2011/02/10

どうでもいい雑記

Appleの話題をよく振られる。


昨日聞かれたのはこれ。
「次のiPadは買いですか?」

むしろわたしが知りたい。


…とだけ答えるもさすがに悪いと思ったので、
わかる範囲でお答えした。

どういうことをお伝えしたかというと、
ビデオチャット用のカメラ(要するに、デジカメには使えないくらいの性能)
がついて、少し薄くて軽くなりそうなこと。
3月までには発表されそうなので、いまは微妙な時期だということ。


といっても、いざ新モデルが出ても、一般の消費者にとって、
「すごいの出た!」ってほどではないと思う。
オタクにとっては「すごいの」でも、一般の人達にはどうでもいいことのほうが多い。
買ってしばらくして人から指摘されて始めて「そういや違うね」というくらいである。

◆◆◆

わたしはiPad大好き人間で、
図書館にも風呂にもベッドにもチャリツアーにも肌身離さず持って行きまくっている。
歴史年表も論文も、スキャンした雑誌も甥っ子への教育も、デッサンの資料を表示するのも、革工作も彫刻のイメージ作りも人体の解剖資料も元素記号の表示も天体の運動も楽譜も作業中の音楽再生も…中略…全部これだ。
実家に帰ると母親がパズルゲームで遊びまくるので、まさにフル稼働状態。

道具については、もともと大きめの、ゆったり使えるものが好きなので、
指で触っていると画面がほとんど隠れちゃうiPhoneよりもずっと好きだ。
バッテリーを全然気にしなくても、余裕で一日持つのも最高。
個人的には、初代iPod以来の大傑作だと思っている。

不満はといえば、買い換えることを見越して16GBモデルを使っているので、
容量が全然足りない、ということくらい。


どうせ買い換えるなら、128GBとRetinaディスプレイが付くまで待つつもりである。
学生が安くで譲ってくれ、といういつものパターンになったらまた考えますけれども。

◆◆◆

Retina(網膜)ディスプレイってなんじゃいと言えば、
くわしくはAppleのページがやはりわかりやすい。

右のiPhone 4のほうが、かなり細かい。

いちおうここでも説明すると、
iPhone 4ではじめて搭載された、描画が細かい液晶のことである。
「なんだそんなことか」と言われる方は、お店で確認してほしい。
パッと見は、紙に印刷されたようにみえるから。

iPhoneで搭載されてるなら次はiPadにも、
と思う消費者(オタク?)心理はわからんではないし、
わたしもこれあったらうれしいなあとは思うけれど、
個人的な見解としては、まだ積まないんじゃないかなという印象だ。

正しくは、積まないというよりも、積めない。
なぜかというと、Retinaディスプレイでは、
従来の液晶から縦が2倍、横が2倍で、面積比では4倍の細かさになっているわけである。

こういうデバイスというのは、液晶だけを高機能にしてもダメで、
それにあわせて、そこに画像を描画するための装置も高機能にしなければいけないのだ。

◆◆◆

詳しい説明は省いてすごく大雑把に言うけれど、
現在、iPadはその描画装置を256MBぶん積んでいると思いねえ。(詳しく言うと違うが)

単純に計算すると、Retinaディスプレイを搭載すると、
この数字を4倍して、1024MBにしないとバランスが取れない。
(解像度2倍、という記者もいるが、
解像度はドットの数なので、平方して4倍と言ったほうがわかりやすい)

でも、いきなり4倍というのはドッグイヤーと呼ばれる業界でも前例がない。
順当に行けば、今年は前年の2倍、次の年もそのまた2倍な気がする。

じゃあ液晶だけを良くして、ほかはいまのまま、というふうに、
バランスが取れないとどうなるかというと、
「動きがもっさりする」。

製品全体の完成度をなによりも重視するAppleが、
こんな選択をとるとは思えない。それが理由である。


そもそも、現行iPadの4倍って、解像度にして1,536×2,048ドットである。
これは、一昔前の業務用ディスプレイなみのバケモン仕様だ。
(よく考えたら、バスなんかの足回りも強化しないとまともに表示すらできんね)
わたしの使ってる15インチMacBookは1,680×1,050ドットだから、
10インチにしてこの解像度は、まさに目潰し級である。


ただ、奇しくも最近のニュースによると、
去年の第4四半期ではスマートフォンがPCの販売台数を抜いたらしく、
このスケールメリットを活かせば、こんなとんでもないものがけっこう早めに出せる時代なのかもしらん。

4年前に、画面をタッチして操作できること自体に驚いていたことを思うと、
なんとも先の読めない時代である。

◆◆◆

…と書いて帰りしなに日経の夕刊を見たら、またまたタイムリー。

「hpがPCにWeb OSを採用」とある。

「ついに来たか!」という感じがする。
hp? Web…??な方々に説明をしておくと、
hp(ヒューレット・パッカード)は、世界でPC出荷台数No.1の米国企業である。
PCというからには、Windows OSを搭載しているわけだが、
そこがなんと、自社製のOSを採用するのである。

排他的かデュアルブート(両OSが起動可能)にするかはまだわからないが、
Windows 95が世界的に圧倒的なシェアをしめて以来、これはとても大きな転機になりそうだ。

わたしは8年くらい前に、Microsoft社全盛の頃、
「あんな会社はあと10年くらいしか持たない」
などと言って周囲からキチガイ扱いされていたが、
潰れてはいないものの、あの頃の面影はまるでない。

もっとも、別に確固たる根拠があったわけではなくて、
単に商品のクオリティが低すぎるから、ケチをつけていただけのような気がするが。


さてWeb OSといえば、もともとは米Palm社が開発していたものを、
hpが会社ごと買収したものだ。
Palmの思想を受け継いで使い勝手はすこぶる良さそうなので、
個人的には関心を持って見ていた。
(開発者には、元iPhoneチームもいる)

つい最近までは、Androidが次の世代のコンピューティング体験全般を
押し上げてくれるかと思っていたけれど、
"laissez-faire"の思想が強すぎて、使い勝手がまるで統一されていないわ、
ほとんどのアプリをドル建てでしか買えないわ、散々である。
(逆にAppleなんかは、使い勝手の素晴らしさと引き換えに、
専制君主制に近いものがあるけれども)
やることはMSほどトンチンカンでもないので期待していたけれど、
成熟までには思っていたより時間がかかりそうだ。

Web OS端末は年末頃には日本にも入ってくるだろうから、
ひさしぶりにApple系以外でまともに試してみたいコンピュータが出てくることになる。

◆◆◆

あとデジタル製品のことを書いたついでにだけれど、
最近発表された携帯型ゲーム機PSP 2(仮)
あらためNGP(コードネーム、たぶんまたあらためる)は、
中身としては「すごいiPhone」と言ってもいいようなコンポーネントである。

裏をかえせば、中身だけならiPhone 5かiPhone 6で追いつかれる、ということだ。
5年前後はスペックを固定しなければいけないゲーム機側にとって、
これはなんとも差別化にこまる時代だな、と思う。

そのせいか、センサーごてごてのお化けマシンみたいになってるけれど、
これが吉と出るか凶と出るか、というところ。
(たぶん、ほとんどのソフトがまともに使わないでしょうね…)

PS3やXbox360なんかの据え置き機と同じくらいの性能が出せるらしいが、
そんなことをしたら、開発費がかかりすぎて、
ただでさえ少ない弾がさらに減ってしまうのでは、といらぬ心配をしてしまう。

絵物語でもいいから、「これならいける!」と思わせるアイデアがないと、
今の飽和時代に新商品を出すのは危険すぎるんじゃないかなあ。
もう、ハードウェア単体、ソフトウェア単体で売る時代は終わったのだ。

その商品が、エコシステムの一部を形成するようなものでなければ、価値がない。
AppleがiTunesでiPhoneアプリを売ると発表したときには、ほんとに驚いたもの。

2011/02/09

整理能力の向上のために

※本の扱いなど、ちょっと追記しました。


この前のエントリーで、
幼少期の自発性の育ちと、整理能力の有無について、
簡単に述べておきました。

すでに個人の生育史と認識論で、一般的にはかなりの部分の解明が進んでいる分野なので、
とてもここですべてを説明し尽くすわけにはいきません。


整理能力というのは、それを持たない人間からすれば、
自分の作品のなかにその欠如を指摘されても
「どこがいけないのか?中身は同じではないか」
と、のれんに腕押しとなってしまうところだけに、
物心ついてからの習得が非常に難しい能力です。

実は、これがなければ、学問など夢のまた夢、という重要な要素なのですが。

◆◆◆

ともあれ、わたしにできることをお伝えしておこうと筆を執りました。

整理能力が足りないと思う人は、下に書いてあることをすべて真似して、
今日からはじめてください。
(自分流にアレンジしてもまったくかまいませんが、
様式を統一させることによって整理能力をつけることが目的なので、
意味もないアレンジはしてはいけません)

赤色、青色のボールペン、シャープペンが必要なので、
3機能つきのペンを買っておくと便利です。


まず、下の画像を見てください。
本をスキャンしたもののなかに、赤色のガイドが見えるでしょう。
※色は目立つように赤くしただけです。

わたしが本を読むときに引いたガイドマーカー

◆◆◆

わたしは、本を読みながら、どんどん書きこんでいきます。

たまに、本を買ったのに何も書き込まず、カバーをつけてめちゃくちゃ綺麗に保管している方がおられますが、わたしからすると「あれでアタマに入るのかな?」と思います。
本の内容を「知っていれさえすればいい」と、「使えなきゃ困る」だと、
まったくレベルが違います。

あいだに横たわっている技術(科学の現実への適用)の問題を乗り越えるには、
それこそ筆者と格闘するレベルでの読み込みが必要です。
わたしは、一流の本ともなれば、自分のアタマの中に筆者の像ができて、
彼や彼女と横に並んで議論しながら散歩できるくらいまでは本を手放しません。

どこぞの小説家みたいに、「同じ本を二度読んだら負け」だとか、
どこぞの自己啓発セミナーの主催者みたいに、「本は10分で読める」だとかの
信念をお持ちの方には信じられないかもしれませんが…
わたしは、もう5年以上も毎日読んでいる本があります。

それはさておき、綺麗にしていても、読み終わったらブックオフなんかで二束三文で売るはめになるのでしょうから、長く付き合いたい本ほど、しっかり線を引きまくってあげてもいいんじゃないでしょうか。
(わたしはあんなふざけた値段で下取りに出すくらいなら、必要な人にあげます。ああいうところは市場価格に合わせるので、本の価値にはまるで見合わないんだもの)

希少書なんかは扱いに難しいですけどね。
わたしは1万円までの本なら、エイヤと思って書きこんでしまいます。
しっかり吸収すれば、先達も本も喜んでくれるはず…

◆◆◆

わたしの設定しているルールは、高校生の頃から統一させてきました。
そのガイドマーカーは、以下のとおりです。


専門用語の説明の下線を、問題点のところにはギザギザの下線、
などというふうに自分でルールを作っておくと、さらに見やすくなります。

◆◆◆

こうしておくと、
重要な箇所の多い本は、小口(背表紙の反対です)の天(上部のこと)が折れ目だらけになります。
箱入りの本だと、箱に入らないほどになることもあります。

また、調べるべき箇所が残っているのにそれが済んでいない本は、小口の地(下部)に折れ目が残っていますので、本棚に戻すわけにはいかないことがわかります。


なぜに左側(横書き時の始まりページ側)を折って、
右側(終わりページ側)を折らないかは、やってみればわかります。

◆◆◆

ノートの取り方については、移転前のブログで紹介しましたが、
念のために大学時代のものを貼っておきます。

シュテーリヒ『西洋科学史』のノート

三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』のノート

ノートに書き写すときには、全文を書くわけにはいかないので、
自然に整理しながら書くことになります。

項目の出だしに□をつけておくと、
前後のつながりを矢印で表すときに便利です。

ノートの紙面はといえば、右端を、常にメモ用にとってあります。

こういう工夫を常に心がけていると、整理能力なんていうものは、
誰に教えられていなくても自然と身についてくるものです。
ただ、ノートの筆記にあまり時間を使い過ぎるのも考えものですけどね。

◆◆◆

余談ですが、筆記にはパイロットの万年筆とブルーブラックインクを使っているので、藍色です。
自分の主観でメモ書きするときは、オレンジ色のインクを。
消しゴムで消せないので、ミスするとイタイ。
なのでシャープペンで筆記するよりも、事前の整理能力が問われますし、集中力がつきます。

ともあれ万年筆を知らない人は、ほんとに不幸だと思いますよ。
わたしはこれを忘れると、研究する気がなくなります。

パイロット社 ミューレックス(F(細字))。
バブル時代の万年筆なので、買うときはオークションで。

それから、愛用しているノートは、コープの「リーフノート」。

ルーズリーフをノート型に綴じてあり、
ファイルにしまうときには1枚ずつ取り外してしまえます。
これがなくなると研究できなくなる(そんなんばっか、笑)ので、
値上がり前に買い込んで、100冊くらい持ってます。
(たまに品切れすると、全然入荷しなくなるし…)

◆◆◆

個人的な経験からいえば、
ノートを見ると、その学生さんがどれくらいの点数をとるかはわかります。
(ただ、ほんとうに賢いか、勉強ができるだけかは一見ではわかりにくいですね)

整理能力がある人は、細字の矢印と太字の矢印で意味を変えますし、
同じ属性に属すものは、必ず同じマーカーで線を引きます。
ない人は、とくに意味もなく、いろいろな蛍光マーカーを引いてしまいます。
(もちろん、ご本人に指摘しても「何がだめなのか?」という具合です)
こういう人は、研究が高度になってくると付いてこれなくなります。
(もちろんご本人は…)

というわけで、ぜひとも真剣に参考にしてください。
手前味噌ながら、自分ほどノートをとるのが好きな人間もほとんどいないと思うので。
(字体はペン習字を始める前なのでえらいマルジですが)

「私のほうがうまいぞ!」という方がおられましたら、ご一報ください。
ぜひ見せ合いっこしたいですね。

<形式>とは何か

ノブくんへの前回のコメントの補足です。


 一般性を引き出す上での、<形式>についての理解がまだ足りていないことがわかりましたので、
もっと基本的なところから論じ直しておきます。

 ただ残念ながら、<形式>について彼が「どのようにわかっていないか」がまだ完全には特定できていません。
 これが判明しないまま無理に進めても、また定着せずに終わってしまうので、ここまで戻ることにしました。

 話としては、本人には以前、口頭でお伝えした「レベル」の話の次に来るはずのものです。

※ほかの読者のみなさんにご説明しますと、こんな話です。
「Q. 次のもののうち、概念のレベルが違うものを選びなさい。
 猿、犬、チワワ」
答えは当然「チワワ」のはずですが、これが当然でないから大問題なのです。

 この程度の問題であれば、ほとんどの方々は馬鹿にする気か!?、と思われるでしょうが、
現在の義務教育では、「論理」を直接教えられる科目は、陰も形もありません。
物事を論理的に捉えられるかどうかは、個人個人の自然成長に任せっきりですので、
この延長線上にある「より高い論理」の話になると、手も足も出なくなるのが通常です。

 証拠を挙げれば、「人間の性質を決めるのは生まれか育ちか」という問題について、
科学・社会科学の専門家の間で喧々諤々の議論が交わされながらも、
いまだにどうすれば解けるか、という方法すら見つからない有様が、それを物語っています。
(三浦つとむが、「専門家と呼ばれる人の中にも、物の見方が常識的な範囲に留まっている」場合がある、
と指摘しているのはこのことです。)
あの問題が問題のように見えるのは、大きくいえば論理性が不足しているためであり、
すこし小さくいえば学問の土台となる世界観についての理解が不足、というかまるでないためです。

 また、一流大学に入るために知識的な勉強をつめ込まれた学生のなかにこそ、
この欠陥が横たわっていることを指摘しておきます。
もちろん、そう言われて素直に認める人はとても少ないのですが。
そのぶん、自分の馬鹿さ加減を身にしみて承知している人たちのほうが理解が進みやすいのですから、あきらめないでください。

 さて、では進めます。
<形式>ということばの像を明確にする、という問題意識を持って読み進んでください。

◆◆◆

 まず評論に限らず、作品を理解するときのことをおさらいしておきましょう。
文章一般の理解は、だいたいこのような手順になっています。

1. 本文を読む
2. キーワードを取り出す(慣れないうちは、本文をプリントした上で、直筆の赤線を引いてください。デジタルではダメです)
3. 導いたキーワードが正しいか、キーワード同士にどのような関わり合いがあるかを考えながら、1.に戻り、本文を読み直す
4. 1.~3.を何回も繰り返してゆく中で、自分の中に作品の像が固まってゆくと共に一般性としてまとまってゆく

 一般性といえば、ことばは難しいですが、ある作品を人に説明するときに、
「この作品は<●●>ということを描いているんだ」というばあいの、
<●●>に入るような、作品を一言で述べたもの、と理解してください。

◆◆◆

 さて前回のエントリーで、
その一般性を抜き出すときには、<形式>が大事です、と述べてきました。


 『大辞泉』をひくと、「形式」の説明としていくつか載っています。ざっと読み流してください。

けい‐しき【形式】
1 物事が存在するときに表に現れている形。外形。↔実質。
2 物事を行うときの一定のやり方。事務上の手続き、儀礼的な交際などについていう。「―にのっとる」「―を踏む」
3 形だけで実質の伴わないこと。おざなり。「―だけのあいさつ」「―にとらわれる」
4 芸術作品で主題・思想を表すために、作品を構成する諸要素を配置・配合する一定の手法。
5 哲学で、事物や事象の成立・発現のしかたやその構造、またそれらの関係などを抽象したもの。↔内容。

 このうち、わたしがいつも言っている<形式>に最も近い定義がどれなのかわかりますか?


 それは、以下のものになります。
「芸術作品で主題・思想を表すために、作品を構成する諸要素を配置・配合する一定の手法。」

 ここでは、定義をまる覚えしてもまったく意味がありませんので、
簡単にいえば外面をさすのかとだけ分かれば、それでかまいません。

◆◆◆

 ここで<形式>について考えるにあたって、
ことばというものが、世界をこと分けるものだという性質を考えれば、
なにかとなにかをわけたからこそ、それを「形式」と呼ぶことになっています。
そうすると、それとなにか対になる概念があるはずですね。
それがなんなのかわかりますか。


 結論からいえば、それは<内容>ということになります。
(多くの概念というものは、対のものと照らし合わせて考えてみることで、
より理解が深まることを覚えておいてください。<対立物の相互浸透>)

 ここでは単純に、
<形式>というのを外側、
<内容>というのを内側、
を指しているのだとまずはイメージしてください。

 言い換えるなら、
<形式>は容器、
<内容>はそれに注がれる飲み物です。

◆◆◆

 ここでは<像>をまともに作ることが目的ですから、
思い切って単純化した上で例示することにしましょう。
たとえば、あなたが来客に飲み物をもてなすときのことを想像してください。
(かなり単純化しているので、ここでの例示は厳密な論理の追求には使えません)

 そのときには、まず大きなボトルや酒樽に入った飲み物をどんな容器に注ぐか、
ということが問われるはずです。
大は小を兼ねるとばかりに、コーラをバケツに入れて出したり、
熱いコーヒーを哺乳瓶に入れて出せば、
客は憤慨するばかりか、当人の正気を疑われるはめになるでしょう。

ノブくんがまず誤りがちなのは、このレベルです。
(ただわたしが叱るのは、もちろん客と同じように感情的に怒っているのではなくて、
彼の独善的な姿勢やつめの甘さなどという思想性のなさに対してですが)

◆◆◆

 ではどうすればいいかというと、
コーラはロックグラス、熱いコーヒーはやや口の狭めなカップを選ぶのが適切でしょう。

 なぜ私たちが常識的にこういった判断をするかというと、
それが経験上「ぴったりあっているから」にほかなりません。
ここでは、容器と飲み物の整合性が問われているわけです。


 評論に限らず文章表現においても、そういった<形式>と<内容>とのあいだの整合性は、
とても厳密に問われています。

 もっと相手に対する理解が深まってくると、
「あの人は気の抜けた炭酸をいちばん嫌うから、コーラはもっと細いグラスのほうがいいかな」、
「あの人は猫舌だから、コーヒーカップよりも口広のスープカップくらいがいいかな」
などとわかりますから、それぞれ、より整合性を深めてゆくことができます。

◆◆◆

 さてここまで断れば、内容にふさわしい容器を選ぶということが、
客(読者)にそれを届けるに当たっていかに大事か、ということがわかりますか。
中身は同じとばかりに、テーブルにどんと酒樽を置いても呆れられるのであって、
あくまでも<形式>と<内容>の兼ね合いが大事なのです。

 そのことをわかっていただければこの例はここまでにします。

◆◆◆

 次に、評論のばあいについて見てゆくことにしましょう。
ノブくん引き出してくる一般性について、直近の例を見てください。

 <必然とはどういうことか>『あばばばば』
 <生きているとはどういう状態なのか>『おぎん』
 <恥とは>『おぎん』

 わたしが、いつも彼の引き出してくる<一般性>を、
「一般的すぎる!」と叱るのは、彼のそれらがこういう形でしかないからです。
一般的すぎる形式
 上で挙げたすべての例が、このような形になっていますね。
こんな単純な形では、作品を的確に表してるわけがありません。
あなたは、『走れメロス』も、『人間失格』も、「友人とは」で一緒くたに括るつもりですか。
だから、本文を読むまでもなく、「これはきっと間違っているだろうな」と判別がつくのです。

◆◆◆

 では、わたしが芥川『おぎん』で模範解答として挙げた一般性を見てみましょう。
 <命を賭して両親たちの恩に報いた少女の姿>

 ここでは、一般性の形が、このようになっていることがわかりますか。
一般的なところから降りた、物語に即した形式
 ここには、修飾語となる●●と、
それがかかる主部である●●
それをつなぐ「~という〜」の部分があります。
(つなぐ部分は、「~的な〜」「~の〜」など表現を変えても働きとしては同じです)

 ここでは、主部である●●に、●●という説明を付け加えることで、
より物語に即した一般性を導きだそうとしているのです。

 この場合には、前の●●は「命を賭して両親たちの恩に報いた」であり、
後の●●は「少女の姿」です。


 現在のノブくん流にいえば、後の●●しか作品から引き出してこないわけですから、
「少女の姿」や、「恩とは」などになるのでしょうか。
これではやはり、一般的すぎて、作品を理解したことにはならないことがほとんどのはずです。

 場合によっては、より多くの修飾語がつくことになりますが、基本的な形が単純に拡張された形でしかありませんから、基本としてはこれでよいでしょう。

◆◆◆

 それに対して、ノブくんの間違い方はこうです。

「一般性は、問いかけの形をとることが多い」とアドバイスすれば
「××とはどういうものか」という形にこだわりすぎるし、
「一般性が一般的すぎる」とアドバイスすれば
「××」の中に入る言葉を変えてくるのですから、
率直に言って、これは呆れ果てるほどの徒労にしかならないのです。

 一言でいえば、「このやり方では、いくらやってもダメ!」なのです。


 <形式>がダメなのだというのは、そんな些細な内容のことを指摘しているのではありません。
「××とはどういうものか」も「××とは」も、「×××とは」もすべて、
内容や細かな表現を変えただけであり、
「●●」という形式から一歩も出られていないのです。

 <形式>というものの姿は、直接は見えないために、
像として把握できかねているのかもしれませんが、
まずは基本に戻り、作品から正しい一般性を引き出す、という努力を重ねてください。
それも、自分の力で出来うる限り、正確なものを目指してください。

 それが、読者にたいする最大のおもてなしであり、
作者にたいする最大の誠意というものです。


 簡単にいえば、「この作品をひとことで言うとどうなるか」と考えているだけなのですが、
これを踏み外してしまうと、その上にどんな積み重ね(評論)があったとしても、
すべて徒労に終わってしまうほどの重要事なのです。

2011/02/08

古代魚が死んだ

実家のほうで大事にしていた古代魚、ポリプテルス・エンドリケリーが死んでしまった。


もともと、とんでもない捨て値で投売りされていたのを、
不憫に思って家においていたものだった。

我が家には伝統的に弱っちい生き物がもらわれてくる。

アルビノ(色素の抜けて真っ白な)モルモット、
あらゆるヒレの溶けかかったギンブナ、
大雨で流されてきた金魚、
カラスに餌にされかかった鳩などなど、挙げればキリがない。

わたしの人生をかけたテーマのひとつに、
「生まれを言い訳にしない、させない」
ということがある。

人間でも動物でも、
「今はこんなかもしれないが、なんとかてっぺんをめざしたい!」
という生き方をしているものたちが大好きで、
自分にできることならどんなことでもしたいと思っている。

だから、学生さんを見るときにも、
「いま才能があるかどうか」ではなくて、
今の自分をなんとかしたい!という
「意欲があるかどうか」で見てきたつもりである。

◆◆◆

しかし、人間に飼われている動物というものは、
ヒトとは違って「意欲」など持てようはずもないわけで、
そんなところに期待したり、頼るわけにもいかないのだ。
必死に生きているように見えるのは、意欲などではなく「本能」のなせるわざだ。

そうだから、単純なマニュアル通りに育てられるという意味では楽だが、
最後の最後でふんばりがきかないという意味では、たいへんな損失である。
今回の場合も、やはりそうだった。
だから、生き物が死ぬというのは、いつも唐突である。
生物史が敗者復活を許さないのも、同じ理由である(人類史には起こりうる)。


以前から弱っていたのは知っていたので、
今日は少し早めに帰ってきたが、もはや息も絶え絶えであった。

弱ってきて、浮き袋の調節が効かずに腹を上にしてしまう彼を、
すこしでも楽にしてやろうと、身体を支えてやった。
だんだん眼が白味がかって動かなくなるまでの3時間ほど、そうして過ごした。

わたしには、それが彼のためになったかどうかすらわからない。
体温の違いがありすぎて、熱かったのでなければいいけれど、と思う。

もっと近くで、できることをやってやりたいが、それもかなわぬこの懸隔、
感情の付け入る隙を許さないこの距離が、
やはり自然というものなのだな、と思う。
人間の世界に生きていると、忘れてしまいがちだけれど。

◆◆◆

身体が弱かったのだろうか、それとも、と考えかけて、やめた。


わたしにできることは、今の自分ができることを、
手を抜かずにやる、ということだけだ。
それ以下のことではいけないが、それ以上のことは、できるはずもない。

◆◆◆

甥っ子が実家に来たときに、生命史になぞらえて、
魚類から両生類へ、そうして陸地への上陸という進化の過程を、
目に見える実感と共に教えてくれたのは、ほかならぬ彼であった。

ゆったりと構えたその出で立ちは、途方もない長い世紀を、
そのままの姿で過ごしてきた生き物の、貫禄を感じさせた。

同じくらいのサイズの他の魚と混浴させたら追い回されたもので、
家の者に怒られながら勝手に水槽を新設したんだっけ。

こういうときは、水槽を掃除しながらこう思う。
過ぎ去ったことは、この先きっと、無駄にはするまい。


冥福を祈ります。

文学考察: おぎんー芥川龍之介(修正)

文学考察: おぎんー芥川龍之介(修正)



  浦上の山里村に、おぎんと云う童女が住んでいました。彼女の両親は彼女を残したままこの世を去り、残されたおぎんはおん教を信仰しているじょあん孫七の夫婦の養女となります。三人は心からおん教の教えを信じ、村人に悟られないようひっそりと断食や祈祷を行い、幸せに暮らしていました。
ところが、ある年のクリスマスの夜、何人かの村人が孫七の家を訪れ、おん教のことがばれて彼らは捕らえられてしまいます。彼らはその後、その儘代官の屋敷に連れて行かれ、おん教を捨てされるべく、様々な責苦に遭わされました。しかし、彼らは一向に自分たちの信仰を捨てようとはしません。そこで代官は、一月彼らを土の牢に入れた後、焼き殺す事にしました。
そして一月後、全ての準備ができた時、ある役人の一人から「天主のおん教を捨てるか捨てぬか、しばらく猶予を与えるから、もう一度よく考えて見ろ、もしおん教を捨てると云えば、直にも縄目は赦してやる」と告げられます。そして、その言葉を聞いたおぎんの口から思わぬことが発せられます。
この作品では、〈恥とは〉ということが描かれています。 
まず、上記にもあるように、ここでおぎんは自らの死を目前に控えている最中、予想外のことを役人に告げます。それは、なんと彼女はこれまでずっと信仰を捨てなかったおん教を、ここにきて捨てると言うのです。この台詞を聞いた人々は、彼女が悪魔に取り憑かれ、死を恐れているのではないかと考えています。「生きている両親」もその例外ではありません。ですので、彼らはおぎんにもう一度信仰の心を起こし、所刑にされるよう説得をはじめます。ところが、おぎんは死を恐れている訳ではありません。彼女は、自身がおん教を捨てる理由についてこう述べています。「あの墓原の松のかげに、眠っていらっしゃる御両親は、天主のおん教も御存知なし、きっと今頃はいんへるのに、お堕ちになっていらっしゃいましょう。それを今わたし一人、はらいその門にはいったのでは、どうしても申し訣がありません。」なんと彼女はおん教を知らなかった、「死んだ産みの親」の事を考えて、自ら天国に行くことを拒んでいるのです。そして、それだけではありません。彼女はその後に「どうかお父様やお母様は、ぜすす様やまりや様の御側へお出でなすって下さいまし。その代りおん教を捨てた上は、わたしも生きては居られません。………」と、今度は生きている親」の顔を立てる為、おん教を捨てた自分も死ぬと言っています。ここに彼女の恥というものが成り立っています。この場合、彼女はどんな状況でもおん教を信じ、天国にいけない事が恥だとは考えていません。むしろ、おん教を信じるが故に「死んだ両親」、「生きた両親」を見捨て、自分だけが助かろうとする行動にこそ、恥を感じているのです。だからこそ著者は末尾で、「これもそう無性に喜ぶほど、悪魔の成功だったかどうか、作者は甚だ懐疑的である」と述べているのです。自分だけが信仰を捨てず、天国に行くことが常に誉れだとは限らないのです。

◆わたしのコメント

 よく書けています。
 アドバイスをうまく受け止めてくれているようです。

 論者は、この作品を読んだ上で、「おぎん」が、「育ての親」からもらった「おん教」の教えに則ったうえで、「生みの親」のことを考えるにいたり、双方の親のためを思えばこそ、信仰を捨てることを認めた上で、育ての親を追って自らも死ぬ、という選択をとったのであるから、これを一般化すれば、それは「おぎん」の<恥>が表れているのだ、としています。
 結果から見れば、「信仰を捨てた」上で、さらに避けられたはずの「死を選んだ」わけですから、これ以上無いほどの悪い立ち回りをしたもののように思えます。しかしこれはその内面に目を向ければ、自分の生命をおしてまでも守りたいものを手放さなかったという「おぎん」の、強い意志の表れでもあり、彼女の望みは立派に叶えられたのです。

 論者はここまでを踏まえた上で、この物語の一般性を<恥とは>としていますが、まだ<形式>としては一般的すぎますし、<内容>に目を向けても「恥」というのは、「外面上の体裁を重視したことによって人間心理におこる感情」とでもいうべきですから、わたしならば、こういう一般性にしたいと思います。

 この作品では、<命を賭して両親たちの恩に報いた少女の姿>が描かれている、と。

 こうして、論者とわたしの意見を戦わせようという段になると、やっと、その営みが、「議論」という名に恥じぬことが可能になってゆくことがおわかりになるはずです。論者は<恥>派に立って証拠を探したうえで論証し、それに対してわたしは上の一般性に基づいて論証を展開するという形の(相互浸透)、ある一定の形式に基づいて討論をたたかわせてゆくなかで(量質転化)、互いに素朴な感性的認識から真理らしきものへとのぼってゆく(否定の否定)というのがギリシャ時代の弁論術であり、それはつまり、弁証法の原基形態であったわけです。
 「ルール(形式)をしっかり守って」議論することの大切さがわかりましたか。ギリシャ人、そしてまた禅宗の禅者たちが、素朴であったり、観念論的なやりかたではあっても、あれほどに賢くなっていった理由がわかりかけてきたのではないでしょうか。また逆に、テレビで肩書きを笠に着て口角泡を飛ばしている方々の間に、何の進展も見られないことが多い理由もわかってきたはずです。

 次回以降の評論も、このレベルを維持し、高めてゆけるよう精進を重ねてください。また次回面談時に、互いの立場にたって、どちらが筋の通った一般性を導き出せているか、「議論」しましょう。そういう問題意識を持って(目的的に考えて)、負けじと準備しておいてください。前もって塩を送っておくと、<恥とは>という形式では、一般的すぎて、容易に論破されてしまうと思います。

 最後に、この作品の構造について付言しておきます。
 この作品には、やや一般化していえば、ある出来事というものは、それが現れた姿だけを見るのではなく、その過程がどのようなものであったか、そしてまた、そこにどのような意図が働いていたのか、という過程的な構造をみてとってはじめて、その出来事を本当に理解したことになるのだ、という一大論理が示されている、とも言えるでしょう。これは、文学の創作活動でも有効です。


【正誤】
・ですので、彼らはおぎんにもう一度信仰の心を起こし、所刑にされるよう説得をはじめます。
→ですので、彼らはおぎんにもう一度信仰の心を起こし、処刑にされるよう説得をはじめます。

・今度は生きている親」の顔を立てる為、
→「今度は生きている親」の顔を立てる為、

2011/02/05

文学考察: おぎんー芥川龍之介

文学考察: おぎんー芥川龍之介


◆ノブくんの評論

 浦上の山里村に、おぎんと云う童女が住んでいました。彼女の両親は彼女を残したままこの世を去り、残されたおぎんはおん教を信仰しているじょあん孫七の夫婦の養女となります。三人は心からおん教の教えを信じ、村人に悟られないようひっそりと断食や祈祷を行い、幸せに暮らしていました。
ところが、ある年のクリスマスの夜、何人かの村人が孫七の家を訪れ、おん教のことがばれて彼らは捕らえられてしまいます。彼らはその後、その儘代官の屋敷に連れて行かれ、おん教を捨てされるべく、様々な責苦に遭わされました。しかし、彼らは一向に自分たちの信仰を捨てようとはしません。そこで代官は、一月彼らを土の牢に入れた後、焼き殺す事にしました。果たして彼らはこの儘焼き殺されてしまうのでしょうか。
この作品では、〈生きているとはどういう状態なのか〉ということが描かれています。
まず彼らは火あぶりにかけられた当日、全ての準備ができた後、ある役人の一人から「天主のおん教を捨てるか捨てぬか、しばらく猶予を与えるから、もう一度よく考えて見ろ、もしおん教を捨てると云えば、直にも縄目は赦してやる」と告げられます。そして、その言葉を聞いたおぎんの口から思わぬことが告げられます。なんとあれ程おん教を捨てることを拒んでいた彼女が、自分からそれを捨てると言い出したのです。これを聞いた二人は必死に彼女の説得に努めます。ですが、彼女の「お父様! いんへるのへ参りましょう。お母様も、わたしも、あちらのお父様やお母様も、――みんな悪魔にさらわれましょう。」という台詞を聞いたおすみ(孫七の妻)はおろか、あれ程意固地になっていた孫七も信仰を捨てる決意を固めたのです。
では、ここで最大の疑問は、やはりおぎんは何故信仰を捨てることになったのかということでしょう。そもそも彼らの論理性というものは、信仰であるものが善、そうでないものは悪というところに成り立っています。そして彼らにとって、信仰の為に命を捨てることは善であり、いかなる状況においても信仰を捨てることは悪であったはずです。ここまで読むと多くの読者は、尚更おぎんの決断に疑問を感じているはずです。ここで注目すべきは、「この眼の奥に閃いているのは、無邪気な童女の心ばかりではない。「流人となれるえわの子供」、あらゆる人間の心である。」というおぎんの表情について述べられている箇所です。つまり、察するに彼女は孫七達に信仰を捨てさせてまでも、生きて欲しいと考えているのです。
私たちは現在の世界に何故生きているのでしょうか。論理的に突き詰めても、その答えはでないでしょう。ですが、少なくとも生きていて良かったという感想を持っているからこそ、こうして生活していることは確かなことのはずです。しかし、そうであるにも拘らず、おぎんや孫七は信仰の為にその素朴な感想を捨て去り、死のうとしています。彼女はここに信仰というものの欠陥を見ているのです。私たちが生きていて良かったという感想を持っている限り、自ら死を選ぶことは難しいことなのです。

◆わたしのコメント

 物語をまるで理解出来ていないようです。このようなレベルのものを発表してはいけません。以下のコメントを参考に、慎重に、慎重を重ねて再読と、再度の評論をお願いしておきます。

 実の親が故人となり、敬虔なクリスチャンの両親のもとにもらわれた「おぎん」は、その宗教を理由に罰せられ、信仰を捨てるか、命を捨てるかという選択を迫られることになりました。カトリックと思しき彼らの厳格な規律によれば、命惜しさに信仰を捨てるということは、おん主に唾するが如き大罪であり、そのような誤った選択をする者は、悪魔の側に与したことになり、死後「いんへるの(inferno、煉獄)」へ堕ちることと同義なのです。しかし火刑が断行されようとするその時、「おぎん」は、こう言うのです。「わたしはおん教を捨てる事に致しました」、と。

 さて彼女が何をきっかけにそのような心替えをしたか、ということがこの物語の焦点となっています。彼女の命乞いの姿を見た育ての親たちは、その選択をなじり、悪魔に憑かれたのだと訝ります。それに「おぎん」が答えたところを見てみましょう。

「わたしはおん教を捨てました。その訣はふと向うに見える、天蓋のような松の梢に、気のついたせいでございます。あの墓原の松のかげに、眠っていらっしゃる御両親は、天主のおん教も御存知なし、きっと今頃はいんへるのに、お堕ちになっていらっしゃいましょう。それを今わたし一人、はらいその門にはいったのでは、どうしても申し訣がありません。わたしはやはり地獄の底へ、御両親の跡を追って参りましょう。どうかお父様やお母様は、ぜすす様やまりや様の御側へお出でなすって下さいまし。その代りおん教を捨てた上は、わたしも生きては居られません。………」

 どういうことが書かれてあるか、わかりますか。彼女は何も、論者の言うような「生きていることが素晴らしいと実感した」から、死を選ばなかったわけではありません。それどころか彼女が育ての親を追って死ぬ気でいることは、「おん教を捨てた上は、わたしも生きては居られません。」という発言からも明らかではないですか。彼女は、育ての親にも、生みの親にも、命を捧げても報いたいという、ある強い感情を持っていたからこそ、こういう選択を選んだのではないですか。

 彼女のこの発言と、その後に続く文をよく読んで、この物語が一体どういうものなのかをしっかりと把握してください。作品を流し読みして曲解した上に、わけのわからない空想に浸り、あまつさえそれを反省せずに表現してしまうことは、絶対に看過できません。文学作品を読み違えたからといって、誰も傷つきもしないし誰も死なないとたかをくくっているのかもしれませんが、たとえば医療の現場でこれほどの踏み外しを行えば、どういう結果が待っているのかということくらい、想像できるはずです。こういった大きな過ちが、重大な結果を引き起こさないことは、文芸作品というものの在り方に助けられているに過ぎないことを肝に銘じてほしいものです。

 この失敗から逃げては成長できませんので、しばらくはこの作品についての評論が書けるまで、何回でもやりなおすべきです。わからない箇所や、不安な箇所があれば、逐次聞いてください。次回もこの作品にたいする評論とし、経過をみましょう。

2011/02/03

文学考察: 元日ー夏目漱石

文学考察: 元日ー夏目漱石


◆ノブくんの評論
 この作品で、著者はタイトル通り、元日について論じています。そして、そこには元日に対する、彼のある〈違和感〉が描かれています。それはめでたくもない元日に、世間の習慣に合わせてめでたいように振舞わなければならない、ということです。また彼はめでたく振舞う事によって、かえってめでたくなくなるのではないか、とも考えています。その例として、著者は昨年の自身の随筆の中で、元旦について何も浮かばなかったので、一昨年の元旦の自分の恥を告白しなければならなかったことを明かしています。
さて、確かに彼の言うとおり、確かに自分の気持ちを周りに合わせようとしてかえって失敗してしまった、ということは私たちの生活の中にも潜んでいます。例えば、あなたは異性の友人の結婚式に呼ばれ、仲人を頼まれたとします。当然、あなたはその友人のため、必死でスピーチを練ってくることでしょう。そして、当然他の友人達と同様、めでたいように振る舞います。ですが、その友人があなたがかつて淡い恋心を抱いていた相手だったとしたら、果たして心の底から祝福できるでしょうか。勿論、式の最中にそんな素振りを見せることは出来ませんので、表面は楽しく振舞うでしょう。しかし、その内心は穏やかなものではない筈です。ましてや本心から喜んでいないにも拘らず、他の友人に合わせて彼女を祝福しなければならない立場にいるのです。素直に自分の感情を表現できないということは、通常のそれとは比べ物にならないほど辛いはずです。少し、レベルは違う話ではありますが、このように私にとって、自分の気持ちを無理やり合わせようとして、かえって失敗するということは稀ではない話なのです。

◆わたしのコメント

 一般性も例示も正しくありませんが、作中にある「かえって」という論理構造に眼を向けたことは評価できます。

 この作品は、夏目漱石の元日にたいする雑感を述べたもので、雑感というからには、その主張というものもあまり明確ではないように思われます。そういう理由がありますから、はじめにその主張を整理しておきましょう。

1. 元日というものは、かつてはそれが御目出たいものだとされていたようであるが、現在では、その実景が乏しくなってしまった。そうであれば、その祝い方というものも、元日の実景にあわせて変化してゆけばよかったのであろうが、こと私の感ずる限り、祝い方だけが独り歩きしているようである。
2. こと新聞社というものは、その性質によって、元日の記事を準備するのは前年の年末なのだから、いきおい実景を伴わずに元日らしく振舞わねばならないことになる。ところが、そんなめでたいはずのことばをこぞって重ねてみても、その無理がかえって、元日をめでたくないものにしてしまってさえいるようだ。
3. もし世間が、元日という日も、他のごく平凡な日常と同じく過ぎてゆく日なのだと扱ってくれれば、私ももっと、力を抜いて記事を書けるのではないかと思う。なにも元日を祝うなというのではないが、現在の実景に合わせた祝い方というものが、あるのではないだろうか。

 論者が着目していたのは、2.に表れている、めでたいもののめでたくないものへの転化、つまり対立物の両極が反対物へ転化するという「対立物の相互浸透」だけです。
 しかし、夏目の述べていることのなかには、1.「元日というものが、歴史的な過程を持ってきたことの結果、現在では、その扱われ方と内容の矛盾として現象している」ということが含まれています。そうであれば、論者の挙げた結婚式の例は、的確な例示とは言えません。論者が、「少し、レベルは違う話ではありますが」と遠慮がちに断らねばならなかったのは、このことが理由となっています。

 かつては正月らしい振る舞い方、裏白や鏡餅、角松などの作法に意味が伴っていたものの、歴史的な過程でその意味が抜け落ち、作法だけが残ったわけです。これらの論理構造を一言で要すれば、「手段の目的化」などとでも言えば良いでしょう。そうすると、そういう問題意識を持って、論理構造を同じくするものごとが、身近なところのどこかにあっただろうか、と考えてみれば良いことになりますね。


【正誤】
・確かに彼の言うとおり、確かに自分の気持ちを周りに合わせようとして
 …「確かに」の重複