2013/06/27

『道は開ける』の一般性はどのように引き出されたか (2):<論理性>はどのように二分されるか


(1のつづき)


今朝の記事では、学問の段階から森羅万象のあらゆる出来事をながめるとき、その<世界観>はどのように二分されるか、についてお話してきたのでした。

二分されたそのそれぞれは、どういったものでしたか?わからなければ、読み直してきてください。

簡単にでもわかったのなら、次に進みましょう。


◆<論理性>はどのように二分されるか

先ほどの<世界観>の問題と同じように、学問の歴史は、古代ギリシャ哲学、近代ドイツ哲学(あいだに中世スコラ哲学を入れてもよいですが、この二つに比べると数段重要性が落ちます)をはじめとした大きなジグザグの過程の中で、次第次第に<論理>的な段階を高めてきました。

論理というのは?と訊ねたい方は、簡単には目の前の事物や事象を貫く性質を引き出し、筋を通して説明できるようにするためのものであり、日常的な実感としてわたしたちが何かを「なるほど」と納得できるときには、この論理というものが含まれているからだ、とみなしてよいでしょう。

ただ一口に論理といっても、一見すると筋が通っているように見えて、実際にはそうでないものや、もっと悪くは相手に反論しにくい抜け道をついただけで現実には適用できないヘリクツであったりもします。また、実践家がよく口にする、「論理など何の役にも立たない。経験こそすべて」というのも、自分自身の経験から引き出してきた事物・事象の一般的な性質であると言えますから、これも程度はともかくひとつの論理ということになります。

さてこの、「こういう場合にはだいだいこうなる」、つまり現実から法則性を引き出したところの論理というものには、ここで挙げたように大きく程度の差というものがありますから、学問的な段階で研究をしたり実践をしたりしたいのであれば、いくら高めようとも高くしすぎることはない、ということになりますね。



このうち、歴史的に最高度の段階と見なされているのは、このBlogでも暗に陽に出てくる(「暗に」がどこにあるのか、を見ようとしてくださいね!)、<弁証法>、という論理のあり方です。

この考え方では、世界を常に変化し続けるものとしてとらえ、その過程を追おうとします。春は夏へと変わり夏は秋へと辿ることで一年がめぐり、麦は種から生まれ成長し、やがては死に至りますが、そのことによって新しい種を育むという、それらの過程を通して眺めて、そこにはどのような法則性が働いているのかを考えようとします。

蛇足ながらイメージを深めるために一般的な傾向を俯瞰すると、この論理の必要性を強く感じるのは、人間の感情や社会といった分野の複雑な問題を解かなければならない時が多いようです。

逆に数学や物理学といった分野では、現代においては公式化されきっている法則性も多いために、「人間は必ず死ぬ。アリストテレスは人間である。ゆえにアリストテレスは必ず死ぬ」的な形式論理がすべて、とみなされることが多く、いきおい弁証法などという曖昧なものは科学とは呼べない、とあしらわれることもあるようです。

ただこういった分野で扱われる対象にも、やはり大きな視野から見れば弁証法的な法則性は根底に流れていますから、体系性を確保しながら高度な研究を進める場合にはどうしても必要になってきます。

物理学という分野から引き出された論理(法則性の把握)を、たとえば恋愛を成就させるために用いるとどうなるか?と考えれば、結果が見事にその不足を証明してくれるでしょう。いわゆる理系出身者が、実験器具を扱うように人間をマネジメントしようとして失敗することが経験則としてよく取り上げられるのも同じ理由です。こういったことを見て取って、これらを揶揄するかたちで、<形而上学>な論理、と呼ぶのです。

ですから、ここで言う<形而上学>とは、弁証法的な論理を持つ側から、いわば侮蔑的な意味あいをこめて「論理が平面的で低い」ということを言おうとすることばであるため、実際にそう言われた当人たちが自らのことを形而上学者である、と言ったりすることはまずありません。また、形而上学というものを、単に思弁哲学を意味する場合もありますので、使用したり読み取る時は文脈に注意せねばならない言葉です。

ただそれでも、一般的に言って、世界を常に変化し続ける過程的なものとして追うのでなしに、<形而上学>的に考えるということは、世界を変化のない、静止したものとして考える、というところに特徴があります。

どもあれわたしたちとしては、アリストテレスが云々という三段論法のようなものを精神の問題や社会の問題に押し付けたうえで、「論理通りに進まないのはお前たちの理性が足りないせいだ!」などというわけにはゆかない立場にありますから、やはり、<弁証法>的な段階を維持しさらに高めてゆくことを要請されているわけであり、この場合にも先ほどと同様に、<形而上学>的な論理に滑り落ちない心がけが毎瞬・毎秒、必要とされているのです。



さて、ここまでを読まれた読者のみなさんは、たまに記事を書いたと思ったらこれまた難しいことを言いよって…と思われたでしょうか。この記事だけですべての事情をあまさず伝えるというのは不可能ですが、これがおさらいになっているくらいには追いついてきておいてもらいたいと願っています。

しかしそれでも難しいとは思いますので、お詫びがてら次回では、ここまでのお話を、日常的な問題を取り上げて、それぞれの立場から考えるときにはどうなるかを考え、それぞれの立場・考え方についてのイメージをより鮮明にしてゆきましょう。

そこで例えとして取り上げるお題は、
「個々人の持つ好きや嫌いは生まれつきかどうか?」
というものです。

それぞれの概念がわかりかけている人は、<観念論>、<唯物論>、<形而上学>、<弁証法>のそれぞれの立場に立って考えるとどのような答え方になるか、と腕試しに考えてみてください。


(2につづく)

『道は開ける』の一般性はどのように引き出されたか (1):<世界観>はどのように二分されるか


読者並びに学生のみなさん、


お待たせしてしまいました。

ここのところ個別の問い合わせが多いこともあって、不明な箇所をひとつひとつ並んで歩くように理解してゆく、ということをやっています。

こう書いてしまうと恐縮されるかもしれませんが、みなさんが現実にある精神や社会の問題に実際にぶつかって、それをなんとか解こうとすることを手伝うということは、わたしにとってこれ以上ない勉強になりますから、無用なお気遣いとお心得ください。個人的な事情についてはもちろん他言しませんので、ご安心ください。

ただ、ある種の問い合わせにはお伝えしておいたとおり、内容のない罵詈雑言のたぐいに返事をするのは3度までと決めてあり、その姿勢が改めてもらえない場合、それ以上は無視するよりほかありません。
そういったものに心揺るがされるようなヤワな鍛え方はしていませんので実質的にも無用ですし、なによりご当人のためにもなりませんから。

自分で表現したものを、いったん目の前においてみたうえで、「これを受け取る人はどう感じるかな?」と考えるという認識の持ち方は、身につかないうちは困難であることもわかります。しかしこれなくして、ひとりの人間は社会性をまともなかたちでは持ち得ないのです。

社会性など要らぬという開き直りが脳裏に浮かんだときには、では人間とはどういうもので、どう生まれどう育つのか、どう生まれさせられどう育てられるのか、という問題を頭の片隅に持っておき、自分の過去を振り返ったり折にふれて思い出して考えてみられることです。

これは表現するときの思いや考えをいったん棚上げした上で、他人の立場になって自分の表現を改めて見る、ということであり、これがすなわち<客観視>という、認識のあり方です。学者や理論的実践家に芸術家、ひろく文化人として生きるのであれば、その実践に直接影響を与えるとともに、それに相応しい人格たろうとするならばなおのこと、いのいちに必要とされて良いはずのものです。時間はかかっても、思うところが出てきたときには自分の言葉でその旨伝えてもらいたいものです。



さて以下は、先日行われた勉強会での議論の内容を、ひとつの流れとして読めるように整理してゆくものです。ここでの内容も、<客観視>と関わることですので参考にしてください。

まず、毎度のこと前置きが長くなりますがそれでも、数回分の記事を使ってお断りしておきたいのは、「研究会」ではなくて「勉強会」とある理由について、です。

あくまでも学問的な段階を目指して研究をしようと志すのなら、その前段階として論理を見る目を養っておかねばならないのですが、その「論理を見る目」というものは、何度も何度も目の前の現実や本の中の出来事(=対象)から引き出す訓練をしておかないと、どうしても高まってゆかないのです。

そしてまたここで重要なのは、この何度も何度もの繰り返しというのは、あくまでも「正しい道筋で」繰り返さねばなりません。
それを終えられたと判断したときには、遠慮なく「勉強」ではなく対等な立場で様々な分野の「研究」を持ち寄る場、と言うことができるということです。

この前の一連の記事のうち、とくに「人を動かす」一般論はどう引き出すか (2)において厳しくお伝えしておいたことは、整理して言えば実のところ、観念論への転落を防ぐことと、形而上学への転落を防ぐこと、だったのでした。

これがわからない読者の方は、「何をそんなに目くじらを立てることがあるのか?」といぶかしく思われたことでしょうから、まずは少し説明することにしましょう。

さて、今回の議論で中心となってくれたのは、このBlogでは文学評論で登場してもらうノブくんと、先ほど述べた記事、少し前に『人を動かす』の一般性の導出の際に、果敢にも課題に挑戦してくれたOくんです。

いま改めて、その記事の際に強調しておいたことは何だったでしょうか、と聞けば、「一般性というものは、一般的すぎてもいけないし、具体的すぎてもいけない、ということですよね」という返事があると思います。ごく簡単に常識的な範囲でまとめればそれでもよいのですが、学問的な段階から言えば、この答えではいけないのです。こここそが、今回取り組んでもらいたかった大きな問題なのでした。

以下、少し長くなりますが、下線や傍点などの強調ならびにベン図などもあえて用いませんので、必要ならば各自工夫して基礎的な概念について理解していってください。

ではその、論理というものを学問を目指す段階へと引き上げる際に浮上してくる問題は何か?と言えば、ひとつに<世界観>の問題と、もうひとつに<論理性>の問題、ということになるのです。


◆<世界観>はどのように二分されるか

はて<世界観>とは?と言えば、文字通り「世界をどのような立場で眺めるか」ということですが、これを正しくわかるには哲学史を振り返らねばなりません。これには2つの世界観があり、あくまでも歴史的・過程的に見ようとすれば、一方から他方が生まれ独り立ちするようになると、それは生みの親である一方と対立する関係となり、やがて互いにせめぎ合い、影響を与え合い渦巻く中でお互いの世界観を明確にしてきたという流れがあります。

ここを説明するととても大きく横道に逸れてしまうので、上の伏字に何が入るかが分からなかった人は、まずはもう一度三浦つとむ先生の著作を読みなおすことでおさらいしてもらうとして結論だけ言うことにすると、学問の世界には歴史的に、それを大きく二分してきた二つの世界観があった、ということを思い出してもらいたいということです。それは、<観念論>と<唯物論>の立場なのでしたね。

わたしたちはどうなのかと言えば、あくまでも現実を揺るがぬ対象として眼前に据え、そこから論理を引き出し理論化した上で体系立てて理論化し、最終的には現実の問題をこそ高度に解くための指針としようという立場にありますから、これはとりもなおさず、<唯物論>という世界観に立って自らの専門分野を探究しようとしているわけです。



しかし実際に、学問とは何かを学問の歴史から学んだうえで、学問的な段階を踏み外すことなく研究しようと志するのであれば、アレッ、これはもしや、とおぼろげながらでも気づけるはずのことがあります。

それというのは、この二つの世界観は、「ワタシは精神が大事だと思うからこっち」、「ボクは精神はモノではないと思うからあっち」、といった感性のレベルで選択してしまえるようなものでは絶対にあり得ない、という非常に厳しい事実です。

さらにもしここで、唯物論の立場に立って自分の道を探究していこうということになると、現実をありのままに見ると言ったところで、あまたある事実のうちどこから・どのように論理を引き出せばよいかが皆目見当もつかない、というさらに厳しい現実が待ち受けているのがわかるでしょう。

このBlogの記事の中で、文学を実践・専攻するノブくんという人物がわたしから、「現実を論理的に見て、そこから構造を引き出すということは、あらかじめ用意した物事の見方を現実に押し付けた上で好き勝手に解釈するということではありません!」と、何度も何度もこれでもか、というほど厳しく指導されてきたことを見てこられた方もおられるでしょう。

あの指導の繰り返しがどうしても必要であったのは、まさに学問レベルの実践にはこういった落とし穴に嵌りつつある自らを客観視し得る能力をつけなければならなかったからであって、一言で言えば、唯物論の道を歩いているつもりが、なんらかのきっかけで少しでも足を踏み外すといとも簡単に観念論になってしまう、という恐ろしさがあったからなのです。

机の上だけで勉強ばかりしている人は、この恐ろしさを現実の構造に即して脳裏にありありと浮かべることがとても難しいと思います。

そういう方は、雪山を進む一歩一歩の足元の先に、どのようなクレバスが待ち受けているかを、ありったけの五感を総動員した集中力・注意力でもって歩み「続ける」ことの厳しさ、とでも例えればイメージしやすいでしょうか。(これとは逆に、身体を動かす実践を趣味にしろ仕事にしろ取り組みつつ座学もこなすという人は、理論が現実離れしたときになんとなくでもあれっ、これは何か変だぞ、と気づけることが多く、地に足の着いた論理を作りやすいというのも、身体と精神の浸透のあり方を考え始めるときにはとても大事な気付きです。より進んで、思春期を座学・受験勉強一辺倒の生活で過ごすことの危うさも考えてみてほしいものです)

こういう問題があるというのに、ほとんどの方は、学者としての死に直結する落とし穴がそこらかしこに空いている、とは考えてもみなかったのではないでしょうか。そうでなければ、ゾンビやミイラが学問の世界を闊歩している理由が説明できませんので…。



今回の記事は、基礎的な事項も書いてあるので、検索の利便を考えていつもより節を多めに区切ることにしましょう。

次回の記事は、今日の18:00には公開される予定です。


(2につづく)

2013/06/04

「人を動かす」一般論はどう引き出すか (5)

(4のつづき)


前回までで、D.カーネギー『人を動かす』という、内容としては誰にでも読める平易な本を取り上げて、その一般性を簡潔な体系性をもったかたちで引き出す、ということに、学生のみなさんとともに取り組んできました。

意外なほどに手こずった方が多かったようで、きっかけとなる記事を含めれば計6回にわたる記事になりましたが、それも今回でいちおうおしまいです。

おしまいになったということは、一定の答えが出た、ということですね。



さて、その答えをご紹介する前にしっかりとことわっておきたいのですが、わたしたちがここまで取り組んできた課題、「人を動かす」ことの一般性とはどういうものか、という問題は、その答えだけを見れば、「なんだこんなことか」というものでしかありません。

それだけに、問題を解いてくることを求められたり、自ら進んで問題を解いて叱られたりした人たち(これは立派です)とは違って、答えの像を漠然としたところまでしか突き詰めて考えずに、しかも答えを見た途端「ああやっぱりな、そんなことだろうと思った」ですませてしまう人がとても多くなるのでは、と恐れをふくんで予想しています。

実のところ、ものごとを客観視できない人というのは、こういった経験を続けてきてしまったことの結果であるのであって、これはすなわち、自らの固定した考え方を色メガネ的に念頭に置いた上で、それを通して見える対象・事象を、自らの意見を裏付けるものとして「のみ」解釈し続けた結果、世のあらゆる事柄や考え方を自らの正しさを証明する素材としてコジツケているにもかかわらずそれを自覚できないという、歪んだ認識を創りあげてしまっているということです。

たとえば弁証法のほんの入口を紹介したあと数ヶ月たらずで、「すごいすごい、これがあればなんでも切れる!」とばかりに、家族や友人たちを論破(?)したとする成果を報告してくる人がいるものですが、表に出すか出さないかはさておき、はっきり言えば、これは勘違いもいいところであり、こういう人にとっては、弁証法との出合いはかえって不幸しかもたらさないものです。

みずからの正しさを信じて疑わない人にとっては、ものごとの見方に弁証法を採用するのも、相対主義を採用するのも、経験主義を採用するのも、はたまた構造主義や記号論やプラグマティズムを採用するのも、ともかく、「どうでもいい!」、ことでしかないのです。だって、どれを採用しても、結局「自分は正しい」ことがあらかじめ運命づけられていることになっているのですから…。

これは、弁証法がわが身の認識として技(わざ)となる研鑽過程は、数カ月やそこらでは到底不可能といった事実のほかに、こういう人に、「では弁証法を使ってどんな問題が解けましたか?」と聞いても、「とにかく凄い」、「ずっと自分もこういう考えをしてきた」だとかなんだとかいうそれこそインプレッションならぬインスピレーションレベルの、曖昧模糊とした返答しか返ってこないことで明白です。もし弁証法を採用するにしろしないにしろ、ある考えが正しいかどうかという判断において絶対的に必要なのは、たとえ身近なことであっても、それを使ってなんらかの問題を解いてみる、という姿勢です。



オリジナリティ溢れる思想を考えつきたいだけであるのならともかく、あくまでも現実に則して、つまり唯物論の立場に立って事物の探求を進めてゆくのであれば、そこで求められるのは、ア・プリオリに(=先天的に、前もって)設定した観念を現実へと押し付けて解釈するという姿勢ではなく、必ず、現実のあらゆる事物・事象に共通する性質を一般化してつかみ、その根底に潜んでいる構造をこそ導き出す姿勢であらねばなりません。

こういうと必ず、まったくの客観などというものは存在しない、よって解釈と構造の理解とやらには何らの違いもない、といった日和見的相対主義者が茶々を入れてくるものですが、解釈と構造の理解がまったくに異質のものであることは、そのそれぞれの考え方に基づいた理論を現実へと適用した時に、他でもなくその実践的・現実的な可否によって、否応なく眼前に示されることになります。

こう言うことを通して何を伝えたいかといえば、ものごとを見る目を「本心から」磨き上げてゆきたい、というのであれば、まずは、ひとつの問題にたいしてしっかりと独力で答えを導き出した上で人の出す解答と照らしあわせてみて、どちらがより事物を鮮やかに照らし出しうるのか、を「客観的に」比べてみなければならない、ということです。

そうして、そこでAとBの意見や考え方を戦わせてみた上で、どう検討してもBのほうが現実の構造を正しく捉えているのだと判断できる場合には、それが自分のものであろうとも、たとえ他者のものであろうともそれが誰のものであるかに関わりなく採用し、自らの不足を認める、ということが必要です。わたしと直接議論していれば、権力的にでなく論理的に「認めさせられる」ことになりますが、そうでない人も、自らの自省心でそれを補ってゆかねば正しい前進にはなりません。

自分のオリジナルの考えを構築して、机の上で世の問題を切りまくっているだけならともかく、その考えでもって成心なく、世の人々の心身を治したい、本質的に向上させたい、という目的意識を持って問題に取り組むとしたらどうなるか?という観点を、自らの人格にかけて少しでも持って欲しいと思います。

もしたとえばあなたが、「念を込めれば腰痛でも心臓病でもなんでも治る」という考えを持って医者になるのだとしたらどんなことが起こるか、と。いい加減なことをしては法律で罰せられるからいけない、というだけではなく、それよりも、自らの踏み外しや至らなさを客観視できなければ絶対に成長など望めるはずもない、という一事が問題なのです。

心臓の病と違って、誤った考え方に染まったとしても人間は直ちに命を奪われるといった目に見える失敗を引き起こさないかもしれませんが、人の人生に影響を与えるということは、外傷がないからといって軽視されてよいものでは決してない、そんな甘ったれた姿勢のもとの考えなどは、歴史という歯車によって近い将来粉々に粉砕されるのだ、ということをぜひにふまえておいてほしいと願ってやみません。

学問は、いい格好をするためのツールなどではありません。現実の問題を正しく照らし正しく導いてゆくために、過去の人類が総体として、たとえようもない努力と犠牲を払って磨き上げてきた最高の方法論です。ですからそれに関わりそれを使おうとする人間は、それに見合った自省心と、それに相応しい志・夢をまずは持ってください。

さて、以下の答えは、その覚悟に見合うものになっているでしょうか。


◆ノブくんのレポート
人を動かすーD•カーネギー 
 あなたが上司や部活のリーダーなど、人を先導する立場に立った時、或いは自分とは違う立場の人間と意見を交わしている時、部下がなかなか自分の言葉を受け入れてくれず困ってしまった、話し合いが感情的な口論へと発展していってしまったという経験はないでしょうか。かく言う私自身も、昔大学のサークルで副部長をつとめていた時に、部長と部活の運営について話していたにも拘らずどういうわけか激しい口論になってしまったこともありますし、現在でも似たような悩みを抱えていました。
 と言いますのも、私は現在介護士として暮らしの生計をたてているのですが、ある利用者さんが私を含めた職員の誘導を促す言葉(私たちの世界ではこれを「声かけ」と呼んでいます)をなかなか聞き入れてくれない時があり、その方に右へ左へ左へ右へと振り回されていたのです。半ば途中でその方に振り回されることも仕方がないのでは、と考えてしまうこともありました。
 しかし私は問題を客観的に観察し、「声かけ」に工夫を凝らすことで少しずつ問題を解消していきました。その方自身も(私はその場にいる限りではありますが、)今ではより穏やかな毎日を過ごしているように思います。
 ところで私が上記の問題に対して解決していった過程には、今思えばこの『人を動かす』の一般性が大きく横たわっていたのです。そこで今回は、若輩者の数少ない経験を踏まえながら本書を論じていきたいと思います。
 
 はじめに結論から言いますと、本書では〈人に意欲的に動いてもらうよう、相手の欲求を満たす〉と言う事が論じられています。 
 この一般性というものは、フローレンス・ナイチンゲールの『看護覚え書き』の一般性にならい、抽出しました。この著書は彼女の看護経験から看護士が何を扱っているのか(対象論)、それをどのような状態にもっていくのか(目的論)、またどのようにそうするのか(方法論)、という看護のあり方を一般化し、それに基づいて衛生看護を中心とした方法論が論じられています。そしてその一般性を下記に記しておきました。
〈生命力の消耗を最小にするよう、生活過程をととのえる〉
 次に私はこれらを対象論、目的論、方法論に分け、この形式を本書に適応させていったのです。
 
対象論→生命力
目的論→消耗を最小にする
方法論→生活過程をととのえる
 
対象論→人
目的論→意欲的に動いてもらう
方法論→相手の欲求を満たす
 
 ここで私が読者の方々に注意して頂きたいのは、この対象論にあたる「人」というのは人類すべての人々を指している訳ではありません。本文に「およそ人を扱う場合に、相手を論理の動物だと思ってはならない。相手は感情の動物であり、しかも偏見に満ち、自尊心と虚栄心によって行動するということをよく心得ておかねばならない。」(p.28参照)とあるように、理性的な人々は対象としておらず、感情的な人々、ごく一般的な人々を対象として書かれているのです。
 そして私が携わっている利用者も、否、特に心身の崩壊が目に見えはじめている彼、彼女らは、通常の人々とは違い、理性による抑制がきかず、より感情的で落ち着いて考える事ができない人々と言わざるを得ません。
 
 次に、こうした人々に私たちはどのようになって貰いたいのか、つまり目的論について考えていきましょう。安直にタイトルのみを見れば、「動かす」ということに終止してしまうます。しかし本書には他にも、「人に好かれる」、「人を説得する」、「人を変える」といった同じ概念の項目がある事は見過ごせません。そしてこれらの項目は各その中にある章を見て察するに(笑顔を忘れない、心からほめる、議論をさけるなど)、方法論の束になっているようなのです。またそれらは人に強制していない、結果的に他人が自分たちの思惑通りに動いた、誰かの意思によって動いているのではなくその人の意志で決定し動いている、という点で共通しています。こうした点から、本書で述べられている目的というものは、相手に「意欲的に動いてもらう」ことにある、という事が理解できます。
 ところが現実はなかなかそうはなりませんね。何故なら私たちの要望の中に、相手が不快に感じたり相手の立場や環境がそれを拒否させてしまったりするからなのです。本文の中にも、ショップ店員という立場から返品お断りを客に厳守させようとする女性や、こちらの強制的なもの言いに言う事を聞かない子供などが登場します。
 私の場合もやはり同じでした。職員という立場から、私たちはその方につい強いもの言いで強制したり、こちらの都合ばかりを相手に述べてしまっていました。ですから結果的にその方はほんらい私たちがその方に望んでいる姿を拒否するばかりか、一番望んではいない行動(他の利用者を非難する、暴言を吐くなど)をとっていくのでした。
 ではこれらの人々をどのように目的どおりの人に近づいてもらうのか、その方法について考えなければなりません。それは本文に明確な形で記されてありました。
「人を動かすには、相手の欲しているものを与えるのが、唯一の方法である。」
 今思えば、私はこれを読む以前に、問題の利用者さんに自然とそれを行っていたのです!まずその方が何を望んでいるのか、冷静に日頃の台詞を考えノートに書き出しました。次に相手の不快な感情を起こさせる言葉は極力さけるように努めていったのです。例えば、「どうしてそういう事をするんですか?」や「私たちのいう事をきかないからそうなるんです!」といった台詞がそれに該当します。
そして相手に自分がその方を気にかけている事を言葉や仕草で表現していきました。これは本文で言えば、1-2「重要感を持たせる」にあたります。その方は読書と映画の話、家族の話が大好きでしたので、私は興味ありげに何度も同じ話を投げかけました。途中自分が話に飽きないように、質問の内容を変えたり、話す感覚をあける工夫をしたこともあります。これは、2-1「誠実な関心を寄せる」の項目にもありました。このように私はあらゆる方法を尽くして相手の欲求を満たし、現在ではお互いが不快ない関係を築けていけています。
 人を動かす為には、ただ自身の望みを強要するのではなく、逆に相手が自分に何を望んでいるのかを知り実行する事こそが重要だったのです。

◆わたしのコメント

読者のみなさんは、ノブくんの出してくれた一般性と比べて、よりよいものを引き出せたでしょうか。

わたしはこのレポートは、控えめに言ってもなかなかに良く書けていると考えているのですが、一般論が正しく引き出せていることに加え、そのうちに含まれる3つの各論である対象論・目的論・方法論について正面から向きあい、「自らの実践に照らしながら」例示することで読者にとっても説得的に書ききっている、ということにあります。

なお、彼は「5月中」という締め切りをしっかりと守ってくれました。これも評価すべき点です。

さて内容を簡単におさらいしておくと、確かに論者の一般化した通り、この本の対象としている「人」についての人間観というものは、理性によって説得されれば自ら動いてくれるという人物でなしに、ごく一般の、論理ではなく感情で動く生き物としての人間です。

さらにその人たちにどうしてもらいたいからこの本を書いたのかという目的から言えば、「人がすすんで動き」、「人が好いてくれて」、「人が言うことを聞いてくれて」、また「人がより良く変わってくれる」ことを主眼においてのものでした。
これらを一般化したときには、なるほど「意欲的に動いてもらうよう」という目的論で間違いではなさそうです。

さいごに、ではそういう目的を持って実際に人に動いてもらうにはどうすればよいか、という方法論については、本書の各所に、「重要感」、「誠実な関心」、「笑顔」、「名前」、「喜んで答えるような質問」、「心からの賞讃」とあるとおり、これらを一般化することによって「相手の欲求を満たすものを与える」としてよいことになります。

しかも、本書の根底に潜んでいる一般性は、自らの実践で思い当たるところがある、ということですから、この時点で、一定の正答となっているであろうことは既に示されているといってもよいでしょう。



残る問題は、細かな字句の問題となりますが、わたしが出した「人を動かす」一般性は、以下のようなものでしたので、論者のものと比べてみてください。

「人に自発的に動いてもらうよう
相手の欲しているものを与える」

対象としているものと、それが持っている性質については論者と一致していますが、その目的については、「人が本当に動くというのは、他者からの強制ではなく自らすすんで動くことである」という本書の論調から、わたしはそこを「自発的に」と表現したものでした。

論者の用いた「意欲的に」でも間違いではありませんが、その場合には、即物的なアメに釣られて動いた場合も含まれてしまいますから、あくまでも本心から、というニュアンスを込めてより焦点を絞るならば、「自発的に」とするのがより適切だと言えないでしょうか。

また、方法論についてはほとんど同じように見えますが、論者の用いた「欲求を満たす」という表現は、これ全体が熟語としての性格が強いために、「欲求を」と「満たす」が切り離しにくい関係にあり、「(人の)欲求」という目的を論じる時に一定の制限がかかってしまうことから、より単純に、「欲しているものを」「与える」と分離しやすいかたちにするのがより適切であると言えるのではないでしょうか。

次回は2週間ほどをかけて、同じ著者の『道は開ける』の一般性を出してもらいますから、参考にしてください。

わたしの作ったマインドマップに、自筆でメモを書き加えたものも公開しておきます。


なお、論者は看護の実践を理論化したのはナイチンゲールである、という言い方をしていますが、実際には、ナイチンゲールが磨きあげた看護実践を、薄井坦子が科学的に理論化した、というのが正しいいきさつですから、その看護学の発展の過程性をとらえそれを土台としながら、自らの実践をより高めていってもらいたいと思います。

そのためにも、ぜひともここで、<一般化>を論理的な技として創りあげてゆきましょう。


【正誤】
・暮らしの生計をたてている
→「暮らしを立てる」と「生計を立てる」は重複しているようですから、どちらかでよいでしょう。

・ここで私が読者の方々に注意して頂きたいのは、この対象論にあたる「人」というのは人類すべての人々を指している訳ではありません。
→冒頭の「頂きたいの」にある「の」は、形式名詞であり、「もの」の短縮したかたちであると考えられるので、文章の最後も体言で、「指している訳ではないという「こと」です。」と締めねばなりません。

・「動かす」ということに終止してしまうます。

・現在ではお互いが不快ない関係を築けていけています。
→現在ではお互いが不快「の」ない関係を「築いていけています」。


(了)

2013/05/31

本日の革細工:自転車リアバッグG1R (4)


(3のつづき)


フェイス部が決まってくると、これから作ろうとしているものの全体像が、アタマのなかでとても明確なものになってきます。

創作活動においては、理想の像、つまり、「こんなものが欲しい、創ってみたい!」という像が明確になればなるほど、「今は頭の中にしかないそれを、一刻も早く現実の世界に出してみたい」という思いが強まります。

ここでもやはり、目的像を持って対象に働きかけそれを作り変えようとする、という人間特有の労働のあり方が根本に現れてきます。

前2回の記事でも述べたとおり、ものづくりというものの本質は、実のところこの、「アタマの中の像」について、何を、何故、どう作るのかということをどれほど明確にできているか、にかかっているのです。

この像を明確にするにはどうすればよいか、といえば、これは机の上で考える前に、それが現実においてどのように使用されるのか、が、素材としてアタマの中に持てているのでなければいけません。

ここを踏み外して、像とはつまりアタマの中での操作であるから、アタマの中でのみ完結してしまってよいという誤った前提を反省しないでいると、今度はその像を現実の表現へと移し替えた時に、現実にはそぐわないものになっているのが必然、ということになってしまうのです。

たしかに手先がある程度器用であれば、つまり<技術>を持ってさえいれば、表向きのかたちを整えることはできるものですが、その<技術>というものは、出来たものがどれだけ、現実的な道具としての目的に叶いうるかということは、まったく保証してくれないのです。そこを保証するのは、認識、です。

◆◆◆

熱心に作っていたら写真を撮り忘れてしまったのですが、バッグのマチをつくったところはこれ。


キャンバスバッグのところでも書きましたが、この帆布は三号帆布という、普通はバッグには使わないくらいの厚手のものです。

しかし厚手なだけあって、糸の太さも相当なもので、帆布を切り出したそばから、いきなり1mm以上の太さの糸がほつれてきたのには少々焦りました。革素材を扱う時とは違った心配りが必要です。

革細工で1mm変わると、縫い目も変わってくるだけに型紙も作りなおさなければいけなくなりますので。結局、ミシンでほつれ止めをして、事なきを得ました。

◆◆◆

続いて取っ手。


意匠を合わせて、ペアであるG1と同じようなものを作ります。

取っ手の構造はバッグにとって重要な部分ですが、これはあくまでも自転車バッグですから、やはり「過ぎたるは及ばざるがごとし」で考えてゆかねばなりません。

素人意見だと、せっかくアルミを加工できるのだから取っ手の中にもアルミを入れてはどうか、という意見が出てきそうですが、世のバッグにそういうものがほとんどないことにも、それなりの理由があります。

これはわたしも試してみたことがあるのですが、ひんぱんに握ったり駆動する部分に金属を巻いた革を入れると、革の裏側のざらざらが金属のエッジと擦り合わされて、非常に早く傷んでしまうのです。

同様に、縫いはしを金属でカシメてしまえばほつれなくてすむのではと思えてきたりもするのですが、これも、金属と革の接点だけに力を集中させることになってしまい、オーバーホールしても直せないダメージを他でもない革に与えてしまいます。

基本的に、糸は緩むもの、革は伸びるもの、ですが、だからこそ、全体としてはそのかたちを保ちやすい性質となっていることを忘れてはいけません。
台風が来た時に、街路樹はたわみ、しなってやり過ごすことができるのに対して、あれほど頑丈に見える電信柱は一度折れては二度と戻らないでしょう。あれと同じです。(これは現象的にだけでなく、地球の歴史をたどれば、という意味で論理的にも同じ、とみなしてよいものです)

◆◆◆

ただ固く丈夫にすればよいというわけではないのは、金属の材質にも関わってきます。

レザークラフトに使われる金属は、ほとんどが真鍮です。見た目にはシルバーのものも、真鍮にメッキをかけたものが多いようです。

わたしは以前は、革の質感と真鍮の素朴さがよくなじむので定番になっているのかと、見た目だけで判断していましたが、今ではこれは本当は、強すぎず柔らかすぎず、革を痛めにくい適切な強度を保っているからなのではと考えるようになりました。

それとは別の要因として、真鍮は金属のなかで、いきなり破断しにくい、酸化しにくい、といったバッグにとって望ましい側面もありますね。

今年は金属を扱い始めて、その奥の深さに驚いているのですが、こんな問題は思っているよりもたくさんの要素がからみあっています。視点を変えて人間の身体の構造から類推するとき、たとえば腸管の一部だけを見てとっても筋肉の収縮が異なる走行性を持った部位があり、互いが密接に関わりあうことで全体としての目的に見合ったはたらきをしていますから、単にバッグを作るにあたっても、素材が違えば紋切り型に答えを出せるはずもないはずのものでした。おしまいになってそのことに深く気付かされましたが、今では当初の見立ての甘さを反省するばかりです。

これは単純な例ですが、たとえば、ここに同じ太さの棒がある時、中身が詰まっている棒と中空のパイプでは、どちらが曲げに強いでしょうか?また、鋳物の金属リングと、金属棒を曲げて頭とお尻をロウ付けしたものとではどちらが変形しにくいでしょうか?

◆◆◆

これらの問題を論理的に解いたうえで実践的に使える認識にすることはいまだ叶わず、ですが、そういった観点を持ちながら、自転車バッグとしての道具観に照らして素材を選び、加工し、できたものがこれです。


コンチョの横のリング(丸カン)は、バッグの背面から前に出てきた革ベルトのほうにつけられているのですが、ここは鋳物のリングを選びました。

「ということは、さっきの問題は、金属棒を曲げてロウ付けしたものよりも鋳物のほうが強かったということかな?」と思われるかもしれません。

わたしも両方取り寄せて強度面を検討したのですが、ここでは見た目の綺麗さ、つまりロウ付け部分の盛り上がりの無さ、を選びました。

ただ、それだけで選んだわけではもちろんありません。道具としての機能を満たすかどうか、という原則はやはり満たしておかねばなりませんから。

ですからバッグ全体の強度が、内容物を入れて安心して持ち運ぶには信頼性がないとみなしたときには、当然に強度を増すことを選んだはずです。しかしそれよりも、ベルト以外の部分、たとえば口金がきつくもなく緩すぎもせずぴったり合わさっていること、帆布の強度が十分であることなどによって、バッグ全体の強度が確保されていることが確認できましたので、少々イロを出してもよいだろうと考えたのです。

またその他に、金属だけが強くても革のベルトが先にまいってしまっては意味がない、という判断もありました。
もっとも、鋳物(鋳造)だからといって、10kg前後の内容物と自重でそんなに容易くは参ってしまったりはしないのですが。

◆◆◆

唯一心残りがあるとすれば、とにかく部品がなかった、ということに尽きます。

いくつか選択肢があれば、その中から自転車バッグとしての目的に叶うもの(先ほど見てきたとおり、「最も強いもの」ではありません)を選べもしたのですが、たとえばバッグ天板の両サイドにある「手カン」(ドロップハンドル、と言ったりもします)という金具は、種類そのものが少くな、届いてみるまでネジの長さも径もネジの巻きもわからない状態でした。


しかも今回はどれも長さが足りず、しかもネジの巻きが規格外であったため、どうすることもできず、苦肉の策としてまだ使えそうなものを、革を削って埋め込むことにしました。


今回必要だった足の長さは、アルミ2mm+革2mm+革2mmでしたが、実際に使える足の長さは4mmほどしかありませんでした。いったいどんな用途を想定しているのかなんとも不明ですが、ここらへんは自分の足で部品を探すか、もしくは作るかせねばならないようです。ここらへんは、試作品の面目躍如ですね。

◆◆◆

口金の支点になる金属も、実は見つからなかったのでいまのところネジを使っています。


タブラーリベットという金具もあるようですが、ほかにももっと足長のカシメがあればなあ…という部分もいくつかありますので、これからも部品探しが続きそうです。

そういえば、この写真を見ていて思い出したことに、ベルト部に穴を空けようと思っていましたが、忘れていました。というより、何mm間隔で空けるべきかを考えすぎて疲れてしまいました。まあこのままでも機能的には支障はありません。他に穴を空けてもたぶん使わないので。同じようなバッグを作るときまでに決めねばいけませんね。

ベルトがやたら長いのは、自転車の後ろにつけるバッグだからですね。常用のバッグならもう少し短くしたほうが取り回しは良いでしょう。

◆◆◆

キャンバス(画板)バッグのときにはすっぴんの帆布を(くり抜かずに)こじ開けて通していた金具は、今回も同じ手法で実装していますが、裏面には当て革をつけて、これでもか、というほど丈夫にしてあります。


◆◆◆

自転車に載せたところを見てもらいたいところですが、日中になかなか時間が取れず、家は狭いときて写真がありません。

それは後日として、さいごに2枚ほど。


バッグ内は、A4の書類を少し曲げれば入る程度です。常ぼんぼん太ももに当たってきます。これらもやはり、自転車バッグという道具の目的に規定されてのものです。常用のバッグならもう少し大きく、薄いものの方がいいでしょう。

いま創作活動を学ばせてもらっている先生がとても気に入ってくださっていて、これと同じデザインのもっと大型のものを作ってほしい、これ持って海外に行きたい、とおっしゃってくれているのですが、先述したように市販の金具では大きく力不足であるのが大問題です。そこが解消されればぜひ、とお答えしているのですが。


いちばん最後は、初代G1と並んで。


どちらも試作として作ったもので、左のG1を作ってから2年経って出てきたのが今回のG1Rです。

進捗としてはまあまあ、というところでしょうか。

今回の収穫は、金属単体・革単体・帆布単体という問題ではなく、それらが組み合わさった時に全体としてはどういう構造になるのがもっとも相応しいのか、という問題が、想像していたよりもずっと大きなものであることがわかったことです。どれかを丈夫にし過ぎると別のところが痛み、といった「あちら立てればこちら立たず」があちこちで連鎖的に起きてくるため、「過ぎたるは及ばざるがごとし」のための弁証法がどうしても必要とされてきます。

探究がより深まった暁には、すでにある口金のあり方をはじめ、「バッグを開ける」、「バッグを運ぶ」、「バッグにものを入れる」ということなど道具としてのありかたの根本そのものから見なおしてゆかねばならなくなってくるでしょう。これはわたしの探究の仕方のせいかもしれませんが、ここまで来るとやはり、最も大きな問題は表面上のデザインにあるのではなくて、扱う素材とそれに相応しい構造をいかに正しく認識するか、という一点に収斂してゆく必然性があるように思われます。

道は未だし、前進あるのみです。


(了)

2013/05/30

本日の革細工:自転車リアバッグG1R (3)

(2のつづき)


前回までは、久しぶりの更新ということもあり、なかば無理矢理(?)、ひろく芸術一般における創作活動の過程的構造についておさらいしてきたのでした。

この把握なくしては、この前に質問をくださった方のように、道具や作品の作り手の立場に立ち、我が身に繰り返すかのごとく創作過程をたどるということなど夢のまた夢になってしまうものですから、ものづくりに関わる方や、どんな業種でもひろく創造的な仕事をしようと考えている方はぜひに押さえておいてもらいたいと思います。
(参考:「本日の革細工:キャンバスバッグ」についてのお便りをいただきました

表現というものの過程性をふまえておくということは、直接的に創作活動にたずさわっている人たち以外にとっても、非常に有意義です。

たとえば、一般には芸術・創作活動とは無縁と思われる武道やスポーツの世界も、やはり大きなくくりでみれば表現の問題が出てきます。

表現一般論を押さえておけば、そういった現場での指導において、何回教えても教えたとおりにできない人間を目にしたときには、「お前は何回教えても一向に上達しないな、やる気がないのか?」と言う前に、せめて、指導者自らが、その被指導者の「どこに」問題があるのか、という観点を持つべきであることがわかります。

ここで「“どこ”とはどこのことだ?」という向きには、前回までの記事をもう一度読んでもらわねばなりませんが、整理して言えば、まずい表現が結果として出てきている原因は、大きく分けて二重の構造を持っているということです。

武道やスポーツの場合、一見すると技術の問題ばかりが目につくために、多くの人は、うまくいかない理由を技術の面だけに帰しがちなのですが、わかっていてできない場合と、自分のわかっていなさ加減がわかっていない場合には、指導内容が大きく違っていてしかるべきなのです。

技や走法の像が正しく認識として受け止められていない場合に、「何回教えてもお前はダメだな!」と言ったところで、当人にとっては自分の認識そのままの表現ができていると思われているのだとしたら、当人の中では「何故これでダメなのだ、言われたとおりやっているのに!」という思いが強まるばかりでかえって逆効果ですらあります。

これはつまり、被指導者の失敗の原因が技術にあるのか、認識にあるのかという問題であるわけですが、これを見抜き特定し導いてやらなければならないのは、当然に指導者の仕事です。ここをハウトゥ的にしか考えられない場合、「3回教えてもダメなら叱りつける」といった、現象一辺倒・紋切り型のルールや罰則を設けてしまいがちになっているはずです。

ほかにも、表現一般論をふまえておけば、実際には悪筆な人ほど自分の字に自信があるのはなぜか?といったことに類する問題もあっさりと解けるものです。ああいった問題の構造を見ようとすることなくいきなり当人の性格や気質だけに帰するのでなしに、やはり認識と表現の持っている構造に立ち入って検討しなければ、まともな実践になりようもありません。

大事なのは技であり表現であり実践です。それは間違いないのですが、それを高度にしようとするならば、直接に技術一辺倒の努力を強いるのでなく、急がば回れをして、当人の認識がどのようになっているかを手がかりに、そこをこそ導いてやるべきなのです。やや極端な例ですが考えてみてください。もし認識をつくる頭脳そのものにいかんともしがたい器質的な欠陥がある場合、たとえば色盲の人間に、「お前はなぜキュウリを赤く塗っているのだ、色も見えんのか!」と「技術的にのみ」指導するとどうなるのか、と。ですから、技術を高度にしてやりたいとばかりに技術だけを直接磨かせるという姿勢から生まれるのは実のところ、「天才の選別」のみ、というあまりに寂しい現実があるのです。

この前の記事のおしまいで、わたしが自分の料理を「まずい」と言ったのも、10人に聞いたら10人がまずいと述べたとかそういうことではなく、自らが「こうなったらいいな」と思い浮かべた認識のとおりの表現になっていない、ということ、つまり認識と表現がぴったり一致しないという客観的な関係を指してのことでした。ですから手料理をうまいと言って食べてくれる学生さんの感性にケチをつけているわけではありません。見ている構造が違うわけです。

ここでの記事では、理解を進めてもらうためにたとえがたくさん出てきますから、論理がまるでわからない人にとっては、そのことが裏目に出てかえって雑多な印象になっているかもしれません。しかし、ひとつの記事の中でお話ししていることはすべて、論理的に同様のことを述べているので、そこをこそ読み取っていただけると嬉しく思うところです。これらはほんの、入口中の入口なのですが、それですら常識になっていないことを否が応にも思い知らされる実践が世に蔓延っている現実を見るのは、あまりに寂しいものですから…。みなさんの「ものごとを見る目」の高まりを願っています。

でははじめましょう。なにを隠そうこの記事は、バッグのお話なのでした!

◆◆◆

さて今回のバッグを作るきっかけになったのは、いまわたしが芸術を学んでいる先生が持っておられた口金つきのバッグを見たことでした。

わたしはそれまでは、口金つきのバッグというのは、肝腎の口金部分をどこかで調達して来なければどうにもならないと思っていたもので、市販の口金に合わせてバッグを作る、という作り方しかないものと思い込んでいたのです。

口金とはこういうものですね。

イタリア製の口金。
わたしがよくお世話になるCountless-Riverさんから引用。

ところが、その先生のバッグがとても小ぶりでしたから、「この口金はどこで買ったものですか?珍しい大きさですが…」と聞いたのでした。

すると返ってきた返事が、「これも作るんですよ。アルミを曲げてね」というもので、一瞬「エッ!?」となったものの、帰りしなに、「そう言われてみるとそうか…なんで思いつかなかったんだろう」と思い直して、早速アルミの板を買い求めたものでした。

わたしは自分のために創作活動をしない(なにせオーナーと議論しながら作ってゆくのがいちばんの楽しみなので…)ために、ささいなきっかけでもこれ幸いと、「口金も自分でつくる」というところを起点にして、やはりというか、自転車用のバッグを作る、という計画が始まりました。

◆◆◆

というわけで、届きました。


アルミの板です。


これに百均ショップ(年に数回しか行かないのですが、なかなか面白いですね。ちょっと加工すれば良い素材や道具になりそうなものがいくつかありました)で買ってきた麺棒を膝の上であてがって…


曲げました!

これに電動ドリルで穴を空けるだけです。

やってみると、思っていたよりもはるかに簡単で、今度からはもう、「作れる技術が揃ってから作るものを考える」のでなしに、「作りたいものを想像してから技術を考え」よう、と思いました。

制限というものは、客観的な条件のように思えても、実は主観的な思い込みによるものでしかないことがありますね。

◆◆◆

それに加えて、今回は金属のほかに、あまりものの帆布があるというので、これも譲っていただいており、これも素材として使ってみることに。

素材が決まったところで、今回のバッグの全体の構成を考えるにあたっては、前回の革細工記事で言っていたようなことをはじめに念頭に置きました。

「バッグが道具であるからには、『ものを入れて運ぶ』という目的に相応しいだけの強度を、『構造』のところで実現しておくべきだ」、というようなことがそれですね。

いくら帆布が丈夫だと言っても、自転車に載せるバッグであるからには、5kg以上の荷物を積むわけですから、走行中に中身が暴れれば危険になりますし、自転車を降りて持ち運ぶときにもすぐに型くずれするようでは気兼ねなく使えません。

このことを考えた時に、荷物の重量が直接かかり、また自転車のキャリア(荷台)に直接触れることになる底面部については、革を貼り合わせて強度と剛性を確保しようということになりました。

それに加えて、口金の部分も革でアルミの板を包んだものになりますから、出来上がったものを正面から見たときには、ブラウンの革がベージュの帆布を上下から挟み込んだようなものになるはずです。

◆◆◆

こうしておおまかな全体像が見えてくると、次にバッグの顔となるフェイス部を考えてゆきます。

今回のバッグは、G1Rというだけあって、フロントバッグである試作G1と対になるものとして作ることが決まっているので、手元に置いてまじまじと見つめます。

G1は自転車全体の顔になる部分なので、動物の顔を抽象化したような、下向きに尖ったデザインになっています。

左のバッグがG1。
単に第一世代=Generation 1の略です。

それとは逆に、今回は自転車全体では後方、おしりの部分に位置するバッグですから、上向きに尖ったデザインにして、「これにておしまい」という印象を与えるものが相応しいということになります。

今回は試作バッグですから、それを、ちょっとやりすぎかな?というくらいに強調したものを考えました。

それが、以下のフェイス部でした。


前にリアバッグ(G2R "BLACK KIWI")を作った時の経験上、リアバッグはフロントバッグよりも横幅がとれることと、後方に位置づけられることから、少々デザイン的に入り組んでいてもうるさくなりにくいことから、コンチョを含めた3つの円形をあしらっても大丈夫だろう、ということになったのです。

わたしとしては、上の写真のように3つの円を並べたとき、大好きな動物である梟の眼と鼻のように見えるなと思い、俄然創作意欲が湧いてきたものでした。


(4につづく)

2013/05/29

「人を動かす」一般論はどう引き出すか (4)

(3のつづき)


ノブくん:ではこれではどうでしょうか。
「人の心を動かす為には、相手に自分の考えを相手自身に選ばせる」事。



わたし:さきほどの指摘をふまえて考えてみたようだが、考え方の筋道が違っているので、かえって答えから遠ざかっているように見える。

先に、4つの概念を一般化すべきだとしたところを、行動の前には認識が来るはずだとばかりに、「人の心を動かす」としているが、動かさねばならないのは、心だけだろうか?本書は、他者に自分の意にそぐうようなかたちで、実際に行動してもらうことを主眼に据えているようだが。

もうひとつ、目的論に相手の主体性を加味したようだけども、結果として表現が意味不明になってしまっているのは残念だ。細かな話になるが、「相手に自分の考えを相手自身に選ばせる」という表現を読者の立場になって読んでみると、文中の「自分」ということばが、「自分自身」なのか「他者自身」なのかが不明であるので、何度も読み直さなければ意味がわからないものとなってしまっている。もしこの内容で良い場合にでも、「自らの考えを相手自身が発想したかのように思わせる」とすべきだろうね。



ノブくん:うーん…(しばし熟考)。



わたし:…ちょっといいかな。いま君は、<一般化>というものの難しさを身をもって感じているね。この本は、一読すればわかるとおり、内容については、中学生でもひとおりの読書感想文を書けるようなものだ。ところが、一般性を引き出せと言われると、それがなかなかできない。

もし仮に、わたしが今答えを出してしまったとすると、君は、「なぁんだこんなものか、当りまえのことじゃないか…」と感じることと思う。実際に世の人がそう見なしているからこそ、研究職であってもその努力をしていないわけだが、君はそれと同時に、「当りまえのことなのに、それができないなんて情けない…」と感じられてもいる。ここからも、論理化というものが、紋切り型にできる大雑把な要約、というレベルのものでは決してないということがわかるね。この経験を身をもって体験して、自分のわかっていなさ加減をよくわかっておくということは、大きな前進であると捉えてほしい。

さて、論理というものが、誰かに教われば直ちに使いこなせるようなものでは絶対にない、独力で身につけ高めてゆかねばならない技であることをわかってもらったうえで、もう一度初心に戻って整理してみよう。

いま君は細かなところに深入りしすぎているようなので、まずはマインドマップを見て、しっかりと全体像を捉えることが大事だ。そうして考えてゆく。



そもそも、いま考えているのはこの本の一般性だけども、この一般性というのは、あまりに個別的すぎて「この本は、あの州の誰々さんとこの州に住む誰々さんと…のこれこれの経験について書いてある」としてはもちろんダメだが、逆にあまりに抽象的すぎて「この本は、人間の心理について書いてある」としてもダメになる、ということを押さえてほしい。

あくまでも、この本の内容をまずは正面に据えて、それを余さず表現しうる一般性を引き出さねばならないということだ。この<一般化>というのはそういう難しさがある。であるから、巨人の肩に乗る、つまり、看護一般論を参考にすべきだと言ったのだったね。

ここで初心に戻るというのは、まずは『人を動かす』の全体像をしっかり捉えること。それと同時に、その内容を看護一般論に置き換えてみること、ということになる。



ノブくん:初心に戻って…たしかにそうですね。なんだか、自分ではちゃんと考えているつもりなのですが、気がつくと細かなところを熱心に読み込んでしまうようなところがあって、頭の中がごちゃごちゃしてきて余計にわからなくなるようなことがよくあります。同じ問題を考えるときにもあなたがすぐに答えを出せるというのは、その「頭がごちゃごちゃする」という無駄な回り道をしていないからだとわかってきました。



わたし:それはとても大事な気づきで、いまひとつの大きな論理が浮上しつつあると考えてよい。いまわかりつつあるとおり、問題意識というものは、毎瞬毎瞬しっかりと持っておかねば、すぐに霧散してしまうものだ。論理的に対象に向き合うということは、一般的に言って、ある原則に照らし「続けながら」対象を見る、ということだから、そのことも論理に関するひとつの技化、ということになるね。小さい子供に「このコップを持っていてね」と言った時、外でクラクションが鳴ったりカラスが視線を横切ったりするだけでも落としてしまうでしょう。それと同じだね。



ノブくん:僕はまだ、問題意識を強く持っておく、持ち続けるという、いわば把持する力がまだ足りないのですね。目的意識を強く持ち続ける、迷ったら初心に戻る、ということを意識しながらやってみます。

(目次を読み返す)

…まず、各4部の目次(人を動かす三原則、人に好かれる六原則、人を説得する十二原則、人を変える九原則)をおおつかみながらしっかりと、具体的な像を浮かべることで理解を深めながら読み返してみました。

そのうえで、あなたがさきほど指摘した、4つの概念の総合が必要だということを考えて、「人に強い主体性を持って行動してもらう」という、対象論と目的論についての一般性を出しました。

そうすると一般性は全体として、
「人に強い主体性をもって行動してもらう為には、互いにとって益のある選択肢を相手自身に選ばせ行動する」
となるような気がします。



わたし:良くなったね。さっき2回の迷走が、急がば回れの遠回りになりつつあるようだ。ただ「選択肢を選ばせる」となると、意味を限定しすぎているように思う。



ノブくん:ではこれでどうでしょう。
「人に強い主体性をもって行動してもらう為には、好きなものを与えて、進んで行動してもらう」



わたし:内容はそのとおり。ただ表現はどうだろうか。看護一般論はもっと簡潔に書かれていたように思うけども…。



ノブくん:…たしかに。
「人に強い主体性をもって行動してもらうよう、相手の欲求を満たす」



わたし:これで合格点はあげられるでしょうね。この一般性を仮説として「念頭に置きかつ置き続けて」、本文を読み返してみて、どの個別の経験もがこの一般性で鮮やかに解けることを確認してほしい。そうする中で、細かな字句を修正するのもよいでしょう。


◆◆◆

以上が、ノブくんとわたしとの議論でした。

ただ念を押しておかねばならないことは、ここで出てきた一般論は、まだ仮説の段階であるということです。

看護一般論を見ると、そこには<対象論>、<目的論>、<方法論>があり、実際に『科学的看護論 第3版』中で、それら各論が個別に展開されてゆき、さらに人間観については『ナースの視る人体』などへ…と大きく展開されてゆきます。

ここで大事なのは、これほどまでに基礎が科学的なものとして据えられているからこそ、それを揺るがぬ土台として、その後の展開が破綻なく、しかも体系性を保持しながらのものになっているということ!です。これが、弁証法という論理の凄まじさなのです。

ですからわたしたちのすべきことは、『人を動かす』についても、各章を個別に書きだすまではいかなくとも、各論について一般的な説明をしっかりできるようにしておくことです。

たとえばノブくんの現段階での一般性を例にあげると、その対象となるのは「人」と「相手」なのですから、本書ではその対象となる「人」を、どのように見ているか、ということを<対象論>として説明できねばなりません。

筆者であるD.カーネギーは、人というものをどう見ていたのでしょうか。理屈一辺倒で議論を好み、論理的に説得すれば言うことを聞いてくれる人物だと見なしていたでしょうか?

そのように、各論がどのようなものになるかを考えてみてください。簡潔な書き出し方でけっこうです。

この進捗具合だと5月の末を少し過ぎる頃になってしまうと思いますが、学生さんの出してきた答えを紹介して、次の課題につなげてゆくことにしましょう。

言うまでもないことながら、この『人を動かす』から一般論を引き出すことによって培ったはずの<一般化>という論理能力は、続編である『道は開ける』に適用してゆくことになりますので、答えを先に知ってしまったからといって、自ら考えることから逃げないようにしてください。

そうでないと、ここをはじめ個別に叱られまくっている人たちだけが大きく実力をつけてしまうということにもなりかねませんので…。身についた技は、どんな対象に向き合った時にでも即座に、瞬時に発動するものであるだけに、その努力を怠ってきた過去を持っている人物からは、「奴は天才だからああいうことができるのだ」と見えてしまいがちです。

しかし、こういうものは、天の才などでは決してありません。
これは認識における技なのであって、さらに言えば、技と言うからには、それは自らの努力によって磨いてゆくものであることはまったくの当然、なのですから。


(5につづく)

2013/05/28

「人を動かす」一般論はどう引き出すか (3)


前回の記事では、


ひとりの学生さんからもらった解答を検討してゆきました。

あの文面を読んで、なかには「そこまで言わなくとも…概念を操作するという観点はそれなりに意味のあることだとあなたも認めるのだから、そこから論理のレベルを高めるという方向性で力を延ばしていってもよいのではなかろうか」という意見も出そうです。

しかしどうしても、これではいけないのです。

技術の習得過程を考えるとき、単にキーボードを打つくらいであれば、正しいタッチタイピングを学ばず、両手の人差し指2本でキーを見ながら打ち込んだとしても、さほどの差はでません。

しかし、現実にある問題を正しく解くための論理を習得するという、極めて高度な技となると、土台こそが最も肝腎となるのであり、細かな踏み外しをいくつかしていても結論が合っていれば問題ないとばかりに、がむしゃらに我流の努力を続けるだけに汲々としてしまっては、完成する技術もそれなりのものにならざるをえない、ということになるのです。

完成した犬かきで、大洋を泳ぎ切ることができるか?犬かきを土台としてその延長線上に平泳ぎやバタフライを位置づけて良いか?と考えてみてください。

同じ頃に研究を始めた、将来有望と見なされていた同僚が、現在ではあまりにも悲しいレベルの実力しか持ち得ていないという現実を横目に見て、「嗚呼、てっぺんまで辿り着かない道もあるのだな…」、と我が身と重ねるように実感する寂しさと恐ろしさを、若い学生のみなさんは当然にまだ自分の眼では見ておられないわけですが、ここだけは、なんとしても理解しておいてもらわねばなりません。

◆◆◆

たとえば、学問の段階には到達しなくてもよい、思想的な段階にさえ達していればよいというのであれば、地球が太陽の周りを回っているのか、それとは逆に地球が中心であるとみなすべきなのかは、「見方の問題」(!)ということになりかねません。

もっと例を出せば、自分の乗る電車が走っているように見えるのは、実は、電車が線路の上を走っているのではなく、自分の乗る電車を中心にして大地が滑っているのだ、と言ってもかまわないということになりますし、火をつけたスチールウールがある気体の中でよりよく燃えるということも、「火の精が元気になったから」だと考察してもよいことになります。

子どもたちがこういう発想をするときには、なにも頭ごなしに「ナンセンス!」と決め付けなくてもよいのですが、もしみなさんが、科学的に、つまり唯物論的に専門分野の研究を進める際には、こういった考え方が間違っているということを指摘するだけでなく、「なぜ間違っているのか、正しい考え方とはどういうものなのか」を鮮やかに説明できなければなりません。

これを何が保証するか?というのが、学問の土台となる基礎力、というものであるのです。いくら知識をつけても考え方がおかしければ、ありもしない答えにたどり着いてしまうのですから、ここでもっとも重視すべきなのは、自らが把持する世界観と、対象を照らし発見事実を組み立てる論理、ということにならざるをえないのです。わたしはそれを身につけてもらうためにこそ、これだけ必死になっているのです。

以前に、「人間にも生物と同じく集団意識というものがあるので、それを考察の対象とすべきだ」というある教授のアドバイスを受けた学生が困り果てていることを見て、その考え方の基礎がどう誤っているのかを指摘した記事を書いたことがありました。
何を隠そうあの指導教官というのは、その道では超一流とされている人物です。ですから、どこそこの権威の発言だから踏み外しなどないということはない、と考えてみるべきなのであり、基礎的な踏み外しは応用面でカバーすればよい、という発想は持ってはいけない、というのです。

自らの歩みのうちに、観念論的な踏み外しがないかということを毎瞬毎瞬注意しておく注意力と、自らの眼の前にある対象のうちに、いまだ把握しきれぬ弁証法的な構造が潜んでいはしないかと確認を重ねる集中力というものを、一般常識レベルのままで放っておいてはまともな研究はできません。

少々体つきがよく喧嘩では負けたことがないからといって、その持ち前のケンカ殺法を武道の現場に持ち込んで接木しようとしては、やればやるほど駄目になるのですから、まずはどんなに苦しくとも、自らの持ち前の自然成長的な天才性をいったん棚上げする、ということにいちばんの努力を払わねばなりません。

どんな分野についても、文化レベルの高度な段階における探究にあっては、持ち前の条件の良さが常識レベルの衆目から評価されていればいるほど、最終的にはかえって自らの足を引っ張ることになるものです。

◆◆◆

さて前置きはこれくらいにして、今回はより議論の進んだ段階の解答を検討してゆきたいと思いますが、前回引用させてもらったOくんは、実際に面と向かって議論しながら一定の答えにたどり着いていますので、別の人の解答を見てみたいと思います。

以下は、ノブくんとの議論を討論形式に書き起こしたものです。

◆◆◆

ノブくん:僕が思うに、「人を動かす」一般性とは、
「人を動かす為には、相手に関心を持った上で話を聞く」、ということです。



わたし:おさらいしておくと、看護の一般論とは「生命力の消耗を最小にするよう生活過程をととのえる」であったね。それを参考にしながら、今回の本の内容をそう整理したということは、この本は、対象である「人」を「動かす」ためには「相手に関心を持った上で話を聞く」という方法を採用すべきだ、ということを述べている、と理解したわけだね。

では、この本の全体像をマインドマップとして整理したものをいっしょに見ながら、2つ反論をするので反駁してみてほしい。


まず、ひとつめ。論理のレベルの高いところから聞こう。
(※ここでの「論理」は「抽象度」という狭義の意味。)

タイトルにはたしかに「人を動かす」とあるので、ひとまずは一般性としてこれを使ってもよいと思う。ところが、実際に本文を読んでみると、「人を動かす」のほかに、「人に好かれる」、「人を説得する」、「人を変える」とあるようだが、これらを「人を動かす」という一語に要してしまってもよいだろうか?



ノブくん:(確認し考えて)…たしかに、そうですね…



わたし:その、「たしかにそうだな」という感想(=感性的認識)を、理性的に振り返ってみよう。
一般性をそのようにすると、君は暗黙の前提として、以下のように整理したことになる。図式化しすぎて形式論理のようになってしまっているきらいはあるが、まずは単純に考えてみてほしい。


この場合、「人に好かれる」、「人を説得する」、「人を変える」という概念が同じレベルのものとして揃っており、その上位概念として「人を動かす」が位置づけられているね。これでよいだろうか?



ノブくん:…いえ、どうも違うような…。今確認してなんとなく思ったことですが、この4つは論理のレベルが異なるのではなく、同様のレベルの事柄を指しているようにも見えます。



わたし:ではそれをまた単純に図式化してみると、こうなるだろうか。




ノブくん:ええ、そうです。



わたし:これらの4つの概念が同じレベルにあるのならば、どれか一つを代表として一般性とするのではなく、これら4つの概念を総合して上位概念のかたちで一般化しなければいけなくなってくるね。

そこに何が入るのかはまだわからないが、このようなかたちにしておこう。




ノブくん:はい、わかりました。ここで質問なのですが、この「???」に入ることばは、この本の部題や章題、また文中から抜き出すべきなのでしょうか。



わたし:文中にあるのならばそれでよいけれども、ふさわしいものがない場合は自分で考えて一般化すべきだろうね。



ノブくん:わかりました。



わたし:よいでしょう。では2つ目の問題に移りましょう。
君が考えた一般性を見ると、その方法論は「相手に関心を持った上で話を聞く」ということになっている。
しかし問題は、相手に関心を持てば人は動くものだろうか?、ということだ。

もちろんこの判断は、わたしたちの一般常識ではなく、あくまでも本書に照らして見てゆかねばならないが、そう考えるとなおさら、相手のことをよく知るだけでは自分の思い通りに行動してもらえる保証がないとみなすべきではないだろうか。


(4につづく)