2015/03/10

志を込めて表現するとはどういうことか (1) 「文学考察: 未亡人ー豊島与志雄(修正版4)」を中心にして

前回の記事では、


取り上げた評論について、<過程性>という観点が欠如しつつあるということを指摘し、なぜそれが無くては作家としての大道から外れてしまうのかを考えてきました。

その失敗の構造としては、わたしからの指導と互いの議論によって作品の理解が深められたところまではよかったものの、そのことに引きずられるかたちで、いわば「わからせられてしまった」ことをも自分一人の実力であるかのように錯覚し、過程的な鍛錬を怠ってしまった、ということになります。

身近な例を挙げても、人のつくった公式に数字を当てはめて答えを出すことと公式そのものを導き出すことは違いますし、ひとつの漢字をキーボードで入力することとそれを自らのアタマにしっかりと像を思い浮かべながら手を動かして万年筆で書き付けることとは違います。
いったい何が違うのか?それが、<過程>というものなのです。

ある問題に対して、誰かに手を引かれたり背中を押されたり事細かにヒントを与えられたりしながらその答えに辿り着いた場合であっても、問題がほんの少し変わっただけで途端に解けなくなるようでは意味がありません。
ましてや、森羅万象は「変化するという性質だけは不変」であるだけに現実の問題は常に変化し続けていますから、過去の問題がいくら解けたとしても、そのことだけでは一歩も先へは進めないことになります。
変わり続け、また無限の広がりを持っている事物や事象から、自らの頭脳活動において問題そのものを浮上させ、さらにまた自らの頭脳活動においてそれを解く、ということができなければ、文化に携わる仕事をしたことにはならないのです。

ですから、過程がわからなくても問題が解ければいいじゃないの、という意見がありうるとするならば、それは自分で問題を解いたことのない人のそれだということができます。
文化人が最後まで手放してはならないのは、誰かの出してきた結論を自分のことのように言いふらすことでもなく、またそれを組み合わせて自分のオリジナルであるかのように吹いて回ることでもなく、あくまでも自らのアタマで現実の問題を解く、ということです。
過去に解かれた問題とその答え、また解法は、新しく浮上した問題を解くための手がかりにはなっても、決して答えそのものではありません。
厳しくココロに刻んでもらいたいと思います。

さて今回は、「自らを作家として規定すること」の、いわば志レベルの不足、についてお話しするところでした。
まずは前回に転載した評論である(修正版3)と、それにたいする<過程性>と志についての指摘を受けて書かれた、今回の(修正版4)を読み比べてもらいたいと思います。
いったいどこに違いがあるでしょうか。


◆ノブくんの評論

山男の四月ー宮沢賢治(修正版4)
 この作品は差出人不明の、「守山未亡人千賀子さん」宛の3通の手紙から成り立っています。
 
 1通目においては、差出人と千賀子についてと、選挙への出馬の事が綴られていました。
 千賀子はどうやら差出人を見ると、「擽ったいような表情」をされて、差出人は戸惑うことがあるというのです。しかし千賀子自身は差出人への身の振り方を考えなければ、その存在が千賀子を破滅される恐れがあるといいます。
 また彼女はその時、猫のように居眠りをしたり猫を擽ったりしながら、秋山という人物から50万円という大金が届く知らせを待っていました。その大金を政治資金にして、千賀子は出馬を考えていたのです。そしてその姿は、差出人から見れば幾らか醜いものに見えていたようでした。
 2通目では、息子の友人である「高木」が家に遊びに来た時の事が綴られています。
 出馬を考えはじめた千賀子は、次にこの「高木」という人物に政治の勉強をさせて、自身の政治活動に役立てようとしたのです。ですが高木は彼女に恋慕していた為に、政治に利用されようとしている事が見抜けません。
 更に高木よりも15も年上の千賀子は、恐らく以前から高木の気持ちを知っており、政界への前途が開けた事に気を良くして、彼で遊んでみようと考えはじめたのです。彼女は「肩がこった」と言って服をずらし艶かしい素肌を露にして、彼に肩を揉ませてみました。そうして彼女は彼の純粋無垢な反応を楽しんだのです。
 差出人はこれにも矢張り呆れていました。ですが息子が帰ってきて政治の話をしたのですが、沈黙の合間に「冷たい微風に似た静寂」を感じた事については幾分か評価しています。
 3通目では、その翌日の事が綴られています。
 その前夜で家の者達に選挙への出馬を表明した千賀子は、手始めに夫への墓参りを決意していきました。これは差出人も意外だったと述べています。そしてその彼女の墓参りの姿を、差出人は高く評価したのです。曰く、彼女は「白痴」のように何も考える事を持ちあわせておらず、未亡人のようないやらしさがなくなり、1個の女になっていたというのです。
 やがて墓参りを終えた千賀子は、活動活動の日々に追われる事となり、「瞳を複雑に濁らせていく」のでした。
 一体差出人は何物なのでしょうか。一体千賀子のどういったところを具体的に非難しているのでしょうか。
 この作品では、〈野望も希望もない未亡人が政治に出馬し暇つぶしをする様に、自分自身に呆れられる様子〉が描かれています。
 上記の問題に答えるにあたり、物語をもう一度、差出人と宛先人の、各場面での心情を整理してみましょう。
 1通目において、宛先人は差出人を見ると擽ったい表情をしますが、その差出人が彼女を殺すことだって有り得る、という風な事が書かれてあります。それは決して差出人が直接手を下すというような事ではないでしょう。差出人は、自分の存在そのものが彼女を破滅へと追いやるかもしれないと考えているようです。
 では差出人とは一体何者で、宛先人にとってどのような存在なのでしょうか。思えば、差出人はあたかも宛先人の傍をピッタリと張り付いているかのようにその行動を把握しており、また行動どころか、その心情すらも、「他人であるならば」憶測で物語るしかないところすらも断言し綴っています。ですから、こうした心情すらも断言して述べているあたり、他人ではなく本人、と考えるのが自然と言うものです。
 つまり差出人と宛先人は、同一人物でありながらも、対立した、それぞれ別の人格であると言えるのではないでしょうか。(因みに作中では、「ーーいいえ、それはきまっていました。」「ーーわたしは人間ですもの。」というように、手紙であるにも拘わらず宛先人の台詞らしきものが書かれてありましたが、2者が同一人物ということになると、これにも説明がつきます。)
 すると、同一人物で差出人たる彼女が、一体何故、その存在が身を滅ぼすことになるかもしれないと考えているのでしょう。それは差出人が宛先人の何を非難しているのかについて理解できれば、おのずと見えてきます。
 彼女は宛先人が猫を擽ったり昼寝をしていた時、選挙の出馬を決めた時、高木を弄んだ時に、厳しく自分を非難していました。何故ならそれらは全て、彼女の本音や本当にしたいことではなく、ただの暇つぶしに過ぎなかったからに他なりません。猫を擽りながら昼寝をしていた時は、その裏で50万という大金を待っていましたし、選挙への出馬を決めた理由についても、なんとなく神々しくその将来に惹かれていったからに過ぎないのです。(「本文中には、「厚生参与官という言葉は、あなたにとっては、何等の内容もない架空のもので、またそれだけに一層光栄あるものと見えたでしょう。」と書かれています。)そして高木に関しても、本当に高木の事を想っていたのであれば良かったものの、そうではないどころか、寧ろそれを弄ぼうとしたところに差出人は愚劣さを感じずにはいられませんでした。
 こうした事を非難しているところから察するに、おそらく宛先人たる千賀子というものは、彼女の本音、或いは暇つぶしをする前の彼女と言うべき存在なのでしょう。ですから彼女は、息子と政治の話をしている最中に無意味な空論にふと寂しさを感じたこと、墓参りの際に何も祈ることがなかったことに対し、ほんらいの自分と向き合ったと見なし、評価したのです。
 しかし、墓参りを終えた後、再び宛先人千賀子は活動という暇つぶしに明け暮れる事となり、差出人たる彼女はより一層自分の首を絞める事となるでしょう。
 つまり自分で自分の身を滅ぼすとは、人生において暇つぶしや嘘をついている彼女が、別の人格の自分によって攻撃されて、自らによって息の根をとめられるという事だったのです。
 しかしここまで読み進めてみると、ひとつの人物から違った2つの人格が生まれて、自分を養護したり攻撃したりする、というのは何か奇妙なことのように思われる事でしょう。ですが、私たちにもこうした出来事はあるはずです。
 例えば意中の女性の気を引きたいが為に、彼女の気に入りそうな言葉を並べ立てる一方で、「僕ってこんな人間だっけ?」、「かえってこの人に失礼なことをしているのではないか」という思いをしたことは誰にでもある経験ではないでしょうか。
 そして物語に登場する守山千賀子も同じです。未亡人で夫がおらず退屈し、世間から憐れみの目で見られ、ある側面からは優遇されているようなところもあり、これを面白がって政治活動したい気持ちに彼女は駆られていきます。しかしその一方で、ほんらいあったはずの彼女がこれを許さず、自分からは離れすぎた行動であるとして戒めようとしているのです。
 そしてこの両者の思いというものは、彼女の中で拮抗しており、絶妙な力関係を維持しながら長い間ひとつの精神に宿っていたのでしょう。やがてある時点からは、それがあたかも独立した、別の人格であるかのように両者は独立し、一方が手紙を宛てて自分を強く戒めようという考えに至ったのです。
 まさに千賀子の悲劇は未亡人になったことそのものであり、それが自分で自分の首を絞めるきっかけとなっていったのでした。

◆わたしのコメント

どうでしょうか。読者のみなさんのアタマにも、その違いがはっきりと映ってきたでしょうか。

まずわかりやすい点として、今回のものは前回のものよりも作品の流れを細かく追いながら、この作品が、なぜ「謎の人物から届く手紙」のかたちをとっているのか、そして未亡人の身辺を詳しく知る「謎の人物」とはいったい誰なのか、について考えを進めていっています。

前回指摘しておいた、<過程性>が、今回はしっかりと含められていることがわかるのではないでしょうか。
もし自分が誰からの指導も受けずに、独力で現象から問題を引き出し、さらにその問題を解こうとしてゆくのならば、必ずこういった解き方になるはずなのです。
そうして、自らが問題を「解いた」結論のみならず、「解いていった」過程をこそ描き出し論証してゆこうとするならば、読者にとってもそれはわかりやすい表現になってゆくはずなのです。

指導されて答えをすでに聞いてしまった、というのはひとつの事実ですが、それをいったん棚上げしたのちに、自分自身の頭脳活動によって、なにもなかったところから一歩一歩を積み重ねることでひとつの結論を出し、その結論を出してはじめて、すでに聞いておいた答えと照らし合わせる、という<過程>こそが、頭脳活動を高めるためには必要不可欠なアタマの働かせ方になってきます。
またここでいう<過程>が、ほかならぬ<否定の否定>であることもわかってもらえているとよいのですが、どうだったでしょうか。

そこからさらに進んで、人間の頭脳活動を過程的にしらべてゆく認識論という学問分野においても、その下敷きには<弁証法>がなければならないのだな、とか、今度は具体的に、こういう法則性を何度も何度も意識して繰り返しておくことが、わかりやすい指導のためには必要なのだな、とかいうふうに、他の論理や具体例としっかりと関連させて確認しておいてもらいたいと思います。「独学」というのはそういうもの!なのですから。



さて、今回の評論で変わったこと、のお話に戻りますと、その他にもう一点、前回から大きく修正された箇所があります。
「箇所」といっても、この変更点は目に見える明確なかたちを持った表現としては現されてはいない論理性であるために、「ものごとの見る目」を高く持とうとしなければ少しわかりにくいのでは、と思います。

その鍵となる部分を引用するならば、次になります。
 しかしここまで読み進めてみると、ひとつの人物から違った2つの人格が生まれて、自分を養護(コメント者註:正しくは「擁護」)したり攻撃したりする、というのは何か奇妙なことのように思われる事でしょう。ですが、私たちにもこうした出来事はあるはずです。
作中の柱として扱われているように、わたしたち人間は、そのそれぞれの存在としてはひとつの個体であることに間違いはありません。
そうであるだけにアタマのはたらきの物理的な基盤となる頭脳も、ひとつしかないはずです。ここまではそれはそうだね、とわかってもらえますね。

ところが問題は、そうであるにもかかわらず、人間というものは、常日頃から、思い悩みや自問自答をする存在でもある、ということです。
これはよく考えれば、少々不思議なことではないでしょうか。

一つのアタマの中であるのに、なぜか相反する思いや考えがある、というのが<敵対的な矛盾>であるとしか映らない頭の硬い人(=形而上学的な論理しか持たない人)にとっては、これは永遠の謎!となってもおかしくないほどのことだとは思いませんか。

ですが論者の言うとおり、これが現実にある、ということは揺るがし難い事実です。
ついでに言っておけば、なにもこれは分裂症でない健常者でもあるものです。

たとえば、あなたが数十年来のヘビースモーカーであるとしましょう。
休憩時間にも仕事の合間にもタバコ、タバコ。気づけばタバコを吸っていないと頭がはっきりしない、という状態にまでなっていました。
そんなとき身体を壊し医者にかかったところ、「このままの喫煙を続けていては間違いなく肺がんになります。あと10年持つかも怪しいですよ。ご家族のためにも今すぐ止めてください」と言われました。

あなたの頭には、お医者さんの言葉が重くのしかかります。「あと10年か…」
落ち込む気持ちをなんとか振り払おうとして、病院を出てすぐ自然にライターに手が伸びる自分の現状を見て、ことの重大さに気づきます。

さて、ここでのあなたのアタマの中はどうなっているでしょうか。
一方では、これまでの習慣で身についたアタマの働きとして、「タバコを吸いたい!」という欲求が強烈に浮上してくるでしょう。
しかし今やもう一方からは、「このままでは死ぬぞ!」というお医者さんのことばがアタマの中に響きわたるようになってもいます。

まずはこの具体例について、この先あなたのアタマの中はどのように変化してゆくだろうかと考えてみてください。
そのとき、ずっとこのままの状態ではいられないだろうな、という素朴な実感がひとつの手がかりです。

このことは評論の中でも(少々言葉足らずであることは残念ですが)指摘していることであり、さらにそのことをあくまでも作家の流儀に従って、そこにこだわって書き出そうとしているところに今回の評価できる点、つまり「志」があるのです。

記事を分けて考えてゆくことにしましょう。


(次回へつづく)

2015/02/17

過程性を捉えるとはどういうことか 「文学考察: 未亡人ー豊島与志雄(修正版3)」を中心にして

元旦にごあいさつしてから、


一ヶ月以上もの時間をいただいてしまいました。

元旦を明けての1月、その一ヶ月間という期間は、一般的にも一年のうちの大きな節目ではありますが、生涯をかけての文化人たろうとする人間にあっては、その後の一年間の成果を規定しつくしてしまうほどに大事な位置づけにあるものです。
というのも、この時期に、その年のいっぱいまでの目標と、それを達成するための研究計画を完成しておかねばならないからです。
それゆえ、学生諸君の研究計画を評価するというこれ以上無く大切な時期だったのでした。
この時期は卒業論文や発表などと重なるため、日本の学期構成に合わせて4月期を境としても良いのですが、ああいった提出物は前もって準備しておきさえすればどうにでもなり、そのための計画であるとも言えるだけに、それよりも年初という季節感の中で心機一転するということを、より優先してきています。

さて目標がなぜそんなに重要なのか?と問われれば、我々が他でもなく人間だから、というのが答えということになります。
「えっと…?」というみなさんでしょうか、それとも「それはそうだよね」というみなさんでしょうか。
後者であることを願いますが、ここは基本的なことながら大事なことなので、その答えではなく、そういう結論を出さざるをえないその過程について、いまいちど確認しておきましょう。

人類は認識的実在であると言われるとおり、動物がその形態と運動のあり方を「本能」と呼ばれる脳のはたらきによって統括されているのに対し、人類は、それとは相対的に独立したところの「認識」によって統括してきています。
動物の本能は、脳という器官において外界を反映した像を描き、それと直接に運動するためのはたらきですが、人間の認識は、感覚器官をとおしてその頭脳に外界をただ反映するのみにとどまらず、それとは相対的に独立した像すら創りあげてゆくという質的な違いを持っています。

このことによって我々人類は、現時点での外界の状態を「このようである」と反映することから進んで、「このようであったら(もっと)いいな」という認識を創りあげることさえできるようになってきているのです。
そうであるからこそ、人間はその特殊性として、「こうならいいな」という認識を絵地図として(この認識は「未だ現実化されていない」、という点に注意してください!)、それを実現するべく外界へと働きかける「労働」をなしえるのだ、ということです。

ここまで述べれば、冒頭の「目標」というものがなぜ必要なのか、ということが<過程的>な流れをもって頭脳に描けてきたのではないでしょうか。
今回の場合で言えば、一年間という期間を「人間らしく」過ごすためには、必ずそれをどう過ごすか、という絵地図を頭脳にもっておかねばならない、ということが言えるのです。

文化の仕事をしようとするならば当然に、食いっぱぐれずに生活ができ、周りからそれなりに評価される、という立身出世のレベルにとどまっているわけにはゆかず、時にはそれを度外視したり場合によっては逆行する危険性を乗り越えてでも、このことを人類の歴史性を正面に据えた<人間>のレベルで捉え返さねばならなくなるのが必然性であるというわけです。

目標なくして人間足りえぬ、という一事がじわりとココロに伝わってくる感性のある(残っている)、読者のみなさんであればよいと願っています。

さて、そのような「人間観」、そしていわば「文化人観」に照らして今回は評論を扱いますが、それだけに厳しく評価されねばなりません。


◆文学作品◆

豊島与志雄 未亡人


◆ノブくんの評論◆

文学考察: 未亡人ー豊島与志雄(修正版3)
 この作品は、生前は有力な政治家の妻であった「守山未亡人千賀子」宛の、差出人不明の3通の手紙から成り立っています。その3通はどれも未亡人たる千賀子の一挙一動を非難するものばかり。と言いますのも、未亡人となった彼女は、その性質を活用し、人々の同情の眼差しを集め政治家になろうとしたり、男を知った女特有の艶かしさで、年下の男の気持ちを弄んだりしていたのです。
 またその手紙には少し奇妙なところがあり、
 ーーいいえ、それはきまっていました。
 ーーわたしは人間ですもの。
 といったように、あたかも彼女の答えを想定しているかのように、彼女と会話しているかのように、千賀子の台詞らしきものが書かれています。
 そんな手紙の差出人ですが、唯一、彼女が選挙の出馬を決めた後に夫の墓参りをしている場面において、彼女自身が「白痴」のように何も考える事を持っていなかったところについては一定の評価をしているのです。
 一体差出人は、何を評価したのでしょうか。何故彼女の挙動のひとつひとつがそうも気に入らないのでしょうか。
 この作品では、〈ある政治家の妻が「未亡人」になってしまったが故に、世間に対して画策するつもりが寧ろその言葉に振り回されていく様〉が描かれています。
 上記の問題を解くにあたって、はじめにこの手紙の差出人は誰なのかを得敵せねばなりません。差出人は少なくとも千賀子の生活を事細かく知っており、また手紙の中で彼女と問答している事を考えると彼女自身についてもよく知っているようです。恐らくこの手紙の主は、守山千賀子の別の人格が彼女自身を非難しているのではないでしょうか。そのように考えると、この2つの疑問に対しても一応の説明はつきますので、そう仮定した上で話を進めていきたいと思います。
 差出人たる千賀子はあらすじにもある通り、どうやら自分が夫に先立たれ、哀れで妖艶な「未亡人」としての社会的な付加価値のようなものを利用し、選挙に出馬しようとしたり、年下の男で遊んだりしているところを不純なものとして強く非難しています。
 では、何故そんな彼女は、墓参りに行った時自分を評価したのでしょうか。それは、まるで「白痴」のように、そうした不純な考えを少しも持っていなかったというところにあります。恐らく、夫が行きている頃の千賀子は、現在のように身の回りにあるものを使って世間の人々に対して画策を企てるような人物ではなかったのでしょう。ところが「未亡人」なってしまってからは、彼女を見る世間の人々の目が急に変わったことを面白がり、自身の性質でいろいろと小賢しい事を考えるようになっていってしまったのです。
 以来、彼女の中には、「未亡人」としての魅力で世間を惹きつけたいという欲求と、「未亡人」などといういやらしいものに負けてそれまでの自分を見失いたくないという、2つの相反した感情が葛藤するようになっていったのでしょう。ですから墓参りを終えた後の彼女は、政治家としての華々しい人生を期待しながらも、心の内では「これで自分はいいのだろうか」という不安を抱いており、瞳を濁らせていたのです。

◆わたしのコメント◆

この文学作品は、去年から度々取り組んでもらっているもので、直接の講義もあわせれば三訂版ではすまないほどの議論を重ねてきているものです。
ここでの指導の目的は、わたしが読めている構造的な把握に、論者の認識をいかに近づけてゆくか、というものですから、その議論は、徐々にではあっても論者のこの作品についての認識が質的に深まってゆくような内実を持つものでなくてはなりません。

今回の評価が厳しいものになるとことわったのは、残念ながらそのことの意味を論者が大きく勘違いしているのでは、と思わされる記述になってしまっているからです。

論証部で、論者はこう切り出します。
 上記の問題を解くにあたって、はじめにこの手紙の差出人は誰なのかを得敵(コメント者註:「特定」の誤り)せねばなりません。差出人は少なくとも千賀子の生活を事細かく知っており、また手紙の中で彼女と問答している事を考えると彼女自身についてもよく知っているようです。恐らくこの手紙の主は、守山千賀子の別の人格が彼女自身を非難しているのではないでしょうか。そのように考えると、この2つの疑問に対しても一応の説明はつきますので、そう仮定した上で話を進めていきたいと思います。
読者のみなさんがこの箇所を読んで、どういう感想を持たれるかはわかりませんが、この指摘というものはわたしが数度の講義をとおして、問いを立てながら(=答えそのものを伝えてしまわないように工夫して)論者がその頭脳活動において、あくまでも「自らの独力で」辿り着くよう苦心して指導してきたものでした。
そうであるだけに論者にとっては、この「手紙の主が『千賀子』のもうひとつの人格である」という前提は、すでに自明のものとなってしまっているのです。

ここで一般のみなさんの中には、「知っていることを書いてなにがダメなのかな?」と思われる方もおられるかもしれませんね。
たしかに、知識的な習得が問題である場合には、答え自体が問題になる場合もありえます。
しかし、こと歴史性を掲げて文化人たろうとする人間にあっては、そのような姿勢を続けては百害あって一利なし、ということになるのです。
なぜならば、そこで絶対的なレベルで厳しく要求されるのは、大きく言えば<過程性>というものを何よりも重視する、という姿勢でなければならないからです。

歴史的なひとつの作品を正面に据えてしっかりと学びたいという時には、その時代を生きたその作り手が、それをどうやって表現し得たのか、という観点がなければ、上っ面をなぞらえただけになるのであって、そのものを正しく学び切ることはできません。
学問においても芸術においても、その著作や作品というものはかたちとして、物理的に目に見え、手に取れる状態で残ってきています。
ですが、肝腎の、「なぜその当人が、それほどのまでの作品を残し得たか」ということについては、決してすべてが微細にわたって詳らかにされるということはないのです。
ではそれをいかにして読み取り、読み解き、さらには現代的な創作へと活かしてゆくかということは、現代を生きる我々が、その論理と認識の力にかけて、自らの頭脳に捉え返すかたちで追ってゆかねばならないことなのであって、これは極めて論理的な問題である!といえるのです。



このためには、当人の自伝を読むということも必要であるとは言えますが、そうはいっても自伝をしっかりと残している人ばかりではないですし、作者との観念的な二重化をはたすために必要な情報が自伝だけで賄われると考えるのも間違いなのです。
当時の時代的な背景、当時の人間のものごとの感じ方や考え方がわからなければ、歴史的な読み物というのは、「当たり前なことばかり言いやがって」、と無味乾燥なお勉強となってもおかしくありません。
過去の偉人から、人類の文化遺産から正しく学ぶために大事なのは、あくまでもその時代性にありながら、つまりその時代的な制約の中に身を置きながら、しかもそれだけの業績を残しえたという当人の努力、覚悟、後世から見るところの先見性をこそ、正しく学ばねばならないのです。

歴史上の偉人とされる人物は、当時を生きる人々の誰もが気づきえなかったことに目を向けることができたり、辿りつけなかった場所へと歩みを進めることができたりしたからこそ、そう呼ばれることになったのではなかったでしょうか。
このことを現代に置き換えるならば、現代人の誰もが気づきえなかったことに「なぜか」気づくことができ、そのことを(時には狂人扱いされながら!)生涯かけての努力でもって持ち続け実行しえた人間が、歴史に残ることになってゆくのだ、とわからなければなりません。

見えないものを見なければならぬというのはひとつの矛盾ですが、そのことを達成するための「ものごとを見る目」は、大きく、この<過程性>というものが身にしみてわかり、その重要性にしっかりと着目できていなければ、それを身につける端緒につくことすらできません。
今回の評論の場合で言えば、論者その人が、わたしが提示した答えをあたかも自明のものとして提出したとき、そのことをはっきりと意識していたかどうかが問われねばならない、ということです。

今回の指摘は、数層の構造からなる問題を見て取ってのものですから、そのほかのご説明は後日に譲るとしても、結論から言ってこれはもはや言い逃れしようのない欠陥としてわたしの目には現象しており、そのことは論者には直接指摘していることでもあります。

論者が<過程性>にしっかりと目を向けながらこの作品を正しく理解してゆくためには、この作品は「千賀子」が自問自答する構造を持っているという結論だけでなく、その結論に至った論理的な経緯をこそ、しっかりと書いてゆくことが絶対的に必要です。
その営みはほかならず、歴史上の作家の仕事を正しく評価し受け継いでゆくための正道ともなっているのです。

この作品に則してさらに言うならば、あくまでも作品そのものをつぶさに追ってみることをとおして、わたしの指導内容を手がかりにしながらも、作品の構造がいわゆる<自由意志>と<対象化された観念>のやりとりなのであるという論理を改めて独力で!引き出すことができなければならない、と言えるでしょう。
繰り返し念押ししますが、これはあくまでも「作品そのものを正しく理解しようとしてはじめて」、ごく自然にそのような概念が浮上してくるということなのであって、「コメント者に<対象化された観念>に着目しろといわれたので探してみるか」という姿勢では絶対にダメ!ということが厳しくつきつけられているのです。
この観点こそが、<過程性>というものなのだ、とわかってもらえているでしょうか。


これと類する欠陥として、「自らを作家として規定すること」の、いわば「作家としての志」の不足については、次回以降みなさんにも考えてもらうことになると思います。


※評論中の誤字訂正については略。

2015/01/01

新年のご挨拶

あけましておめでとうございます。
(※執筆用Macの不調により正しく公開されておりませんでしたので、機種を変えて公開しました。)


前回の記事の日付を確認してみると、ずいぶんと間が空いてしまったものだと思います。

この理由は、以前にすこしお伝えしておいたとおり、ひとつにわたしのところで研究している学生たちの研究対象が深まりを帯びてきたため、こちらではなかなかにご紹介できにくくなってきていること。
ふたつめには、わたし自身の研究生活の変化によって、Blog記事の更新に時間が割きにくくなっていたこと、です。

後者に関わることとして、わたしのBlog更新のスタイルをご説明しておくことにすると、それはまず移動中や雑談中にアタマの片すみで記事を練り、それを今度はアイデアノートに書き起こしたあと、それをさらにコンピュータ上に打ち込みなおす、という三段階の過程があるというものなのです。
そのため、現在のように執筆用のMacが絶不調であったり移動手段が変わってしまったりするだけで、ほとんど記事執筆のための時間がなくなってしまう、ということになります。

それなら考えたことをいきなりPC上に書いてしまえば時間が省けるではないか、という指摘もありますが、認識論的に言えば、この手法で執筆活動に励むことになると、アタマの中の言葉や文章を、キーボードとPC画面という反映の少ない表現手法で移しかえ続けることになり、これは言語の像が浅くなることによって、とりもなおさず頭脳活動が必然的に低下してゆくことになってしまうのです。

ですから、執筆活動の際には、必ず自らの五感をしっかりと働かせながら、あくまでも手でペンを握り、志を込めて紙に書き連ねてゆくことでなければなりません。
キーボードだって手を使うではないか、という方もおられそうですが…いずれしっかりとご理解していただけるよう書いてゆきたいところです。

さてそういうわけで、ここでの記事は、読者のみなさんのために書き下ろされたものであることは確かなのですが、そういうことを自負するためにも、書き手の認識が確かに向上していっているということが土台としてなければならないと考えているのです。その旨、ご了承を請いたいところです。

現在は、ふたたび少しずつ時間が取れるようにスケジュールを管理できるようになってきつつあり、また執筆活動用のMacをお借りできることになったので、また少しずつペースを戻してゆきたいと思っているところです。記事の内容については、先述したように個別研究を公開するのは難しいのですが、現在ある学生に、論理レベルを引き上げるための日記をつけてもらっていますので、それを一般読者の方のために検討してゆく、ということをひとつ考えています。
それもこれも、学生諸君の文化的な献身と奮闘にかかっているところもありますけれども。



さいごに冒頭の写真について。これはわたしが学生と議論しながらよく歩く公園からの初日の出、です。
日の出の時間は朝7時過ぎ、ということでしたが、山にかかる雲のため時間から15分ほど待ちました。寒空の中しっかり立って朝日が昇るのを待つ、というのもなかなか良いものです。

わたしは私生活の悲喜こもごもや研究上の思案やスランプ、学生問題などなどで頭がいっぱいになると、どれだけ心身が重かろうと外を走りにゆく中でそれを整えてゆくのが日課なのですが、地元のこの公園は、それだけに色々と思い出のある場所でもあります。

山でも海でも地元でも同じですけども、早朝から活動をはじめて、歩いたり走ったりしながら、景色のはるかかなたに次第しだいに射してくる朝焼けというのは、これは実際に見た者でないとなかなかにわかってもらえない良さがあるもので、これを見るために毎日やってきているのだとさえ言えるくらいの、無上のごほうびです。

こういう、たったひとりきりで、目に映るすべての景色を独り占めにしているかのような情景に身をおき、胸のうちから沸き起こってくるような高揚感とともに、豊かな精神的時間を過ごすということが、いかに人格に深く刻まれてゆくかは、現代においては軽視されがちのようです。

さきほど述べた、ペンを使って文字を書くのと、キーボードを使って文字を書くのとでは、どのような違いがあるのかという問題についても、感性が見事に作られている人間にとっては、論理的・理論的にはともかく、素朴な実感としてはごくふつうに、「それはそうでしょうね」と首肯できるものであると思います。

こういう精神活動は当然に、創作活動においても根本として大きく働いてくるだけに、自らの定めた道を目指す学生諸君にあっては経験的ならびに論理的にぜひにおさえておき、目的意識性として、文化的な生き方をしてもらいたいものだと思います。

本年も悔いのない生き方を。どうぞよろしくお願い致します。