2012/01/12

【メモ】弁証法コトワザのまとめ

前回の評論へのコメント記事で、弁証法に関することわざについて触れましたので、以前に学生への演習用に作ったファイルを公開しておきます。


PDFファイル:弁証法コトワザのまとめ(プリントして使ってください)

原典にあたるのもよいと思いますが、この本は製本が悪くて、やけにバラバラになってしまいますから、背表紙はあまり折り曲げないほうがよいでしょう。

◆◆◆

学習にあたっては、辞書や、辞書に載っていないものはインターネットで調べれば意味がわかりますので、それを空欄に書きこんでゆくとよいと思います。(ただしインターネットの情報は、必ず複数の情報源にあたって吟味し、鵜呑みにしないほうがよいです。)

ただそのときに、辞書的な定義を丸写しするのではまったく意味がありませんから、ことわざの意味を調べた上で、そのことわざに働いている法則を意識して、法則性を含める形で自分にわかるように書き記しておいてください。

この修練はとくに、「弁証法が使えかけているような気がするけれども、弁証法というには表面的な理解にとどまっているような気もする、ということを自覚できつつある人」にとっては有意義だと思います。

常々言っているように、弁証法は、法則をまる覚えするだけではなんの役にもたちませんから、それを実際に現実の出来事や対象に「使って」みることができなければなりませんし、さらにはその重層構造を鮮やかに整理して認識できるまでに高めてゆかねばならないものです。
一言でいえば、弁証法にはより高い次元があり、より高い精度があり、重層構造があるということです。

◆◆◆

ともかく弁証法は、認識における技ですから、毎日目的的に修練していない人は、「質量」転化、つまり認識の力が質的に低下していって、実力の低下が意識できる段になったときにはもはや手遅れ、といった恐ろしさがあるのです。

このこと自体も実に弁証法的ですが、大人の中には残念ながら、「世界は本当に弁証法的な性格を帯びているのか?」などと賢ぶった前提への問いかけをしたがる人もいますから、学生のみなさんが不安がらずに修練に向かえるよういちおうお答えしておきます。

「いいですか、わたしたちは、森羅万象に弁証法なるものがあるように解釈しているのではなく、また森羅万象を弁証法にぴったりくるようにコジツケているのでは決してなく、森羅万象に横たわる構造に、その名前を与えて、古代ギリシャ哲学の時代から学問に取り組む人類総体として磨き続けているというにすぎないのです。

「弁証法」という名前が気に入らなければ、"dialektikē"でも"Dialektik"でもなんでも勝手に呼べばいいのですが、それでも森羅万象になんらかの一般的な性質があることは誰しも否定しないところでしょう。そうでなければ言葉もありませんし、私も毎瞬私でなくなっていなければおかしいですからね。もしこの世界のどこにもなんらの一般性も法則性もないという信念をお持ちなら、直ちに学問の世界を去られるとよいと思います。」、と。

もしイチャモンをつけられるようなことがあったら、そう言っておくとだいたいは黙ってくれるでしょう。ただ、わたしの口の悪いところは真似しなくてもけっこうですので、その部分は適当に皮肉にくるんでおくとよいでしょう。

◆◆◆

ともかく賢明な学生のみなさんは、場をかき乱すのが賢い人間の勲章だと思っているような暇人の妄言には耳を貸さず、コツコツと自分の道を歩んで立派な人間になってもらいたいところです。少女も少年も老い易く、ですからね。

そのためにはというわけで、脅すわけではありませんが、学生のみなさんは、20代のうちにできるだけ高い精度の弁証法を身につけるべく修練してほしいと強く願います。

それ以降は、そこで培った能力で歩みをすすめることになりますから。
30代に入ると、自分の認識のあり方、つまり人生のあり方そのものを変えることはとても難しくなります。
みなさんもその年令になると、悲しい実例をたくさん見ることになりますが、自分だけはそこに入るまい、との志をしっかりと持ってください。
重ね重ね、お願いしておきます。

専攻する分野の一流の本のなかに弁証法を見つけ、欄外に書き込みながら読むこと、その日に見つけた弁証法を日記につけることとあわせて取り組んでください。

2012/01/11

文学考察: 納豆合戦ー菊池寛


◆文学作品◆
菊池寛 納豆合戦



◆ノブくんの評論◆
文学考察: 納豆合戦ー菊池寛
著者が十一歳のある時、彼の悪友である吉公は納豆屋の盲目のお婆さんから、2銭の納豆を1銭だと言い張って騙し買ってしまいます。その後、彼はその納豆を学校へ持って行き、それを鉄砲玉にして納豆合戦を行いました。そしてこの遊びの面白さの味をしめた著者たちは、その日以来、お婆さんをこうして騙し続けていきます。
ところがある日、吉公がいつものようにお婆さんを騙そうとしている最中、その現場をお巡りさんに見つかってしまいます。そして吉公が見つかった事で、自分たちの身の危険を感じた著者たちは、いっぺんにわっと泣き出してしまいました。すると、そんな私たちの姿を可哀想に思ったお婆さんは、お巡りさんをとめて著者たちを助けてあげました。こうしてお婆さんに助けられた著者は、「穴の中へでも、這入りたいような恥しさと、悪いことをしたという後悔」とを感じながら、この事件以来お婆さんの納豆を買うようになっていきました。
 
この作品では、〈自身の立場に関係なく、他人の立場になって考える事のできるある老婆の姿〉が描かれています。 
この作品の中での大きな変化は、著者を含めた子供たちの心にあります。しして、その変化には納豆を騙し買われていたお婆さんの存在が大きく関わっています。では、物語の中での彼らの立場を整理しながら、具体的に彼らはお婆さんのどういうところを見て大きく変化していったのかを見ていきましょう。
まず、著者たちが納豆合戦する為にお婆さんから納豆を買っていた時、彼らの中で彼女は騙す対象であり、「「一銭のだい!」と吉公は叱るように言いました。」という一文からも理解できるように、彼らの世界では非常に弱い立場にありました。そして、お婆さんはお婆さんで、自分が盲目であることから子供たちを叱ることもできず、ただ騙されるしかありませんでした。
しかし、物語の途中、お巡りさんという第三者が介入することにより、この立場の均衡は大きく崩れてしまいます。彼はお婆さんを護るべく子供たちをこらしめようとしているのですから、当然子供たちの世界では自分たちよりも立場が強い存在という事になります。そしてこのお巡りさんに守られているお婆さん自身も、一時的にではあるでしょうが、子供たちよりも強い立場に立ったことになります。ですが、このお婆さんは子供たちの様に自分たちよりも弱い立場の者をいじめたり、或いはお巡りさんのようにこらしめたりする心を一切持っていません。彼女は自分が騙されていたにも拘らず、子供たちを可哀想だからと助けようとしているではありませんか。そして、このお婆さんの態度は、著者たちの内面に大きな影響を与えることとなります。彼はお婆さんの自身の立場が変わっても、また自分が騙されていたと分かっても、自分たちを哀れんで助けてくれたその行動を見て、立場の弱いお婆さんを騙していたにも拘らず、彼女に助けられた事への恥ずかしさ、またその事への後悔を感じずにはいられまくなっていきます。だからこそ、彼はそれらを反省し、お婆さんのために納豆を買うようになっていったのです。


◆わたしのコメント◆

この作品のあらすじについては、評論にあるとおりです。
「私」とその悪友である「吉公(きちこう)」が、盲目の納豆屋の「お婆さん」から納豆を騙して不当に安くで買ったことが「お巡査(まわり)さん」に知られて罰せられそうになるものの、お婆さんがそれを助けてくれる、というものです。

論者は、この作品を透かしてその構造をたぐり寄せるときには、そこでの力関係に着目すべきだ、としています。
その指摘は正当ですが、その着眼点の正しさに比べると論証部がやや整理されきれていないようなので、どう表現すべきだったのかを考えてゆきましょう。

作品の前半部では、私と吉公が、お婆さんが盲目であることをいいことに納豆代をちょろまかす、という場面が描かれていますから、私と吉公にとって、お婆さんは思うままにいたずらをすることのできる格下の対象であるということになります。
ところが後半部になると、お代が合わないことに気づいたお婆さんがお巡査さんを呼んだために、その力関係は崩れ、今度は逆に、お巡査さんが私と吉公たちを叱る立場として上下関係が結ばれます。

文中では、この私と吉公にとっての力関係の反転が、このように表現されていますね。
「「おい、お前は、いくらの納豆を買ったのだ。」とお巡査さんが、 怖しい声で聞きました。いくら餓鬼大将の吉公だといって、お巡査さんに逢っちゃ堪りません。蒼くなって、ブルブル顫えながら、「一銭のです、一銭のです。」と、泣き声で言いました。 」

◆◆◆

この力関係の反転が何をもたらしたかというと、私と吉公に、「強い立場をいいことに弱い立場の者をいじめることが、いじめられる者にとってどのようなものであるか」という経験を、その身をもって与えることになったわけです。

評論全体の口ぶりからすると、論者はこの箇所は「観念的二重化」である、と認識したようですが、わたしにいつも、「学問用語は評論中で使っても読者の便益にならない」と言われていることを思い出して、別の表現にしようと考えたようです。

表現としては直接現れていなくとも、その認識は表現をとおして読み取ることができますから、少なくとも認識の段階では正当であったはずだと指摘できますが、翻ってそのことが、論者自身の、自分の言葉で過不足無く言い切れているかというと、やはり少しばかり言葉足らずのようです。

先ほど触れたように、物語の前半で強い立場であった私と吉公が、物語の後半では弱い立場に置かれることになり、彼らは弱い立場にある者がどのような気持ちになるのか、と想像できるようになっていったのでしたね。
ここで彼らは、お巡査さんに絞られて恐ろしい思いをした経験をとおして、かつてのお婆さんは、自分のハンデを逆手に取られてわけもわからないうちに納豆代をくすねられていたのか、そしてその犯人は、ほかでもない自分たちだったのか、と、かつてのお婆さんと現在の自分たちを二重化するかたちで、お婆さんの気持ちを自分たちのもののように思い知ることになったのでした。

これはまるで、立場の弱い自分を、第三者が悪意のこもった目でにらめつけているような光景ですが、お婆さんに観念的二重化をしている私と吉公にとっては、悪意の第三者は他でもない自分たちなのです。
そしてまた盲目のお婆さんにとっては、その悪意は直接見ることができないのですから、一体この先なにが自分の身に振りかかるのか、という恐ろしさがあるはずのものなのです。

ここまでが、お巡査さんに絞られて私と吉公が反省したことの内実です。
過程における構造を手繰り寄せようとする姿勢は十分にうかがえる論者にあっては、このように「観念的二重化」の過程を、それぞれの登場人物の気持ちになったかのように、丁寧に描き出してほしかったところです。

◆◆◆

こうして、私と吉公がお婆さんに観念的二重化をするきっかけを見出すとともに感情が高まって泣き出す段になると、今度は逆にお婆さんが、泣き出した私と吉公の内面に二重化することになり、彼女をして目に一杯の涙を湛えながら「「もう、旦那さん、勘忍して下さい。ホンのこの坊ちゃん達のいたずらだ。悪気でしたのじゃありません。いい加減に、勘忍してあげてお呉んなさい。」」という言葉となって口をついて出さしめることになったのです。

このように整理してみると、物語の後半部では、第一に私と吉公のお婆さんへの観念的二重化が起こり、次にはその泣き顔を見て彼らの内面を自分のことのように感じ取ったお婆さんの彼らへの観念的二重化、そしてさいごには、非のある自分たちでさえもおおらかな気持ちで自分たちの立場になって弁護してくれたお婆さんへの私と吉公の観念的二重化、というふうに、幾層にも重なりあう観念的二重化が描かれていることがわかってきます。

さいごの、私と吉公の観念的二重化では、それまでの経緯、つまりお婆さんをいじめた自分たち、そしてそれでも自分たちを許してくれたお婆さんという二重性をもったものであったために、「お婆さんの眼の見えない顔を見ていると穴の中へでも、這入りたいような恥しさと、悪いことをしたという後悔とで、心の中(うち)が一杯になりました。」という恥ずかしさと後悔が入り混じった、深い気持ちとなって現れることになっているのです。

そのことを受けて、物語のさいごでは、私の口からこう語られていますね。
「このことがあってから、私達がぷっつりと、この悪戯を止めたのは、申す迄もありません。その上、餓鬼大将の吉公さえ、前よりはよほどおとなしくなったように見えました。私は、納豆売のお婆さんに、恩返しのため何かしてやらねばならないと思いました。」

彼らの行動だけを見ると、「悪戯を止めることになった」という現象でしかありませんが、その構造を見ると、「私と吉公」と「お婆さん」の間の、三重の観念的二重化が重なりあったことで、ついにはそのような振る舞いの変化となって現れることになっていったのだ、ということがわかります。

物語というものが、結果などにはほとんど力点がおかれていないことがよくわかりますね。
では物語の本質はどこにあるのか、といえば、答えを言わずともわかるでしょう。

◆◆◆

今回の評論を全体的に見て、単純な物語だからと、いい加減に済ましてしまう気持ちが微塵も感じられないところは、論者の作品に対する姿勢が確かなものになりつつあることとともに、その認識の在り方が深みを持ったものになってきていることを示しているのでは、と期待しているところです。

認識にどれだけの深みがあるかということは、人間にとって言えば「人格」と呼ばれるものに直結するほどに重要なことがらです。
人格が優れている、精神が強い、ということがなんなのかと考えてみれば、人のあり方を我が身に繰り返すかのごとく受け止めたうえで、その弱さを知悉していることでもあるのですから、質的な強さに至るまでには人の弱さというものもきちんとふまえられていなければならないことがわかるはずです。(相互浸透の「量質転化」化)

ここを極意的に要すれば、弱さがわかってこその強さである、と言えますね。(対立物の相互浸透)
そのことと同時に(相互浸透のかたちでわかることには)、人の気持ちがわからないような、いわば心臓に毛の生えたような強さなどというものが、いかに偽物の強さであるかも踏まえておいてほしいものです。

またこれだけの短編でも、きちんとその構造を踏まえて把握しておくという姿勢を堅持するならば、世にあるいじめが無くならないのはどのような原因があるからなのかという問題を解く手がかりにもできてゆきますし、その解決に向けた取り組みがどのようなものであるべきかもわかってくるはずです。
そしてまた他でもない文学の道を志す論者にとっては、自分の作品について、「作品中の登場人物の心理描写が薄い」と指摘されるのはなぜなのか、と自分の力で考えを進めてゆけるのではないかと思います。

この作品は、ことわざで例えるなら「我が身をつねって人の痛さを知れ」ということであり、子供たちは、実際に弱い立場に立たされたうえで、強い立場ではどう振る舞うべきなのかを、お婆さんが自分たちを庇う姿を見ることを通して知ったのですから、その相互浸透の過程を含めて一般化するのなら、この作品は、<子供たちに他人の気持ちになって考えることを教えたひとりの老婆>を描いていたのだ、などとするのが良さそうです。

論者の引き出した一般性でもまったくの間違いではありませんが、お婆さんの主体的な性質は、なにも物語が始まらなくとも自ずから持っていたものなのであって、一般性があくまでも「作品の全体」の本質を抜き出したものでなければならない以上、またこの物語の力点が論者の捉えていたとおり「観念的二重化」にある以上、その論理性を含めて一般化するべきだった、と言えるのです。


【正誤】
・しして、その変化には納豆を騙し買われていたお婆さんの存在が
・またその事への後悔を感じずにはいられまくなっていきます。

2012/01/08

文学考察: 越年ー岡本かの子

一連の文学評論へのコメントについて、


一般の読者のみなさんも、難しすぎると思われる場合には一声かけてください。

その時の能力はともかく、意欲がありさえすれば引き上げてともに歩むということが、学者としての責務ですから。

人生を左右するのは努力です。
生まれ育った条件などは、努力の前にはさほどの意味もありません。


◆文学作品◆

岡本かの子 越年



◆ノブくんの評論◆

文学考察: 越年ー岡本かの子
ある年末、少し気弱な女性社員の加奈江は、突然同じ会社の男性社員である堂島から訳も分からないまま頬を撲られてしまいます。そして怒りを感じた彼女は、次の日に自身の上司にこの事を話し、こらしめようと考えました。ですが上司の話では、なんと彼は加奈江を撲ったその日に既に退社しているというのです。そこで彼女は同僚の朋子と共に、堂島の同僚から、彼がよく現れるという通りを聞き出し、彼の捜索をはじめます。やがてその年は過ぎ去り、新しい年を迎えた時、彼女達は遂に堂島を発見し、彼を撲ることで自身の仇討ちを果すことに成功しました。
その数日後、彼女は堂島らしき自分物から、一通の手紙を貰います。そこには、彼女がそれまで予想もしていなかった、何故堂島は彼女を撲らなければならないのかが書かれてありました。なんと彼は、実は以前から加奈江に対して好意をもっており、会社を辞めた後、彼女に会えなくなることを割り切れずにいました。ですが、その気持ちをどう表現して良いのか分からず、自分の事を忘れさせないために敢えて彼女を撲ったというのです。この手紙を読んだ彼女は、堂島の強い思いに心奪われ、再び堂島を探しはじめました。ですが、彼とはそれっきり会えないままとなってしまいました。
 
この作品では〈表現の中身は、常に同じだとは限らない〉ということが描かれています。 
さて、上記の一般性を考えるにあたって、何故加奈江は堂島を撲ったのか、というごく当たり前とも思えるような疑問から考えていきましょう。まず、彼女は堂島に撲られた時、取り敢えずは撲られなければいけない理由を探してはいます。しかし、そうした理由は思いつきませんでした。そこで彼女は、撲るということは、堂島がそれなりの怒りを何かに感じたはずであり、又自分がその非を自身に見つけられなかったということは、恐らく些細な出来事で怒りを感じているのではないか、という考えに至り、彼を非難せずにはいられなくなっていったのでしょう。言わば彼女は、撲るという表現を自分の、常識の範囲の中で考えていたのです。ですから、彼女は表現としては堂島が自分を撲ったように、自分もまた彼に対して怒りをもって頬を叩かずにはいられなかったのです。
ですが、堂島の場合、怒りの為に彼女を撲ったのではありません。上記にもあるように、彼のそうした表現は、あくまでも彼女への愛情からのものなのですから。言わば、彼は彼女を撲ってでも、彼女に思われたかったのです。そして、こうした表現の仕方は、これまで自分の範囲の中でしか撲るという事を考えていなかった加奈江にとっては、非常に強烈なものであり、堂島を追わずにはいられなくなっていったのです。

◆わたしのコメント◆

この物語は、「加奈江」の主観を主軸に据えて、彼女を撲った直後に退社した同僚の「堂島」が、なぜ彼女にそういった振る舞いをしなければならなかったのかが描かれてゆきます。
その理由が明らかになるのは、物語の終盤の堂島からの手紙ですが、それによると彼は、彼女を想う気持ちが日増しに募ってきたものの、その内面を当人にどう伝えてよいのかがわからずに、刹那的に手を挙げるしかなかったのだ、というものなのでした。

そのような物語全体の流れを見ると、論者の書いたあらすじは要点を押さえており、かといって蛇足もなく必要十分で、なかなかの文章だと言っても贔屓目にはならないでしょう。

つづく論証では、この物語が「堂島が加奈江を撲った」というひとつの事件にまつわるものであることをしっかりとふまえ、加奈江にとっての「撲る」というものがどういうものなのか、それに対して堂島が「撲」らなければならなくなったのはなぜだったのか、という過程を追ってゆき、それらの矛盾を統一することによって、〈表現の中身は、常に同じだとは限らない〉という一般性を引き出しています。

◆◆◆

あらすじと論証を見ると、論者の理解がこの作品に照らして十分なものであることはわかるのですが、惜しむらくは一般性の表現が固く拙いことと、やや一般的すぎるきらいがあるということです。

毎度ながらのおさらいをしておくと、弁証法的唯物論における表現の三層構造は、「対象→認識→表現」でしたね。

鑑賞者は、ある表現を見るときに、その表現者の認識を直接に手に掴んで見ることはできないために、その表現過程を逆向きにたどるようにして、表現者の認識を追体験してゆかねばならないのでした。
そうして「なるほど、このような表現をしたのは、このようなことを伝えたかったためであったのか」と観念的に追体験できることをもって、そこに正しい鑑賞が成立したのだと言います。
しかしそれと同時にひとつの表現は、それが表現されたときには表現者の手を離れて、第三者によっていかようにも解釈しうるという意味で、認識と表現は「相対的に独立」した関係にありますから、表現者はそのことをふまえて、自らの思いを過たずに伝えるための表現を工夫しなければならないことにもなるのです。

これらの両面が、ある表現について、鑑賞者から見た表現の読み取り方と、表現者に必要とされる工夫なのでした。

このように、正しく鑑賞できているということは、認識から表現への過程に、客観的な関係が結ばれているという意味なのですから、この物語に即して言えば、加奈江が、堂島が自分を撲った理由を想像して、以前に彼に返事をしなかったからだろうと予想したのは、事実と異なる誤解であったのだ、ということができます。

しかし翻って、堂島が加奈江を撲ったということは、好意を伝えるにはあまりにも未熟でまずいふるまいだったのであって、加奈江がいくら彼のことを誤解をしたとしても、彼の落ち度を割り引くことにはならないでしょう。

◆◆◆

これら表現にまつわる学問的な整理をふまえて、論者の一般性〈表現の中身は、常に同じだとは限らない〉をもう一度見ると、どうやら論者は、「表現は認識とは相対的に独立したものなのだ」ということを感じ取ってはいたけれども、うまく自分のことばで表現することができずにこのような言い回しをするしかなかったのだ、ということが「表現の中身」という拙いことばづかいから読み取れます。

もし論者が、加奈江が堂島の振る舞いを誤解し、堂島が加奈江にふさわしい振る舞いをできなかったこと、つまり「堂島が加奈江を撲った」という事件の解釈の違いがこの作品の本質的な核心なのだと言いたかったのであれば、この物語は、<表現がまずかったためにおこったすれ違い>を描いているのだ、などと言えばいいことになるでしょう。

より堅い表現としたいのであれば、<ひとつの表現は、その担い手を離れてはいかようにも解釈されてしまう>、と言えばいいことになります。

いずれにしても「表現の中身」というぼやけた言い方は、学問的な表現論を学んでいる人間としては残念であるので、より明確な言葉遣いを工夫してほしいところです。

論者が拙い表現をしたときのことを考えてみたときも、わたしは論者の認識を読み取れているかもしれないとしてもおそらく一般読者には正しく伝わらないであろうことを思えば、やはり表現というのは、認識とは相対的に独立したものだと理解するのが自然であることがわかります。

加えて言うならば、いくら良い認識を持っていても、それをあまさず伝えるには正しい表現が必要なのであって、それは学問で言うところの認識から表現までの「技術」を磨いてゆかねばならないのだ、ということにもなるのです。

「わかっているはずだがうまく言えない」というもどかしさから逃げずに、それをしっかり正面に見据えつつ修練に当たってください。

◆◆◆

論者が文学作品の論理性を捉えるための修練の本道に戻りつつあるようなので、この先にどのような道程が待ち受けているのかについてかなり先取りする形になりますが、道を歩む手がかりとしておぼろげに目指すべきところを書いておくことにします。

さきほど、論者の書いたあらすじを評価しておきましたが、それほどの美文だろうかと訝しく思われる方もおられるかもしれません。
それに比べると世にある名文とされるものの中には、やけに飾り立てたようなものも多く、悪く言えば手垢まみれのレトリックの凝らし方を競っているようなところもあります。
このことについて言えば、わたし個人としては、ごく一般的な表現を使いながらも「こうでしかありえない」というところにまで研ぎ澄まされた表現にこそ美を感じますし、たとえどのような飾り立てた表現に行き着くときにも、それが確かな土台に根ざしていないのなら、正しく「粉飾」であると見做すべきだと考えています。

論者には以前から、鈍才として努力しなさい、と言ってきましたが、そこに積極的な意味がないのなら、発言する必要がないはずのものでした。わたし個人としても、嫌味を言うために仕事をしているわけではありませんから。
「鈍才」というものの積極的な意味とは何かを端的に言うならば、作品やものごとの論理性を正しくふまえられる実力を、まったくなんの前提もない地平、誰よりも低層から一歩ずつ築きあげることができるという、ほかでもないそのことこそが、鈍才ならではの唯一にして最大の利点だということです。
とくに論者は、ここ数回の評論を通して本道から脇道に逸れないコツを掴みかけているはずですから、現時点の自分の条件を卑下するような向きに身をやつすことなく、自分が得た実感をこそ最大の手がかりとして周囲の冷ややかな視線も跳ね除けて、脇目もふらずに歩みを進めてもらいたいと願っています。

これは、ものごとを二歩も三歩も飛び越えて本質を捕まえてしまう天才には、絶対に成し得ないことであり、自分が誰よりも長い長い、気の遠くなるような長い道のりを歩いて、「急がば回れ」(対立物の相互浸透、量質転化)を事実的に成し切ったときには、続くどんな鈍才をも導いてゆけるだけの道ができることでもあるのですから。

以前に、古くから伝わる極意を振りかざしているような姿勢は、机の角で頭をぶつけたときに見える光景をデッサンしているようなものであり、もっと悪くは世界を支配する究極の真理なるものを酒だかクスリだかなんだかで見ようとするような根性とあまり変わらないのだ、という悪口を言ったことがありますが、そのどれもが過程を含んでいないところに致命的な欠陥があるのだ、という意味での批判でした。
過程を含まない結論が本質的であることはどうしたってあり得ませんから、むしろ天才肌の人間のほうにこそ、いきなりたどり着いてしまった結論(「本質」ではありません)からわざわざ降りて、なにもない地平から登り直すという、精神的にも事実的にも非常に困難な課題が待ち受けていると言えるのです。

鈍才にしかできないことがあると言われると、単なる気休めのように聞こえる人が多いようですが、このような内実があることをしっかりとふまえて、そんな短絡には陥らないようにしてもらいたいものです。


【正誤】
・その数日後、彼女は堂島らしき自分物から→人物から

【青空文庫 原文の落丁】
・そういう覚悟が別に加わって近ごろになく気持ちが張り続けていた→句点がない

【メモ】ハンドバッグの理念型


サイズの小さい画像(上と同じものです)

2012/01/03

どうでもいい雑記:文学評論紹介に原典へのリンクを追加

タイトルそのまんまで、


恐縮。

いつもこのBlogで紹介している、文学修行中の弟子へのコメント記事についてですが、これまではどうせ検索すればすぐに出てくるし時間が惜しいからと、青空文庫の原典へのリンクは記載していませんでした。

ところがここ最近は、この記事を読んで勉強をしてくださっている人がわたしと弟子以外にもけっこういることがわかったので、ちょっとでも一般読者のみなさんが読みやすくなるようにと、タイトル通りのささやかさではありますが工夫をすることにしました。

それから、レポートのレベルが上がってくるとたびたび経験することなのですが、そうなるとわたしとしてもコメントをするのに時間がかかるので、できれば他の人にも目を通してもらうことで、直接の指導に当たれない空き時間にもまとまった文章に目を触れておいてほしいといった思惑もあります。

ちなみに、リンクをクリックしても新規ウインドウでは開かないようにしてありますので、Macをお使いであればcommandキーを押しながらクリックして、別のタブで原典を開くようにすると、原典と記事を行き来できて便利だと思います。
(Windowsをお使いの方は、shiftキーを押しながらクリックだと思います)

◆◆◆

ところで、わたしは一日のうち、指導にかける時間が180分で、そのうちこのBlogにかける時間はだいたい90分弱です。

Blogに掲載するかどうかに限らずひとつの論文やレポートにコメントをするときには、その文章自体をある程度しっかり読みこなしておかなくてはならないのは当然として、それが参照した原典の内容も把握しておかねばなりませんから、その下調べは移動中、入浴中や料理のあいまに済ませたうえで、どうアドバイスすべきかのおおまかな絵地図を頭の中に準備しておきます。

落ち着ける環境になったら執筆に取り掛かり、60分でおおまかに書いて、残りの30分で細かな表現を書き手の現在の立場に合わせて整えてゆきます。

ただ目標をどれだけ守ろうとしても、いつも決まった時間を取れるわけではないことや、提出されたレポートが緻密なものであるほどに添削に時間がかかりますし、たまには「これ前も言ったよね…」といった内容にしょげたりすることもあったり、ごくまれには「よくぞここまで」の念にとらわれて感動のあまり外を走りたくなるようなものもありますから、やっぱり目安にしかなりません。

◆◆◆

書き手にふさわしいタイミングで、ふさわしい内容のコメントをもっと早く書けるようになりたいな、といつも自分の実力の足りなさ加減を痛感するのですが、質的な向上を望むときにはどうしても、絶対的な作業時間が増えてしまいますから、いくら早めに終わりそうなときにでも、締め切り時間ギリギリまで推敲を重ねたくなってしまうというのがどうにもならない現実です。

そういえば年末に顔合わせをしたときに、親戚が、「子育ては適度に手を抜かなきゃいけないよ」と言っていたのを思い出しました。

なるほど、先達の極意。
まー言ってることは、よくわかるんですけどね。

どうやらわたしにとっての期日というのは、「この日までに作業を終えなければならない」という意味合いよりも、「この日のこの時間まではもっとよくできる」という意味合いのほうが大きいようなので、きつきつだから大変というよりもむしろ、期日をきっちり決めているから無理せずに毎日を回せているのかもしれないなあと思う次第。

もっとも、正しい意味で「手を抜く」には、どこが大事なのか向きあうものの本質をつかまえているのでなければどこで手を抜けるのかもわからない(対立物の相互浸透)のだから、そういう意味で、この極意はとても、弁証法的なのだなあ。

2012/01/02

文学考察: 駆落(修正版)

昨年末の評論へのコメントです。


はたして、昨年末の修練は実り多いものになっていたのでしょうか。


◆文学作品◆

ライネル・マリア・リルケ Rainer Maria Rilke 森林太郎訳 駆落 DIE FLUCHT


◆ノブくんの評論◆

文学考察: 駆落(修正版)

高等学校生徒であるフリツツと、とある娘のアンナは互いに愛しあってはいるものの、互いの家族は二人の関係を認めていない様子。二人はこのような状況に嫌気を感じており、漠然とながらも、駆落について考えていました。
ある時、フリツツが自宅から帰ってくると、アンナから一通の手紙が届いていました。その内容は、「父親に何もかもばれてしまし、もう一人で外へ出られなくなってしまったので、駆落を実行しよう」というものでした。この手紙を読み終えた時、フリツツは嬉しくて仕方ありませんでした。ですが、後に彼は彼女のことを考えれば考えるほど、彼女を嫌いになっていきます。さて、彼は何故彼女を嫌いになってしまっていくのでしょうか。
 
この作品では、〈理想と現実の間の隔たりが大きすぎた為に、理想を諦めなければならなかった、ある青年〉が描かれています。 
まず、この作品の論証するにあたって、下記の箇所を中心に進めていきたいと思います。 
少年はその音を遠くに聞くやうな心持で、又さつきの「真の恋愛をしてゐる以上は」と云ふ詞を口の内で繰り返した。
その内夜が明け掛つた。
フリツツは床の上で寒けがして、「己はもうアンナは厭になつた」と思つてゐる。
 
この箇所は、「その内夜が明け掛つた。」という一文をまたいで、フリツツの心情が大きく変化していることが見てとれます。その前の文章では、彼はアンナに対してまだ恋愛感情を持っており、駆落のことを考えています。ですが彼は考えてはいるものの、その具体的な問題が全く解決出来ず、次第にアンナが嫌になっていき、やがて夜が明けてしまいます。
では、彼は何故駆落に関する問題がひとつも解決出来ず、彼女のことが嫌いになってしまっていったのでしょうか。それを知るためには彼が語る、「真の恋愛」というものの中身について考える必要がありそうです。彼は彼女の手紙を受け取り、「兎に角一人前の男になつたといふ感じがある。アンナが己に保護を頼むのだ。己は女を保護する地位に立つのだ。保護して遣れば、あの女は己の物になるのだ」と喜んでいるあたり、彼にとって彼女と暮らすということは、彼女を自らが養うことであり、同時にそうすることで自分が考える理想の男になることでもあるのです。ですが、彼女と暮らすことそのものに対する理想の像というものは、まるで語られていません。ここが彼の理想の像が薄いと言わざるを得ない、決定的な点となっています。ですから彼は何処に住むべきかなどといった、具体的で現実的な問題がまるで解けなかったのです。だからこそ、今自分が持ちうる全てと彼女とを天秤にかけた時、彼女を選べなかったのです。それどころか、現実的に彼女と暮らす事が理解できた時点で、恐らくフリツツにとって、アンナは愛する対象から自分が持っているもの全てを奪ってしまう、嫌悪の対象へと変わっていったのです。
まさに彼の失敗は、自身の理想に対する像の薄さからきており、その薄さが現実との隔たりを大きく広げていったのです。


わたしのコメント◆

評論の構成として、よくできています。

忘れかけていた修練内容・修練への姿勢をわずかの期間で取り戻せたことについては、論者自らの自制心と反省を信頼して、小言を繰り返しません。その積極面・消極面ともにきちんと評価して、ノートに赤字で書き留めておいてください。
ともかく去年の終わりに指摘しておいた問題点をうまく注意しながら書き進めてくれていますので、このことを活かしながらあたらしい作品に取り組んでゆくとよいでしょう。

また作品の持つ論理構造が自分なりにでも正しく読み取れるようになってきたのであれば、直ちにそれを創作活動に活かすことを強くおすすめしておきます。目安としては、月に一つの作品を仕上げることができるのなら上達も早くなりますから、物怖じせずに目標を立てて取り組んでください。
たとえば今月の末までにひとつの作品を仕上げるのであれば、去年の12月期に取り組んだ作品の中から、自分の手に負える論理構造を含んだ作品をひとつ決めて、その論理性を同じくする作品を表現を変えて自らの手で書くことを通じて、過去の文学作品を乗り越える努力をするとよいでしょう。

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わたしが今回の評論のどこを評価しているのかをわかってもらうために、その構成を整理しておくことにしましょう。

論者は作中の主人公フリツツの、駆落を約束している恋人アンナへの気持ちが豹変する一節に着目した上で、そのことがなぜ起きたのか、と問いかけます。
ここで評価すべきなのは、フリツツの気持ちが豹変する原因を彼の「真の恋愛」観にあるのだといちおう特定したのみならず(この指摘で立ち止まってしまっているのなら、合格点はあげられませんでした)、その過程における構造はどういうものであったのかと問いかけて、一定の答えを出していることです。

因果関係を、単なる原因→結果という形而上学的な変化に帰してしまうという誤りに陥らずに、あくまでも過程における構造を手繰り寄せようとしているところは、論者があらすじのさいごに問いかける「さて、彼は何故彼女を嫌いになってしまっていくのでしょうか。」という表現に現れています。
ここをもし、形而上学的な論理性しかないのであれば、「彼は何故彼女を嫌いになってしまったのでしょうか」と問いかけることしかできずに、その答えを、経時的な心情の揺れ動きではなく、一時点におけるひとつの主たる原因として探し回ることになったはずです。

(また欲を言えば、「嫌いになってしまっていく」よりも、「嫌いになっていってしまった」と表現してほしいところです。「しまった」は、「結局のところ意図しない結果になった」という意味合いを含んだ補助動詞としてのはたらきを持っていますから、動詞の末尾に付け加えるのが読者の便益に叶う表現となるでしょう。今回の作品に即しても、「嫌いになった」という結果まで描いていますから、後者の表現がふさわしいことになります。一般的に、事実のあとに価値判断を付け加えるのが、日本語表現としては自然な流れです。)

弁証法を意識した問いかけの形は、あれがこうなった、という平面的なものではなくて、あれがこれと関わり合いつつこうなっていった、という<相互浸透>的かつ<量質転化>的な、立体的な構造を意識したものでなければなりません。
またエンゲルス・三浦つとむ流の弁証法に即して考えたとき、残る法則である<否定の否定>を今回の作品になぞらえて言うなら、フリツツの感情が豹変する境界において、第一の否定が起きたのだと考えることもできます。

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さてそうして、論者の問いかけにたいする論者自身による答えを検討すると、それは「真の恋愛さえあれば」駆落の困難にも耐えられるはずだ、というフリツツの恋愛観が、いわば「言葉に酔った」ものでしかなく、恋人との生活と引き換えに犠牲にしなければならない困難についてまともに想像してこなかったことが問題であったのだ、というものでした。

ここで惜しむらくは、と言わねばならないことは、コメントのはじめの「評論の構成として、」ということわり方を見たときに行間を読んで気づいてくれていることと思いますが、それは過程的構造の立体構造が単純な形になってしまっているということです。

フリツツはアンナと駆落の約束をしたあと帰宅して彼女の手紙を手に取り、「(彼女を)保護して遣れば、あの女は己の物になるのだと思ふと、ひどく嬉しい。」と舞い上がっています。
これは、かねてからのアンナとの密会が実を結び、ついには近いうちの駆落の約束をするまでになったという段階を、彼がとても喜ばしく思っているということなのですが、彼とアンナの中があたらしい段階にまで進む時になると、それと同時にある問題が首をもたげてきます。

それは、「その時、どこへ行つたら好からうと云ふ問題が始めて浮んだ。」ということだったのでしたね。

この問題を考えてみても答えが出ないというので、それをごまかすために彼は、それはさておき荷造りを始めることにしました。
ところが、荷造りが終わり寝台に寝転び考えを進めてみても、その疑問は一向に氷解しません。
そのことを認めたくない彼は、わずかに芽生え始めた不安を払拭するように「なに。真の恋愛をしてゐる以上はどうでもなる。」と独りごちますが、往来を行く馬車の音が、時計の針が時を刻むのを聞いていると、しだいしだいにその不安は彼自身の心を覆うようになってゆくのでした。

この不安は、アンナの父親に反対されるながらも密会を繰り返すなかで彼女との恋心が燃え上がっていたころには、まだ想像してみる必要もなかったために影を潜めていたはずのものですが、いざ彼女との愛を確かめ合い、ついには駆落を決意する頃になると、次にはこれからの生活上の困難を、他でもない我が身そのものに振りかかることとして受け止めねばならなくなっていったことから生じたものでした。

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論者はこの箇所を指して、フリツツの感情が豹変したことは、彼のいう「真の恋愛」というものについて、彼が深く考えなかったため(「真の恋愛」の像を薄いままにしていたため)だと言いましたが、フリツツが深く考えていなかったのはむしろ、「駆落」がどういうものであるか、という「駆落の像」だったのではないでしょうか。

フリツツは、恋人との淡い恋心のなかにあって、それがすべてを覆い尽くすような錯覚にとらわれていたために、真の恋愛さえあれば現実のどんな困難にも耐えられると信じこんでいたところを、アンナとの仲が深まり駆落するまでになったときには、具体的な行き先について考えを進めざるを得ず、現実の困難に押され真の恋愛観などはどこかに吹き飛んでいってしまったのだ、と理解するのが自然です。

整理して言えば、フリツツを取り巻いているのは、「理想的な真の恋愛観」と、それとは相容れない「現実」という、対立する2つの世界観なのです。
恋人との間柄がまだ未熟であったときには、理想の世界に閉じ篭ることができていましたから、その世界観から見る「駆落」というものは、恋人との甘い生活を意味していました。
しかし恋人との間柄が進展するようになると、その現実化と相まって、世界観は現実的なものへと移行してくることになり、その世界観から見る「駆落」には、生活上の困難が必然的に浮上せざるを得なかったということです。

フリツツの感情が豹変してしまうのは、彼にとっての「駆落」には2つの側面があり、さらにはその側面が、敵対的に相容れない世界観で分かたれているという意味で、形而上学的な性格を持っているからなのでした。

自らが理想の世界にいるときには現実上の困難を看過し、自らが現実の世界にたどり着いたときには恋愛感情などどこへやら、といった極端な感情をあらわにし、またそのように行動することは、彼の考え方があれとこれとが相容れない関係にあるという「あれかこれか」の形而上学的なものであることを示しています。つまるところ彼の失敗は、彼の考え方にこそあったのでした。
またそれは、作品全体から言えば、「駆落」をめぐる2つの世界観のせめぎあいであった、ということができます。

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こういったふうに、段階ごとに登場人物の感情の揺れ動きを整理して理解したときには、一般性や評論も、弁証法的な表現と論じ方になっていくことになるでしょう。
論者の引き出してきた一般性〈理想と現実の間の隔たりが大きすぎた為に、理想を諦めなければならなかった、ある青年〉は、やや一時的で平面的な変化を指摘しているようにも見えますから、<理想が現実のものへと近づくにつれて、皮肉にもその理想を捨て去らねばならなかったある青年>といったふうに、「かえって(=今回の作品に即せば「皮肉にも」)」という表現を使って、第一の否定を意識した立体的な表現にしてもよいと思います。

とはいえ、ここについては相当に難しいと思いますから、背伸びせずに着実に、今回のようなレベルの評論を積み重ねることと、自分なりにでも作品の論理性をとらえた作品を書くことをとおして、確実な土台を創っていってもらえれば、指導のかいがあったと言えるでしょう。

合格です。


【正誤】
・「父親に何もかもばれてしまし、
・この作品の論証するにあたって、→この作品の論証をするにあたって、orこの作品を論証するにあたって、

2012/01/01

新年のごあいさつ

あけましておめでとうございます。


去年の活動の中で、自分という個人が人類総体の中での位置づけとして目指すべきものが、前よりもはっきり描けるようになって来ましたので、今年もその方向性をちゃんと進めてゆこうと考えています。

ずっと前には、あれもこれもと手を出して、たくさんのものを手元に置いてみたりもしたのですが、自分にはそういうやり方よりも、限られた事柄をより深く探求することを通して、磨き上げたり研ぎ澄ましたりするほうが、感性的にも理性的にも合っていることが以前よりもよくわかってきました。

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学生たちと向き合っていると、たとえば数学の問題を解いて同じ答えにたどり着いたときにでも、その答えに至るまでの筋道が、無駄なものがたくさんくっついたぼわんとしたものもありますし、足り過ぎもせずかといって足りなさすぎもしないぴったりとした証明であることもあります。

答えが合っていれば、どちらにも同じ点数を与えることになりますし、社会に出て結果が重視される場所にいればなおさら、その過程に目を向けられることは少ないことからいきおい、いつしか自分自身もそういった考え方に慣れ親しんで染まってゆくものですが、研ぎ澄まされて理路整然と過不足のないものは、その後のどんな風雪にも耐えうる力を持っていることを、個人の経験から、人類総体の歴史性からもなお、何度も何度も確認させられてきました。

そこに、幾多のありうる道筋がああでもないこうでもないと議論を闘わされることをとおして、そこからひとつの道が見出されることと直接に、棄てられた考えすべてが止揚されているような形態は、学問であれば他のどんなことにも使える科学的なものなのであり、ものづくりの場合であればどんな環境のどんな人の手にもなじむものに仕上がっている必然性を含んでいるからです。

必要でないもの、いつか必要になるかも知れないものではなくて、どう検討してもこうでしかありえないようなものごとをこそ、進んで取り組んで研ぎ澄まし、そのことをとおして物事を研ぎ澄ますやりかたそのものを探求してゆきたいと考えています。

そうはいっても、現象としてはジグザグの回り道を辿ることにもなりますから、見た目の上ではあれもこれもと手を出してどれも物にならないことをやっているなと見られることもあるでしょうが、誤解を恐れずに本質を見据えて貫いて、転びながら引き返しながらでも、一歩ずつ歩んでゆこうと祈念しています。

曲がりくねった道程に、みなさんを付き合わせることも少なくないかと思いますが、本年も何卒よろしくお願いいたします。

新年のご挨拶に代えて。