2013/01/12

【メモ】ショーン・エリス、ペニー・ジューノ(著)・小牟田康彦(訳)『狼の群れと暮らした男』(築地書房)


研究の合間に、


元旦に手にとった本を読み進めているのですが、これは面白かった。

「動物」の生態を学ぶことが、なぜほかでもない「人間」の、しかも「認識」論に必要なのか、に答えるためにも、少し紹介しておきましょう。

◆◆◆

本書の特徴がどこにあるかはタイトルに現れているとおりだけども、著者は、実際に狼の群れの一員として生活した経験からして、それまでの行動学的な観察だけからでは、どうしても人間側のセオリーを狼に押し付けて解釈せざるを得ないために、時には誤った結論を引き出してしまっていることを危惧している。

一般的に言って、幼少の頃から動物が好きで、実際に寝食を共にしともに育ち、別れに涙を流してきた、市井の経験者と、実験室や望遠鏡を通してその対象を観察し理解してきた研究者とのあいだの懸隔は、なかなかに埋められないことが多いようである。

理論家は、学んだ理論を脳裏に宿すことを通して実践に取り組み、それを検証してゆかねばならないし、実践家は、個別の実践から論理を引き出しそれを体系化することを通して理論として作り上げてゆかねばならない。

しかし現実を見ると、理論家のほうでは、既存の理論に反する個別的な実践を、些細な例外だとして排除し学界から追いだそうという向きに努力を注ぎがちであるし、実践家の方では、理論など何の訳にも立たないとばかりに相手にすらしないことがほとんどである。

研究者のなかでもとくに、英国流の経験主義や、その流れを受け継ぐ米国流の行動主義やプラグマティズムの学風の中では、どうしても、対象の持つ現象的な側面にだけ焦点が集中する傾向があり、その内面に存在するはずの構造に触れることがタブー視され、無視黙殺される傾向に陥りがちとなる。

なにしろ、構造は目に見えない!のだから、それを論じようとすれば、「実証」的な根拠は何か、と詰め寄られるわけである。

目に見えぬものを扱う場合には、それを見る者の側にも論理の力が必要不可欠であるのは当然であるが、感情的にも能力的にもその道を閉ざそうとする相手に理解を求めるのは、並大抵のことではない。

◆◆◆

わたしの知るかぎりでも、心理学を専攻する学生や研究者が学界において研究に臨むとき、
人間が表向きどのように行動するのかの統計をひたすらに取ることが、どうして人間の内面を理解することに繋がるのか?
という疑問を持つ人が少なくない。

単純だが、本質的な問いである。

とくにそれは、現実の人間を眼にして、学んだ研究手法やそこで得られた知見からではとても解くことのできない問題に日々ぶつかり続けている者にとっては、人生を揺るがしかねないほどの大問題である。

本書を読むと、これは、問題の質も段階も異なるけれども、動物を理解する場合においても同様のことが言えるのだとわかる。

厳密にいえば、人間の頭脳のはたらきである精神は当然ながら動物にはないけれども、それも生成段階をたどれば、わたしたちの祖先が単なる動物であったときに営んできた社会のあり方を土台として作り作られてきたものなのだから、人間を知るにはやはり、動物を知らねばならない。

森羅万象は、自然、社会、精神の重層構造から成り立っていると言われるのはまさにここなのだが、いつも口を酸っぱくして言うとおり、これをいくら言葉の上で諳んじられたとしてもまるで意味はないのであって、自然、社会、精神の成り立ち方を、その過程として一般的に押さえることを通して、「なるほど、人間の精神を本質的に理解しようと思えば、どうしてもヒトの社会がどういうものであったかを知らねばならないのだな。より遡れば、その前には群れをなしていた動物があったはずだから、そこからヒトがどのようにして生成されてきたのかも押さえておくべきだ。もっと遡れば…」というふうに、正しく問題意識を持たねばならないわけである。

◆◆◆

本書の内容はジャーナリズム寄りで、必ずしも整理されているわけではないから、狼の生態に加えて、私生活や夢や生まれ持った才能などをごった煮した文書は研究書とは呼べない、とアタマの凝り固まった研究者から無視黙殺の理由にされそうな心配はあるものの、その経験は確かなものである。

とくに、食事が狼の群れの構造の維持に果たす役割を書いた「23. オオカミの食べ物は身分で違う」と、これまで質的に異なり互いに参照しあえないとされてきたオオカミと犬の社会構造について具体的に触れた「24. 己の身分をわきまえる」は、人間の認識の生成を知るために動物の生態を学びたいという読者にとって、貴重な知見を与えてくれる。

その知見を生かして、狼に育てられた子とされる、あのあまりに有名なアマラとカマラの事例について、狼がなぜ彼女らを被食者と見て食べてしまわなかったか、という問題の糸口が掴まれているところなど、思わず声を上げてしまったほどであった。
彼女らを保護した牧師の虚言などが明るみになるにつれて、あの事実そのものが検討に値しないものとして解消されてしまったきらいを苦々しく思っていたからである。

総じて、本書は狼の群れのなかで、その一員として暮らした、という類まれなる経験を持つ著者の、それこそ経験の書であるから、それをそのまま読んでしまっても、「へぇ〜、こんな人もいるんだ、こんなこともあるんだ」と、トリビアルな雑学を獲得しておしまいになってしまう。

ただ、自然、社会、精神の流れを一般教養として押さえたうえで、その上に学問の道を歩き続け森羅万象の過程的構造を通して、学問的な一般教養を構築し、その上に自らの専攻分野を正しく位置づける、という科学的・本質的な規定に従って生成と発展を見てゆこうとする人間にとっては、一見の価値ある書物であると思う。

またそこまでいかなくても、科学者を自認する研究者の戒めの書物として。実践することのリスクを回避しようとする意気地の無さを払拭し、傷を負っても前に進む動機付けの書として。「痛がりは伸びない」という事実を極端なかたちで突きつけ、教えてくれる。

◆◆◆

さいごに、著者のスタンスの読み取れる箇所をいくつか。

・オオカミの柵の中で生活しようとする筆者に対して、生物学者が
「 キャンプの生物学者たちは私の計画に断じて反対だと言い、頭から敵対的になる学者もいた。科学的に反対する根拠はあるがそれは別としても、わたしの理論と信念は間違っており、それは自殺行為だ、と彼らは考えた。彼らにとって、私は外国から来たそれこそ一匹オオカミで科学者の資格もない―そう言われればその意見に反論するのは難しかった。私がしたいと思ったことはあらゆる科学的原則に反した。生物学者として彼らは観察はしているがそのもの自体に触れてはおらず、きめ細かく定義された方法論に従っていた。しかし、私は科学者ではないし、彼らと違って失ってこまる名声もなかった。私は成功しなかったらどうなるだろうという恐れがなかった。失うものが何もなく得るものは全てだった。」(p.101-)
・犬は、それが群れのなかでどの位置を占めているかによって扱いを変えねばならないとしたまとめとして
「 以上の犬のどれを自分の家にもちこんだかを知れば、互いに幸せな生活を送ることにいくらか役に立つはずだが、しかし結局は買った犬をどう扱うか、どう訓練するかにかかっている。ほとんどの訓練士や行動学者は彼らの方法論をオオカミの行動に典拠を求め、群れの重要性を認識している。私はそれについて反論はないが、前にも言ったように、本当に何が起きているかを理解するためには、現場にいなくてはだめだ。オオカミを遠く離れて観察していると、簡単に間違った結論に辿り着くことがある。実際、それが今までの実態だと思う。飼い主はアルファの犬(=群れのボス。引用者註)の役割を演じなければならないと教えられてきた。テレビで見せられた問題犬に対しては驚異的な結果が出ているけれども、これがいつもうまくいくとは限らないし、飼い主にとって必ずしも長期的な解決策になっていない。
 私は決して犬の行動科学者をけなすつもりはないが、オオカミの行動を正確に真似することが大事だと深く信じている。事実、すべての犬がアルファの役割を担った飼い主に対応できているとは限らないのだ。」(p.232)

【参考】
・出版社へのリンクおよびプロモーションビデオへのリンク
 狼の群れと暮らした男

2013/01/11

【メモ】本日の革細工:G1サイドバッグ改

ビフォー。


アフター。


◆◆◆

ものづくり研究仲間への報告なのでメモ書き程度ですが、こんなふうになりました。

しばらく見ないうちに何があったのか?

と言われれば、技術的にいろいろと蓄積があったために、1年経って見てみたらそのぶん手直ししたいところがあり、他の作業の合間に改修した、ということになります。

わたしは過去に主に扱った素材については、それが主だった探究の対象から外れたあとにも、暇を見つけては実験するのが好きなのですが、自転車用として生まれたこのバッグもそういう意味で、実験台として散々な目に遭ってきました。

自転車本体との固定具が外れて高速移動中にアスファルトに叩きつけられたり、雨の中晒されて放っておかれたり、猫の寝床になって引っ掻き耐性を調べられたりなどなど、革好きが見れば悲鳴を上げそうな数々の試練がありました。

そうして1年が明けると、やはり角には傷が、フェイスには水滴跡が、真鍮には緑青が顔を出してくるところをなんともいえない気持ちで眺めながら、これも人様にもっとよい道具を提供するため…と作り手とバッグに言い聞かせてきましたが、年末年始にバッグ類のメンテナンスをしているときに、さすがに悪いかなあ、という思いがしてきたものでした。

◆◆◆

思い立ったが吉日、というわけで、その場でおもむろにカッターナイフを取り出し、マチを取り外しにかかった…というのが先週末です。

さて結果から言えば、この時は、他の行程で余った柿渋染め液で染付けて、水滴跡がどのくらい消えるものか、また消えないものか、実験がてらに補修しようとしたつもりだったのですが、どういうわけか他にも色々と変わってしまいました。

前から、サイドバッグやビジネスバッグなんかの作製依頼をいただいているので、オーナーさんには参考になるところがあるかも知れません。


以下は今回の回収箇所と雑感です。

◆全体の色調とフェイスの変更


前回の製作で、フェイス部は型紙よりも前面に膨らむ傾向があることがはっきりしたので、別の顔も試してみることに。
柿渋染めにしたことでG1に色調が近づいたため、姉妹モデルの位置づけとし、金属部のアンティーク加工もやすりがけして真鍮色にしました。

前回のコンチョ穴が空いたままなので、大きめのコンチョで隠すか、コンチョとフェイスの間に革を挟むかしたほうがよいかもしれませんね。(下の写真では別のコンチョになっていたりもします)


◆ベルト留めの盾のモチーフを補強


以前は、バッグ全体に2mm革を使ったために盾が立体感に乏しかったところを、裏面から補強し、膨らみを増すことにしました。

盾のエンブレムは、もともと、ベルト部分を本体に縫い付ける時に、「いかにも」な縫い目をつけると見苦しくなるために考えたものです。
「無駄なものは出さない、つけない」という厳しい制約が、いかに作り手を成長させるかは、表現に取り組む人にはぜひとも伝えておきたいところです。


◆裏地の追加


余り物のピッグスエードがぎりぎり足りたので貼り付けました。

高級感は出ましたが、雨にさらされた時に剥がれてくる可能性がないとは言い切れません。また日焼けで退色することから、自転車バッグとして常用するには気苦労が増えたかもしれませんね。

耐摩耗性は見た目よりずっと強いとはいえ、野ざらしで常用するものにピッグスエードを使うというのは、実用上の不安が残ります。これからそのことも試してみなければなりません。


◆パイピングを廃止、背面下部にDカンを増設


前回、本体部とマチのあいだにパイピング部があったのですが、あってもなくても変わらないようなので廃止しました。

また、前回ではひっくり返さずに縫い進めたため製作時間が長くかかりすぎ、普及モデルとしては実現不可能なレベルでしたが、使い込んでずいぶん皺が入ったので、これも味かと思い、思い切って縫ってからひっくり返す、という手法を取りました。

これによって、大幅に製作時間は削減できましたが、やはりかなりの部分で大きな皺が入るので、この固めの革を使う場合は、全体をアンティーク風に整えたほうが適切でしょう。

逆に言えば、この製法では綺麗めには作れない、ということです。
同じ構造の市販の鞄に皺があるのは、これが理由です。


◆マチのボタンの増設


よくある工夫ですが、以前作りたての時はなくてもいいかなと思っていたところ、革がへたってくると、やはりあったほうが型くずれしにくいなと思わされました。

ボタンは強力なものを使わなければ革の張力で外れてしまうような印象ですね。


◆収納性は以前のまま


A4ノートのみならず、A4のファイルも3冊入ります。
というか、もともとそのために作ったのでした。

もしビジネスバッグを作る場合のサイズ感としては、横幅はこの程度あれば安心、マチの分厚さについてはA4ファイルにして2冊ぶんくらいあればよい、というところでしょうか。

あとは、自転車に固定する方法についての進展があったときに、改めてお伝えします。

本日の革細工:自転車バッグG5s & G5i "PORTO"

昨年友人が結婚したというので、


なにか考えないといけないなー

と悠長に構えていたらあっという間に年末になってしまい、年の瀬も押し迫った頃に特攻することになりました。

◆◆◆

と言っても、それまでに数度、盛り込んでほしいテーマについてはやりとりできていたので、頭の中には作りたいものの像がそれなりにはっきりしていたのでした。

オーナーから出された要望というのは、こんなふう。
・取っ手がほしい。
・小物を入れるポケットがほしい。

過ぎたるは猶及ばざるが如し、がものづくりの信条、かつ表現の質的な向上の唯一の道だと信じているわたしにとって、これは実に酷な条件でした。


自転車用のバッグに取っ手をつけたとして、それほど使われるものだろうか?
ポケットをつけたら無駄な縫い目が増えてしまう…インナーケースでなんとかならないだろうか?

などなどという思いが渦巻き、どうすればオーナーに、「やっぱシンプルなのでいいや」と言ってもらえるか、ということを散々思案したものです。


簡単に言えば、要らないものや、目新しくてもいずれ使われなくなるであろうものは絶対につけたくない!ということですね。

◆◆◆

そんなことが念頭にあったので、「ホントに要るの?ホントにホント?」と、互いにしつこくやりとりをしているうちに、どういうものであればずっと使ってもらえるものになるか、ということが次第次第に見えてきたのです。

おそらくここは、オーナーである夫妻にとっても、「自分の欲しいもの」像が深まっていく過程であったと思うのですが、同時に、「この作り手という人間は、どうしてここまで聞き分けがないのだ?言った通り素直に盛り込んでくれればいいじゃないの…」と呆れさせてしまったかもしれません。

しかしこの過程こそが、原理的な立場(=要らないものはつけない)と、経験的な立場(=だって欲しいもの)を統一してゆくことに他なりませんから、本質的にものづくり並びに表現に取り組んでいこうと考えている読者のみなさんは、やはりオーナーとの喧嘩は避けてはとおれないことになります。

(より深く考えたい読者の方へ:
ここはとても難しい問題ですが、同様の問題として、たとえば、洋画の額縁に描かれているツタの模様などを思い浮かべてみてください。あれが、なぜああいった形になっているかわかりますか?
なぜあの大きさなのでしょうか、なぜあの曲がり方なのでしょうか、なぜあのモチーフなのでしょうか?
そういった問題に答えられないという場合には、まだ問題が解けていない、つまり自分のものとして身についていない、ということなのです。
デザインやものづくりをする人間にとって必要なのは、「古代ギリシャ人が黄金比を見つけた」などという知識なのではなくて、「古代ギリシャ人はなぜ黄金比を普遍的な美しさとみなしたのはなぜか」という、彼等の認識の生成をゼロから追ってみて、その答えにたどり着くことと直接に、自らの認識として技化する、ということなのですから。
このことが押さえられないから、誰かの作った理論やデザインを、ただただ表面的に横滑りさせてコピーするしかなくなるのです。
ですから、ものづくりの本質的な前進に絶対的に必要なのは、技術でもなく、ましてや既に現象している表現でもなく、認識、でなければならない、と言うのです。)

入り込んだお話はここまでです。お目汚し失礼。

◆◆◆

さて、取っ手とポケットがやはりどうしても必要である、というオーナーの要望が高まるとともに、どのような形態をとればいちばんよいかたちで使ってもらえるのか、という作り手のバッグ像が明確になってくる段になって、数点のアイデアが浮かんでくることになりました。

以下のものがそれです。


帰ってきた答えは、いちばん下の「ドイツホック型がいい」、ということでした。

わたしはてっきり、上の2つのどちらかで来るものと思い込んでいたので、少々意外でしたが、決まったからには前進あるのみ、です。

形態が決まると、次は全体のテーマが問題になります。

メインのテーマは、新婚旅行で行ったという思い出の街、ポルトガルはポルト。


冒頭の写真も同じところです。

レンガ造りの屋根と、しっくいの白が青い空に映える色彩が目に留まり、それを使うことになりました。

ここまでが、12月の初旬頃までに終えたやりとりでしたから、年末進行にバッグ製作をねじ込めばいいだけ(!)、というわけです。

◆◆◆

ということで、できました。


年末のパーティーでサプライズとして渡すつもりだったのですが、当日のぎりぎりまで作業して、ようやくひとつはかたちにしてお見せすることができました。

今回のバッグにそこまでの時間がかかったのは、いつもとは違った構造を採用したから、です。

側面をじっと見てもらえれば、その違いがわかるかもしれません。


わかるでしょうか、少し丸みを帯びていますね。
以前までのバッグと比べて見てもらえれば、よくわかるかと思います。


奥にある初代自転車バッグG1は、マチが凹んでいますが、今回のG5については膨らんでいますね。

このことは、丸みを帯びた優しい形状になることを助けるだけでなく、内容量を増やすことにもつながります。

今回作ったG5ペアのうち、G5i(下の写真の左側)については、これまでで最も小さい横幅でありつつ、容量は変えずにつくることができました。


iPadや、カメラのクッションケースも入れることができます。


◆◆◆

夫妻の要望で、ポルトガルの伝統民芸、アズレージョを横につけました。

振動が多い自転車バッグに使うには相当に華奢なタイルでしたから、革で補強した上で差し込んであります。


万が一割れた時にも、交換して挿し直すことができます。

◆◆◆

婦人の自転車については、サドル下のスペースが少ないために、バッグを付けられるかどうか自体が怪しかったのですが、棒屋根式のおかげで、付けてしまいさえすれば蓋が半分は開きますから、使いやすくなっているのではないかと思います。


荷台を付けてもバッグを収めるスペースがない場合には、また考えればなんとかなるでしょう。

◆◆◆

ポケットは、扇状のマチをとってあります。


ポケットの幅は20mmほどしかないので、こうしておかなければ手を差し込んで落ち込んだものを取り出すのが難しくなるからです。

手の甲が革の裏側とこすれてざりざりなると不快なので、ポケット部はつるつるになるまで磨いてあります。(ベタ貼りでもよかったのですが、そのぶん重く、雨に弱くなってしまいますので見送りました)

◆◆◆

ポケットのマチを折りたたみ式の扇形にしたことで、ギボシをつけることができました。(上の、カメラケースを入れた写真だとわかりやすいと思います。ポケット部につけた金具のことです。)


今回のバッグの顔は、いちおう正面のドイツホックと呼ばれる丈夫な金具ですが、荷物が少ない状態だと留めにくいので、そのときにはギボシのほうが使い勝手がよいと思います。

ちなみに、ドイツホックはG5sとG5iで形が違うものを使っています。
そのこともあって、10mmしかサイズの違わない両者ですが、けっこう違ったものに見えるのではないでしょうか。

◆◆◆

さいごは個人的なお話で恐縮。


二つ同時に付けたところ。
前後を入れ替えることもできます。


自転車仲間の友人のご好意で、この自転車本体も贈り物としてお祝いできました。
ほかにも共同で出資してくれたみなさんをはじめ、自転車仲間のみなさんにこの場を借りてお礼を申し上げます。

某屋根部の朱色は、革が日焼けしてゆくとともに色も変わってゆきます。

ご夫婦がふたりで年輪を刻むように時間を過ごしていってほしいという思いを込めて、刷毛で重ね塗りをしてあります。

ささいなものですが、鞄の色の深まりにつれてお二人の仲も深まってゆきますように。

2013/01/01

あけましておめでとうございます

今日は天候にも恵まれ、よい一日でした。


今年取り組む研究活動、指導、実技、創作活動、語学について、去年の年末は時間がなく考えられなかったので、今日こそはと、大きな本屋さんに自転車で乗りつけ下調べをしてきました。

新しく取り組む課題については、やはりその歴史を知らねばとうてい学問的な段階には到達しえませんから、通史的なもののうち、もっとも良いものを選定しなければなりません。

国会図書館に入り浸って探しても良いのですが、あくまで下調べに話を限れば蔵書が多すぎることと、書庫に所蔵しているものも多いために、一度に閲覧できる情報源がタイトル・著者名・出版社名に限られることが致命的です。
上達のあり方を考えれば、各段階には各段階にふさわしい手段があってしかるべきです。

ともあれ日本では、「こんなものも置いてあるの?」と品ぞろえの確かさに驚く、しっかりとした大型の書店もありますので、非常に恵まれた環境にあることを噛み締めてほしいと思います。
(そうじゃないところもありますから、大型であればよいというわけではありません。店先にどんな本が平積みされているか?というところを常々見る習慣をつけておくと、その本屋さんのレベルがわかるようになってきます)

◆◆◆

さて、ここまでを読んだ探究熱心な学生さんにとっては、
ではあなたの言う「良い通史」はどう選べばいいの?
という問題意識が脳裏にぎらぎらと輝いているはずです。

多くを述べることはできませんので、やや形式的にすぎるきらいがありますが、誤解を恐れずに言うことにすると、分厚いハードカバーのものよりも、200〜300ページ前後の薄い新書のほうが良いようです。

というのも、個別な歴史を研究したいだけならともかく、歴史の流れ、歴史の流れ「方」、つまり歴史的な論理性=歴史性を把握するためには、いきなり分厚い本に取り組んでしまっては、当初の目標が致命的なまでに達成できにくい、というより事実的にできない、という事実があるからです。

新書のうち、その道に数十年専門家として取り組んできて、その著者の脳裏に宿っている歴史の流れを、人生の仕事納めとして本人が直接自分の手で一挙に書き下ろしたものは、ほぼ例外なく好著になる必然性があると言えるでしょう。

逆に言えば、何々の歴史、何々史という名のついた本であっても、執筆者が複数人である共著については、全体の流れが断ち切られるきらいがあり、また通史を名乗っていながらそんな志はどこへやら、本文を見るとただの論文集であったりすることもあり、がっかりさせられることしばし、ということがあります。

◆◆◆

というわけで、今回も午前中は専門書のコーナーをしっかり見て回ってみたあと、午後からは気持ちを入れ替えて新書のコーナーに立ち寄り、これはというものを数点買って来ました。

個別研究の書物は分厚くかさばり値段も高く、いくら読んでもその分野の全体像が掴めませんが、良い通史はいつでも持って歩け値段も安く、全体の絵地図を数ヵ月で脳裏に刻み込むことができます。

そのことと同様のことは、今回買い求めた本の書き出しにも明確に記されてありました。少し引用しておきましょうか。
文化史の研究が、各部門ごとにばらばらに進められている現状では、いくら待っていても、日本文化史の綜合的把握の可能になる時の来ないのは明らかである。
(中略)
大局からの綜合的視野がひらけてくると、各部門の専門研究にも新しい課題や視野がひらけてこないともかぎらない。
 
家永三郎『日本文化史 第二版』(1982、岩波新書)
なんだか、歯に物が挟まったような言い方だなあ、と思った方は、この人の言外に匂わせている本音が見えつつあるはずです。
では実質的にはこの人は、同業者の仕事を見渡した時に、どのような感想を持っていたのか、と考えてみてください。

わたしの言いたいことも、まったく同じです。
そうは言っても、通史をとおしつつその過程性を脳裏に宿しての専門分野の一般的な歴史性の把握は必要不可欠であるとはいえ、ものごとの探究がそこで終わるということはありえないということも、次に押さえておかねばならない事実です。

ただそれでも、このような、専門分野の歴史性を把握した人物からの提言が、何度も何度も実を結んでいないことも揺るがしがたい事実として屹立しています。
土台論をまったく欠いた個別研究だけが跋扈し、終わりの言に代えるとばかりの続く仕事は学際研究を待つ、などということばがあたかも免罪符になるかのような錯覚が蔓延っている中ですから、自分だけは、という一念はいつもいつも、それぞれが忘れるべきではありません。

ちなみにいえば、引用した二文目については、ヘーゲルが『精神現象学』の序文で、感情を隠しながらも述べていた、研究者のあり方への苛つきとも一致しています。
自ら定めた道を志す方は、序文だけでもぜひにと、一読をお薦めしておきます。

◆◆◆

さて、雑談に始終したかの感がないではありませんが、わたしが今年やってゆくこととその志とも密接に関係することですので了承を乞うこととし、終わりかつ締めのことばとして、やはり恩師から賜った詩を書き置くことにさせてください。

四大(しだい)空(くう)に帰すべきさだめ思ひつつ
冬されば冴ゆる冬のうつしみ
詠人不知
この季節の力を借りて、冴えた頭で覚悟を胸に誓い、この一年も人類文化を本質的に前進させるべく進みましょう。

謹んで、本年もよろしくお願いいたします。

2012/12/31

年納めのごあいさつ

読者のみなさまはじめそばにいてくれるみなさま、


今年もお世話になりました。


先ほど、共に研究している学生さんたちに、年賀状代わりの研究成果の郵送をすませてきて、ようやくひと安心しているところです。

やるべきことを済ませて寒空の下両腕をおもいっきり伸ばして深呼吸すると、心身ともにぎゅっと引き締まる思いがします。

振り返ってみると、これはひとつの道を歩もうと志す人間にとっては言うまでもないところだと言われるでしょうが、今年はただひたすらに努力、努力、努力の日々でした。

年のはじめ、その節々にぎりぎりの目標を立てて、それを危うい綱渡りもありながらなんとかこなすことができましたが、いざ終わってみれば、やはりその過程にはたくさんの回り道があったものだなあ、というのが正直なところです。

回り道のなかには、本質的でないただただ無駄なもの、つまり<否定の否定>の過程性を持ち得ないものもあったことは、大いに反省すべきことだと考えています。

◆◆◆

人類の持ちうる最高の認識の形態、つまり学問的な段階のものごとの進め方をするということは、目標の設定をそのレベルで規定して歩むだけでなく、その過程についても学問的に進めてゆき、その進め方そのものの方法論を本質的に前進させてゆくことでなければなりません。

いちばんうまく歩くことができるということは、それ自体に着目するだけではそれだけのことでしかありませんが、「いちばんうまく歩くことができるようになるにはどうすればよいか」という、その上達過程に目を向けて、歩くということが秘めている過程的構造を浮き彫りにすることができるならば、いちばんうまく走るためには、またいちばんうまく泳ぐためには、ひいては、いちばんうまく書く、描く、踊る、歌う、といった方法でさえも、一般的なところまでは押さえることができるようになってゆくものです。

その土台となるものは、言うまでもないことながら弁証法という論理、法則性の把握と目的的な適用です。

しかし今年の過ごし方を振り返ると、たしかに言い訳もし得ないほどに自分にできうるかぎりの努力をしたつもりではあっても、その努力を注ぐ対象や、その注ぎ方という方法論が、本質的に無上のあり方で向上していったか?と問う段になると、結果から見れば、不備や甘えが残されていたと思うのです。

ただがむしゃらにやるということが尊いわけではないということは、恐ろしくも思い知らされる事実です。

まだまだ、未熟、未熟の感しきり、です。

◆◆◆

しかしそうは言っても、何度も反省を重ねているわけにもゆきませんから、今年の泣き言はこれまでとし、転んですりむいたり谷底に落ち込んだとしても、次の瞬間には頭を振って気持ちを入れ替え、起き上がってよじ登ってまっすぐ前を見つめて歩みを進めるのみ、です。

今年は新しい出会いや、志に目覚めた人たちとの関わりが少しずつ明確なかたちを取り始めたという感慨深い年であり、この僥倖を無駄にせず、切磋琢磨しともに一歩一歩進んでゆくことを誓います。

去年の今頃もご紹介しましたが、わたしの恩師に授かった一句を記し、年納めのごあいさつに代えさせていただきたいと存じます。

体当たりに 必ず骨を立つべしと
家伝一系 野武士剣法
詠人不知

本年も誠にお世話になりました。感謝を込めて。

2012/12/16

【メモ】マインドマップは何ができて、何ができないか

概要については省きますが、

浅井えり子『ゆっくり走れば速くなる』のマインドマップ

マインドマップというのが何かといえば、見ての通りです。

一般の本屋さんに行けば、いろいろとガイドブックがあり、その中では脳科学や心理学といった理論が引用された上で、この図形の理論的な根拠が述べられていますが、根拠に深入りする必要はありません。

ソリューションとして売り込もうとする魂胆が見え見えだという感情的な反撥はいちおう棚上げするにしても、いかにもアメリカ的な現象論的コジツケが多いですので。

もっといえば、同じことをするのにマインドマップということばを無理に使う必要もなく、系譜図や樹形図の現象的な形態を、アイデアを練ったり整理したりするという目的のために、「かたち」を借りている、という位置づけの発想であることを押さえればよいと思います。

ですからマインドマップで表現できることは、「生き物」という太い幹から、「動物」や「植物」や、場合によっては「細菌」というやや細い幹が延びており、その先には「哺乳類」や「広葉樹」などがあり、さらに先細ってゆくにつれて「犬」、「チワワ」、「おとなりの田中さん宅のポチ」が位置づけられている、という繋がりなのであって、それ以上でもそれ以下でもないということです。

◆

マインドマップを使うことの利点は、この「見たままに使える」ということにあるので、色とりどりの表現で新しい発想を促したりするにはもってこいで、純知識的な資格試験のレベルにまでなら有効に使えます。

ただ逆からいえば、マインドマップのこの性質に規定されて、いわば、「日常生活の小仕事」(エンゲルス)をするには十分だけれども、より複雑で高度な仕事、つまり論理的・理論的な仕事をするためにまでこの手法を横滑りさせてしまうことは、その仕事に重大な欠陥を孕んでいることに気付けないままになってしまうという危うさを持っています。

学問というものの本質は、対象の持つ立体的・重層的な構造を頭脳の中に体系的な像として描く=認識する、ところにありますが、平面的・図式的な整理だけでは、これを満たすことはできません。

ですから、先ほど見た「マインドマップでできること」のうちの、いわば繋がり方の把握は、学問レベルでの<体系化>と同等であるなどという勘違いはしてはいけない、ということが言えるわけです。

◆

概念的な整理をされてもなんだかわかりにくい(=像としてつかみにくい)という場合には、たとえばこんな文章で現されていることが、その構造を捉えながらマインドマップとして表現できうるか、と考えてみればよいと思います。

以下で引用するのは、阿部知二 著『文学入門』(河出書房)の、「文学の生成」という章にある文章です。
「まず文学の発生ということについては、二つの場合が存在する。第一は、歴史的に見てゆくことであり、第二は、各人の心のなかでの文学心の芽生えをみる、ということである。しかし、ここで面白いことは、その二者がかなりの程度まで類似しているということである。それはちょうど、生物の世界において、個体の発生成長の経路が、生物全体の進化の歴史をほぼ縮小したようなものになっていることと似ている。」
著者は、文学をその生成段階において見るならば、そこでは二つの見方ができると言います。

ひとつは、人類総体としての文学の生成。
もうひとつは、個人の内面での文学の生成、がそれにあたります。

そして、この、規模も担い手も全く異なるこのふたつが、(どういうわけかはわからないが)「かなりの程度まで」――つまり一般的な構造においては――類似している、と言うのです。
さらにこれは、生物の世界でも見られるところなのだ、と言っていますね。

◆

本文には明言されていませんが、生物学におけるこの構造の把握というのは、ヘッケルの手による「個体発生は系統発生を繰り返す」という論理です。

たとえばわたしたちがお母さんの身体からおぎゃあと産声を上げて産まれるまでには、受精卵からの長い道のりがあります。

その身体の発達の仕組みを見ると、当初は単細胞的な段階でしかなかったものが分裂を繰り返す中で、しだいしだいに尻尾の生えたサカナのような段階から、手足の生えたイモリのような両生類的な段階へ…と進んでゆくことがわかります。(中学校の生物で習ったはずですね)

この一年にも満たない「個体」の発生と発達のあり方というものは、より長いものさしで見るならば、地球上で生まれた生命体が現在の人間の段階にまで発展してきたという、いわば「生命体」の、数億年にもわたる発生と発達が極めて短期間で繰り返されるという見方が成り立ちうるのであり、「その二者がかなりの程度まで類似している」ということが言える、ということなのです。

わたしたちが<論理>という名前で呼んでいるものも、実のところ、こういった生成と発展の段階を大きな目で、また小さな目で通して・透かしてみたところに、そういった構造が把握できる、という発見が積み重なり統合されてゆくうちに質的に発展してきたものです。

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このように、規模も担い手も違い、また文学のあり方と生物のあり方という、まったく質的に異なる対象ですらもが、一般的にいえば同等の生成と発展の過程を持っているときに、この立体構造、重層構造、そして一般的な構造をいかにして扱うか?と言えば、これはどうしても、図式化して丸暗記するだけではどうにもならないのだ、「自分のアタマに」過程を負ってみることのできるだけの力を技として磨かねばならないのだ、ということがわかってもらえるのではないでしょうか。

マインドマップの発案者はどうしても、それが人間のアタマの構造をふまえたものになっているから理解が進むのだと言いたいようですが、実のところここでふまえられているのは、個別的な知識と、そのレベルの上り降りの関係の繋がりだけ、なのです。

たとえば、「犬」は「動物」のカテゴリに入っており、またそれは「チワワ」や「コリー」を内包する概念である、ということでしかない、ということです。
このレベルの把握は、いわば整理、の段階であり、さほどの論理性もないものです。

もしこのマインドマップのあり方を、わたしたちのアタマの中にそっくりそのまま写しとってしまったとしたら、わたしたちは誰一人として、学問の道を歩めなくなってしまいます。

なぜかというに、学問の本質は個別の知識の集成にあるのではなく、その構造性の把握にあり、しかもその構造は、平面的ではなく立体的かつ過程的なものでなければならない、からです。
しかし残念なことに、<体系化>というものを、知識どうしの繋がり、というレベルにまで引きずり下ろして理解してしまっている人間が、研究者にもたくさんいるという事実があるのです。

念押しにと一言で要すれば、知識だけではなく構造も、形而上学的ではなく弁証法的に、捉えなければならぬ、ということです。

ですからマインドマップでできるのは、個別的な知識の繋がりの把握です。
その用途としては資格試験には使えますし、わたしはその用途に限れば非常に有用だと思っています。
しかし、それを学問的な段階だと勘違いしてはいけない、ということはぜひとも言っておきたいのです。

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マインドマップを作る時には、たとえば資格試験の目次をコンピュータで機械的に打ち込んでしまい、次に本文を読みながら、それを印刷したものに自分の手で書き加えてゆく、というやり方がいちばん良いと思います。(この記事の冒頭のマップを参照のこと)

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もっとよいのは、マインドマップをイチから手書きすることですが、これには相当な時間がかかることと、デザインを凝っていると時間ばかりが過ぎてしまう欠点があります。

意地でも手書きで全部描く、という根性を発揮することは大いに結構ですが、その場合にでもコンピュータで作られたものを参考にしてもよいわけですから、柔軟に考えて進めてください。

知識的な習得も相当に時間がかかりまた大変なものですが、学問にとってそれは、いくら必要不可欠とはいえ、長い目で見れば単なる叩き台、捨て石にしかならないものですから、その段階ですべてを修めたとはゆめゆめ思われぬことです。

本日の革細工:iWood 5ケース

年のさいごの12月は、


ふつうの倍くらいのスピードで過ぎ去っていくような気がします。

こういう期間を必死で過ごしていると、論文の執筆や創作活動などいつもは1週間くらいかけてじっくり取り組むことでも、「なにがなんでも絶対に仕上げる」と覚悟のレベルで目的を持っていれば、実際に取り組むまでのすきま時間をうまく使って、当日すぐに取り掛かれるような段階にまで目的像を明確にできることがわかってきます。

そうした一日が終わるころ、手元に残った表現を見たとき、
「これ、どうやって作ったんだっけ…?」
などと思ったりするものです。

もしとてもこの期間でやったとは思えない、という仕事を、年末だけでなく毎日やれるのなら、よっぽど偉く(?)なっているだろうなあ…と思わないでもないですが、これも、「あなたは毎日毎日飽きもせずに基礎修練ばっかりやってるね」と言われ続ける日々を過ごしてこそ、なのでしょう。まあ第一、身体が持ちませんしね。

ところで、年の切れ目や世紀の節目などに、重要な発表が集中したりすることがあることはご存知でしょうか。

わたしはウチに来る学生さんに、必ず学史研究をしてもらいますので、何度か、このことについて質問されたことがあります。

たしかに、いくら12/31だろうがミレニアムだろうが、それぞれの日々はそれぞれの日々だけでしかないのであり、それぞれの年も同じようなものであるから、この日やこの年が特に特別であるという理由などはないのだ、という考えもあり得ます。

しかし歴史的な事実を見ると、どうにも気のせいとも言い切れない、という思いがあるからこその質問、ということでしょう。

月の満ち欠けが出産に与える影響というのは、人間の生理面への働きかけですが、ある時間的な節目に出来事が集中するということは、これとは質的に違った原因がありそうですね。いちど考えてみてください。

◆◆◆

さて、どうでもいいお話ばかりをしていると、毎日毎日お伝えすることが溜まってゆく一方なので、少しでも消化しておきたいと思います。

今回は表題のとおりの革細工なのですが、iWoodって何なの?という方は、これを見ていただければ一目瞭然です。


マホガニーです。(Miniot | Unique wooden accessories for iPhone and iPad)


数年前にもここで買ったものを使っていたことがあるのですが、そのときはウッドカバーに入れると革ケースに入らず、ということで、あれかこれかしか使えなかったのですが、もはや今となってはその心配も要りません。

当時も、木の削りだしの精度に驚いたものですが、あれから3〜4年のあいだに、さらに恐ろしいことになっていました。以前は荒く、結局自分でヤスリがけした表面の処理も今回は抜け目なく、角度を変えて見るとなめらかに光る表面を見ていると、それが木であることを忘れてしまうほどです。

スリープボタン、ボリュームボタンもぎりぎりまで薄く削られた木によって、カバーを付けたままで操作することができます。
製造元はオランダの会社ですが、ミリ単位をはるかに通り越したミクロン単位で木の加工ができてしまうという事実を見るにつけ、もはや天然素材のものですら、製品の質を「手作りだから」という理由で保証することはできないのだ、ということを見せつけられる思いがします。

◆◆◆

とまあ、日本のものづくりは心配ながら、この製品(というか作品、と呼んでもよいレベル)には見るたびに感心させられ続ける毎日で、率直に言ってめちゃくちゃ気に入っています。

ここまでの仕事を見せられて動かねば、一介の表現者として名折れであろう…ということで、夜を徹して色々と作ってみました。おかげで、昨日は湯船で寝落ちです。

◆

その1。
前に使った帆布の切れ端で、めちゃくちゃ薄くて幅の狭いものを目指してひとつ。


放ったらかし風の入り口はどうなの?、と言われそうですが、これがいちばん使い勝手が良かったので…
あまりに薄いので、入り口の余白を切り詰めてしまうと入れにくくなっちゃうんですよね。


アタマのところをぐっと押し込むと、側面の革の部分のテンションがうまく働いて、本体だけがすっと出てきます。見た目はアレですが、使い勝手はなかなか。


最近作ったカメラのクッションケースとおそろいです。

◆

その2。

でもいかんせん、帆布は端の処理をきちんとしておかないとどんどんほぐれてバラバラになっていってしまうので、工程が増えがちです。

で、同じ使い勝手のものを革でやれないかな、と思って作ったのがこれ。


G3 iPadケースで考えた縫い方を使って、できるだけ横幅を抑えました。


丸っこくてかわいいです。

ただ横幅を気にし過ぎてぶ厚めに。
縫い目は本体と重ならないようにすべきでした。

上に載せて操作しても安定しているのはいいところですね。
とりあえずしばらく使ってみて、欠点を洗い出します。

◆

その3。

これは同じく木のカバーを買った人からの頼まれもの。(10時の方向です)


これも、G3 iPadケースで考えた原理を使ったものです。

自分で作っておきながらナンですが、わたしにとってG3というモチーフは、自転車バッグにしろiPadケースにしろ、アイデアの宝庫です。
厳しい制限や制約をくぐり抜ける過程こそ、最も偉大な創造の母であるが所以です。

一般的に言って、表現の本質というのはある厳しい規定を自らに課した上で、最も最良の形態と内実を探究してゆく過程にこそあります。

自らに課した何らの制約もなく、野放図な自由を満喫したようなものをわたしたちがただの自己満足に感じ、鑑賞に耐えうる質を備えていないとみなすのはそのためです。

さてこの前作ったG3 iPadケースは、わたしに無駄な余白を徹底的に切り詰めることを求めましたが、今回はそれをさらに一歩進めました。

この写真を見て、「あれっ?」と思われた方は、ひとつの表現を見た時にそれが作られた過程を追ってみることのできる人です。
革は扱いやすい素材なので、取り組まれてみてはどうでしょうか。認識さえしっかりとできているのなら、それを表現に移すための技術については、時間が解決してくれる問題です。



側面にはコバ(革を切り落とした部分)がありますが、入り口とフタの部分にはありません。どうなっているかわかるでしょうか。


iPhone本体を出し入れする時に、手のひらに当たる感触を優しくしようとして、このような形にたどり着きました。


内蔵マグネット式のフタを開けると、木製カバーの端が少し出ていて表情を添えるとともに取り出しやすくなっています。


この革ケースのオーナーは、iPadトラベルケースをお持ちの方なのですが、iPhoneにはインドカリン(深い赤色の木肌です)の木製カバーをつけておられるので、内張りまで赤にしたり柿渋染めにしてしまうとアクセントの色が重複してしつこくなってしまうため、生成りの革のままにしてあります。

その見当が効果的に作用しているかどうか、iPadとiPhoneをケース付きで並べたところを見せていただきたいものです。

今回の、コバを見せない作り方は色々と応用できそうなのですが、0.2mm単位で革の貼り合わせる位置を定めておかねばならないので、型紙をしっかり作っておかないといけません。他所では見かけない方法なのは、そこらへんに問題があるのかもしれません。

◆◆◆

ともあれ、先ほども書いたとおり、表現の質的な向上を求めるのならば、最も必要なのは、うまく革を切ったり縫ったり磨いたりするという<技術>よりも、どういう目的のための道具を作るのか、という道具そのものについての<認識>を高めること、なのです。

ひいては、<自分の認識のあり方>を高めることこそ!、なのです。

ところが多くの人は何のために、何を創るか、というところをあまりにも等閑視してしまっているので、その論理的強制として、他人の作ったものを無批判に横滑りさせて、既存のものをちょっと綺麗にしただけのものや、既存のものに要るか要らぬかわからぬような機能を足したりちょっとした色や形を加えたりといった、小手先の技巧を凝らしたものを作らねばならぬはめになるのです。

一流の人たちは、これから取り組もうとするジャンルで、世にはあれやこれやがあることはひととおり調べはしますが、それでも大事なことにはそれをいったん棚上げして、つまり「これから創る道具は何をするためのものか」、「これから創る作品は何を表現するためのものなのか」というゼロ地点にまで、借り物のコジツケ・亜理論ではなく自分の足で下りてみた上でものごとを考え直します。

しかしそうでない人たちは、世の中のあれやこれやをそのまま無批判に正面に据えてしまい、その前提やそれらの生成し発展し発展させられ「発展してきてしまった」(=継承してはいけないもの)過程をまったく見ようとしない!のです。

考え方そのものが根本的に逆を向いているのに、一流の高みになど登りつめられるはずがない、というのは当たり前の事実ではないでしょうか。

これは道具やデザインなどに限らず、文芸でも研究でも同じことが言えるのですが、この国の文化のあり方を憂う者として、やはりどうしても言わずにはおれない一事、であるのです。