社会に出ると、とんでもないことが身の回りでおこることがある。
わたしの場合は、それが我が身に起こったことなら、
まあこんなもんだろうな、という姿勢で流せるのだけど、
間近で人がそういう目にあったのを見ていると、
なんともいえない、人間であることそのものに打ちのめされるような、悲しい気分になる。
思い返してみれば、割りに合わないのが昔から嫌だった。
悪ことをして怒られたり捕まったりするのは当然である。
わたしもイタズラやらルール違反をするときは、
これをやったらああいうふうに怒られるだろうな、
それくらいの価値とか面白さが、この悪戯にはあるだろうか。
そう考えてやっていたから、ゲンコツをもらってもとくになんとも思わなかった。
懲りずに毎日早起きして、柵を乗り越えてプールに侵入し、
繁殖したフナやらカエルやらを捕まえていたもの。
そうして、登校してきた先生に怒られ、素直に非を認めてまじめに謝っていた。
謝っているわりには次の日にもまた同じことをしているものだから、
先生からすれば、のれんに腕押しの問題児、といった位置づけだったのだろうか。
どっかのネジが外れた馬鹿、といった感じだったのかもしれん。
ただこんなことをやっていると、いざとなると濡れ衣を着せられたりすることもあって、
そっちのほうはあらかじめ気持ちの準備ができないために、めっぽう弱かった。
ああいう場合、まったく見に覚えがなさすぎて「やってません」としか言いようがないから、
結局は自分が日常生活を通して信用されてるかどうかにかかってくるもんねえ。
◆◆◆
まあともかくそういう範囲であればいいのだが、問題になってくるのは、
悪いことをしてないのに酷い目にあう、っていう場合である。
とくに、純粋「すぎて」人に騙される、とかいう場合だ。
自分が生まれたときには常に罪を背負っているとか、
前世で悪いことをした報いだといった、
宗教的な納得の仕方ができる時代にはよかったのだけれど、
宗教色の薄い現代人はそれに比べたら、裸で外に放り出されるようなものだ。
自分の力で纏うものを繕わなければ、寒くてやってられない。これは大変である。
とくに、その必要性を自覚しないままに成長してしまった場合には、
いざ寒さを肌身にしみて感じてからでは、にっちもさっちも、となってしまいがちなのだ。
要するに、なにも悪いことをしていないのに頭の上に隕石が降ってきた。
そんなときに、どう納得するか。
「納得などできなくともよい」ということを本心から言えている場合には、
問題は問題としてすら認識にのぼっていないわけだから、文字通り問題ではない。
しかしそうではなく、どうしても納得できない場合は、
「とりあえずそれでも」努力をして、もとの道に戻る、
そののちに振り返ってみれば、「あのときあの出来事があってよかった」、
などと思えるものである。
ただその場合にも、「とりあえずそれでも」何らかの努力をする、
という勇気やモチベーションといったものは、どこからひねり出してくればよいか。
その答えのひとつは、文学であると思う。(やっと本題にたどり着いたぞ!)
人間のありかたの良いところは、納得してから行動することのほかに、
行動しながら納得してゆく、という道を僅かながら残しておいてくれているところだ。
(ここのところの説明はけっこう長くなるので、気になる人は聞いてください)
わたしのところに出入している学生のひとりに、文学を熱心にやっているひとがいて、
その学生さんとのやりとりのために、毎日文学作品を読むことになっている。
そうして触れた文学が、日々の研究や日常の出来事にたいする姿勢として、どれほどの助けとなったか。
この出会いと出合いには、感謝してもしきれないものがある。
子供のときからその良さにもっと気づいておけば、と思わないでもないが、
大人になって、いろんなことにもみくちゃになってみて、初めてわかる良さもある。
下で挙げたものは、どれもひとりの人間の生きざまを描いた文学だ。
一般的に言えば「後味の良い」ものばかりでもないのだけれど、それでも不思議と作品の中の登場人物の生きざまが、自分の支えとなって身近に感じられるのは、文学というものの偉大さをまざまざと見せつけてくれる。
すべて短編であらすじを書くほどでもないので、疲れて眠れない夜には読んでみてください。
わたしもいま、とんでもないスランプなので、読み返しているところです。
・図書カード:恩讐の彼方に(菊池寛)
・図書カード:唖娘スバー(タゴール)
・図書カード:最後の一句(森鴎外)
・図書カード:きりぎりす(太宰治)
2010/11/10
メモ:青空文庫落丁
私事ながら、大学を出てからずっと、教育に携わることをやっている。
もともとの専門は教育学ではないのだけれど、
助手としてや個人的な関係の学生とのやりとりがそれである。
そもそも、「学者」として学問に携わることを自認するからには、
単にイモリのシッポの再生具合を調べたり、
消費者の行動を統計データにしたりといった、
個別研究をするだけの「研究者」に留まっていることはできない。
学者としての営みには、当然ながら後進を育てる、
という教育の側面も含まれてくるからだ。
とくに、仮にも「学問」をする、という不退転の決意があれば、
どんな複雑に見える現象をも、もっとも下のレベルである原則におりたうえで、
そこから一歩ずつ階段を積み上げて理論を構築してゆかねばならない。
そこに結果としてそびえるのが、理論の体系、つまり学問である。
そうすると、それは初学からの発展段階を追うことになる。
その土台としては、人類の発展段階、個人の認識の発展段階の二層の構造の上に、
自分の専門分野での歴史性を踏まえた発展段階を、学生の認識の上に、
あたかも「歴史をその一身の上にくりかえす」よう指導できる能力が必要だ。
しかし、これらの教育は、現在望むべくもないようだ。
とくに感性的な認識で本質を把握できているという自惚れが強い人間は、
鈍才肌の人間を毛嫌いしがちだし、教育と銘打ちながらも結局、
自分好みの早熟的天才を選り好みすることで満足してしまいがちなのである。
頭の硬くなった大人が相手ならまだしも、20歳にも満たぬ若者の資質など、それもふくめて一から教育できてこその学者ではないか。
そうでなくともそれができぬ自分の実力の無さを心底恥じてこそ、人間として真っ当ではないか。
これは、学者だけではなく、一介の指導者なら、当然過ぎるほどの一事である。
ところが、そういった資質特性論は、学生にとってはもちろん教育ではないし、
教授ご当人にとっても、その土台を危ぶむ事態となる。
というのは、右も左もわからない学生を指導することが直接に、
自分自身の研究を原則から一歩ずつ階段を登り直すように捉え直す、
という営みでもあるからだ。
そうなると、指導する学生が、いわゆる鈍才であるほど、自身の研究が原則から捉え直されて、より本質的で強固なものとなることは当然ではないか。
というわけで、一流の指導者を目指すなら、
天才はさておいて、鈍才を育てる方がいいですよ。
みんながそうしてくれれば、わたしもずいぶん楽ができます。
◆◆◆
余談はさておき、青空文庫を毎日読んでいると、結構落丁があることに気づく。
わかった範囲内でメモ書きをしておこう。
落丁をいちいち目の敵にする理由といえば、また余談になっちゃうけれど、
わたしは学生を指導するにあたって、どうすれば原則に立ち返って、
どんな人にでも広く理解できる書き方になるのかと、工夫を怠らぬつもりであることと関係がある。
そういう姿勢で物事に当たると、自分の書いた文章を読み返してみたとき、
内容は間違っていなくても文章の流れが分かりにくい場合や、
まして誤字脱字があったときなどには、非常な反省の念にかられるものだ。
まったく申し訳ないという気持ちでいっぱいになる。
わたしがこの心構えで、いったいなにを教えようというのか。
これは人間としての姿勢だ。
子供を見たときに親としてろくなことをしてやれない場合には、
「他の親のもとに生まれてくれば、もっと幸せだったろうに」
との思いがあるのは、親としてもこれ以上ない不幸である。
現代における学生も、教師がまるで選べないという意味で、
事情はこれとほぼ変わりないのだが、
わたしの場合には個人的なつながりであることが多いために、
なおのこといい加減なことはできないという思いが強い。
俗世間にまみれた生き方をする大人に嫌気がさした若者にとって、
心の拠り所があるとすれば、それは流れに逆らうたったひとりの大人である。
自分が最後の砦だ、そう思えなければ、とても指導などできたものではない。
◆青空文庫落丁◆
ドーヴィル物語
・女はしかし、何か非常にこだわっで→こだわって
愚かな一日
・行わるれば行われるほど→行わられれば
八人みさきの話
・世嗣ぎは当然三男津野忠親に来るペきものであった→来るべき
・豪胆な薪三郎は腰の刀を抜いて→新三郎
モルグ街の殺人事件
・この力は他の点ではまるで白痴に近い知力をもつ人々に実にしばしは見られるので、
→しばしば
狂女
・ひとりで着物も著られない
→着られない
頸飾り
・如何の位辛うどざいましたか
→ございましたか
賢者の贈り物
・小銭は一回の買い物につき一枚か二枚づつ浮かせたものです。
→ずつ
もともとの専門は教育学ではないのだけれど、
助手としてや個人的な関係の学生とのやりとりがそれである。
そもそも、「学者」として学問に携わることを自認するからには、
単にイモリのシッポの再生具合を調べたり、
消費者の行動を統計データにしたりといった、
個別研究をするだけの「研究者」に留まっていることはできない。
学者としての営みには、当然ながら後進を育てる、
という教育の側面も含まれてくるからだ。
とくに、仮にも「学問」をする、という不退転の決意があれば、
どんな複雑に見える現象をも、もっとも下のレベルである原則におりたうえで、
そこから一歩ずつ階段を積み上げて理論を構築してゆかねばならない。
そこに結果としてそびえるのが、理論の体系、つまり学問である。
そうすると、それは初学からの発展段階を追うことになる。
その土台としては、人類の発展段階、個人の認識の発展段階の二層の構造の上に、
自分の専門分野での歴史性を踏まえた発展段階を、学生の認識の上に、
あたかも「歴史をその一身の上にくりかえす」よう指導できる能力が必要だ。
しかし、これらの教育は、現在望むべくもないようだ。
とくに感性的な認識で本質を把握できているという自惚れが強い人間は、
鈍才肌の人間を毛嫌いしがちだし、教育と銘打ちながらも結局、
自分好みの早熟的天才を選り好みすることで満足してしまいがちなのである。
頭の硬くなった大人が相手ならまだしも、20歳にも満たぬ若者の資質など、それもふくめて一から教育できてこその学者ではないか。
そうでなくともそれができぬ自分の実力の無さを心底恥じてこそ、人間として真っ当ではないか。
これは、学者だけではなく、一介の指導者なら、当然過ぎるほどの一事である。
ところが、そういった資質特性論は、学生にとってはもちろん教育ではないし、
教授ご当人にとっても、その土台を危ぶむ事態となる。
というのは、右も左もわからない学生を指導することが直接に、
自分自身の研究を原則から一歩ずつ階段を登り直すように捉え直す、
という営みでもあるからだ。
そうなると、指導する学生が、いわゆる鈍才であるほど、自身の研究が原則から捉え直されて、より本質的で強固なものとなることは当然ではないか。
というわけで、一流の指導者を目指すなら、
天才はさておいて、鈍才を育てる方がいいですよ。
みんながそうしてくれれば、わたしもずいぶん楽ができます。
◆◆◆
余談はさておき、青空文庫を毎日読んでいると、結構落丁があることに気づく。
わかった範囲内でメモ書きをしておこう。
落丁をいちいち目の敵にする理由といえば、また余談になっちゃうけれど、
わたしは学生を指導するにあたって、どうすれば原則に立ち返って、
どんな人にでも広く理解できる書き方になるのかと、工夫を怠らぬつもりであることと関係がある。
そういう姿勢で物事に当たると、自分の書いた文章を読み返してみたとき、
内容は間違っていなくても文章の流れが分かりにくい場合や、
まして誤字脱字があったときなどには、非常な反省の念にかられるものだ。
まったく申し訳ないという気持ちでいっぱいになる。
わたしがこの心構えで、いったいなにを教えようというのか。
これは人間としての姿勢だ。
子供を見たときに親としてろくなことをしてやれない場合には、
「他の親のもとに生まれてくれば、もっと幸せだったろうに」
との思いがあるのは、親としてもこれ以上ない不幸である。
現代における学生も、教師がまるで選べないという意味で、
事情はこれとほぼ変わりないのだが、
わたしの場合には個人的なつながりであることが多いために、
なおのこといい加減なことはできないという思いが強い。
俗世間にまみれた生き方をする大人に嫌気がさした若者にとって、
心の拠り所があるとすれば、それは流れに逆らうたったひとりの大人である。
自分が最後の砦だ、そう思えなければ、とても指導などできたものではない。
◆青空文庫落丁◆
ドーヴィル物語
・女はしかし、何か非常にこだわっで→こだわって
愚かな一日
・行わるれば行われるほど→行わられれば
八人みさきの話
・世嗣ぎは当然三男津野忠親に来るペきものであった→来るべき
・豪胆な薪三郎は腰の刀を抜いて→新三郎
モルグ街の殺人事件
・この力は他の点ではまるで白痴に近い知力をもつ人々に実にしばしは見られるので、
→しばしば
狂女
・ひとりで着物も著られない
→着られない
頸飾り
・如何の位辛うどざいましたか
→ございましたか
賢者の贈り物
・小銭は一回の買い物につき一枚か二枚づつ浮かせたものです。
→ずつ
2010/11/06
朝―太宰治
うーん、このBlogger、全体的なシステムは悪くないのだけど、
プレーンテキストをコピペすると、なぜか行はじめのひとマスを勝手に削ってしまうぞ。
リッチテキスト形式にしてからコピペすればいいのだけど、なんともめんどくさい。
文章の校正なんかを引き受けると、文体や文法の乱れは仕方ないにしても、
日本語としての形式を守れていないものが結構多い。
学生さんだけではなくて、年配の方にしても、それはもう酷いものがある。
どうでもいい雑記やこういう愚痴を書くときにはひとマス空けをしないのだけど、
人に対する文面では、きっちりルールを守ってゆきたいもの。
ただでさえ、情報化なんて殺し文句やTwitterなんかに押されて、
ちゃんとした形式や論理ってものがないがしろにされがちなのだし。
みんながやらなくても、自分だけはちゃんとしていよう、
って意識は、どんなことについても譲ってはいけない。
◆◆◆
◆ノブくんの評論◆
何よりも遊ぶ事が好きな著者は、家にいてもなかなか仕事がはかどらない為に、某所に秘密の仕事部屋を設けています。その某所とは女性の部屋なのですが、彼女との関係はやましいものではありません。ただの知り合いの娘さんとそのおじさんという、それだけの間柄でした。そして部屋を設けているとは言っても、普段彼らは互いの顔を見る事はありません。著者は彼女が仕事に出かけて部屋が空いている時間を見計らって、4、5時間だけそこを使わせてもらっていたのです。
ところがある時、その関係がぐらぐらと揺れ動く出来事が起こりました。それは著者が例の如く大酒を飲んだ、ある晩のことです。立てなくなるくらいに酔っていた彼は、いつも部屋を貸してもらっている女性の部屋で休ませて貰っていました。ですが著者の様子が普段とは違い、彼女を一人の女性として見ているのです。普段決してそのようなことはなかったはずなのに、一体何故彼は彼女をそのような目で見るようになってしまったのでしょうか。
この作品では、〈結果に至るまでの条件とは一体何所にあるのか〉ということが描かれています。
そもそも、私達は「どうして彼は彼女を一人の女性として魅力を感じ、一晩の過ちを犯してしまいそうになったのか」という問題に対して、まず二人に原因があるのではないか、と考えてしまいがちです。もちろん、彼らにそうなる要因がなかった訳ではありません。部屋の女性は元々の知人よりも著者を信頼している様子でしたし、著者とも部屋を貸す程親しい間柄にあった訳ですから。ですが、原因はそれだけではありません。例えば、私達が湖に石を投げ入れると波紋が生じ、その波紋がそこに浮いていた葉っぱをゆれ動かします。ですが、この現象がおこる要因はなにも石と葉っぱだけにあったのではありません。もし湖が凍っていたら石は波紋を起こしませんし、湖ではなく沼等であったら波紋はそこまで届くでしょうか。このように、ある現象の要因というのは何も直接的な原因と結果(著者と女性、石と葉っぱの関係)だけにある訳ではなく、周りの環境にもその現象の要因というものは存在するのです。
この作品でも、著者が一晩の過ちを起こしかけたきっかりは、お酒を飲み意識が朦朧としていたことも、夜で周りの景色が暗く周りがよく見えていない事も原因の一つになっています。それは作中の著者も認めており、「あの蝋燭が尽きないうちに私が眠るか、またはコップ一ぱいの酔いが覚めてしまうか、どちらかでないと、キクちゃんが、あぶない。」と、夜の暗さと自身が酔っている状況が今の自分にどう影響するのかを感じ取り、だからこそそれらを恐れているのです。
◆わたしのコメント◆
あらすじに関しては問題ありません。話を進めましょう。
論者は、「筆者」が顔なじみで年下の「キクちゃん」のことを、酒や夜の暗闇のせいで、女性として見てしまいつつある自分に、自省を働かせる場面を見てとります。そしてそこには、彼らという直接的な原因の他に、周りの環境という間接的な要因も働いている、と言っています。
さて、この論証は、果たしてこの物語の本質をとらえているでしょうか。論者の引用しているのは、三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』の例をほぼそのまま抜き出した形のものです。そこで三浦は、いわゆる<媒介>の説明をするために、物事は原因と結果を見るだけではなくて、その物事が持っている性質の関わり合い方を、つっこんで調べてみなければならない、と言っています。たしかに、池に石を投げ込むとハスの葉が揺れる、という現象は、なにも石が直接に葉っぱに働きかけているわけではありません。石を投げ込まれた水という<媒介>があってこそ、はじめて蓮の葉が揺れるのであって、同じH2Oでも、凍っていてはいけなかったという意味では、水の性質がどういったものであったか、ということも重要な原因となっている、という主張です。
表面的な読み方しかできなければ、「だからどうした」といった感触を持たれる方も多いのではないかと思いますが、実は非常に重要なことを三浦は言っています。詳しい説明をする段ではありませんが、たとえば、「光は粒子か波動か」という科学史を200年間も賑わせた話題というのは、<媒介>というものへの理解が乏しかったために起きています。
さて、そうして、<媒介>というものの重要性をなんとなくわかっていただけたのではないかと思いますが、この評論における問題は、この物語にとって、<媒介>が存在するのか、あるとすればそれは重要なのか、というものでした。
結論からいえば、答は否です。それを詳しく見るために、三浦の用いた例を整理しておきましょう。それは、池に石を投げ込むとハスの葉が揺れる、というものでしたから、図式化するとこうなります。
石→池の水→ハスの葉
次に、この物語の構造を図式化することを試みようとしてください。筆者は、大酒と暗闇のせいで、キクちゃんと過ちをおかそうとしています。
筆者→大酒・暗闇→キクちゃん
そうすると、筆者が大酒や暗闇に働きかけて、それらが<媒介>という形をとって、キクちゃんになにか影響を与えたものでしょうか。ここまで書くと、もうおわかりになるでしょう。それらの間には、直接、間接かかわらず、とくになんの関係も認められません。
この物語は、素直に読めば、大酒と暗闇のせいでキクちゃんを女性として意識してしまう筆者の理性のともしびを、「蝋燭の 焔」という象徴を用いて描いているだけだとわかります。次の箇所が決定的でしょう。「蝋燭に火が点ぜられた。私は、ほっとした。もうこれで今夜は、何事も仕出かさずにすむと思った。」彼は、暗闇のなかでちらちらと燃える小さな蝋燭の火を、酒の勢いに身を任せてしまいそうになりなるのを必死に堪えるという自制心になぞらえてみているのです。最終的には蝋燭の火は消えてしまうのですが、それと同時に訪れた夜明けのおかげで、筆者は一線を超えずに帰宅することができたわけです。
論者の誤りは、論理的になにが同一であるか、という判断の間違いから来ています。『弁証法はどういう科学か』に書かれている例でいえば、「相手の表情に合わせて相手の次の手を読み、じゃんけんでは負け知らずの少年」の話から、もういちど学んでください。少年は、相手の認識にぴったりあわせた認識を、自分の頭の中に持つことができたからこそ、相手に勝利することができたのです。
そういった観念的二重化における誤りは、ひとつに、相手の力を過小評価しすぎるということです。もうひとつは、過大評価しすぎて、相手の意図していないようなことでも、自分の頭の中で勝手にでっち上げて解釈してしまうという、「コンニャク問答」です。あなたは、素直に読めば理解できるものを、わざわざとんでもなく難しい読み方をしてしまっていませんか。『ぬすまれた手紙』でいえば、「G警視総監」の誤り方がどんなものであったか、思い出してください。彼は、D大臣がとんでもないところに手紙を隠したものだと自分自身の頭の中で勝手に決めつけ思い込んでいたために、目の前の手紙を見つけることができなかったのです。
朝―太宰治
朝―太宰治
◆ノブくんの評論◆
◆わたしのコメント◆
あらすじに関しては問題ありません。話を進めましょう。
論者は、「筆者」が顔なじみで年下の「キクちゃん」のことを、酒や夜の暗闇のせいで、女性として見てしまいつつある自分に、自省を働かせる場面を見てとります。そしてそこには、彼らという直接的な原因の他に、周りの環境という間接的な要因も働いている、と言っています。
さて、この論証は、果たしてこの物語の本質をとらえているでしょうか。論者の引用しているのは、三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』の例をほぼそのまま抜き出した形のものです。そこで三浦は、いわゆる<媒介>の説明をするために、物事は原因と結果を見るだけではなくて、その物事が持っている性質の関わり合い方を、つっこんで調べてみなければならない、と言っています。たしかに、池に石を投げ込むとハスの葉が揺れる、という現象は、なにも石が直接に葉っぱに働きかけているわけではありません。石を投げ込まれた水という<媒介>があってこそ、はじめて蓮の葉が揺れるのであって、同じH2Oでも、凍っていてはいけなかったという意味では、水の性質がどういったものであったか、ということも重要な原因となっている、という主張です。
表面的な読み方しかできなければ、「だからどうした」といった感触を持たれる方も多いのではないかと思いますが、実は非常に重要なことを三浦は言っています。詳しい説明をする段ではありませんが、たとえば、「光は粒子か波動か」という科学史を200年間も賑わせた話題というのは、<媒介>というものへの理解が乏しかったために起きています。
さて、そうすると<媒介>というものの重要性をなんとなくわかっていただけたのではないかと思いますが、この評論における問題は、この物語にとって、<媒介>が存在するのか、あるとすればそれは重要なのか、というものでした。
結論からいえば、答は否です。それを詳しく見るために、三浦の用いた例を整理しておきましょう。それは、池に石を投げ込むとハスの葉が揺れる、というものでしたから、図式化するとこうなります。
石→池の水→ハスの葉
次に、この物語の構造を図式化することを試みようとしてください。筆者は、大酒と暗闇のせいで、キクちゃんと過ちをおかそうとしています。
筆者→大酒・暗闇→キクちゃん
おかしいことがわかるでしょう。無理矢理に解釈してみると、筆者が大酒や暗闇に働きかけて、それらが<媒介>という形をとって、キクちゃんになにか影響を与えたものでしょうか。ここまで書くと、もうおわかりになったはずです。それらの間には、直接、間接かかわらず、とくになんの関係も認められません。
この物語は、素直に読めば、大酒と暗闇のせいでキクちゃんを女性として意識してしまう筆者の理性のともしびを、「蝋燭の焔」という象徴を用いて描いているだけだとわかります。次の箇所が決定的でしょう。「蝋燭に火が点ぜられた。私は、ほっとした。もうこれで今夜は、何事も仕出かさずにすむと思った」。彼は、暗闇のなかでちらちらと燃える小さな蝋燭の火を、酒の勢いに身を任せてしまいそうになりなるのを必死に堪えるという自制心になぞらえて見ているのです。最終的には蝋燭の火は消えてしまうのですが、それと同時に訪れた夜明けのおかげで、筆者は一線を超えずに帰宅することができたわけです。
論者の誤りは、論理的になにが同一であるか、という判断の間違いから来ています。『弁証法はどういう科学か』に書かれている例でいえば、「相手の表情に合わせて相手の次の手を読み、じゃんけんでは負け知らずの少年」の話から、もういちどしっかり学んでください。少年は、相手の認識にぴったりあわせた認識を、自分の頭の中に持つことができたからこそ、相手に勝利することができたのです。
そういった観念的二重化における誤りは、ひとつに、相手の力を過小評価しすぎるということです。もうひとつは、過大評価しすぎて、相手の意図していないようなことでも、自分の頭の中で勝手にでっち上げて解釈してしまうという、いわば「コンニャク問答」です。あなたは、素直に読めば理解できるものを、わざわざとんでもなく難しい読み方をしてしまっていませんか。『ぬすまれた手紙』でいえば、「G警視総監」の誤り方がどんなものであったか、思い出してください。彼は、D大臣がとんでもないところに手紙を隠したものだと自分自身の頭の中で勝手に決めつけ思い込んでいたために、目の前の手紙を見つけることができなかったのです。
◆ノブくんの評論◆
何よりも遊ぶ事が好きな著者は、家にいてもなかなか仕事がはかどらない為に、某所に秘密の仕事部屋を設けています。その某所とは女性の部屋なのですが、彼女との関係はやましいものではありません。ただの知り合いの娘さんとそのおじさんという、それだけの間柄でした。そして部屋を設けているとは言っても、普段彼らは互いの顔を見る事はありません。著者は彼女が仕事に出かけて部屋が空いている時間を見計らって、4、5時間だけそこを使わせてもらっていたのです。
ところがある時、その関係がぐらぐらと揺れ動く出来事が起こりました。それは著者が例の如く大酒を飲んだ、ある晩のことです。立てなくなるくらいに酔っていた彼は、いつも部屋を貸してもらっている女性の部屋で休ませて貰っていました。ですが著者の様子が普段とは違い、彼女を一人の女性として見ているのです。普段決してそのようなことはなかったはずなのに、一体何故彼は彼女をそのような目で見るようになってしまったのでしょうか。
この作品では、〈結果に至るまでの条件とは一体何所にあるのか〉ということが描かれています。
そもそも、私達は「どうして彼は彼女を一人の女性として魅力を感じ、一晩の過ちを犯してしまいそうになったのか」という問題に対して、まず二人に原因があるのではないか、と考えてしまいがちです。もちろん、彼らにそうなる要因がなかった訳ではありません。部屋の女性は元々の知人よりも著者を信頼している様子でしたし、著者とも部屋を貸す程親しい間柄にあった訳ですから。ですが、原因はそれだけではありません。例えば、私達が湖に石を投げ入れると波紋が生じ、その波紋がそこに浮いていた葉っぱをゆれ動かします。ですが、この現象がおこる要因はなにも石と葉っぱだけにあったのではありません。もし湖が凍っていたら石は波紋を起こしませんし、湖ではなく沼等であったら波紋はそこまで届くでしょうか。このように、ある現象の要因というのは何も直接的な原因と結果(著者と女性、石と葉っぱの関係)だけにある訳ではなく、周りの環境にもその現象の要因というものは存在するのです。
この作品でも、著者が一晩の過ちを起こしかけたきっかりは、お酒を飲み意識が朦朧としていたことも、夜で周りの景色が暗く周りがよく見えていない事も原因の一つになっています。それは作中の著者も認めており、「あの蝋燭が尽きないうちに私が眠るか、またはコップ一ぱいの酔いが覚めてしまうか、どちらかでないと、キクちゃんが、あぶない。」と、夜の暗さと自身が酔っている状況が今の自分にどう影響するのかを感じ取り、だからこそそれらを恐れているのです。
◆わたしのコメント◆
あらすじに関しては問題ありません。話を進めましょう。
論者は、「筆者」が顔なじみで年下の「キクちゃん」のことを、酒や夜の暗闇のせいで、女性として見てしまいつつある自分に、自省を働かせる場面を見てとります。そしてそこには、彼らという直接的な原因の他に、周りの環境という間接的な要因も働いている、と言っています。
さて、この論証は、果たしてこの物語の本質をとらえているでしょうか。論者の引用しているのは、三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』の例をほぼそのまま抜き出した形のものです。そこで三浦は、いわゆる<媒介>の説明をするために、物事は原因と結果を見るだけではなくて、その物事が持っている性質の関わり合い方を、つっこんで調べてみなければならない、と言っています。たしかに、池に石を投げ込むとハスの葉が揺れる、という現象は、なにも石が直接に葉っぱに働きかけているわけではありません。石を投げ込まれた水という<媒介>があってこそ、はじめて蓮の葉が揺れるのであって、同じH2Oでも、凍っていてはいけなかったという意味では、水の性質がどういったものであったか、ということも重要な原因となっている、という主張です。
表面的な読み方しかできなければ、「だからどうした」といった感触を持たれる方も多いのではないかと思いますが、実は非常に重要なことを三浦は言っています。詳しい説明をする段ではありませんが、たとえば、「光は粒子か波動か」という科学史を200年間も賑わせた話題というのは、<媒介>というものへの理解が乏しかったために起きています。
さて、そうすると<媒介>というものの重要性をなんとなくわかっていただけたのではないかと思いますが、この評論における問題は、この物語にとって、<媒介>が存在するのか、あるとすればそれは重要なのか、というものでした。
結論からいえば、答は否です。それを詳しく見るために、三浦の用いた例を整理しておきましょう。それは、池に石を投げ込むとハスの葉が揺れる、というものでしたから、図式化するとこうなります。
石→池の水→ハスの葉
次に、この物語の構造を図式化することを試みようとしてください。筆者は、大酒と暗闇のせいで、キクちゃんと過ちをおかそうとしています。
筆者→大酒・暗闇→キクちゃん
おかしいことがわかるでしょう。無理矢理に解釈してみると、筆者が大酒や暗闇に働きかけて、それらが<媒介>という形をとって、キクちゃんになにか影響を与えたものでしょうか。ここまで書くと、もうおわかりになったはずです。それらの間には、直接、間接かかわらず、とくになんの関係も認められません。
この物語は、素直に読めば、大酒と暗闇のせいでキクちゃんを女性として意識してしまう筆者の理性のともしびを、「蝋燭の焔」という象徴を用いて描いているだけだとわかります。次の箇所が決定的でしょう。「蝋燭に火が点ぜられた。私は、ほっとした。もうこれで今夜は、何事も仕出かさずにすむと思った」。彼は、暗闇のなかでちらちらと燃える小さな蝋燭の火を、酒の勢いに身を任せてしまいそうになりなるのを必死に堪えるという自制心になぞらえて見ているのです。最終的には蝋燭の火は消えてしまうのですが、それと同時に訪れた夜明けのおかげで、筆者は一線を超えずに帰宅することができたわけです。
論者の誤りは、論理的になにが同一であるか、という判断の間違いから来ています。『弁証法はどういう科学か』に書かれている例でいえば、「相手の表情に合わせて相手の次の手を読み、じゃんけんでは負け知らずの少年」の話から、もういちどしっかり学んでください。少年は、相手の認識にぴったりあわせた認識を、自分の頭の中に持つことができたからこそ、相手に勝利することができたのです。
そういった観念的二重化における誤りは、ひとつに、相手の力を過小評価しすぎるということです。もうひとつは、過大評価しすぎて、相手の意図していないようなことでも、自分の頭の中で勝手にでっち上げて解釈してしまうという、いわば「コンニャク問答」です。あなたは、素直に読めば理解できるものを、わざわざとんでもなく難しい読み方をしてしまっていませんか。『ぬすまれた手紙』でいえば、「G警視総監」の誤り方がどんなものであったか、思い出してください。彼は、D大臣がとんでもないところに手紙を隠したものだと自分自身の頭の中で勝手に決めつけ思い込んでいたために、目の前の手紙を見つけることができなかったのです。
2010/11/03
マイチャリ
わたしの愛車、ビフォーとアフター。
| Before |
| After |
え、「ナマズがいなくなった」?
それは関係ありません。(まだ生きてます、ずいぶん汚れたけども)
変わったのはブレーキのフード。
何回か転んだり、炎天下でも雨の中でも走り回ったことが原因で、ゴムはベタベタ、プラスチックはボロボロになっていたので、手持ちの革で作ったのだ。
壊れるたびに備品を注文するのも癪だなあと思っているときに、
「くらふと工房」さんを見つけて、この手があったか!と思い、あとは見よう見まねである。(非常に感化されました、ありがとうございます)
ただはたしてこんな曲面に絞れるのか?という問題が前からあったのだけど、
北海道ツアーのときに、偶然iPhone用の革ケースが濡れてフニャフニャになったあと、
乾いた頃にはキツキツになったのを見て、「これはいける」と思ったのだ。
事実、厚さ2mmのヌメ革でも、濡らせばしっかり型を合わせられるから、
型紙をそれほどきっちり作っていなくても、現品合わせでなんとかなることがわかった。
怪我の功名である。
◆◆◆
というわけで、自作してからまだ500キロほどしか走っていないけれど、
ひとまずの経過報告。
・見た目
東急ハンズで適当に調達したヌメ革(2mm)、
はじめは肌色だったものが、だいぶ焼けてきた。
(Beforeのナマズにつけた革ベルトと同じ色だった)
ただ常に手のひらが触れている部分が黒っぽく汚れてきたので、
ここらへんは革の選び方に問題があったのか、色移りしたのかは確かめる必要がある。
・クッション性
あと、ゴムのブレーキカバーに比べるとクッション性はほとんどないといっていいので、
長時間乗っていると、手のひらが物理的に痛くなる可能性はある。
ただわたしの場合に限れば、以前からグローブもつけていない状態で長期ツアーしてるので、とくに問題にはなりそうにない。
おそらく、3mmまでなら分厚い革も使えると思います。
4mmになると、たぶん無理でしょう。
カバーの作成を約束してあるチャリ仲間のみなさんはその点よしなに。
◆◆◆
改善できそうな点としては、
・革の品質の問題
端的に言って、「もっと良い革を使ったらすごいことになりそう」。
ブレーキカバーのあとに自作した下のデジカメケースは、余った革じゃなく、
ちゃんとした革を注文して作ったものだ。(拡大すると質感が分かってもらえるはず)
米ハーマンオーク社製の、ハーネスレザー。
ヌメ革のなかでは、おそらく最高級の特Aクラスだと思う。
ブレーキカバーを作り始めたときは、
「失敗したらさっさと換えのパーツと取り替えよ」と思っていたくらいだったから、
これほどの革を使って、という考えそのものがなかったのだけど、
ちゃんと機能することが分かると欲が出てきちゃう。
・縫い目の問題
ブレーキカバーの止め方は、はじめに前方を縫った状態で現品にあわせたあと、下側を縫う、というやり方。
そうすると、ブレーキを握りこんだときに、縫い目が指に触れる、という問題が起きる。
もしかしたら違和感があったり、もっと悪ければ指が痛いかも、と思っていたけど、個人的にはほとんど気にならない。
わたしのチャリについているシマノ製のブレーキ(おそらくTIAGRAグレード)の形状からすると、これ以上のカバー形状と取り付け方は思いつかないので、あとは取り付けたあとにヤスリ掛けをしっかりする、といった後処理の方法を探してゆくことになりそうだ。
(裏返しで縫う、というやり方もあるけれど、後処理をしっかりしたほうが、むしろ実用性は高いと思う)
STIレバーの場合は、ブレーキカバーの形状もやや複雑なのだけど、ここまで革をつぶしながら試行錯誤してきたかいあって、今なら作れるのではないか、とも思っている。
ロードバイクを持ってたらさっさと試しているのだが。
◆◆◆
あとは、
・iPadのスタンド
・MacBook Airのケース
・革と木の彫刻での作品作り
あたり。
いちばんの問題は、革がとっても高いってこと…
革というのは、大きくなればなるほど値段が跳ね上がるのだ。
(合皮なんかと違って、牛の大きさは決まっていますからね)
今のところ良い革でブレーキカバーを作ると、1万円オーバーになっちゃうのが難しい。
大型ノートパソコンのケースは、ちょっと考えたくもないぞ。
思い切って牛一頭分を買っちゃえばわりと安くなるんだけどね。
誰か一緒にやりませんか。
ランニング
そういえば、先月の終りから、トレーニングを見直している。
実は夏の北海道ツアーで知り合った方が、トライアスロンをしておられるらしく、
すっかり感化されてしまったのだ。
ただトライアスロンといえば、マラソンとチャリにスイミングだから、
いつもやっていることと、形式そのものは特に変わらない。
しかしその内実を考えると、やはりそれ相応の姿勢と取り組みが必要になってくる。
◆◆◆
そのついでというわけではないのだけど、
友人から、ランニングはどうしたらいいかと聞かれたので簡単に説明。
背筋伸ばしな、と言われた学生さんも参考にしてください。
ランニングに作法もなにもなかろうと思う方も多いだろうが、これがけっこう奥が深い。
わたしの場合は、身体が潰れ研究に行き詰ったときに、なにかとってもシンドイことをやろう、それを軌道にのせられれば生活も元に戻せるはず、と思い立ち始めてから、2年とちょっとになる。
よっぽどのことがない限り、毎日5キロちょいを走るか歩く。
なぜ「走る」だけじゃないのかといえば、毎日走っていると足にガタがくるからだ。
わたしのコースは地元のため池の廻りで土面だけど、それでも毎日となると話が違う。
なので、どうしてもダメなときは歩く。
それでも池を最低3周、という距離だけは守ることにしている。
2ヶ月も毎日走っていれば、2,3キロ程度なら誰でも走れるようになると思うが、
今度は脚の強度という物理的な問題が重くのしかかってくる。
なにせ慣れない頃は、脛の前面が、ちょっと触っただけでも痛いほどになる。
ところでわたしは、人生は旅だ、と常々考えているので、
「今日と同じことを明日もやれるか、やってよいか、やるべきか」
といつも確認しながらの毎日を過ごしている。
そうすると、昨日は死ぬほど頑張ったから今日は疲労で寝ていた、
というのでは人生を踏み外しちゃうのだ。
◆◆◆
そういうことを考えて、あるていどのものは揃えておこうと思って買ったのがこれ。
・Nike+のシューズ(Nike iDで買ったもの)
・Nike+のセンサー
・アームバンド(Sumajin製)
・手持ちのiPod nano
身体がムズムズしてくるはずだ。こうなるとあとは楽だ。
◆ランニングの位置づけ◆
人間としてしっかりした身体を作りたい場合、
ランニングをしているときも、正しいフォームで走れているか、
と常に明確に意識しておくといい。
背筋をやや伸ばして呼吸を整える(口から吸って鼻から吐く)、
くらいは意識しておきたいもの。
あとは、「無理なペースで走らない」ことだけを覚えておけばよい。
ずっと続けられることの方が、よっぽど大事だ。
実は夏の北海道ツアーで知り合った方が、トライアスロンをしておられるらしく、
すっかり感化されてしまったのだ。
ただトライアスロンといえば、マラソンとチャリにスイミングだから、
いつもやっていることと、形式そのものは特に変わらない。
しかしその内実を考えると、やはりそれ相応の姿勢と取り組みが必要になってくる。
◆◆◆
そのついでというわけではないのだけど、
友人から、ランニングはどうしたらいいかと聞かれたので簡単に説明。
背筋伸ばしな、と言われた学生さんも参考にしてください。
ランニングに作法もなにもなかろうと思う方も多いだろうが、これがけっこう奥が深い。
わたしの場合は、身体が潰れ研究に行き詰ったときに、なにかとってもシンドイことをやろう、それを軌道にのせられれば生活も元に戻せるはず、と思い立ち始めてから、2年とちょっとになる。
よっぽどのことがない限り、毎日5キロちょいを走るか歩く。
なぜ「走る」だけじゃないのかといえば、毎日走っていると足にガタがくるからだ。
わたしのコースは地元のため池の廻りで土面だけど、それでも毎日となると話が違う。
なので、どうしてもダメなときは歩く。
それでも池を最低3周、という距離だけは守ることにしている。
2ヶ月も毎日走っていれば、2,3キロ程度なら誰でも走れるようになると思うが、
今度は脚の強度という物理的な問題が重くのしかかってくる。
なにせ慣れない頃は、脛の前面が、ちょっと触っただけでも痛いほどになる。
ところでわたしは、人生は旅だ、と常々考えているので、
「今日と同じことを明日もやれるか、やってよいか、やるべきか」
といつも確認しながらの毎日を過ごしている。
そうすると、昨日は死ぬほど頑張ったから今日は疲労で寝ていた、
というのでは人生を踏み外しちゃうのだ。
◆◆◆
そういうことを考えて、あるていどのものは揃えておこうと思って買ったのがこれ。
・Nike+のシューズ(Nike iDで買ったもの)
・Nike+のセンサー
・アームバンド(Sumajin製)
・手持ちのiPod nano
センサーをiPodとシューズにつけて走ると、消費カロリーやら走行距離やらを測ってくれる。
わたしの場合はそういうことよりも、毎日の記録がちゃんと残るからサボれない、
という一事が重要なのだけど、やはりいつもの音楽をオンにすると、「さあやるか」と思えることも意味がある。
雨風雪に問わず、台風だろうが
学生からのとんでもないサプライズで参っていようが走りに行くのに、
どの装備もよく持ってくれている。
平気で水たまりの中につっこんでいるのだが、よく潰れないものだ。
最近はもっと良い靴もあるようなので、近くのショップでいろいろと探してみるといいかと思う。
アディダスはauの携帯電話と、ナイキはiPod, iPhoneと連携できるので、
「ちょっとくらいは楽しさがないとランニングなんかとても」と思っている人を力づけてくれるはずだ。
◆ランニングはしんどいか?◆
わたしたちは義務教育で、
「行間マラソン=横っ腹がイタイ」
という図式を見にしみて体感させられているので、
「ランニング=ダイエット以外なら苦行」
と思われる方もおられるかも、というか多そうだ。
わたしも当初はそう思ってあえてはじめたのだけど、
これがやってみると、ぜんぜんそうでもない。
むしろ、毎日の終わりに肩で風を切って汗を流し、
今日学んだことの整理をし、雨に打たれて雑念を洗い流すことは、
今日ももうひと踏ん張り、という区切りをつけるのにもってこい。
毎日こうして走れる環境にいることのありがたみが、身にしみてわかろうというもの。
そう思える2ヶ月間、毎日のように走りに行けるか、というのが分水嶺だと思う。
ほんとに毎日ランニングをしていると、なにかイベントがあって行けないときには、「行間マラソン=横っ腹がイタイ」
という図式を見にしみて体感させられているので、
「ランニング=ダイエット以外なら苦行」
と思われる方もおられるかも、というか多そうだ。
わたしも当初はそう思ってあえてはじめたのだけど、
これがやってみると、ぜんぜんそうでもない。
むしろ、毎日の終わりに肩で風を切って汗を流し、
今日学んだことの整理をし、雨に打たれて雑念を洗い流すことは、
今日ももうひと踏ん張り、という区切りをつけるのにもってこい。
毎日こうして走れる環境にいることのありがたみが、身にしみてわかろうというもの。
そう思える2ヶ月間、毎日のように走りに行けるか、というのが分水嶺だと思う。
身体がムズムズしてくるはずだ。こうなるとあとは楽だ。
◆ランニングの位置づけ◆
ランニングかスイミングは、武道における武道体などでもなく、
それ以前の人間体の土台になるものだから、
人間としては必須科目なのではないかと勝手に思っている。
人間体というものは、意識して身体を運動形態におくことが習慣付けられていれば、
当然ながらそのぶんだけの実体が作られていくものだ。
たとえば、電車に乗ったときは足を全力で踏ん張ったり、
友人と座席に座るときには背もたれを使わない、
帰宅後風呂場で身体を洗うときには正座、雨の日には傘を全力で握るなど。
当然ながらそのぶんだけの実体が作られていくものだ。
たとえば、電車に乗ったときは足を全力で踏ん張ったり、
友人と座席に座るときには背もたれを使わない、
帰宅後風呂場で身体を洗うときには正座、雨の日には傘を全力で握るなど。
そういうことをしっかり意識しながらやっていれば、
土台づくりとしては合格点をあげられるし、なにしろ空き時間をしっかりと使う、
という意識が磨かれてゆくことがいちばんの収穫になる。
土台づくりとしては合格点をあげられるし、なにしろ空き時間をしっかりと使う、
という意識が磨かれてゆくことがいちばんの収穫になる。
人間としてしっかりした身体を作りたい場合、
ランニングをしているときも、正しいフォームで走れているか、
と常に明確に意識しておくといい。
背筋をやや伸ばして呼吸を整える(口から吸って鼻から吐く)、
くらいは意識しておきたいもの。
あとは、「無理なペースで走らない」ことだけを覚えておけばよい。
ずっと続けられることの方が、よっぽど大事だ。
◆◆◆
余談だけれど、これから寒くなってくると、とくに真冬の雨の日は、
「屋内でも寒いのに、今日はとても無理だ」と思わないでもない。
しかし、それでも奮起してチャリを漕いで行く。
なにかと理由をつけて休むと、きっと次の日も休むからだ。だから、あえて行く。
そうすると、やはり同じ時間にひとりでもくもくとランニングをしている方がおられる。
夜目ながら年配の方のようだが、おそらく同じ思いを振り払って来られているのだろうと思うと、やっぱり来てよかった、という気持ちになる。
だれかが走っているからわたしも走るのではないけれど、
自分と同じようなちっぽけな意地、それでも譲れないこだわりを持って生きている人を見ると、やっぱり人間はいいものだな、これだから、と思わずにはいられない。
どこかの見知らぬ方、新参者ですがどうぞよしなに。
2010/11/02
非凡なる凡人―国木田独歩
ノブくんの評論
非凡なる凡人―国木田独歩
◆◆◆
わたしのコメント
この作品は、『非凡なる凡人』というタイトルのように、天才ではないが努力家の、ある青年の生き方を描いています。その青年というのは、筆者の友人の「桂正作」という人物で、貧しい生まれでありながら、『西国立志編』に感化されたことをきっかけにして、自らの人生を極めて長いスパンで物事を考え、実行できる人物となっていったようです。筆者は、秀吉やナポレオンなどといった天才とは違った意味で、彼に感心しており、この作品は彼への讃歌といっても過言ではないでしょう。
さてその作品を論じるにあたって論者は、この作品の一般性を、<成功するとはどういうことか>という形で抜き出してきています。
まずはじめに評しておくべきことは、作中に一度も用いられていない「成功」という概念を用いてこの作品を整理するならば、それだけの必要と意義があってしかるべきですが、見たところ、その要はないようです。おそらく、作中では「非凡」とされていることを受けて、そういった表現を採用したのでしょうが、なぜ「非凡」という概念を用いて、たとえば<非凡とはどういうことか>と言えなかったのでしょうか。(この一般性が正しい、ということではありません。あくまでたとえです)
「タイトルのままだから避けたのだ」、という答えが成り立つようにも思えますが、一般性というものは、その作品を一語、一文で要したものであるがゆえに、タイトルとの近似はそもそも避けることができないという、形態としての必然性をもっています。ですから、もしある作品をじっくり読んで、それでもタイトル通りの一般性を使うべきであるなら、それを用いてもまったくかまわないどころか、それを採用せねばならないのです。
結論から言って、論者は、この作品の著者の言う、「非凡なる凡人」ということばの本当の意味が、もっとも深いところでは納得できていないままに評論を書き始めてしまっています。筆者は文中で、以下のように言っています。「どうだ諸君! こういうことはできやすいようで、なかなかできないことだよ。桂は凡人だろう。けれどもそのなすことは非凡ではないか。」
(ここでやや注意が必要だと思われるのは、筆者は冒頭で彼のことを「非凡人ではない。けれども凡人でもない」と言っているにもかかわらず、ここで「凡人だろう」と言ってしまっています。この作品は、明確な概念を用いてはいませんが、この作品を論じる側の人間は、やはりまっとうに論じられる程度には、明確な概念規定を与えておかねばなりません。ここでは、彼は「凡人である」としておきましょう。)
そう筆者が直接に指摘しているように、これは矛盾です。「凡人」なのに、そのなすことは「非凡」である、とは一体どういうことなのでしょうか。この矛盾に着目できてさえいれば、それが直接に明確な問いとなって、物語の理解を進めてくれる最良の手がかりになったはずです。
現実というものは、そこに現れる事実をもって、「凡人」はどうあがいても「凡人」のままである、という形而上学的な命題を打ち破ります。現実が「凡人」が「非凡」な仕事をすることを証明するのなら、その過程にはなにか隠された構造があるはずではないですか。
論者は、上記の引用文には一応の注意を払っていたようで、才能はなくとも一歩ずつ着実に階段を登ってゆけば成功できる、といったことを述べてはいますが、この作品の主張というものは、それだけに尽きるものでしょうか。
少なくとも、「正作」の生まれた家柄には、その成功のきっかけが、「そのままの形では」用意されていなかったことは、彼の父親や兄弟の顛末を見ればわかるとおりです。それでは、彼に非凡なる生き方をなさしめたのは、どういう要素の「組み合わせ」だったのですか。
答えを直接明かしてしまっては論理性が身につきませんから、ヒントのレベルでいくつか提示をしておきますと、上記した引用文に加えて、以下の箇所も重要です。「一転すれば冒険心となり、再転すれば山気となるのである」。
このように、この作品の中には、「凡人と非凡」、「冒険心と山気」といったように、通常の場合には対義語とされることばや、人間のうちのある気質の異なった側面というものが扱われています。一見矛盾に思われるこれらの現象が、桂家と、桂正作のありかたに現れていることに着目すれば、この作品を本質的に理解し、論じることができるはずです。正しい一般化の仕方を体得するために、ここだけは本腰を入れて取り組まねばなりません。
非凡なる凡人―国木田独歩
この作品は著者の友人である、桂正作という技手について語られています。彼は秀吉やナポレオン等の非凡の類ではありません。ですが凡人でもありません。著者曰く、「非凡なる凡人」というが最も適評だと述べています。また著者は彼のその特性を尊敬している様子。一体著者は桂のどのような特性をそう評し、感心しているのでしょうか。
この作品では、〈成功するとはどういうことか〉ということが描かれています。
まず桂の才能というのは、著者も述べているように平凡なもので、特に目立った特性もなく私達と何ら変わらない人物です。ですが、桂は凡人であるが故に自身の才を生かすこととなるのです。彼の生き方というのはまさに一歩一歩階段を上るようなものでした。地道にお金を貯めて上京、そして上京すると今度は数年かけて、帰郷するためお金を貯め、帰郷したかと思えば、今度は自分を追うようにして東京にやってきた弟達の面倒をも見ています。この忍耐の必要な人生を一体何人が真似て出来るでしょうか。人生において、確かに才能や周りの環境によって自分の思い通りの人生を歩む者もいます。しかし、一方で才能等はなくても一歩一歩直実にステップを踏むことによっても、自分の人生を成功させ、思い通りに生きることができるのです。
◆◆◆
わたしのコメント
この作品は、『非凡なる凡人』というタイトルのように、天才ではないが努力家の、ある青年の生き方を描いています。その青年というのは、筆者の友人の「桂正作」という人物で、貧しい生まれでありながら、『西国立志編』に感化されたことをきっかけにして、自らの人生を極めて長いスパンで物事を考え、実行できる人物となっていったようです。筆者は、秀吉やナポレオンなどといった天才とは違った意味で、彼に感心しており、この作品は彼への讃歌といっても過言ではないでしょう。
さてその作品を論じるにあたって論者は、この作品の一般性を、<成功するとはどういうことか>という形で抜き出してきています。
まずはじめに評しておくべきことは、作中に一度も用いられていない「成功」という概念を用いてこの作品を整理するならば、それだけの必要と意義があってしかるべきですが、見たところ、その要はないようです。おそらく、作中では「非凡」とされていることを受けて、そういった表現を採用したのでしょうが、なぜ「非凡」という概念を用いて、たとえば<非凡とはどういうことか>と言えなかったのでしょうか。(この一般性が正しい、ということではありません。あくまでたとえです)
「タイトルのままだから避けたのだ」、という答えが成り立つようにも思えますが、一般性というものは、その作品を一語、一文で要したものであるがゆえに、タイトルとの近似はそもそも避けることができないという、形態としての必然性をもっています。ですから、もしある作品をじっくり読んで、それでもタイトル通りの一般性を使うべきであるなら、それを用いてもまったくかまわないどころか、それを採用せねばならないのです。
結論から言って、論者は、この作品の著者の言う、「非凡なる凡人」ということばの本当の意味が、もっとも深いところでは納得できていないままに評論を書き始めてしまっています。筆者は文中で、以下のように言っています。「どうだ諸君! こういうことはできやすいようで、なかなかできないことだよ。桂は凡人だろう。けれどもそのなすことは非凡ではないか。」
(ここでやや注意が必要だと思われるのは、筆者は冒頭で彼のことを「非凡人ではない。けれども凡人でもない」と言っているにもかかわらず、ここで「凡人だろう」と言ってしまっています。この作品は、明確な概念を用いてはいませんが、この作品を論じる側の人間は、やはりまっとうに論じられる程度には、明確な概念規定を与えておかねばなりません。ここでは、彼は「凡人である」としておきましょう。)
そう筆者が直接に指摘しているように、これは矛盾です。「凡人」なのに、そのなすことは「非凡」である、とは一体どういうことなのでしょうか。この矛盾に着目できてさえいれば、それが直接に明確な問いとなって、物語の理解を進めてくれる最良の手がかりになったはずです。
現実というものは、そこに現れる事実をもって、「凡人」はどうあがいても「凡人」のままである、という形而上学的な命題を打ち破ります。現実が「凡人」が「非凡」な仕事をすることを証明するのなら、その過程にはなにか隠された構造があるはずではないですか。
論者は、上記の引用文には一応の注意を払っていたようで、才能はなくとも一歩ずつ着実に階段を登ってゆけば成功できる、といったことを述べてはいますが、この作品の主張というものは、それだけに尽きるものでしょうか。
少なくとも、「正作」の生まれた家柄には、その成功のきっかけが、「そのままの形では」用意されていなかったことは、彼の父親や兄弟の顛末を見ればわかるとおりです。それでは、彼に非凡なる生き方をなさしめたのは、どういう要素の「組み合わせ」だったのですか。
答えを直接明かしてしまっては論理性が身につきませんから、ヒントのレベルでいくつか提示をしておきますと、上記した引用文に加えて、以下の箇所も重要です。「一転すれば冒険心となり、再転すれば山気となるのである」。
このように、この作品の中には、「凡人と非凡」、「冒険心と山気」といったように、通常の場合には対義語とされることばや、人間のうちのある気質の異なった側面というものが扱われています。一見矛盾に思われるこれらの現象が、桂家と、桂正作のありかたに現れていることに着目すれば、この作品を本質的に理解し、論じることができるはずです。正しい一般化の仕方を体得するために、ここだけは本腰を入れて取り組まねばなりません。
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