、その時代を生きたその作り手が、それをどうやって表現し得たのか、という観点がなければ、上っ面をなぞらえただけになるのであって、そのものを正しく学び切ることはできません。
学問においても芸術においても、その著作や作品というものはかたちとして、物理的に目に見え、手に取れる状態で残ってきています。
ですが、肝腎の、「なぜその当人が、それほどのまでの作品を残し得たか」ということについては、決してすべてが微細にわたって詳らかにされるということはないのです。
ではそれをいかにして読み取り、読み解き、さらには現代的な創作へと活かしてゆくかということは、現代を生きる我々が、その論理と認識の力にかけて、自らの頭脳に捉え返すかたちで追ってゆかねばならないことなのであって、これは極めて論理的な問題である!といえるのです。
◆
このためには、当人の自伝を読むということも必要であるとは言えますが、そうはいっても自伝をしっかりと残している人ばかりではないですし、作者との観念的な二重化をはたすために必要な情報が自伝だけで賄われると考えるのも間違いなのです。
当時の時代的な背景、当時の人間のものごとの感じ方や考え方がわからなければ、歴史的な読み物というのは、「当たり前なことばかり言いやがって」、と無味乾燥なお勉強となってもおかしくありません。
過去の偉人から、人類の文化遺産から正しく学ぶために大事なのは、あくまでもその時代性にありながら、つまりその時代的な制約の中に身を置きながら、しかもそれだけの業績を残しえたという当人の努力、覚悟、後世から見るところの先見性をこそ、正しく学ばねばならないのです。
歴史上の偉人とされる人物は、当時を生きる人々の誰もが気づきえなかったことに目を向けることができたり、辿りつけなかった場所へと歩みを進めることができたりしたからこそ、そう呼ばれることになったのではなかったでしょうか。
このことを現代に置き換えるならば、現代人の誰もが気づきえなかったことに「なぜか」気づくことができ、そのことを(時には狂人扱いされながら!)生涯かけての努力でもって持ち続け実行しえた人間が、歴史に残ることになってゆくのだ、とわからなければなりません。
見えないものを見なければならぬというのはひとつの矛盾ですが、そのことを達成するための「ものごとを見る目」は、大きく、この<過程性>というものが身にしみてわかり、その重要性にしっかりと着目できていなければ、それを身につける端緒につくことすらできません。
今回の評論の場合で言えば、論者その人が、わたしが提示した答えをあたかも自明のものとして提出したとき、そのことをはっきりと意識していたかどうかが問われねばならない、ということです。
今回の指摘は、数層の構造からなる問題を見て取ってのものですから、そのほかのご説明は後日に譲るとしても、結論から言ってこれはもはや言い逃れしようのない欠陥としてわたしの目には現象しており、そのことは論者には直接指摘していることでもあります。
論者が<過程性>にしっかりと目を向けながらこの作品を正しく理解してゆくためには、この作品は「千賀子」が自問自答する構造を持っているという結論だけでなく、その結論に至った論理的な経緯をこそ、しっかりと書いてゆくことが絶対的に必要です。
その営みはほかならず、歴史上の作家の仕事を正しく評価し受け継いでゆくための正道ともなっているのです。
この作品に則してさらに言うならば、あくまでも作品そのものをつぶさに追ってみることをとおして、わたしの指導内容を手がかりにしながらも、作品の構造がいわゆる<自由意志>と<対象化された観念>のやりとりなのであるという論理を改めて独力で!引き出すことができなければならない、と言えるでしょう。
繰り返し念押ししますが、これはあくまでも「作品そのものを正しく理解しようとしてはじめて」、ごく自然にそのような概念が浮上してくるということなのであって、「コメント者に<対象化された観念>に着目しろといわれたので探してみるか」という姿勢では絶対にダメ!ということが厳しくつきつけられているのです。
この観点こそが、<過程性>というものなのだ、とわかってもらえているでしょうか。
これと類する欠陥として、「自らを作家として規定すること」の、いわば「作家としての志」の不足については、次回以降みなさんにも考えてもらうことになると思います。
※評論中の誤字訂正については略。
2015/01/01
新年のご挨拶
あけましておめでとうございます。
(※執筆用Macの不調により正しく公開されておりませんでしたので、機種を変えて公開しました。)
前回の記事の日付を確認してみると、ずいぶんと間が空いてしまったものだと思います。
この理由は、以前にすこしお伝えしておいたとおり、ひとつにわたしのところで研究している学生たちの研究対象が深まりを帯びてきたため、こちらではなかなかにご紹介できにくくなってきていること。
ふたつめには、わたし自身の研究生活の変化によって、Blog記事の更新に時間が割きにくくなっていたこと、です。
後者に関わることとして、わたしのBlog更新のスタイルをご説明しておくことにすると、それはまず移動中や雑談中にアタマの片すみで記事を練り、それを今度はアイデアノートに書き起こしたあと、それをさらにコンピュータ上に打ち込みなおす、という三段階の過程があるというものなのです。
そのため、現在のように執筆用のMacが絶不調であったり移動手段が変わってしまったりするだけで、ほとんど記事執筆のための時間がなくなってしまう、ということになります。
それなら考えたことをいきなりPC上に書いてしまえば時間が省けるではないか、という指摘もありますが、認識論的に言えば、この手法で執筆活動に励むことになると、アタマの中の言葉や文章を、キーボードとPC画面という反映の少ない表現手法で移しかえ続けることになり、これは言語の像が浅くなることによって、とりもなおさず頭脳活動が必然的に低下してゆくことになってしまうのです。
ですから、執筆活動の際には、必ず自らの五感をしっかりと働かせながら、あくまでも手でペンを握り、志を込めて紙に書き連ねてゆくことでなければなりません。
キーボードだって手を使うではないか、という方もおられそうですが…いずれしっかりとご理解していただけるよう書いてゆきたいところです。
さてそういうわけで、ここでの記事は、読者のみなさんのために書き下ろされたものであることは確かなのですが、そういうことを自負するためにも、書き手の認識が確かに向上していっているということが土台としてなければならないと考えているのです。その旨、ご了承を請いたいところです。
現在は、ふたたび少しずつ時間が取れるようにスケジュールを管理できるようになってきつつあり、また執筆活動用のMacをお借りできることになったので、また少しずつペースを戻してゆきたいと思っているところです。記事の内容については、先述したように個別研究を公開するのは難しいのですが、現在ある学生に、論理レベルを引き上げるための日記をつけてもらっていますので、それを一般読者の方のために検討してゆく、ということをひとつ考えています。
それもこれも、学生諸君の文化的な献身と奮闘にかかっているところもありますけれども。
◆
さいごに冒頭の写真について。これはわたしが学生と議論しながらよく歩く公園からの初日の出、です。
日の出の時間は朝7時過ぎ、ということでしたが、山にかかる雲のため時間から15分ほど待ちました。寒空の中しっかり立って朝日が昇るのを待つ、というのもなかなか良いものです。
わたしは私生活の悲喜こもごもや研究上の思案やスランプ、学生問題などなどで頭がいっぱいになると、どれだけ心身が重かろうと外を走りにゆく中でそれを整えてゆくのが日課なのですが、地元のこの公園は、それだけに色々と思い出のある場所でもあります。
山でも海でも地元でも同じですけども、早朝から活動をはじめて、歩いたり走ったりしながら、景色のはるかかなたに次第しだいに射してくる朝焼けというのは、これは実際に見た者でないとなかなかにわかってもらえない良さがあるもので、これを見るために毎日やってきているのだとさえ言えるくらいの、無上のごほうびです。
こういう、たったひとりきりで、目に映るすべての景色を独り占めにしているかのような情景に身をおき、胸のうちから沸き起こってくるような高揚感とともに、豊かな精神的時間を過ごすということが、いかに人格に深く刻まれてゆくかは、現代においては軽視されがちのようです。
さきほど述べた、ペンを使って文字を書くのと、キーボードを使って文字を書くのとでは、どのような違いがあるのかという問題についても、感性が見事に作られている人間にとっては、論理的・理論的にはともかく、素朴な実感としてはごくふつうに、「それはそうでしょうね」と首肯できるものであると思います。
こういう精神活動は当然に、創作活動においても根本として大きく働いてくるだけに、自らの定めた道を目指す学生諸君にあっては経験的ならびに論理的にぜひにおさえておき、目的意識性として、文化的な生き方をしてもらいたいものだと思います。
本年も悔いのない生き方を。どうぞよろしくお願い致します。
(※執筆用Macの不調により正しく公開されておりませんでしたので、機種を変えて公開しました。)
前回の記事の日付を確認してみると、ずいぶんと間が空いてしまったものだと思います。
この理由は、以前にすこしお伝えしておいたとおり、ひとつにわたしのところで研究している学生たちの研究対象が深まりを帯びてきたため、こちらではなかなかにご紹介できにくくなってきていること。
ふたつめには、わたし自身の研究生活の変化によって、Blog記事の更新に時間が割きにくくなっていたこと、です。
後者に関わることとして、わたしのBlog更新のスタイルをご説明しておくことにすると、それはまず移動中や雑談中にアタマの片すみで記事を練り、それを今度はアイデアノートに書き起こしたあと、それをさらにコンピュータ上に打ち込みなおす、という三段階の過程があるというものなのです。
そのため、現在のように執筆用のMacが絶不調であったり移動手段が変わってしまったりするだけで、ほとんど記事執筆のための時間がなくなってしまう、ということになります。
それなら考えたことをいきなりPC上に書いてしまえば時間が省けるではないか、という指摘もありますが、認識論的に言えば、この手法で執筆活動に励むことになると、アタマの中の言葉や文章を、キーボードとPC画面という反映の少ない表現手法で移しかえ続けることになり、これは言語の像が浅くなることによって、とりもなおさず頭脳活動が必然的に低下してゆくことになってしまうのです。
ですから、執筆活動の際には、必ず自らの五感をしっかりと働かせながら、あくまでも手でペンを握り、志を込めて紙に書き連ねてゆくことでなければなりません。
キーボードだって手を使うではないか、という方もおられそうですが…いずれしっかりとご理解していただけるよう書いてゆきたいところです。
さてそういうわけで、ここでの記事は、読者のみなさんのために書き下ろされたものであることは確かなのですが、そういうことを自負するためにも、書き手の認識が確かに向上していっているということが土台としてなければならないと考えているのです。その旨、ご了承を請いたいところです。
現在は、ふたたび少しずつ時間が取れるようにスケジュールを管理できるようになってきつつあり、また執筆活動用のMacをお借りできることになったので、また少しずつペースを戻してゆきたいと思っているところです。記事の内容については、先述したように個別研究を公開するのは難しいのですが、現在ある学生に、論理レベルを引き上げるための日記をつけてもらっていますので、それを一般読者の方のために検討してゆく、ということをひとつ考えています。
それもこれも、学生諸君の文化的な献身と奮闘にかかっているところもありますけれども。
◆
さいごに冒頭の写真について。これはわたしが学生と議論しながらよく歩く公園からの初日の出、です。
日の出の時間は朝7時過ぎ、ということでしたが、山にかかる雲のため時間から15分ほど待ちました。寒空の中しっかり立って朝日が昇るのを待つ、というのもなかなか良いものです。
わたしは私生活の悲喜こもごもや研究上の思案やスランプ、学生問題などなどで頭がいっぱいになると、どれだけ心身が重かろうと外を走りにゆく中でそれを整えてゆくのが日課なのですが、地元のこの公園は、それだけに色々と思い出のある場所でもあります。
山でも海でも地元でも同じですけども、早朝から活動をはじめて、歩いたり走ったりしながら、景色のはるかかなたに次第しだいに射してくる朝焼けというのは、これは実際に見た者でないとなかなかにわかってもらえない良さがあるもので、これを見るために毎日やってきているのだとさえ言えるくらいの、無上のごほうびです。
こういう、たったひとりきりで、目に映るすべての景色を独り占めにしているかのような情景に身をおき、胸のうちから沸き起こってくるような高揚感とともに、豊かな精神的時間を過ごすということが、いかに人格に深く刻まれてゆくかは、現代においては軽視されがちのようです。
さきほど述べた、ペンを使って文字を書くのと、キーボードを使って文字を書くのとでは、どのような違いがあるのかという問題についても、感性が見事に作られている人間にとっては、論理的・理論的にはともかく、素朴な実感としてはごくふつうに、「それはそうでしょうね」と首肯できるものであると思います。
こういう精神活動は当然に、創作活動においても根本として大きく働いてくるだけに、自らの定めた道を目指す学生諸君にあっては経験的ならびに論理的にぜひにおさえておき、目的意識性として、文化的な生き方をしてもらいたいものだと思います。
本年も悔いのない生き方を。どうぞよろしくお願い致します。
2014/03/01
『ヘレン・ケラーはどう教育されたか』(8):1887.03.06-04.03 (II)
(7のつづき)
わたしが今回出しておいた課題については、前回の記事にも書いたとおりですが、もう一度引用しておきましょう。
いくつかレポートを受け取りましたので、まずは再提出した本人のものを見ましょう。
◆1. ノブくんのレポート◆
ヘレン・ケラーはどう教育されたかー1887年3月6日〜3月20日(修正版)
◆誤字◆
・堺…この指摘は2度めです。重く受け止めねばなりません。
・どうのような
・夜転ぶ
◆1. わたしのコメント◆
はじめに断っておきたいことは、この論者は今回残念ながら、顔を突き合わせての議論の場に参加できませんでしたので、わたしの求めている<過程性>というものについて、各種の運動法則を引き合いに出しての生き生きとしたダイナミックな像を描きにくかったであろうという点です。
といっても、だからといってクロがシロになるわけはないのでやはり率直に評価することになります。
論者は、「欲求」というものを起点にしながら、1887年の3/20を境にした、ヘレンが彼女の内面のそれを内側からただただ押し出すだけの時期と、服従というものを学びそれを抑えられた時期、と質的に区分しています。
この理解にはいくつかの大きな問題があります。
◆世界観の問題…唯物論の立場に立てているか
まず一つ目の問題は、論者が、この書籍で扱われている一つの現象を、ありのままに正面に据えて理解するのではなく、いわば自分があらかじめ用意した価値観やキーワードに基づいて「解釈」しようとしているという点です。
本質を先天的(ア・プリオリ)に規定して対象を見ることを観念論と言い、さらに身勝手な解釈を展開することを、哲学になりきれないできそこないという侮蔑的な意味合いをこめて「思想」と言うことがありますが、これはまさにこれらに該当する理解の仕方であって、ここまで勉強しておきながらこの状態に留まっているというのは、残念だと言わざるを得ません。
どこまでが対象のありのままの理解であり、どこからが解釈となるのかは学問にとって非常に重要な問題ですから、大きく疑問に感じる方がおられてもおかしくないですし、それどころか絶対的に必要な問いかけなのですが、ここで詳しく立ち入ることは今回の論点をぼかすために次の機会にゆずるとして、ここではひとつ常識的に考えてみてください。
はたして論者の言うとおり、「征服によって強制的に欲求を抑えられたこと」が、「相手の征服や大まかな感情を受け止める器を形成してい」くことに繋がるのかどうか、と。
これではあたかも、「サリバンがヘレンを力でねじ伏せた」ことが直接的に、「ヘレンが愛情を受け止められるようになった」という結果を招いたかのように読めますが、本当にそうでしょうか。
サリバンはヘレンと出逢った初日に、こう言っていますね。
さて、論者がこのような誤りに陥った原因は、さきほども指摘したとおり、論者がその世界観として<唯物論>の立場を堅持できていないということ、いったん規定した欲求云々という、悪く言えば似非心理学的な用語をどうしても変えたくなかったことのほかに、もうひとつ大きな問題がありました。それが、<論理>の問題であり、これが2つ目の大きな問題なのです。
◆論理の問題…弁証法的な論理をつかめているか
そもそもを言えば、わたしがこの書籍を認識論の題材に選んだのは、この本が、というかサリバン女史の教育方針とその土台となる世界観が唯物論的であり、またその論理が弁証法的であるからです。
アン・サリバンが唯物論やら弁証法やらを使えたとは…?そんなことは初耳だが、といぶかしがる向きもあるでしょうが、唯物論も弁証法も、「私は唯物論的弁証法の立場に立って研究している」と宣言すれば満たせるような生易しいものではないものですし、また逆に、そう明言しなくともそのように考えられている人もいる、ということを改めて確認しておきたいと思います。サリバンがヘレンと出逢った初日に何を言ったかをさきほど引用しておきましたが、その箇所をもう一度読んでみてください。
さきほど見てきた論者の理解と、どう違いますか。
論者にあっては、「あれをすればこうなる」式に、「あれ」→「これ」と、直接的に結びつけようとしたために無理が生じ、かえっておかしな解釈をつくりあげることになっていることを見てきました。書店の店頭に並ぶハウトゥ本やビジネス書が単なる解釈のでっち上げに終わって、その解釈というレベルでは、書籍が主眼に置いているはずの、論理の現実的な適用がむしろ成し得ないのはこの点です。とても大事なことですから、じっくり考えてください。
ここをサリバンその人は、どう言っていますか。征服→訓練だとか、征服→愛情だとか考えていますか、決してそうではないでしょう。
ではどう書かれているかといえば、これからの指導にあたっては、大きな方針としては、あくまでもヘレンの気質をそこなわずに彼女を訓練してゆくことであると、まずことわっています。
その大きな方針から導き出されることとして当然に、力づくでヘレンを征服するようなことは彼女の思うところではないのですが、それでも、それが必要な場合があるであろうことも認めており、それというのが、ヘレンが「正しい意味での従順さ」を発揮してくれない時である、というわけです。
こういう論理的な文章が目の前に現れた時、「この人はああ言えばこう言う、こう言えばああ言うものだな。結局のところ、教育において相手を征服すべきなのかしてはいけないのかどっちなのだ!?」という、あまりにも寂しい自らの低い論理レベルに押し下げて読んでしまう人が大の大人の中にもたくさんいますが、ここにいる読者のみなさんはぜひとも、それだけは避けてもらいたいと思います。
ここに書かれているのは、そんな頭ごなしの感情的な反発や、論理の高い文章を手も足も出ないからとダブルスタンダードだと決め付けるような低レベルの非難で片付けてしまって良いような内容では決して無く、大きくひとつの原則を立てられているからこそ、今回の場合であれば正しい人間観に立脚できているからこそ、各所・各所での複雑な現象を、はっきりと切り分けて、「ここまではやっても良いがこれ以上はダメ」だ、というふうに判断できるということ、なのです。
これは現実が複雑だからとそれにあわせて右往左往することが生きることであったりビジネスであったりと捉えてしまうまでに忙しい社会に身をおく人たちにとっては、なかなかに理解し難いことのはずです。
それでも、その困難を押しのけてどうしてもわかってもらわねばならないのは、複雑な現実の中の各場面において、一本の筋の通った判断をしようと思えば、そう思えば思うほどに、そこには大きく根を張る原則を持っていなければならない、ということです。
明確な原則があるからこそ、その光に当てられて複雑な現実を正しく見ることができ、また問題を正しく処理できる。この論理を、弁証法では、論理を排除して実践だけをとるのではダメで、論理があるからこそ正しい実践が導け、正しく実践を繰り返すからこそ正しい論理が導けるのだと、どちらが欠けてもどちらも成り立たなくなるという関係性において捉えるところから、それを<相互浸透>というのでしたね。
もちろんサリバンは、自らを唯物論的弁証法の立場に立つ実践的研究者を自任していたわけではありませんが、彼女の行動や記述の中には、このような論理があまりにも豊かに含まれていることを見逃してはいけません。
◆以上をふまえて本文を読む
さてでは、以上で述べてきた、唯物論と弁証法という世界観と考え方をしっかり持った上で、あらためてもう一度引用箇所を、より具体的に見ておきましょう。
それはその時点で、そのままの状態ではヘレンに「教育」を与えるのは不可能、より正しくは、歪んだ土台の上に教育を与えても悪い影響しか与えることがないであろう、という見通しが立ったということでもあったのです。
ですからサリバンは、ヘレンと出逢ってから3/20までのあいだ、「教育以前」の問題に取り組まねばならなくなったのであって、それが、この引用箇所に決意表明されていることの内容であったのです。
ここをしっかりと覚えているのであれば、1887年の3/20に、サリバンがありったけの喜びとともに語ったことの意味が、その気持ちが、自ら経験したかのようにつかめてくるはずです。引用してみましょう。
さきほどの引用箇所と同じようにこちらも説明してしまっては、もうそれは解答そのものと言ってもよいほどになってしまいますから、もう一つ念押しの意味も込めて、論者の妙な思い込みについて批判をしておきます。
◆
今回、もはや繰り返す必要もないはずの、世界観と論理の問題を振り返らざるを得なかったのは、ほかでもなく今回のレポートが、前回のレポートと比べて、論理のレベルをまるで高めることができていない、という一点が気がかりなためです。
論者はどうも、わたしの出しておいた課題の採点基準について、さも「答えが合っていれば合格をもらえる」かのように思い込んでいるようですが、勘違いも甚だしいとはこのことです。
弁証法的な論理が形而上学的な論理と決定的に違うのは、前者が過程をこそ正しく把握しようとする点においてです。
前回も説明しておいたとおり、たとえば前者においては、ひとりの人間という一個体の生育段階を、各過程がそれぞれ、人間一般に照らした必然性において折り重なるように発展してゆくものととらえます。
しかし後者にあっては、各段階をそれぞれバラバラにとらえるという踏み外しをし、さらに進んで、結果として発展しきったところの成人のあり方に焦点を当てすぎるときには、「どうせ成長してしまえば今の我々のような身体になるのだから、「小さな大人」のまま生まれてしまったほうが合理的」とまで錯覚してしまいかねないほどの論理の低さとなってしまうのです。
わたしは以前、歴史を考えるときにはいくらそれが曲がりくねった道をたどっているように見えたとしても、一見して特殊に見えるものを安易に例外であるとして片付けてはいけない、ときつく言ってあったはずです。
あれは、そうでなければ過程を正しく追うことはできないからこその忠告であったのだ、と思い返せているでしょうか。
三浦つとむがものごとが発展するというときには「ジグザグな道を通る」と言っていた理由がはたしてわかってもらえているのでしょうか。
あの本を弁証法的に読むということは、こういった各所各所も含めて全体を、弁証法的に読んでゆくということでなければならないはずですから、この箇所も相互浸透的に、「ではなぜ発展はストレートな道であるとしてはいけないのかな?」と読んでみることを通して、「自然に弁証法的な考えかたができる能力をこそ(!)」、培ってゆくのでなければ、いくら法則をまる覚えしても「なんの意味もない」、ということなのです。
というわけですから、どのような答えを出すかということ以上に、問題をどう過程的にとらえたか、ということを描き出す努力をしてほしかったものでした。
今回の課題の場合であれば、サリバンがヘレンと出逢ったその日に、それからの一定期間を「教育以前」、つまり「しつけ」の段階としてとらえたのはなぜなのか?
そして、そこを早まって教育に突き進んでゆかなかったことによって、ヘレンは一体どのような土台を獲得したのか?
と考えてゆけば、「教育以前」・「しつけ」の段階には必ずしも明確なかたちをとりえなかった大きな意味が、その次の段階では大きく浮上してくるということが、大きな感動とともに読み解けてゆくはずだと思うのです。
ひとつ大きな手がかりを指摘しておきましょう。
サリバンは3/20の感動を、このように書いています。
さて、論理が発現している文章や口頭での表現におやっ?と気付き、さらにその高低を推し量ることができたとしても、そこをなお弁証法的な文章として書ききるまでには、思っているよりも遥かな隔たりがあるものです。
このサリバン女史に胸を借りるつもりで、まずははじめからじっくりと、彼女がそこでそのような行動をとった、またとりえたのは、その根底にどのような人間観・また教育観があったからなのかとつぶさに追い、過程的にまとめてみることが大事です。
(8につづく)
わたしが今回出しておいた課題については、前回の記事にも書いたとおりですが、もう一度引用しておきましょう。
サリバン(著)『ヘレン・ケラーはどう教育されたか』を読んで、まずは1887.03.20の日記に注目してください。そして、提出されたレポートを検討しながらコメントしたのは、各段階の変化のあり方を弁証法レベルの論理として、とくに量質転化的に、過程的に把握し、また文章として適切に表現してもらわねば困る、ということだったのでした。
その冒頭に、「今朝、私の心はうれしさで高鳴っています。奇跡が起こったのです!知性の光が私の小さな生徒の心を照らしました。見てください。すべてが変わりました。」とあります。
では、サリバンがヘレンと始めて出逢った3/6からの数日間と、この3/20以降では、一体何がそれほどに違っているのでしょうか。
それを、3/20の前と後の期間を、それぞれ数日に区分して、「XXの期間」と「XXの期間」というふうに名前をつけるとともに、その内実および変遷について説明してください。その時、この本全体の、そのそれぞれの期間の位置づけをしっかりと確認しながら、<概念規定>するつもりでやってください。
いくつかレポートを受け取りましたので、まずは再提出した本人のものを見ましょう。
◆1. ノブくんのレポート◆
ヘレン・ケラーはどう教育されたかー1887年3月6日〜3月20日(修正版)
今回は、3月20日にある、「今朝、私の心はうれしさで高鳴っています。奇跡が起こったのです!知性の光が私の小さな生徒の心を照らしました。見てください。全てが変わりました。」という2行を中心にして、その前後で、ヘレンの内面がどのように変化していったのかを中心にして、本書をまとめていきたいと思います。というのもそれらの言葉通り、彼女はこの日を堺に自身とその周りの環境全てをかえたのであり、それを考える事はサリバンの教育論を考える上で避けては通れない問題とも言えます。
そこでここでは、その2行の前後の期間をそれぞれ規定し、どうのような必然性があった為にヘレンはそう変わらざるを得なかったのかを考えていくつもりです。
そもそも私の以前のレポートにも書いてあった通り、ヘレン・ケラーという少女の教育における問題というものは、身体ではなく精神の方にありました。つまり目が見えない、口がきけない、耳が聞こえないということ以外、私達と何も変わらなかったのです。
ですが、彼女の両親はそうした障害に同情しているが故に、ヘレンの言うことをなんでも聞いてしまっていました。その為、性格はとても我儘になり、不満があると苦い結果を残すまで争うことをやめようとはしません。
また両親はヘレンとまともに会話、意思の疎通をはかる術を持ちあわせてはおらず、彼女との関係は常に彼らの努力のみによって成り立ってきました。ですから、彼女は自分から何か訴える事があっても、何かを受け止める事はありません。サリバンが文中において、「彼女の愛情や思いやりや他人の賞賛を夜転ぶ子供らしい心に訴えるすべが一つもありません。」と書いてあったのはこのためです。
私はこの期間を、欲求を抑えず常に放出し、愛情(ここでは物理的な接触や言葉によって精神が満たされること)に訴える心を持ちあわせておらず、ただ自分から何かを訴えているばかりの状況から、「欲求放出期」と名付けることにしました。
そこでサリバンは、その原因となった両親から引き離し、全く違う環境で、彼女を征服することでこの期間からヘレンを脱出させようとしたのです。
それではそうした環境に追いやられた事によって、ヘレンはどのように変化していったのでしょうか。
サリバンに征服された事によって、ヘレンはこれまでのように欲求を好きなように放出する事ができなくなっていきました。そしてこれまでのように、両親のように彼女の我儘を許してくれる存在がいないのもその一因となっていることも見逃せません。ですから、彼女はサリバンに服従する中で、それなりの発散の仕方を見つけるしかなく、自然と指文字や言葉に興味を向けていったのです。
またサリバンの教育スタイルとしては、征服というぐらいですから、当然サリバンからヘレンへ、何かしらの強制力が働くことになります。つまりそれまでの、ヘレンから誰それへ何かを訴える流れとはまるで逆なのです。ですからヘレンは、他人の思いやりや愛情を受け止める器というものを形成せざるをえなくなっていきました。だからこそ彼女は、3月20日のその日には、サリバンの傍で、晴れやかな顔をして編み物をしていれたのです。
上記のように、征服によって強制的に欲求を抑えられたこと、そしてその強制力から相手の征服や大まかな感情を受け止める器を形成していった事から、この期間を、「欲求制御期」と規定することにしました。
◆誤字◆
・堺…この指摘は2度めです。重く受け止めねばなりません。
・どうのような
・夜転ぶ
◆1. わたしのコメント◆
はじめに断っておきたいことは、この論者は今回残念ながら、顔を突き合わせての議論の場に参加できませんでしたので、わたしの求めている<過程性>というものについて、各種の運動法則を引き合いに出しての生き生きとしたダイナミックな像を描きにくかったであろうという点です。
といっても、だからといってクロがシロになるわけはないのでやはり率直に評価することになります。
論者は、「欲求」というものを起点にしながら、1887年の3/20を境にした、ヘレンが彼女の内面のそれを内側からただただ押し出すだけの時期と、服従というものを学びそれを抑えられた時期、と質的に区分しています。
この理解にはいくつかの大きな問題があります。
◆世界観の問題…唯物論の立場に立てているか
まず一つ目の問題は、論者が、この書籍で扱われている一つの現象を、ありのままに正面に据えて理解するのではなく、いわば自分があらかじめ用意した価値観やキーワードに基づいて「解釈」しようとしているという点です。
本質を先天的(ア・プリオリ)に規定して対象を見ることを観念論と言い、さらに身勝手な解釈を展開することを、哲学になりきれないできそこないという侮蔑的な意味合いをこめて「思想」と言うことがありますが、これはまさにこれらに該当する理解の仕方であって、ここまで勉強しておきながらこの状態に留まっているというのは、残念だと言わざるを得ません。
どこまでが対象のありのままの理解であり、どこからが解釈となるのかは学問にとって非常に重要な問題ですから、大きく疑問に感じる方がおられてもおかしくないですし、それどころか絶対的に必要な問いかけなのですが、ここで詳しく立ち入ることは今回の論点をぼかすために次の機会にゆずるとして、ここではひとつ常識的に考えてみてください。
はたして論者の言うとおり、「征服によって強制的に欲求を抑えられたこと」が、「相手の征服や大まかな感情を受け止める器を形成してい」くことに繋がるのかどうか、と。
これではあたかも、「サリバンがヘレンを力でねじ伏せた」ことが直接的に、「ヘレンが愛情を受け止められるようになった」という結果を招いたかのように読めますが、本当にそうでしょうか。
サリバンはヘレンと出逢った初日に、こう言っていますね。
「ヘレンの気質をそこなわずに、どうやって彼女を訓練し、しつけるかがこれから解決すべき最大の課題です。私はまずゆっくりやりはじめて、彼女の愛情をかちとろうと考えています。力だけでは彼女を征服しようとはしないつもりです。でも、最初から正しい意味での従順さは要求するでしょう。」この点の批判をまだ続ける必要があるでしょうか。もっともサリバンが、初日に言っていたとおりのことをまるでできていない、というなら話は別ですが…。
さて、論者がこのような誤りに陥った原因は、さきほども指摘したとおり、論者がその世界観として<唯物論>の立場を堅持できていないということ、いったん規定した欲求云々という、悪く言えば似非心理学的な用語をどうしても変えたくなかったことのほかに、もうひとつ大きな問題がありました。それが、<論理>の問題であり、これが2つ目の大きな問題なのです。
◆論理の問題…弁証法的な論理をつかめているか
そもそもを言えば、わたしがこの書籍を認識論の題材に選んだのは、この本が、というかサリバン女史の教育方針とその土台となる世界観が唯物論的であり、またその論理が弁証法的であるからです。
アン・サリバンが唯物論やら弁証法やらを使えたとは…?そんなことは初耳だが、といぶかしがる向きもあるでしょうが、唯物論も弁証法も、「私は唯物論的弁証法の立場に立って研究している」と宣言すれば満たせるような生易しいものではないものですし、また逆に、そう明言しなくともそのように考えられている人もいる、ということを改めて確認しておきたいと思います。サリバンがヘレンと出逢った初日に何を言ったかをさきほど引用しておきましたが、その箇所をもう一度読んでみてください。
さきほど見てきた論者の理解と、どう違いますか。
論者にあっては、「あれをすればこうなる」式に、「あれ」→「これ」と、直接的に結びつけようとしたために無理が生じ、かえっておかしな解釈をつくりあげることになっていることを見てきました。書店の店頭に並ぶハウトゥ本やビジネス書が単なる解釈のでっち上げに終わって、その解釈というレベルでは、書籍が主眼に置いているはずの、論理の現実的な適用がむしろ成し得ないのはこの点です。とても大事なことですから、じっくり考えてください。
ここをサリバンその人は、どう言っていますか。征服→訓練だとか、征服→愛情だとか考えていますか、決してそうではないでしょう。
ではどう書かれているかといえば、これからの指導にあたっては、大きな方針としては、あくまでもヘレンの気質をそこなわずに彼女を訓練してゆくことであると、まずことわっています。
その大きな方針から導き出されることとして当然に、力づくでヘレンを征服するようなことは彼女の思うところではないのですが、それでも、それが必要な場合があるであろうことも認めており、それというのが、ヘレンが「正しい意味での従順さ」を発揮してくれない時である、というわけです。
こういう論理的な文章が目の前に現れた時、「この人はああ言えばこう言う、こう言えばああ言うものだな。結局のところ、教育において相手を征服すべきなのかしてはいけないのかどっちなのだ!?」という、あまりにも寂しい自らの低い論理レベルに押し下げて読んでしまう人が大の大人の中にもたくさんいますが、ここにいる読者のみなさんはぜひとも、それだけは避けてもらいたいと思います。
ここに書かれているのは、そんな頭ごなしの感情的な反発や、論理の高い文章を手も足も出ないからとダブルスタンダードだと決め付けるような低レベルの非難で片付けてしまって良いような内容では決して無く、大きくひとつの原則を立てられているからこそ、今回の場合であれば正しい人間観に立脚できているからこそ、各所・各所での複雑な現象を、はっきりと切り分けて、「ここまではやっても良いがこれ以上はダメ」だ、というふうに判断できるということ、なのです。
これは現実が複雑だからとそれにあわせて右往左往することが生きることであったりビジネスであったりと捉えてしまうまでに忙しい社会に身をおく人たちにとっては、なかなかに理解し難いことのはずです。
それでも、その困難を押しのけてどうしてもわかってもらわねばならないのは、複雑な現実の中の各場面において、一本の筋の通った判断をしようと思えば、そう思えば思うほどに、そこには大きく根を張る原則を持っていなければならない、ということです。
明確な原則があるからこそ、その光に当てられて複雑な現実を正しく見ることができ、また問題を正しく処理できる。この論理を、弁証法では、論理を排除して実践だけをとるのではダメで、論理があるからこそ正しい実践が導け、正しく実践を繰り返すからこそ正しい論理が導けるのだと、どちらが欠けてもどちらも成り立たなくなるという関係性において捉えるところから、それを<相互浸透>というのでしたね。
もちろんサリバンは、自らを唯物論的弁証法の立場に立つ実践的研究者を自任していたわけではありませんが、彼女の行動や記述の中には、このような論理があまりにも豊かに含まれていることを見逃してはいけません。
◆以上をふまえて本文を読む
さてでは、以上で述べてきた、唯物論と弁証法という世界観と考え方をしっかり持った上で、あらためてもう一度引用箇所を、より具体的に見ておきましょう。
「ヘレンの気質をそこなわずに、どうやって彼女を訓練し、しつけるかがこれから解決すべき最大の課題です。私はまずゆっくりやりはじめて、彼女の愛情をかちとろうと考えています。力だけでは彼女を征服しようとはしないつもりです。でも、最初から正しい意味での従順さは要求するでしょう。」サリバンはヘレンと初めて出逢った時、サリバンが当初想定していた人物像とは違っていたのでした。
それはその時点で、そのままの状態ではヘレンに「教育」を与えるのは不可能、より正しくは、歪んだ土台の上に教育を与えても悪い影響しか与えることがないであろう、という見通しが立ったということでもあったのです。
ですからサリバンは、ヘレンと出逢ってから3/20までのあいだ、「教育以前」の問題に取り組まねばならなくなったのであって、それが、この引用箇所に決意表明されていることの内容であったのです。
ここをしっかりと覚えているのであれば、1887年の3/20に、サリバンがありったけの喜びとともに語ったことの意味が、その気持ちが、自ら経験したかのようにつかめてくるはずです。引用してみましょう。
「今朝、私の心はうれしさで高鳴っています。奇跡が起こったのです!知性の光が私の小さな生徒の心を照らしました。見てください。すべてが変わりました。わたしとしては、この2つの引用部が、すでに今回の課題において、ほぼ直接的に答えになっていると思えてならないのですが…。
二週間前の小さな野生動物は、やさしい子どもに変わりました。私が手紙を書いていると、彼女は私のそばに座って、はれやかで幸福そうな顔付きをして、赤いスコットランドの毛糸で長い鎖編みをしています。彼女は今週、ステッチを覚えました。そして、しあげることをとても自慢にしています。部屋の向こうまで届くほど長い鎖を編むのに成功すると、得意になって、自分で作った最初の作品に愛情をこめて頬ずりしました。
今では彼女は私にキスもさせますし、ことのほかやさしい気分のときなら、私の膝に一、二分のあいだ乗ったりします。でも、私にお返しのキスはしてくれません。大きな進歩−−価値ある進歩−−をしました。この小さな野生児は、服従という最初の教訓を学び、そして、拘束が楽なものだと気づきました。今や、この子どもの心の中で動き始めている美しい知性を方向づけ、形づくることが、私の楽しい仕事となりました。」
さきほどの引用箇所と同じようにこちらも説明してしまっては、もうそれは解答そのものと言ってもよいほどになってしまいますから、もう一つ念押しの意味も込めて、論者の妙な思い込みについて批判をしておきます。
◆
今回、もはや繰り返す必要もないはずの、世界観と論理の問題を振り返らざるを得なかったのは、ほかでもなく今回のレポートが、前回のレポートと比べて、論理のレベルをまるで高めることができていない、という一点が気がかりなためです。
論者はどうも、わたしの出しておいた課題の採点基準について、さも「答えが合っていれば合格をもらえる」かのように思い込んでいるようですが、勘違いも甚だしいとはこのことです。
弁証法的な論理が形而上学的な論理と決定的に違うのは、前者が過程をこそ正しく把握しようとする点においてです。
前回も説明しておいたとおり、たとえば前者においては、ひとりの人間という一個体の生育段階を、各過程がそれぞれ、人間一般に照らした必然性において折り重なるように発展してゆくものととらえます。
しかし後者にあっては、各段階をそれぞれバラバラにとらえるという踏み外しをし、さらに進んで、結果として発展しきったところの成人のあり方に焦点を当てすぎるときには、「どうせ成長してしまえば今の我々のような身体になるのだから、「小さな大人」のまま生まれてしまったほうが合理的」とまで錯覚してしまいかねないほどの論理の低さとなってしまうのです。
わたしは以前、歴史を考えるときにはいくらそれが曲がりくねった道をたどっているように見えたとしても、一見して特殊に見えるものを安易に例外であるとして片付けてはいけない、ときつく言ってあったはずです。
あれは、そうでなければ過程を正しく追うことはできないからこその忠告であったのだ、と思い返せているでしょうか。
三浦つとむがものごとが発展するというときには「ジグザグな道を通る」と言っていた理由がはたしてわかってもらえているのでしょうか。
あの本を弁証法的に読むということは、こういった各所各所も含めて全体を、弁証法的に読んでゆくということでなければならないはずですから、この箇所も相互浸透的に、「ではなぜ発展はストレートな道であるとしてはいけないのかな?」と読んでみることを通して、「自然に弁証法的な考えかたができる能力をこそ(!)」、培ってゆくのでなければ、いくら法則をまる覚えしても「なんの意味もない」、ということなのです。
というわけですから、どのような答えを出すかということ以上に、問題をどう過程的にとらえたか、ということを描き出す努力をしてほしかったものでした。
今回の課題の場合であれば、サリバンがヘレンと出逢ったその日に、それからの一定期間を「教育以前」、つまり「しつけ」の段階としてとらえたのはなぜなのか?
そして、そこを早まって教育に突き進んでゆかなかったことによって、ヘレンは一体どのような土台を獲得したのか?
と考えてゆけば、「教育以前」・「しつけ」の段階には必ずしも明確なかたちをとりえなかった大きな意味が、その次の段階では大きく浮上してくるということが、大きな感動とともに読み解けてゆくはずだと思うのです。
ひとつ大きな手がかりを指摘しておきましょう。
サリバンは3/20の感動を、このように書いています。
「今や、この子どもの心の中で動き始めている美しい知性を方向づけ、形づくることが、私の楽しい仕事となりました。」この箇所は実践の中で導き出してきた弁証法が含まれているのです。しっかり読めていますか。
さて、論理が発現している文章や口頭での表現におやっ?と気付き、さらにその高低を推し量ることができたとしても、そこをなお弁証法的な文章として書ききるまでには、思っているよりも遥かな隔たりがあるものです。
このサリバン女史に胸を借りるつもりで、まずははじめからじっくりと、彼女がそこでそのような行動をとった、またとりえたのは、その根底にどのような人間観・また教育観があったからなのかとつぶさに追い、過程的にまとめてみることが大事です。
(8につづく)
2014/02/21
『ヘレン・ケラーはどう教育されたか』(7):1887.03.06-04.03 (I)
このBlogの読者の方に向けての文章は、またもや久しぶりになってしまいました。
定期的な更新がなかなか軌道にのらないのはいくつか理由があるのですが、わたしのところに学びに来ている学生たちに、彼や彼女らが学生でいるあいだに、できるだけのことをできるかぎりの体系性と過程性を確認しながら伝えておきたい、という事情がその最も大きなものになっている事情があるのです。
砂上の楼閣ということばがあるとおり、砂で出来た土台の上にいくら高度な建造物を築こうとも、それはそう遠くないうちに崩れ去ってしまいます。そして、それは体系性・過程性を何よりも重視する学問という分野においてはなおのことしっかりと押さえておかねばならない点なのです。
ただこのような、高みに昇ろうとすればするほど土台作りが大事である、ということを述べると、「それは学問の場合であれば、しっかりとした基礎教養の上に専門知識が載せられているかどうかということですか」と聞き返されることがあります。
それはそれで間違いではないのですが、その言葉通りの理解では論理のレベルが低いのだ、ということも併せて指摘しておかねばなりません。
それというのが、今回扱う<過程性>の問題なのです。
◆ノブくんのレポート◆
レポート;ヘレン・ケラーはどう教育されたか1887年3月6日〜3月20日
レポートの数も大変多くなってきましたので、今回はこれまで私が書いてきた、3月6日から20日までの出来事をおさらいしてみようかと思います。おさらいとは言いましたが、単に整理していくのではなく、3月20日(※1)を堺に彼女がどうのように変化していったのかを論じていくつもりです。というのも本文にある、「知性の光が私の小さな生徒の心を照らしました。」という一文からも理解できるように、この日からヘレンは教育において質的に次の段階へと進んでいった過程が潜んでおり、これを論じていくことは本書を理解していくことにおいて避けては通れません。そこでまずは3月20日以前と以後の彼女を比較し、それぞれが教育においてどのような段階にあったのか、どのような期間であったのかを規定し、前後の違いを論じていきます。
私は以前、自身が書いたレポート;ヘレン・ケラーはどう教育されたかー1887年3月6日(修正版5)において、ヘレンは普通の7歳前後の子供達と比べて身体面に異常はなく、その問題というものは、「好奇心を抑えられない、社会性が乏しく誰がきても自分の我儘を通そうとする精神的な気質にある」と述べていました。
そしてそれはどのようなものであったのかというと、食事の作法と言えばナプキンも付けず、辺りにあるものはナイフやフォークを使わず手づかみで食べ、お客さんが来るかと思えば勝手に鞄の中を覗こうとし、そうかと思いそれを制止しようとすれば暴れてしまう、というものだったのです。これらの行動からこの期間の彼女の特徴は、下記のような事になるでしょう。
◯社会性がまるでない。
◯欲求を抑えることが出来ず知らず、ただ、したいかしたくないかのみで行動している。
私はこの期間を、欲求を抑えず常に開放し、社会性を無視した行動をとるために、「欲求開放期」と仮に名付けることにしました。
そしてこの「欲求開放期」のもう一つの特徴として、「愛情を受け取る器がない」という事が挙げられるでしょう。ここでいう「愛情」とは、一般的な、誰かが誰かに好意を寄せる時にとる行動等の事ではなく、物理的な接触や言葉によって精神が満たされる現象を指す事を意味します。これまで好き勝手に欲求を満たしてきたヘレンにとって、「愛情」などというものの存在など無縁であった事でしょう。そしてサリバンはこれこそが自身の教育において大きな障害になるだろうと考えていきます。
そこで彼女は「征服」という手段によって、それをヘレンに植え付けようとしたのでした。ここで注意して頂きたいのは、ここでいう「征服」とは、人として倫理的、道徳的に外れた行動を強制的に正していくという意味を指すということです。(詳しくは3月月曜の午後、3月11日のレポートを参照)やがてこの彼女の試みは成功し、3月20日以降のヘレンの行動は劇的に変わりました。
服従を学んだ事で、彼女はサリバンが監視している範囲では、ある程度欲求を抑える事ができはじめてきました。(ですが彼女と同年代の子供達に比べると、その効力はまだまだ薄いものであると言えるでしょう。7歳前後であれば、ある程度、大人から離れていても、自らの欲求を抑える術をある段階までは身につけているはずですから。)またサリバンのキスを許したり、サリバンの膝の上に乗ったりと、形式的ではあるかもしれませんが、愛情の存在を感じつつあるようにも見えます。ですからこの期間を「愛情獲得期」と呼ぶことにしましょう。
欲求解放期
◯社会性がまるでない。
◯欲求を抑えることが出来ず知らず、ただ、したいかしたくないかのみで行動している。
◯愛情を受け取る器がない。
愛情獲得期
◯愛情を感じつつある。
◯サリバンがいれば、欲求を抑える事ができる。
この2つの期間を比較すると、その違いはやはり欲求が抑えられるか否か、相手の精神的な好意を受け止められるか否かにあるのです。
◆わたしのコメント◆
参考書をひと通り読み終わった論者に、わたしが今回出しておいた課題は、以下のようなものでした。
このように言うと、「では基礎と応用をそれぞれもっと細かく区分すればいいのですか?」と聞かれる方もおられそうですが、これはことわざを引き合いに出して建造物でたとえているから、かえってわかりにくくなっているのかもしれません。
いまお話しているのは論理の問題ですが、そもそもわたしたちの目指しているのは事物や事象を低い論理の段階でとらえるのではなく、弁証法的な論理の段階でとらえる、ということでした。
弁証法を身近な題材を使って解くときにひとつ覚えておくと良いと思うのは、たとえ話の題材には、人工物よりも自然物を用いたほうがわかりやすくなる、ということです。
ですからここでも、建物ではなしに動物にたとえを変えて考えてみてください。
たとえば、私たちは人間は、母親の母体の中で受精卵が次第次第に成長を遂げ、赤ん坊としておぎゃあと生まれることになりますが、そのとき、その過程としてはいきなり私たち成人のような、五体が備わっているような状態で生まれてくるわけではないですね。
そこには、オタマジャクシのような段階もありますし、手足が生えた両生類のような段階もありますし、ようやく人間らしいかたちをとるようになってもやはり尻尾が生えたままであることは、我々成人の体つきとは異なっています。
ではなぜ、いきなり、いわば「小さな大人」のような状態で生まれてこないのかな、と考えたことはありませんか?
どうせ成長してしまえば今の我々のような身体になるのですから、「小さな大人」のまま生まれてしまったほうがある意味で合理的なようにも思えます。
◆
ここまでご説明したとき、さきほどの「土台がしっかりと出来上がっていないのなら…」というお話と、通じる論点が見えてきた人もいるのではないでしょうか。
その人は、科学史なり哲学史なり生物の歴史なり、なんらかの歴史的な書物か、または犬猫などの動物の飼育という実地に、じっくりと向き合ったことがあるのではないかと思います。
この「なぜ人間は「小さな大人」のまま生まれてこないのか?」という問題は、できればその人に答えてもらいたいのですが、今はわたしが代わりにお答えすることにしておきましょう。
それは、人間にとって母親の母体で過ごす、オタマジャクシの段階、両生類の段階、哺乳類の段階、サルの段階というものは、最終的にはそのかたちをそのままに留めるのではないにしても、その段階、その段階をその形態で過ごすという意味において、必然性を持っているのだ、ということなのです。
言い換えれば、わたしたちが今のような身体に育つことができているのは、オタマジャクシ、両生類、哺乳類、サルという道筋をしっかりと辿れたから!なのであって、それ以外ではない、ということなのです。
ですから、もしオタマジャクシの姿を十分に取らずにいきなりサルになってしまえば(これは単なるたとえです、ありえないことですから)、それだけの歪みが生じざるを得ない、ということが言えるわけです。
ここからさらに進んで、おぎゃあと生まれてお母さんの胸に抱かれてすくすく育ち、大の字になって寝転び寝返りをうつようになり、ハイハイを経てつかまり立ち、さらにはひとりで立つということができるようになってゆくとき、その段階、その段階はどういう必要があるのか、必然性があるのか、ということも、ここでお話している<過程>における必然性の問題、ということになります。
◆
さてここまで説明すると、なぜレポートの添削をせずに長々と過程などというものについてしゃべっているのか…?と、論者は疑問に思うでしょうか、それとも、「あっ…!?もしかして、これはレポートの不足を補うための話なのか…?」と思ってくれるでしょうか。
さきほど、赤ん坊の生育を例に取りながら、過程における一つの段階は、一見するとその最終的な段階とは似ても似つかないものでありながらもなお、次の段階を支える関係になっている、ということをお伝えしました。
事物を、最終的に出来上がった、結果だけの形態や状態でとらえるのでなしに、各段階、各段階が折り重なるように積み重なった過程の複合体としてとらえることを、弁証法的にとらえる、と言うのです。
このことは、課題を出すたびにことわる必要がないはずのことだと思っています。
さきほどわたしが述べたことの中に、
この考え方でいうところの「合理性」というものは、最終的な結果だけしか主眼に置かないために、過程における必然性が読み取れていないので、これを弁証法的な論理ではなく、論理のレベルが低い、と言ったわけです。
論者は確かに、生真面目に課題をこなし、ひとつめの段階、次の段階、というふうに規定しつつ一定の説明をしてくれていますが、それらは、各段階をそれぞれの過程的な必然性を把握しながらの説明になっているでしょうか?そのことを、もう一度考えてみてもらいたいと思います。それが、弁証法的に考える、ということなのです。
◆
参考書で扱われている問題に従って、より課題に即していうのならば、サリバン女史がヘレンとはじめて出逢ったとき、ヘレンの状態は、サリバンの想定していたものとは違っていました。
そこでサリバンは、当初出逢ってすぐにはじめようと考えていた教育の段階からいったん降りて、よりヘレンの基本的・根本的・基礎的なところに働きかけるように教育をし、そのことによって一定の土台をつくろうとしたのでしたね。
このことが、オタマジャクシ(魚類)の段階がなければ両生類の段階はなく、両生類の段階がないのであれば哺乳類の段階もないのだ、ということと論理的に同様のものとして類推しながら捉えられているでしょうか。
論者の今の書き方では、各段階、各段階が、それぞれ質的に違ったものとして捉えられつつはあっても、あたかも「順不同」であるとみなされてもおかしくないような状態ではないでしょうか。これでは、<過程性>をふまえたことにはならないはずです。
サリバンが考えたヘレンのあるべき成長過程というものは、やはりひとつひとつの段階には、その順番がそうでなければならない必然性があるのであって、これはやはり、人間の一般的な生育過程をふまえるものでなければなりません。その点に注意を払いながら、もう一度、考えてみてもらいたいと思います。
また、各段階の名称について、「概念規定するつもりで」と言っておきましたが、これはなにも、「小難しく考えろ」と言ったわけではありません。
各段階の名称は、文中に出てくる日常言語レベルの字句を使ってでも十分に表現できますから、こちらも肩の力を抜いて考えてみてほしいと思います。
◆正誤◆
・3月20日(※1)を堺に彼女がどうのように変化していったのか
→3月20日(※1)を境に彼女がどのように変化していったのか
(8につづく)
定期的な更新がなかなか軌道にのらないのはいくつか理由があるのですが、わたしのところに学びに来ている学生たちに、彼や彼女らが学生でいるあいだに、できるだけのことをできるかぎりの体系性と過程性を確認しながら伝えておきたい、という事情がその最も大きなものになっている事情があるのです。
砂上の楼閣ということばがあるとおり、砂で出来た土台の上にいくら高度な建造物を築こうとも、それはそう遠くないうちに崩れ去ってしまいます。そして、それは体系性・過程性を何よりも重視する学問という分野においてはなおのことしっかりと押さえておかねばならない点なのです。
ただこのような、高みに昇ろうとすればするほど土台作りが大事である、ということを述べると、「それは学問の場合であれば、しっかりとした基礎教養の上に専門知識が載せられているかどうかということですか」と聞き返されることがあります。
それはそれで間違いではないのですが、その言葉通りの理解では論理のレベルが低いのだ、ということも併せて指摘しておかねばなりません。
それというのが、今回扱う<過程性>の問題なのです。
◆ノブくんのレポート◆
レポート;ヘレン・ケラーはどう教育されたか1887年3月6日〜3月20日
レポートの数も大変多くなってきましたので、今回はこれまで私が書いてきた、3月6日から20日までの出来事をおさらいしてみようかと思います。おさらいとは言いましたが、単に整理していくのではなく、3月20日(※1)を堺に彼女がどうのように変化していったのかを論じていくつもりです。というのも本文にある、「知性の光が私の小さな生徒の心を照らしました。」という一文からも理解できるように、この日からヘレンは教育において質的に次の段階へと進んでいった過程が潜んでおり、これを論じていくことは本書を理解していくことにおいて避けては通れません。そこでまずは3月20日以前と以後の彼女を比較し、それぞれが教育においてどのような段階にあったのか、どのような期間であったのかを規定し、前後の違いを論じていきます。
私は以前、自身が書いたレポート;ヘレン・ケラーはどう教育されたかー1887年3月6日(修正版5)において、ヘレンは普通の7歳前後の子供達と比べて身体面に異常はなく、その問題というものは、「好奇心を抑えられない、社会性が乏しく誰がきても自分の我儘を通そうとする精神的な気質にある」と述べていました。
そしてそれはどのようなものであったのかというと、食事の作法と言えばナプキンも付けず、辺りにあるものはナイフやフォークを使わず手づかみで食べ、お客さんが来るかと思えば勝手に鞄の中を覗こうとし、そうかと思いそれを制止しようとすれば暴れてしまう、というものだったのです。これらの行動からこの期間の彼女の特徴は、下記のような事になるでしょう。
◯社会性がまるでない。
◯欲求を抑えることが出来ず知らず、ただ、したいかしたくないかのみで行動している。
私はこの期間を、欲求を抑えず常に開放し、社会性を無視した行動をとるために、「欲求開放期」と仮に名付けることにしました。
そしてこの「欲求開放期」のもう一つの特徴として、「愛情を受け取る器がない」という事が挙げられるでしょう。ここでいう「愛情」とは、一般的な、誰かが誰かに好意を寄せる時にとる行動等の事ではなく、物理的な接触や言葉によって精神が満たされる現象を指す事を意味します。これまで好き勝手に欲求を満たしてきたヘレンにとって、「愛情」などというものの存在など無縁であった事でしょう。そしてサリバンはこれこそが自身の教育において大きな障害になるだろうと考えていきます。
そこで彼女は「征服」という手段によって、それをヘレンに植え付けようとしたのでした。ここで注意して頂きたいのは、ここでいう「征服」とは、人として倫理的、道徳的に外れた行動を強制的に正していくという意味を指すということです。(詳しくは3月月曜の午後、3月11日のレポートを参照)やがてこの彼女の試みは成功し、3月20日以降のヘレンの行動は劇的に変わりました。
服従を学んだ事で、彼女はサリバンが監視している範囲では、ある程度欲求を抑える事ができはじめてきました。(ですが彼女と同年代の子供達に比べると、その効力はまだまだ薄いものであると言えるでしょう。7歳前後であれば、ある程度、大人から離れていても、自らの欲求を抑える術をある段階までは身につけているはずですから。)またサリバンのキスを許したり、サリバンの膝の上に乗ったりと、形式的ではあるかもしれませんが、愛情の存在を感じつつあるようにも見えます。ですからこの期間を「愛情獲得期」と呼ぶことにしましょう。
欲求解放期
◯社会性がまるでない。
◯欲求を抑えることが出来ず知らず、ただ、したいかしたくないかのみで行動している。
◯愛情を受け取る器がない。
愛情獲得期
◯愛情を感じつつある。
◯サリバンがいれば、欲求を抑える事ができる。
この2つの期間を比較すると、その違いはやはり欲求が抑えられるか否か、相手の精神的な好意を受け止められるか否かにあるのです。
◆わたしのコメント◆
参考書をひと通り読み終わった論者に、わたしが今回出しておいた課題は、以下のようなものでした。
サリバン(著)『ヘレン・ケラーはどう教育されたか』を読んで、まずは1887.03.20の日記に注目してください。ここでわたしがさきほど前置きしていたことを思い出してもらいたいのですが、土台がしっかりと出来上がっていないところにどんな立派な建造物を建てても早晩崩れることになるということを、基礎と応用にだけ区分したのでは論理のレベルが低い、と言いました。
その冒頭に、「今朝、私の心はうれしさで高鳴っています。奇跡が起こったのです!知性の光が私の小さな生徒の心を照らしました。見てください。すべてが変わりました。」とあります。
では、サリバンがヘレンと始めて出逢った3/6からの数日間と、この3/20以降では、一体何がそれほどに違っているのでしょうか。
それを、3/20の前と後の期間を、それぞれ数日に区分して、「XXの期間」と「XXの期間」というふうに名前をつけるとともに、その内実および変遷について説明してください。その時、この本全体の、そのそれぞれの期間の位置づけをしっかりと確認しながら、<概念規定>するつもりでやってください。
このように言うと、「では基礎と応用をそれぞれもっと細かく区分すればいいのですか?」と聞かれる方もおられそうですが、これはことわざを引き合いに出して建造物でたとえているから、かえってわかりにくくなっているのかもしれません。
いまお話しているのは論理の問題ですが、そもそもわたしたちの目指しているのは事物や事象を低い論理の段階でとらえるのではなく、弁証法的な論理の段階でとらえる、ということでした。
弁証法を身近な題材を使って解くときにひとつ覚えておくと良いと思うのは、たとえ話の題材には、人工物よりも自然物を用いたほうがわかりやすくなる、ということです。
ですからここでも、建物ではなしに動物にたとえを変えて考えてみてください。
たとえば、私たちは人間は、母親の母体の中で受精卵が次第次第に成長を遂げ、赤ん坊としておぎゃあと生まれることになりますが、そのとき、その過程としてはいきなり私たち成人のような、五体が備わっているような状態で生まれてくるわけではないですね。
そこには、オタマジャクシのような段階もありますし、手足が生えた両生類のような段階もありますし、ようやく人間らしいかたちをとるようになってもやはり尻尾が生えたままであることは、我々成人の体つきとは異なっています。
ではなぜ、いきなり、いわば「小さな大人」のような状態で生まれてこないのかな、と考えたことはありませんか?
どうせ成長してしまえば今の我々のような身体になるのですから、「小さな大人」のまま生まれてしまったほうがある意味で合理的なようにも思えます。
◆
ここまでご説明したとき、さきほどの「土台がしっかりと出来上がっていないのなら…」というお話と、通じる論点が見えてきた人もいるのではないでしょうか。
その人は、科学史なり哲学史なり生物の歴史なり、なんらかの歴史的な書物か、または犬猫などの動物の飼育という実地に、じっくりと向き合ったことがあるのではないかと思います。
この「なぜ人間は「小さな大人」のまま生まれてこないのか?」という問題は、できればその人に答えてもらいたいのですが、今はわたしが代わりにお答えすることにしておきましょう。
それは、人間にとって母親の母体で過ごす、オタマジャクシの段階、両生類の段階、哺乳類の段階、サルの段階というものは、最終的にはそのかたちをそのままに留めるのではないにしても、その段階、その段階をその形態で過ごすという意味において、必然性を持っているのだ、ということなのです。
言い換えれば、わたしたちが今のような身体に育つことができているのは、オタマジャクシ、両生類、哺乳類、サルという道筋をしっかりと辿れたから!なのであって、それ以外ではない、ということなのです。
ですから、もしオタマジャクシの姿を十分に取らずにいきなりサルになってしまえば(これは単なるたとえです、ありえないことですから)、それだけの歪みが生じざるを得ない、ということが言えるわけです。
ここからさらに進んで、おぎゃあと生まれてお母さんの胸に抱かれてすくすく育ち、大の字になって寝転び寝返りをうつようになり、ハイハイを経てつかまり立ち、さらにはひとりで立つということができるようになってゆくとき、その段階、その段階はどういう必要があるのか、必然性があるのか、ということも、ここでお話している<過程>における必然性の問題、ということになります。
◆
さてここまで説明すると、なぜレポートの添削をせずに長々と過程などというものについてしゃべっているのか…?と、論者は疑問に思うでしょうか、それとも、「あっ…!?もしかして、これはレポートの不足を補うための話なのか…?」と思ってくれるでしょうか。
さきほど、赤ん坊の生育を例に取りながら、過程における一つの段階は、一見するとその最終的な段階とは似ても似つかないものでありながらもなお、次の段階を支える関係になっている、ということをお伝えしました。
事物を、最終的に出来上がった、結果だけの形態や状態でとらえるのでなしに、各段階、各段階が折り重なるように積み重なった過程の複合体としてとらえることを、弁証法的にとらえる、と言うのです。
このことは、課題を出すたびにことわる必要がないはずのことだと思っています。
さきほどわたしが述べたことの中に、
どうせ成長してしまえば今の我々のような身体になるのですから、「小さな大人」のまま生まれてしまったほうがある意味で合理的なようにも思えます。という部分がありましたね。
この考え方でいうところの「合理性」というものは、最終的な結果だけしか主眼に置かないために、過程における必然性が読み取れていないので、これを弁証法的な論理ではなく、論理のレベルが低い、と言ったわけです。
論者は確かに、生真面目に課題をこなし、ひとつめの段階、次の段階、というふうに規定しつつ一定の説明をしてくれていますが、それらは、各段階をそれぞれの過程的な必然性を把握しながらの説明になっているでしょうか?そのことを、もう一度考えてみてもらいたいと思います。それが、弁証法的に考える、ということなのです。
◆
参考書で扱われている問題に従って、より課題に即していうのならば、サリバン女史がヘレンとはじめて出逢ったとき、ヘレンの状態は、サリバンの想定していたものとは違っていました。
そこでサリバンは、当初出逢ってすぐにはじめようと考えていた教育の段階からいったん降りて、よりヘレンの基本的・根本的・基礎的なところに働きかけるように教育をし、そのことによって一定の土台をつくろうとしたのでしたね。
このことが、オタマジャクシ(魚類)の段階がなければ両生類の段階はなく、両生類の段階がないのであれば哺乳類の段階もないのだ、ということと論理的に同様のものとして類推しながら捉えられているでしょうか。
論者の今の書き方では、各段階、各段階が、それぞれ質的に違ったものとして捉えられつつはあっても、あたかも「順不同」であるとみなされてもおかしくないような状態ではないでしょうか。これでは、<過程性>をふまえたことにはならないはずです。
サリバンが考えたヘレンのあるべき成長過程というものは、やはりひとつひとつの段階には、その順番がそうでなければならない必然性があるのであって、これはやはり、人間の一般的な生育過程をふまえるものでなければなりません。その点に注意を払いながら、もう一度、考えてみてもらいたいと思います。
また、各段階の名称について、「概念規定するつもりで」と言っておきましたが、これはなにも、「小難しく考えろ」と言ったわけではありません。
各段階の名称は、文中に出てくる日常言語レベルの字句を使ってでも十分に表現できますから、こちらも肩の力を抜いて考えてみてほしいと思います。
◆正誤◆
・3月20日(※1)を堺に彼女がどうのように変化していったのか
→3月20日(※1)を境に彼女がどのように変化していったのか
(8につづく)
2014/01/01
新年のごあいさつ
あけましておめでとうございます。
去年は、一昨年から進めていた研究組織の移動のためもあって、夏の終わりからの更新がかないませんでした。
その間、研究仲間や学生さん、活字中毒の友人たちからたびたび更新の催促があったことは、とても勇気づけられたものでした。
学問は、直接的に経済的・社会的な即効性を持ちうるものではありません。
そのために、学問・論理・理論が役に立たない、金にならない、だから棄ててしまえ、といった非難にさらされることにもつながってしまいます。
しかしそれでも、論理がなければ、我々人間がそれぞれに体験する経験は、その個別的な経験のままで終わります。
そして論理がなければ、他者の経験や知見を自分の実践のために、また将来のために活かすことができないままになります。
さらにまた学問がないのなら、人類の文化が、その根拠を失うことになるのです。
◆
わたしたち人間が、両親から生まれ育てられて、今のような独自の身体と精神を持つ存在となった時、その恵まれた境遇に感謝したり、また逆に、他者のそれと比べて不足を嘆いたりすることがあります。
たしかに器量や背格好などをはじめ、物質的な諸条件は、職業や人生における助けになりますし、それをより活かす方向に進めることは時には必要でしょう。
しかし生まれ持った条件を、後生大事に保持し続けるだけで人類文化の担い手になりうるかといえば、それは違います。
とくに学問は、その構造として確かな論理が体系として張り巡らされていなければならないために、生まれ持った条件、つまり運任せで人生をどうにかやりすごせばいいと考える向きには、決して本質的なものになってゆかないという性質があるのです。
もしみなさんが生まれつきの鈍才であったり、それとは逆に天才肌の人間であった場合には、それがなぜそうだったのか、より正しくはなぜそうでなければならなかったのか、もっと正しくはなぜそうでなければならなくなってきたのか、を、過程的かつ客観的に観る努力をしてもらいたいと思います。
天才は、自分が一足とびにたどり着いてしまう結論が、どうして導き出されたのかの過程を考えてみることで、また鈍才はなぜ人並みにわからないのか、どこまで基本的なところから説き起こしてもらえればわかるのかを考えてみることで、それぞれ逆向きに、対象の持っている性質や因果関係が、どう人間の認識として移し替えられてゆくのかを探究してゆくべきなのです。
ですから学問にとっては、わかるということはどういうことか、わからないということはどういうことかなどという人間の認識についての理論、教えるとはどういうことか、教えられるとはどういうことかの人間の教育についての理論、対象を理解し、それを教え教えられわからないことがわかってゆくという論理についての理論、というものが、極めて密接な関係にあることになるのです。
これはそれぞれ、認識論、教育論(指導論)、論理学(弁証法)、と呼び習わされているものというわけです。
◆
みなさんが天才であろうと鈍才であろうと、どんなに複雑な現象が目の前にあるときでも、それを誰でもわかるほどに基本的な原則から、解き起こしてゆくことのできる力を養ってゆかねばなりません。
それが、人類文化の担い手になるということであり、理論的実践家として仕事をするということです。
わたしも立場を同じくする者として、当人が努力をしたのならばそれだけの成果を、しっかりと身につけてもらえるだけの指導を実践してゆきたいと考えています。
今年一年の本質的進歩を祈念して。
本年もどうぞ、よろしくお願いいたします。
次回の更新は、今週末あたりになりそうです。
去年は、一昨年から進めていた研究組織の移動のためもあって、夏の終わりからの更新がかないませんでした。
その間、研究仲間や学生さん、活字中毒の友人たちからたびたび更新の催促があったことは、とても勇気づけられたものでした。
学問は、直接的に経済的・社会的な即効性を持ちうるものではありません。
そのために、学問・論理・理論が役に立たない、金にならない、だから棄ててしまえ、といった非難にさらされることにもつながってしまいます。
しかしそれでも、論理がなければ、我々人間がそれぞれに体験する経験は、その個別的な経験のままで終わります。
そして論理がなければ、他者の経験や知見を自分の実践のために、また将来のために活かすことができないままになります。
さらにまた学問がないのなら、人類の文化が、その根拠を失うことになるのです。
◆
わたしたち人間が、両親から生まれ育てられて、今のような独自の身体と精神を持つ存在となった時、その恵まれた境遇に感謝したり、また逆に、他者のそれと比べて不足を嘆いたりすることがあります。
たしかに器量や背格好などをはじめ、物質的な諸条件は、職業や人生における助けになりますし、それをより活かす方向に進めることは時には必要でしょう。
しかし生まれ持った条件を、後生大事に保持し続けるだけで人類文化の担い手になりうるかといえば、それは違います。
とくに学問は、その構造として確かな論理が体系として張り巡らされていなければならないために、生まれ持った条件、つまり運任せで人生をどうにかやりすごせばいいと考える向きには、決して本質的なものになってゆかないという性質があるのです。
もしみなさんが生まれつきの鈍才であったり、それとは逆に天才肌の人間であった場合には、それがなぜそうだったのか、より正しくはなぜそうでなければならなかったのか、もっと正しくはなぜそうでなければならなくなってきたのか、を、過程的かつ客観的に観る努力をしてもらいたいと思います。
天才は、自分が一足とびにたどり着いてしまう結論が、どうして導き出されたのかの過程を考えてみることで、また鈍才はなぜ人並みにわからないのか、どこまで基本的なところから説き起こしてもらえればわかるのかを考えてみることで、それぞれ逆向きに、対象の持っている性質や因果関係が、どう人間の認識として移し替えられてゆくのかを探究してゆくべきなのです。
ですから学問にとっては、わかるということはどういうことか、わからないということはどういうことかなどという人間の認識についての理論、教えるとはどういうことか、教えられるとはどういうことかの人間の教育についての理論、対象を理解し、それを教え教えられわからないことがわかってゆくという論理についての理論、というものが、極めて密接な関係にあることになるのです。
これはそれぞれ、認識論、教育論(指導論)、論理学(弁証法)、と呼び習わされているものというわけです。
◆
みなさんが天才であろうと鈍才であろうと、どんなに複雑な現象が目の前にあるときでも、それを誰でもわかるほどに基本的な原則から、解き起こしてゆくことのできる力を養ってゆかねばなりません。
それが、人類文化の担い手になるということであり、理論的実践家として仕事をするということです。
わたしも立場を同じくする者として、当人が努力をしたのならばそれだけの成果を、しっかりと身につけてもらえるだけの指導を実践してゆきたいと考えています。
今年一年の本質的進歩を祈念して。
本年もどうぞ、よろしくお願いいたします。
次回の更新は、今週末あたりになりそうです。
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