2013/07/31

サリバン(著)『ヘレン・ケラーはどう教育されたか』はどう読むか(2):1887.03.06 (その1)

(1のつづき)


前回の記事では、これから取り組む書籍を挙げたうえで、それを単にうまくいった障害児教育のケーススタディとして見るのでなく、そこにサリバン女史の人間観と、認識論的な裏付けがあったればこその類まれなる成功例となったのだと読んでほしい、とお伝えしておいたのでした。(※前回の記事も含めて、本書並びに類書にあわせるかたちで「障害児」の表記を整えました。差別的な意味合いは当然ありません)

◆

これからこの書籍の内容に入ってゆきますが、この本では、アン・サリバンがヘレン・ケラーの家庭教師となり、彼女の知的生活の最初の2年をいかに過ごしたかが述べられています。

ここで「知的生活」とことわらねばならないのは、当時6歳の女の子であったヘレンは、1歳8ヶ月のときに思い病気にかかり、聴力と視力を失ったことがきっかけとなり、何の教育も受けずにおかれていたからです。

そのようなヘレンの現状を見た時、サリバン女史は彼女がどのような状態であると見たのか、そしてそこへどのように働きかけたのか、をこれから追ってゆきましょう。

さてその前に確認しておいてほしいのは、この二人を描いた映画のタイトルや、ヘレン本人の手になる『わたしの生涯』(角川文庫)の裏表紙には、「奇跡(奇蹟)の人」ということばが出てくるということです。

これは一般には、盲・聾・唖という三重苦を乗り越えたヘレンのことを指している、とされることが多いようですが、本来の意味合いとしてはいったいどちらのことであったのか、と考えてみてもらいたいのです。

この問いは、答えるだけであるなら簡単で、映画の原題が“the Miracle Worker”であることを考え合わせれば、もはや答えは出ているようなものなのですが、「ではどの辺りが奇跡的であるのか?」と聞き返されたときには、生半可な読み方ではとても答えることはできないはずです。

みなさんに問いかけられているのは、まさにその部分、つまりサリバン女史の教育の、いったいどこが奇跡的な手腕であると言えるのか、という問題であるのです。

はじめに、教師・サリバンの出生について触れておき、内容に立ち入ってゆくことにしましょう。

1866(0)アイルランド移民の貧しい家にて生まれる
1876(10)救貧院に入れられる。目の病気を患いほぼ全盲に
1880.10(14)パーキンス盲学校入学。視力は幾分回復
1886 学校を卒業、ヘレンの家庭教師へ推薦される
~1887.01 半年間、ハウ博士の報告書から学ぶ
1887.03 ヘレンの教育はじまる

◆◆◆

以下は、学生さんのレポートにわたしがコメントするといういつものかたちで書き進めてゆきます。

ただ率直に言ってこの本は、認識論がどういうものかがわかっていない人、人間の認識のあり方を論理の光を当てながら見てくることがなかった人にとっては、ほとんど手に負えないものです。サリバン女史の手紙には、難しいことばは出てきませんが、その内容はそれだけ、とても高度だということです。言い方を変えれば、この本をアッサリ、どこにもつまづかずに読み終わってしまった人は、自分のわからなさすらわかることができていない状態である、ということです。

そのため一見すると、レポートをさっさと脇に片付けて、わたしだけがしゃべっているようにも見えることがあるでしょうが、「せっかく書いたのに無視しなくとも…」という気持ちをぐっとこらえて、より深い読み方ができるように、より深く人間の認識のあり方をたぐり寄せることができ、またそこにより上手に働きかけてゆける人物になっていってもらいたいと思います。


◆1887.03.06(ノブくんによるレポート:文学考察)
(以下、本書の表記に倣って日ごとに分けて考察してゆく。以前公開したマインドマップも参照のこと。適宜書き足しながら読み進めることが望ましい。)
 この作品ではタイトルにもある通り、アン・サリバンによるヘレン・ケラーへの実践記録を中心にして、ヘレンがどのように教育されていったのかが描かれています。その中でサリバンは、彼女が人間的な感情を一切持ちあわせておらず、ただ快不快だけがある野生の動物のようであると規定しました。そしてこの野生児を制服をすることで教育の土台をつくり、言葉を獲得させることで知性をあたえていったのです。 
 そこで、ここでは具体的にサリバンがどのようにして上記のような方針を固め、具体的な実践に至ったのかを彼女の記録のひとつひとつを見ながら確認していきたいと思います。 
 サリバンとヘレンが最初に出会った日、サリバンは彼女がどのような人間であるのかをじっくり「観察」していました。ここで注意しなければならないのは、「観察」というとなんだか受動的な意味合いが強いようなイメージがありますが、彼女のそれはあくまで教育という実践を前提とした積極的なものなのです。というのも、彼女はヘレンに指文字を感じさせたり、ビーズを糸に通させたりして、彼女は何が出来るのか、何について興味があるのかを探し当てようとしたのでした。その結果、ヘレン・ケラーという女の子は知的ではあるが、人間的な感情の機微については他の子ども達に比べて乏しい少女であるという結論に至ったのです。

◆わたしのコメント

1887年の3月3日のこと、ケラー宅へ到着したサリバンは、熱い期待のなかヘレンと出会います。

さきほどの出生でも見たとおり、サリバン女史はヘレンの家庭教師に推薦されてから半年のあいだ、ハウ博士がローラ・ブリッジマンの教育にあたった記録を読んできていました。

このときのサリバン女史には、ヘレンが満7歳になる3ヶ月前の女の子で、1歳8ヵ月のときにかかった重い病気のために聴力と視力を失い、これまで何の教育も受けずにおかれていた、という情報が伝えられていました。

しかしハウ博士の記録からの連想で「なんとなく青白くて神経質な子供を想像していた」彼女の予想は裏切られ、出てきたのは「大きくて丈夫そうで血色もよく、子馬のようにたえず動いて、じっとしていることは」ない、そんな少女でありました。

彼女がヘレンの第一印象を具体的に述べているところを見てみましょう。
彼女の顔は大きくて、肩の上にまっすぐにのっています。顔は描写するのが困難です。顔つきは知的ですが、でも、動き、あるいは魂みたいなものが欠けています。口は大きくて、美しい形をしています。誰でも一目で、彼女が盲目であることに気づくでしょう。一方の目は他方より大きく、めだってとび出ています。彼女はめったに笑いません。私がこちらに来てから、彼女の笑い顔を見たのはほんの一度か二度です。また、反応がにぶく、母親以外の人に愛撫されるのが我慢ならないようです。ひどく短気で、わがままで、兄のジェイムズの外は誰も彼女をおさえようとしませんでした。
さて、ここからどのようなことを読み取ればよいでしょうか。

まず体格からすれば、ヘレンは健康そのものであることは間違いないようです。「聴力と視力を奪われてしまったあの病気以来、一日も病気をしたことがない、というケラー夫人のことばもそれを裏付けています。

しかし視線を上げると、彼女の顔は、顔つきは知的で口の形は美しい、つまり器量としては悪くないけれども、少なくない違和感がある、とサリバンはとらえたのです。
(目の様子については、幼少期の病とともに、目が見えないことから、たとえば鏡を見て自分の左右の目のバランスを意識して整えるといったことのための、認識的な前提が得られないことから来ているでしょうから、これはサリバン女史にとっては大きな問題としては映らなかったはずです)

ではその違和感とは何だったのかといえば、その表情に「動き、あるいは魂みたいなものが欠けてい」ることと、「めったに笑」わないこと、です。

サリバンにとっては、当人のすがたかたち、器量などといった肉体的なところに問題があるのではなくて、サリバン流に言うところの「魂」や「笑顔」の不足というかたちで現象するおおもとの、ヘレンの精神状態のほうにこそ、これからの教育において焦点を当てるべき問題があるとしたのです。

ですから、論者が「ヘレン・ケラーという女の子は知的ではあるが、人間的な感情の機微については他の子ども達に比べて乏しい少女である」としたのは、「知的」という一語が指している内容が、肉体にあるのか精神にあるのかを明確に判別せずに読み進めてしまったことを示していることになります。さらに言えば、次回以降のレポートで展開されている「サリバンはヘレンの生まれ持った知性を延ばしてゆこうとした」、という見方も誤りです。サリバンが現地に赴いて見たのは、ヘレンの、肉体的には健康であるが、精神的・情緒的には同じ年齢の子どもと比べると明らかな未発達が見られる、という姿でした。

それは、顔つきだけでなく全体として、「反応がにぶく、母親以外の人に愛撫されるのが我慢ならない」ことに加えて、「ひどく短気で、わがまま」である、というところにも顕れています。

◆

では、こういったヘレンの、肉体的には不足ないが精神的には未発達のままであるようすを見て取ったとき、サリバン女史が脳裏に描いた、彼女への教育方針というものはどんなものだったのでしょうか。

彼女の言うところを聞いてみましょう。
彼女の気質をそこなわずに、どうやって彼女を訓練し、しつけるかがこれから解決すべき最大の課題です。私はまずゆっくりやりはじめて、彼女の愛情をかちとろうと考えています。力だけで彼女を征服しようとはしないつもりです。でも、最初から正しい意味での従順さは要求するでしょう。
論者にとっては、ここでサリバンが言う「気質」というものが、あたかも「知性」と呼ぶべきものであるかのように受け取られていますが、これは子ども特有の活発さ、内的な衝動などといった意味なのであって、奥底に秘めた知性などというものではありません。

このことは、サリバンがのちに、言語を知的に使うためには話す事柄を得ることが必要であり、またそのためにはとりもなおさず経験することこそが必要なのだと述べている(本書末尾の「サリバン女史の論文からの引用」内)ことからもわかるとおりです。ここを勘違いしていると、本書を読み進めるにあたっての大きな障害となりますから、正しく押さえておいてもらいたいと思います。

◆

説教は続きますがあとに回すとして、ひとまず彼女が続けるところを見ておきましょう。
ヘレンの疲れを知らない活動は誰をも感心させます。ここにいたかと思うとあそこというふうにどこにでも動きまわり、一瞬たりともじっとしていません。手であらゆる物にさわりますが、長い間彼女の興味をひきつけておくものは何もありません。かわいい子どもです。彼女の休息を知らない魂は暗黒のなかを手探りしています。教えられたことがなく、満足することのない彼女の手は、物をどう扱っていいかわからないために、さわる物は何んでもこわしてしまいます。
さきほどサリバンは、出会ったその日のうちにヘレンが「正しくしつけられていない」と見ぬいたわけですが、これはケラー宅で過ごすうちに後になって、ヘレンがその障害のせいで大目に見られ、甘やかされて育てられているという裏付けによって確信に変わってゆきます。

これを見たみなさんは、では、これほどまでに彼女が初対面の少女の本質を見ぬきえたのはどうしてなのか?と考えておかねばなりません。そして本書を検討してみたとき、サリバンが、正しい人間観を持っており、また、個々人としての人間の発達段階における少女期というものの位置づけ(=特殊性)をわかっていたことが非常に大きいのだ、とわかってもらいたいと思います。だからこそ、その観点に照らしてヘレンの状態を見たとき、一般的な6歳の女の子としては未発達の部分が見え、さらに、このままの状態を積み重ねてしまってはひとりの人間としての可能性が閉ざされたままとなってしまうというところにまで意識を向けることができたのです。

原則をしっかりと持っているからこそ現象が正しく理解できるのであって、現象なしの原則は空文であり、原則なしの現象は雑多な事実のモザイクでしかないことを示すのは<弁証法>ですが、その論理を土台とし、現実を生きる人間を正しく見る方法を教えるのは<認識論>です。

さてその、認識論の観点から見れば、この引用部はどのように読めるでしょうか。

「ここにいたかと思うとあそこというふうにどこにでも動きまわり、一瞬たりともじっとしてい」ないのはなぜでしょうか。「さわる物は何んでもこわしてしま」うのはなぜでしょうか。何がヘレンをそうさせて、どうすれば正しい道へと導いてゆくことができるのでしょうか。この本を全体として読んで、この日サリバンがヘレンについて気づいたことと、そこにどう働きかけて訓練してゆくかを計画したことを、大きな流れとして位置づけることができたのであれば、この本から学べたことになるでしょう。


◆

論者のレポートだけでなく、これまでに見せてもらったどのレポートにも言えることですが、あまりにも、この本を簡単に済ませてしまおうという姿勢が目についてしまいます。わたしはこの本を読むことに決めたとき、思っているよりもずっと難しいからじっくりと読んでくださいとお伝えしていましたが、もし「あれ、意外と簡単だな。もう読めてしまったぞ?」と思ってしまっているのだとしたら、それは能力が高いからではなく、自分自身がわかっていないということがわかっていない、と言うべきなのです。

わたしはこの本を今回の課題のために読みなおしたとき、マインドマップを作りなおして全体像を掴み、そこに本書に書かれている「サリバンの得た教訓」と、「彼女が見たヘレンのその日の状態」のふたつを適宜書きだしてみたあと、全体の流れを自分がその場にいたら同じことができたであろうか?と問いかけてみて追ってみましたが、「エッ、ここはどうしてこしたの?」という場面の連続であり、あまりにもわからないところが多すぎて、自分の認識論的な実力の無さに少々呆れたものです…と言うと、あまりに卑下しすぎに聞こえるでしょうか。

しかしたとえば、その日、その日のヘレンの現状が書かれている箇所を読んだあと、サリバンが導き出した方針や指導内容の箇所を「隠して見えなくしたとしても」、「同じことを根拠をもって脳裏に描き出せたであろうか?」と問うてみて、それができる!という状態になってはじめて、本書を本当に理解した、と言うことができるのです。

認識論の素材は、われわれが生きているこの社会のなかにいくらでも転がっていますが、そこで学び得るか否かということは、わたしたち自身の志こそが決めていることなのです。それを格好の素材としてみなすことができるかどうかは、それを見る者が自分の人生をどのようなものにしたいか、という原則に照らされて浮かび上がってきているのです。だから、人の気持ちがわからない人は何歳になってもわからないのであり、わかろうとする人はこの若さでお見事、と言える経験を日々積み上げ、それにふさわしい人格を創りあげていけるのです。アン・サリバンその人は、大学を出たばかりの年齢で、ここまでのことをやり遂げたのです!この大事さ、恐ろしさが本当に、わが身に直接関係のあることとして、捉えてもらえているでしょうか…。内容に立ち入って議論する前に、そこをしっかりと確認してもらいたいと思います。


◆

ところで、苦言だけでは先に進めにくいでしょうから、基本的なことを押さえておきましょう。まずは、一般的に、ひとつの書籍を本当に理解するためにはどうすればよいのか?という問題から振り返りましょう。

一般的に言って、対象となる事物・事象のあり方を正しく押さえるためには、まずは全体を見渡しその一般性を押さえた上で、それに照らすように各部分の特殊性を明らかにしておかねばなりませんでしたね。たとえば生物の身体を調べるときには、それが全体として生きている、つまり代謝しているということを見て取った上で、呼吸器系とは何なのか、消化器系とは何なのか…と、各部分・各器官がそれぞれ個々別々・特殊的に働きながら、それにもかかわらず全体としては調和がとれている、というかたちで、矛盾が統一されているものと見なければなりません。

ですからこの本も、全体を貫くサリバンその人の指導方針と、日々それぞれの指導内容が、「サリバンの中にはこのような大きな見立て・大きな絵地図があって、そこにまでヘレンを導いてゆくためには、この日こういうことをしなければいけなかったのだな」というふうに、読者の頭脳のなかに統一されたものとして体系立てられていないのなら、彼女がいかなる奇跡を起こしたのかは到底見て取れないことになるのです。

それなのにあたかも、本書をはじめのページからめくっていって、片っ端から要約でもすれば全体を理解したことになるかのような姿勢は、あまりに寂しいばかりの思い違いであると言わねばなりません。教育、とくに変化の激しい子どものそれは、毎日の積み重ねがその個性という質として現象してゆくのですから、日々の記録をばらばらに理解するのでなく、一日一日が刻一刻と積み重なることで重層的な構造を作り上げながら現象してゆくという大きな流れをしっかりと掴んでおかねばなりません。これは、その日の出来事がその日に起こっていなければならない、という必然性を伴うものであって、あの日とこの日が入れ替わっても大して違いがない、といった生易しいものでは決してありません。

みなさんに足りないのは、その、<必然性>という観点です。全体としてこのような到達点があったのであるからには、そこにまで至る過程において、このような積み重ねがあったからなのだな、ないといけなかったのだな、とわかるということが、必然性を把握する、ということです。とても難しいとは思いますが、まずはそこを意識しながら書いてみてほしいと思います。それが書けるというのは、ヘレン・ケラー教育の2年間の過程のうち、この日の特殊性はこのようなものであった、という、全体の中でのその日の位置づけ、その日が積み上がることでの全体、というものが言えていることでなければなりません。

こう書き置いただけでも、「えっと…それで…これからなにをすればいいのかな…??」と、はてなマークが頭のなかを飛び回っているかもしれませんので、念押しのために、サリバン女史がのちに、ヘレンへの訓練を振り返って書き残してくれている箇所を引用しておきましょう。


◆
さまざまな現象を観察する範囲が広くなり、語彙が豊富さと微妙さを増してくると、彼女は自分自身の考えを表現することができ、また他人の思想をも理解できるようになり、やがて人間を創造した力について考えるようになり、何か人間のではない力が地球や太陽や彼女のよく知っている数多くの自然物を創り出したとうことを感じるようになった。
(「サリバン女史の報告書からの抜粋」より)
◆
「最初、私の生徒の心はまったく空虚であった。彼女は理解できない世界に住んでいた。…ヘレンがすべての物は名前をもっているということに、また、指文字を使ってこれらの名前を人から人へ伝えることができるということに気づくや否や、私は彼女が喜びながら名前を綴ることを覚えたその対象について、さらに深い関心を目覚めさせるようにした。」
(巻末「サリバン女史の論文からの引用」より)
◆

さて、次回は本書の内容に立ち入って議論ができるでしょうか。

まずは1887年の3月6日その日が、ヘレンの訓練全体のうちでどのような意味を持っていたのか、を鮮やかにとらえたようなレポートが出てくることを願ってやみません。「こういうことかな?」というものができたら、恐れず飛び込んで見せてもらいたいと思います。

わたしが「長い道のりになる」と言ったのは、なにもサリバン女史の手紙の数が多い、といった表面的な意味だけではなかったのでした。じわりじわりと、理解すべきことの重みが、みなさんにも浸透してきたでしょうか。


(3につづく)

2013/07/29

サリバン(著)『ヘレン・ケラーはどう教育されたか』はどう読むか (1)


長い記事になりそうですが、


よろしくお付き合いください。

今回からはじまる一連の記事の中での参考文献は、以下の書籍です。

サリバン(著)/遠山啓序・槇恭子(訳)『ヘレン・ケラーはどう教育されたか サリバン先生の記録』(明治図書)

◆◆◆

そもそもこの本を参考書に選んだのは、学生のみなさん、とくに将来、人を教えたり導いたりすることを目指している人たちに、目の前の被指導者たちのあり方のどこに問題があり、それはどのようにすれば改善させてゆけるのかを考えるにあたって大きな指針となるものであるはずだ、と考えたからです。

ジャンルで言えば、認識論や、指導論のおはなしが中心となってゆくことでしょう。

これからの記事では、この書籍をいかに読むべきか、ということをみなさんとともに議論しながら書いてゆくことになります。

そのときに注意していただきたいのは、これを単に障害児教育の類い稀なるケーススタディであるということとして読むのではなく、「目の前の人物のあり方に問題がある場合に、いかにして働きかけるのか」という、教育・指導・コミュニケーションにおける<論理>を掴み取るためにこそ読んでもらいたい、ということなのです。

この、いわば教育実践における論理を引き出す際に必要なのは、やはり弁証法的に読んでゆく姿勢である、ということになります。しかもそれは、現実から考え始めるという唯物論の立場によってなされるべきだ、ということになります。

この前の一連の記事で、弁証法と形而上学、唯物論と観念論の違いについて例をあげながら述べましたが、この本においても、唯物論的弁証法の立場において読んでゆくことで、サリバン女史がヘレン・ケラーをどのように見て、どのように働きかけたのか、を、自分自身がその場で指導者であったなら同じことができたであろうか、とわが身に捉え返して考えていってほしいのです。

◆

ここで念のため、すこし確認をしておきましょうか。わたしが先ほど、
「目の前の人物のあり方に問題がある場合に、いかにして働きかけるのか」
と述べた時に、アレ?と感じたり考えたりした人はいないでしょうか。

たとえばこんなふうに、です。
「『問題』と言っても、見る者によってどこをそういうものとして見るかはずいぶんと違うではないか」とか、
「『働きかける』といっても、結局のところ子どもの主体性に任せるのが最良ではないか」といった意見がそれにあたります。

こういった考え方は、一見すると常識的かつ穏当・良識的なもののように映るのですが、いざこれらを実践のための指針とする段になると、その過程・結果において、どうしても問題が起こってこざるを得ないという現実が待っているのです。

これらがなぜダメなのかは、サリバン女史の認識をわが身に捉え返しながら本書を読むことを通して、次第しだいに明らかになってゆくことではあります。

ここでは結論から簡単に述べれば、わたしたちが育てる対象は、決してサルではなく人間でなければならないのであり、そうであるからには、「人間とはどうあるべきか」という原則を絶対に持たねばならないのであり、またその原則に照らしてこそ対象が鮮やかに見えてくるのであり、さらにそれに従って相手を導いてゆかねばならないのだ、ということなのです。

それでも、そんなものは大人の勝手な言い草で、子供はとにかく自由に振舞わせるべきであり、食事だけ与えておけば勝手に育つものであり、それが最善である、といった反論が出てくる場合には、そもそもの目指しているレベルが違うのだ、と言わねばなりません。

自分が指導した人間が将来的に、誇るべき人格を持ち得ないような人物に育ってしまったり、果ては救いようのない理由で犯罪を犯したり、歪んだ人間観の持ち主となった場合に、「あれは生まれつきおかしかったのだ」と言い訳をすればよいと考えている、人を育てるということを「そういうレベルで捉えてしまっている」のであれば、やはりここで強調していることは、同じレベルでは把握してもらえないことになるでしょう。

もしそれでも、どうしてもこの穏当・良識的な考え方で指導論を展開したいという場合には、もし仮に、その考え方でヘレン・ケラーの教育にあたったとしたら、あなたのもたらした結果が、サリバン女史の達成とはいかにちがったかたちとして現象したのか、と考えてみられることは決して無駄ではないと思うのです。

このことは、ここまでの記事、最低でも今年に入ってからの記事を、先入観なしに読んできてくださっている方には基本的な方針としては理解してもらえることと思います。

ともあれ、賽は投げられました。
他の記事をはさみつつ、長い道のりになりますが、倦むことなくともに歩んでくださるようお願いいたします。


(2につづく)

2013/07/22

【メモ】サリバン(著)『ヘレン・ケラーはどう教育されたか』のマインドマップ(※7/25更新)

※7/25に、本書の落丁を追加しました。

表題の書籍のマインドマップです。

より解像度の高いPDFファイルはこちら(Google Driveへのリンク)。

プリントアウトしたあと、コピー機でA4→A3へ拡大(141%)しておくと便利です。

◆◆◆


◆改版(オフセット印刷版)の落丁

・p29 一八九七年 四月三日→一八八七年 四月三日

・p51 teacher wil cry→teacher will cry

・p92 「ヘレンに関する報告の中で〜」の段落中
 なぜならヘレンは興奮して「何を見たの?」と尋ねた。
 →なぜならヘレンは興奮して「何を見たの?」と尋ねたからだ。

・P111 「彼女は、手を使う作業よりも〜」の段落中
 何にでも加わりたがった、習字式タイプライターの
 →何にでも加わりたがった。習字式タイプライターの

・P145 「ヘレン・ケラーの著作を読むと、〜」の段落中
 感情が裸のまま飛び出る小さいな野生児が
 →感情が裸のまま飛び出る小さな野生児が

2013/07/18

『道は開ける』の一般性はどのように引き出されたか (4):議論の内容

(3のつづき)


前回の記事を公開してから、色々と意見をいただいたのですが、その印象としては、わかる人にはちゃんと伝わるものだな、というものでした。
(逆から言えば、「わからない人は、悪気はないながら、わかっていないということがわからないのだな…」ということでもあるのですが)

いちばん印象に残った感想を簡潔に書くと、「あなたは学者として(の目的意識に照らして、引用者補足)こういうものごとの見方をしようと決意し、常々そうしてきており、またそうできてきているから、学生さんが自分では意図していない踏み外しをしているときには一瞬でそれに気づくことができ、また引っ張りあげてゆくことができるのだとわかりました」というものです。

指導について、結論として出てくる叱咤激励がどういうものになるかということではなく、その過程について着目しようとしてくださるこのご意見は、とても嬉しく受け止めたものです。わかってもらえないほうのご意見にこそお返事をしたいと考えていますので、わかってもらえている方へのお返事はこのとおり遅くなりがちですが、ご容赦ください。

さてご指摘のとおり、ある指導方法を決めるときには、以心伝心があり得ない以上、ひとりの学生の表現からその認識をたぐり寄せて考えてみて、「その考え方は間違っていますよ、こうしなければ踏み外しますよ」ということを、その学生の感性・理性のあり方に照らしてひとつの指導的な表現として伝えてゆくことになります。

一般の書店にあるリーダーシップの本には、概念は難しくともその内容として、結局は「飴と鞭の使い分けが大事だ」などとあったりしますが、事実を言えば、叱った後はなだめる手間を惜しまなければ学生に最高の認識のあり方を植え付けることができるのかといえば、絶対にそんなことはありません。

鞭のあとに鞭が続くこともあれば、同様の解答を出した学生それぞれに対する反応が飴であったり鞭であることだってあります。しかしこれらは、相手の目指すものがどのようなものであるか、その人格がどのようなものであるか、そこへどう働きかけるのがその目的をもっともよく叶えるものか、といった指導上の必要性によって決まってきます。あれが来たから次はこれ、というような内容を無視した形式主義を採用し、また期待させてしまっては、正しい道がどれであるかということなど伝わりようもないのです。

◆

ものごころつく時には必要以上に恐怖を感じさせてはいけない、などということであればいざしらず、一人の人間として新しい一歩を人類の歴史に付け加えたいなどというあまりに大それた志を持った相手に対しては、当然にそれにふさわしい導き方というものがあってしかるべきですし、その志に応えることを考えればよりいっそうそうあらねばならないというべきです。

傍から見ている人たちからは、叱ってばかりいると恨まれるぞとか、人格を否定するつもりか、お前はそんなに偉いのか、などなどといった温情主義(?)的な意見が出されるものですし、それはそれで感情的にはわからないわけではないのですが、そこだけを切り取って非難されたとしても、ひとつの意見として聞き入れようもありません。

どうしても断っておきたいのは、自ら立てたひとつの原則によって目の前の対象のあり方(学生の人格や実力)を、その生成の段階から過程的に照らして、つまりその時の必然性をこそ考える場合に、指導者としての立場からして絶対に言わねばならないこと、やらねばならないことがあるときには、わたしは何を言われてもそれを真正面に据えて逃げるつもりはありません、ということです。

漫画『ブラック・ジャック』のある物語のなかに、主人公であるモグリの医師、ブラック・ジャックその人が危険度の高い手術をすることを決めたとき、周囲から「お前は人間の身体を使って実験でもするつもりか?」となじられるシーンがあります。そのとき彼が応えたことばは、このようなものでした。
「じゃああなたがたはカケていないのかっ
あなたがたはいつも患者がかならずなおると保障して治療をしているのですかっ
そんな保障のできるものは神しかいないっ
…われわれは神じゃない…人間なんだ!!
…人間が人間のからだをなおすのは…カケるしかないでしょう…?」
この言葉は、単なる(実態よりも低く見られがちな)漫画というメディアの中の、単に聞こえの良いだけのことばではなく、筆者である手塚治虫が漫画家としての進路に迷ったとき、この作品に「カケた」想いであるとしてよいと考えての引用です。

指導をするということも、これと同じなのです。

最終的にうまくいくかいかないかということは、究極的には手探りの中で掴んでゆくしかない。それでも、博打に賭けるということと決定的に違うことは、一人の指導者がつぎ込むのは自らの指導者としての人生そのものであり、また、「こうすればこうなってもらえるはずだということは、今現在の自分の人格と判断力にかけて言える、厳しい道になるだろうし一時は恨まれることになるだろうが、この学生にあっても自らの志に照らして見事に耐え切って、いつの日かその指導内容に根拠があったことをわかってもらえるはずだ」、という現時点でのこれ以上無い見通し(=論理)にカケる、ということです。

対象の過程をふまえ、その必然性を把握した上で考え行動するということは、考えるのが面倒くさいからこのくらいでいいや、と決めた方向性に博打よろしく「賭ける」ということや、良くないことと知りながら開き直って何かをするということとは違います。前者で得た意思決定の強度は覚悟と呼んでもよいでしょうが、後者は単なる犯罪者の論理と呼ぶべきであって、この場合、あれに転ぼうがこれに転ぼうが、うまくいこうがいくまいが、運任せになるのは当然です。

同じ「カケる」という場合にも、人生がけと博打的に賭けるのとを平面的に受け取ったり見えてしまうという印象をいったん棚上げして、どういう根拠(=認識のあり方)に基いてこの人間はこうしているのかな?と考えてみてほしいと思います。この姿勢の必要性をここで書かねばならなかったことは、いただいた意見を見ていると、「ワタシも前からそう思っていた!つまりこういうことですね?」と言う方に限って、結論のところにのみ着目し、自分のわかりかたの段階にまで引きずり下ろしたうえで、論理的に理解するのでなしに感情的に同調していることが、あまりにも残念に映るからです(だからといって、意見を出すことを躊躇する必要はないのですが…)。

ともあれその時点で自分が得た印象をひとまず棚上げして、そこに潜んでいる根拠や必然性を過程的に追ってみるということは、客観視という認識のあり方を学ぶための第一歩です。思い当たることがある方は、ぜひに前回までの記事を読みなおしていただきたいと思います。また同じように、自分で身近な問題を作ってみて、それぞれの世界観・考え方であればどのような答え方になるのか?、を考えてみてください。その4つの区分のうち、あなたのいつもしている考え方はどこに属しているのかというふうに考えてみて、まずは自分の立ち位置をしっかりと確認してほしいのです。

そうしなければ、毎日毎日、あらゆる表現をする際に踏み外しをしまくることになり、数年で帳尻が合わなくなった挙句、妙な言い訳を考えつかねばならなくなりますから…。

さて、ではいよいよ本題です。
ここでの議論では二人の学生さんが主に登場しますが、わたしが彼らのことを、どのように導きたいから、どのような踏み外しをしてもらいたくないから、そのような指導になっているのか、というところを考えていってください。<>で強調した括弧書きは、文字として書き起こす際に加筆したものですが、わたしのところに前から出入りしている学生さんは、こういう断り方をしなくても、わたしの言い方の中に、こういう概念と論理構造が含まれていることをわかっていますし、そのための訓練を熱心に積んできています。そういうわけで、実際には日常言語でのやりとりとなっていたところを、独学する読者のみなさんのために補助してあるのだ、この補助がなくても読み進められる実力が求められているのだ、ということをおさえておいてください。

◆◆◆

◆1◆学生たちの一般論を検討する

わたし:今回の課題は、D.カーネギー『道は開ける』の一般論を出す、ということだったね。二人に準備してもらっていたと思うので、まずそれを聞きましょうか。いちおうおさらいをしておくと、科学的看護論における看護一般論は、「生命力の消耗を最小にするよう生活過程をととのえる」ということであり、それぞれが対象論・目的論・方法論であるのだったね。

ノブくん:はい。僕がその看護一般論を参考にしながら出したのは、
「問題を、悩まず解決する為に、心身を整える」
というものです。

Oくん:私はこうなりました。
「人生を前向きに生きるために自分の世界との向き合い方を考える」
、です。

わたし:なるほど。この一般論が出てきたのは、本書をどういうふうに読み取ったからなのか、簡単に説明してもらえるかな?

ノブくん:わかりました。僕がこう考えた理由については、私達が最終的に取り組まなければならないのは、自身の頭の中にある悩みなのではなく、現実に存在している問題そのものであり、それらを悩まずに取り組むというところに本書の目的が存在しているのだ、そうしなければ「道は開け」てこないのだ、という考えに基づくものでした。

Oくん:私の場合、目次と序論を基に、いったん仮説として、「悩みを克服するために人生の問題をどの様に考えるかを示す(こと)」と置いてみました。
そうした上で、その仮説的な一般論にしたがって一度全体を読んでみた結果、対象論が「悩み」では一般論たりえず、目的論が「克服する」では悩み以外を対象とした時に意味が不明になると判断したので、このような表現として落ち着いたのです。

ここでは、まず対象論をより大きなくくりである「人生」に変更し、目的論を他人からの批判や自身の精神状態についても言及できる上で「人生」に合致するであろう「前向きに生きる」に変更しました。次に方法論を「自身と自身の周囲を含む、『自身の認識する世界』との向き合い方、考え方について記述しているであろう」と考え、「自分の世界との向き合い方を考える」に変更したものです。

◆2◆「悩み」とは何かから対象論へ

わたし:なるほど、ではふたりとも、表現がどのようにまとまるかによって扱い方が変わるけれども、本書の内容としては「悩み」というものを扱っており、現実的な生活の上での問題を解決し「道を開く」ためには何らかの方法でそれを取り除くべきである、というふうに見たわけだね。それは正しい指摘でしょうから、まずはそこから考えてゆきましょうか。ところで、ここでいう「悩み」とはどういうものか、考えてみましたか。

ノブくん:…頭の中にあるもの…でしょうか…。

わたし:一般的に言えばそういうことになるでしょう。しかしここで<唯物論>の立場に立って探究を続ける時に大事なのは、あくまでも目の前の<事実>から考え始めること、つまりあくまでも本書の内容を正面に据えて、そこに忠実に一般論を引き出すということなのであって、本書を外れたところにある一般的な意味、というものではなかったはず。本書中に、カーネギーが考える「悩み」がどのようなものであるか、は書かれていなかっただろうか。

ふたり:(本書にあたりながら)うーん…。

わたし:本書の目次を見たとき、「悩み」ということばが何回も出てくることから、いちおうはそのことについて注意しておかねばならないことは、ふたりともわかったとおりだね。一般的に言って、ひとつの概念を本質的に考えようとするときには、必ずそれがどのように出てくるのか、という<生成>の段階にこそ着目しなければならない、ということだね。

たとえばひとつの病気であれば、どのような生活によってその(悪い)環境が用意され、実体にどのように働きかけることによって域値を越えて病気という質的な状態として出てくるのか、を追わねばならない。そういう観点から言えば、本書は、「悩み」がどのように生成されるものとしてとらえているのだろうか。

ふたり:…。

わたし:そういう観点はまだ持てていなかったようなのでやや残念ではあるが、答えを言ってしまうと、81頁にある引用を読んでもらいたい。筆者が知り合いのことばを引用して、こう書いているね。『私が思うに、問題をある限度以上に考え続けると、混乱や不安が生じやすい。それ以上考えたりすれば、かえって有害となる時機がある。』

いいだろうか、繰り返しになるがふたりとも、<弁証法>的に考えてゆくときには、必ずこの<生成>の段階に着目しなければいけないよ。どんな本を読むときにも、どんな表現を受け止めるときにも、いちばんのそもそも、いちばんのはじめの段階、どういった環境のなかからそれが生まれでたのか、という0から1について語っている箇所があるなら、必ずそこに注目してよく検討すること。それを鮮やかに論じられる人ならば、まずはホンモノと考えてよいと思う。

ふたり:はい、わかりました。心に留めておきます。

ノブくん:ひとつここでわかったのは、対立物への転化、ということであると思います。ここで書かれている生成過程というのは、問題というものがあるときに、それがある限度以上に考えられてゆくことになると、かえってそれが有害となる、ということですね。

Oくん:問題というのは客観的にあるけれども、それを受け止める人間が限度を越して考え続けると悩みになってゆくということか…。

ノブくん:質的な転化…。なんだかわかってきそうなのですが…。

Oくん:問題は客観にあり、悩みは主観にあるということは…。

わたし:みんな、ちょっといいかな。さきほどからずいぶんとうなっているけれども、<唯物論的弁証法>の立場と考え方をしっかりと押さえながら考えているだろうか。わたしたちの立場からすれば、ひとつの概念をアタマの中のイメージを整理したりくっつけたりするのでなしに、あくまでも対象を正面に据えて考えてゆかねばならないのだったね。客観と主観ということばがまだ手に負えないのであれば、もっと明確な像を描けるように、具体的に考えてゆけばよい。

たとえば、部屋の中に蜂が入ってきた時に、母親はあわてふためいて殺虫スプレーを探しまわっている一方、父親は蜂を刺激しないようそっと窓際に行って窓を開け、そばにあった新聞紙でやさしく外へと導いていった、というような場合があるね。こういったときに、「蜂が侵入してきた」というのは確かにひとつの問題であるけれども、それをどう感じるか、どう考えるかは人によって大きく違ってくる。受け止める人間の許容量を越えていればヒステリーになって、考えるどころではなくなるし、それが十分であれば、力関係をしっかり把握して、お互いが住む環境の線引きがうまくできる。

ノブくん:そうすると…客観的な問題はたしかにある種の問題ではあるけれども、それを悩みとして抱え込んでしまう人もいるし、悩みにせずに笑い飛ばしておしまいにできる人もいると…。そうするとこの本は、問題を認識することが度を過ぎるあまりに悩みに転化しがちな人に、処方箋を与えているのだと考えるとしっくりきますね。

Oくん:なるほど、明確に整理できてきているように思います。

ノブくん:この本は、現実にある問題とどう向き合うのかという問題意識を養っていく目的で書かれたものではなく、自身の頭の中で膨らんでいる混乱や不安を取り除く事で、悩みを取り除いたり予防したりするために書かれているものなのだということですね。ですから、本書で扱っている対象とは、「問題」ではなく、「悩み」なのだということになります。当然に対象論には、「悩み」が含まれてくることになりますね。

Oくん:そうすると、我々の対象論は考えなおさないといけませんね…。

ノブくん:目的論や方法論も変えないと…。少し時間をください。
「悩みを××にするよう○○をととのえる」
、というところからもう一度考えます。

◆3◆悩みによって失うものは何か、から対象論へ

Oくん:…目次を見ると、ハウトゥ本らしく、気持ちを整理する方法のことはたくさん書かれているようなので、そこを一般化できれば方法論になると思うのですが、「なんのためにそうするのか?」という目的論がないような…。

わたし:「悩みを解消すれば何が得られるのか?」という向きでは、直接の答えが提示されていない、ということだろうか。みなさんにはよくたとえとして出しているように、月が明るく輝くのは暗闇があるからであり、生があるのは死があるからであった。同じようにたとえば、下宿を始めた時に両親や家族のありがたみがわかったのではないかな。

ノブくん:はい、大事なものが見えにくいときには、「それがなかったらどうなるだろうか」と考えてみるとよい…つまり、<対立物の相互浸透>で考えてみればよい、ということですね。

わたし:そうだね。では本書の中で、何が悩みのもたらす最悪の状態であり、その状態に陥ることで何が失われていくのかを考えてみるとよいのではないかな。ここでは直接的に何を得るのかを目的においているというよりも、「何を失わないようにするのか」という観点があるのではないだろうか。

ノブくん:悩みのもたらす最悪の事態ですか…。

Oくん:…「悩み」によって失うものは、「自分の資産」、と言えるのではないでしょうか。

わたし:なるほど言いたいことはわかるけれど、資産、という言葉の響きが、経済性に重きをおいた意味合いにとられてしまうのではないだろうか。無理なところまで一般化してしまってはやはり誤りという<対立物へ転化>してしまうから、本書に即したかたちでまとめておけば、複数の同じレベルのことばを併記するというのでも良いと思うよ。

ノブくん:わかりました。いきなりはまとまらないので、いくつか思いつくところを挙げてみます。「小事に食いつぶされること」(3-7)、「生活の安らぎや喜びが失われること」(4-12)、「精神的・情緒的態度を失うこと」(7-24)、といったことでしょうか。悩み続けることで、これらのことを失うことになる、と。そうすると、これを<対立物の相互浸透>的に裏返してみれば、悩みを断つことによって得られるものも見えてきますね!

本書で扱われている最悪の状態とは悩み続けることであり、それによって時間、精神、身体といった日常生活に必要な要素が失われていく事が最大の問題なのである、ということになりましょうか。なので、ここでの目的論とは、「健康や時間を損失させない為」ということになります。

わたし:ではここまでを一度整理すると、対象論と目的論は仮説として固まってきたわけだから、
「悩みによって健康や時間を損失させないために○○をととのえる」
ということでいいかな。

ふたり:はい。

◆4◆ハウトゥ本としての内容から方法論へ、まとめて一般論へ

ノブくん:じゃあ、残るは方法論ですね。目次を見るだけでも、本書はハウトゥ本らしい構成ですし、事実中身もそうなので、言ってみればそういう話に始終してはいるのですが…なんだか、コレ!といったものがなくて、雑多なケースをたくさん書いてあるだけにも見えますね。

わたし:そうだね。それを一般化するのが、ふたりの力の見せ所ということになるでしょうね。先ほど、「悩み」とはどういうものか、を本書に即して考えてきた君たちであれば、どうすべきであるのかを推測できそうだとも思うのだけど。

ノブくん:第3部は、「悩みの習慣を早期に断とう」とありますから、まさに本書で最もハウトゥ的な部分、私たちにとっては方法論として見据えるべきところと言えると思います。ここで悩みを断つための方法論らしきものは順に、「仕事に没頭する」、「力点を変えてみる」、「確率を出してみる」、「運命には従え」、「悩みに歯止めを設けよう」、「過去の失敗を冷静に分析したら忘れよう」、となっています。

Oくん:これと先ほど整理した、「悩みとはどういうものか」を考え合わせると…本書では、問題について考えることは否定していないながら、それが度を過ぎるといけないと言っているのですから、考え方を整えよ、といったことを言っているのではないかと。

ノブくん:たしかに。僕も、「ものの見方を整える」というようなことが方法論であると考えました。ここまでをまとめると、
「悩みによって、健康や時間を損失させない為、ものの見方を整える」
、となるように思います。

わたし:ふたりとも、それでいいかな。二人ははじめそれぞれ、
「問題を、悩まず解決する為に、心身を整える」、
「人生を前向きに生きるために自分の世界との向き合い方を考える」
という一般論を出してきていたけれども、それと比べていま作ったものはどう変わっただろうか。

ノブくん:まず「悩み」というのを対象に据えられたことで、対象論以外も組み立てやすくなり、目的論・方法論も明確になりましたね。とくに目的論については、僕が当初出した一般論のなかには含まれておらず、今思えば良くなかったなと思います。

わたし:そうだね。それぞれの論理のあり方がしっかりと組み合っていることが、体系化というものにとっては最も大事だから、今回の課題をとおしてその感触を掴んでもらえるといいと思う。

Oくん:ノブさんと同じで、対象が「悩み」とわかったときに、うまく議論が運び始めたように思います。また私のはじめに出した一般論は、今見るとあまりに一般的すぎて、どんな本についてもこう言えてしまうような…。

わたし:そのとおり、一般論を出すときには、そこをうまく掴んでほしい。一般論といっても、あくまでもその書籍がその分野でどのような位置づけにあるか、ということ、つまりその分野での特殊性が提示されていなければならないから、あまりに一般的すぎるものはかえって一般論ではなくなるという<対立物への転化>が起きてしまうことを覚えておいてほしい。論理に振り回される人というのは、この誤りがいちばん多いから…。

さて議論する中で、このように一般論が明確になってきたね。いちおう、わたしの前もって出しておいた一般論を見てもらうことにすると、それはこのようなものだった。
「悩みによる時間・精神・身体の消耗を最小にするよう正しい考え方を選ぶ」こと。
これはみなに、巨人の肩に乗る=科学的看護論の一般論から学ぶ、という姿勢をわかってもらうために、その表現のあり方に似せて書かれてある。

学問的な段階で概念規定をする場合には、こうしてお互いに出してきた一般論などをより議論しぶつけあって、互いにより高い高みの認識に到達してゆく、ということをやるのだけれども、今回の課題にあってはとりあえず、ここまででよいとしておこう。

扱った本書の内容についてよりも、君たちには取り組まねばならないことがあるでしょうから。ただ今回議論して、その中で互いの認識が高まってきたという過程については、しっかりと押さえておいてほしい。次の課題は、唯物論的・論理的に見るという姿勢はそのままに、認識論寄りの課題について取り組んでゆきましょう。みなさん、がんばってください。

◆

以下は、MindNode ProというMac用のアプリケーションで作ったマインドマップを手元に置きながら、本文を読んで要約を書き加えていったものです。


(了)

2013/06/28

『道は開ける』の一般性はどのように引き出されたか (3):それぞれの<世界観>・<論理性>から、日常の問題はどう見えるか

(2のつづき)


今回の一連の記事では、「観念論に滑り落ちずに唯物論的な世界観を維持すること」と、「形而上学的な考え方に落ち込まずに弁証法的な論理性を維持すること」に主眼を置いて、どういう心がけが学問的な段階を維持するために必要なのかを説明してきたのでした。

そして前回までで、世界の見方が、<世界観>と<論理性>の立場と考え方においてそれぞれ大きく二分されてきていることを書きましたが、今回は、日常的な問題を考える時に、これらの立場と考え方においてはどのような解き方になるか、を確かめてみるお約束でしたね。


◆それぞれの<世界観>・<論理性>では、日常の問題はどう見えるか


以下の説明は少々強引なのでまる覚えされてしまうと困ったことになりますが、それぞれの立場・考え方についてのイメージがどうしても湧かない人に、「なるほどこんなものか」という印象を持ってもらえることを願ってのものです。

すでに理解が進んでいる方は、この例えが「ほんとに強引だね」と感じられるでしょうが、その場合にでも言わんとしていることは汲み取ってくださるはずです。

さて今回たとえとして取り上げるのは、
「個々人の持つ好きや嫌いは生まれつきかどうか」
という、わたしたちがふつうに生活を送っていてもよく取り上げられている問題です。

これをどうのように解くかは、前回までの記事で述べてきた立場と考え方のどれを採用するか、によって異なってくるはずです。それぞれ順を追って、どうなるのかを考えてみましょう。


◆1. 世界観による立場の違い

まず<世界観>による区分から。

◆1-a. 観念論の立場から見る問題

<観念論>の立場であれば、この世界はあるときなんらかのきっかけによって生み出されたものとみなします。そうであるからには、世界を生み出した主体を認めねばならないことになるために、それが物質ではないとするなら精神である、とするのです。ですから精神を、物質よりも先行する存在であるとみなす立場がこの観念論です。

詩などで「あなたが見ている世界はあなたがいてこそ(=あなたという精神があってこそ)」といった思想が展開されることがありますが、あれもひとつの観念論的な考え方と言えるでしょう。そこでは、あなた、つまり世界を見る精神がいなくなれば世界も消えてなくなる、というようなものとして世界を見ていることになります。

この場合、極端に言えば、あなたの気持ち次第では、世界は希望に満たされ歩くたびに幸運が舞い降りる楽園にもなりますし、また別の気持ち次第では、あなたの一挙一動は不幸に見舞われており苦しみにあふれた地獄のような世界にもなりえます。

このように精神に、物質よりも優位な地位が与えられているときには、ものごとを決めるのはそれを見たり感じたりしている精神如何、ということになります。そこでは現実は精神の映しだしたところの写し絵のような位置づけとなり、好きや嫌いというものは、好きだから好きであり嫌いだから嫌いなのであって、そこには物質的な条件は介在せず、好きや嫌いも「ただ精神によって決められているもの」としてとらえられることになるでしょう。

また精神が優位であることから、物質である身体は従属的な関係に置かれます。この場合、好きや嫌いも生まれつきだとみなされたり、もっと進んでは生まれる前からの魂のあり方が好きや嫌いを規定しているのだ、ともなってゆきます。

実践的に言って、もし気持ちが病んだ人物がいる場合に、「気持ちが上向きになるまで待つ」、という対処法をとる場合には、精神のあり方は精神によって整えるべきだと見ていることになりますから、これは観念論の立場でものごとを見ていることになります。


◆1-b. 唯物論の立場から見る問題

これとは逆に<唯物論>の立場であれば、あなたや、ひいては人間の精神が生まれる以前から世界は存在してきたのであり、わたしたち人間がそれぞれアタマの中に持っている精神というものは、頭脳という器官のはたらきであるとします。つまり唯物論では、物質を、精神よりも先行する存在としてみなすわけです。

ですからそれを担っている個体が死ねば当然に、そのはたらきも止まることになり、精神もその時点で消滅することになりますが、あなたの心身が消滅した後にも、世界は存在し続けます。

この立場にとっては、精神でさえも物質的なところから考え始めます(「精神を物質であるとして」考える、のではありません。これはタダモノ論です)ので、あるひとりの人間がおぎゃあと産声を上げて生まれたときから、お母さんの胸に抱かれてお乳をもらって産婦人科を出て、家族のなかや友人関係を結びながらいかにしてその精神を生成させ発達させてゆくのかを探究してゆくことになります。

ですからこの、物質を精神よりも優位に置く立場から先ほどの問題に答えるとするならば、「物質的な条件、たとえばあなたの身体のあり方やそれを作っている大本の食事や生活のあり方によって好き嫌いという感性のあり方が決まっている」という答え方になるでしょう。ただだからといって、好きや嫌いも遺伝子によって決定されている、と言っているわけではありません。

もし実践的に、気持ちが病んだ人物がいる場合、「身体を(少しずつ)動かすことで気持ちを整えてゆく」という方向性を示すとするならば、精神的な問題が起こる原因を物理的な土台に帰しているわけですから、これは唯物論の立場に立っていることになります。


◆2. 論理性による考え方の違い

では次に、同じ問題を<論理>の問題として捉えてみましょう。

◆2-a. 形而上学的な考え方から見る問題

まず<形而上学的>な論理によって考えるときには、「あれかこれか」と、あれとこれを乗り越えられない区分としてみなすのですから、答えは簡単です。

たとえばある人の好きな食べ物が卵焼きであるという場合を考えるときには、「生まれつきそれが好きだったのであり、死ぬまでずっと好きなものである」というふうにみなされます。この考え方によれば、食わず嫌いは固定化されたものであり治すことができません。

なぜならこの立場から言えば、あるひとつの性質は別のものに変化したり互いに移行しあうということを認めないからです。

他のたとえとして、あなたがもし、ある異性が自分についてどう感じているかを確かめてみたくなり、「私のこと嫌いなの?」と聞いた時、「嫌いじゃないよ」という答えが返ってきたとして、「嫌いじゃないなら好きってことね!」と、「あれじゃないならこれだ」式に判断するのであれば、あなたは形而上学的に考えているということになります。


◆2-b. 弁証法的な考え方から見る問題

さてこれとは逆に、<弁証法的>な論理によって考えるとするならば、個々人の好きや嫌いというものは、互いに移行しあう、という運動法則を認めます。

大好きだったイチゴも食べ過ぎて吐き気をもよおせば嫌いになることもありますし、あれだけ好きだった煙草も、いったん禁煙が成功してから人の煙を吸うと「こんなに嫌なものだったのか」と、以前とは一転して嫌いになっている自分に気づくことがあるでしょう。

ですから、好きや嫌いは「習慣や体調、気の持ち方を整えたり崩したりすることによって変わってゆく」ということになります。

もし「私のこと嫌いなの?」と聞いた時、「嫌いじゃないよ」という答えが返ってきたとするならば、「完全に嫌いではないのだとしてもどのくらい好きだと思ってくれているのかな?」と、好きと嫌いのあいだには一定の範囲があることを前提として考えます。また、一個人の中でもある部分は好きだが他の部分は嫌いだとされることも認めますし、ほかにも一つの性質について、誰とでも仲良くなれるという長所を別の側面から見れば八方美人という短所にもなることも認めます。あれかこれかではなく、「あれもこれも」と見るわけです。

好きなものが嫌いになったり、嫌いなものが好きになったりを認め、その過程性を追おうとするのが、この弁証法という考え方です。もっと言えば、好きや嫌いも、ひとりの人間が生まれ育てられる過程で決まってきたものであり、今後も変わってゆくものである、というふうに考えます。

現実の物事をうまく運びたいと考えるのであれば、その運動の仕組み(=過程的な構造)がどのようになっているかを確かめて、その認識になぞらえた実践を現実的に取り組んでゆかねばなりません。たとえばあなたの子供の食わず嫌いを直したいというときには、嫌いなものを好きになるように働きかけてゆかねばなりませんから、この場合も当然に、対象が変化することを前提として、弁証法的に考えることを求められているというわけです。


◆<弁証法的唯物論>から見る問題

さてそうすると、ここまで整理した2つの<世界観>と2つの<論理性>は、対立しながらもそのうちのそれぞれは互いに移行しあう関係にあるために、わたしはその転落を防ぐようにこそ厳しく指導する必要があることがわかってもらえてきたことと思います。

では、<世界観>と<論理性>同士であれば両立しえないのか、ということになると、これは当然にそうしえる、のですし、実際的にはそうでなければ存在し得ないからこそ、以上の例えが強引なものになっているのでした。

これらは、おおまかに、<形而上学的観念論>、<弁証法的観念論>、<形而上学的唯物論>、<弁証法的唯物論>に分けられます。
(2×2の表にまとめてもかまいません。先述したように、読者のみなさんが独力で我がものとしてもらうために、わたしのほうではあえてまとめません)

(ではたとえばこの一番はじめのものを、<観念論的形而上学>というふうにひっくり返すとどうなるのか?と聞きたい方も出てくるかと思います。答えとしては、これでもおかしくありませんし、ほかの3つもひっくり返すことができます。ただ先ほど述べた言い方が世界観を中心に据えたものであるのに対し、これらの4つは論理性を中心に据えて世界観を加味した言い方であるというだけです。たとえば<形而上学的観念論>は、形而上学の論理性を用いた観念論の立場を示したものですし、<観念論的形而上学>は、観念論の立場に立った形而上学的な論理、ということです。)

ここで4つのカテゴリがおおまかに浮かび上がりましたね。

わたしがはじめに以下の展開は強引なものにならざるをえない、と断ったのは、ひとつの<世界観>を決めたとしても、それをどのように考えてゆくのかという<論理性>が定まらないことには、精確に言えば現実の問題にも答えようがない、という理由があったからです。一口に唯物論の立場に立つといっても、そこには形而上学的な段階もあり弁証法的な段階もあり、これらの幅はとても大きな広がりを持っていますから、たとえば物理学的な物の見方を押し付けて人間の精神のあり方を論じようとするならば、わたしたちが抱く恋や恐怖といった感情も、電気信号や遺伝子のせいにされかねません(これを揶揄して、タダモノ論と呼びます)。

しかしともかく、当人が意図していようが意図していまいが、ある人がひとつの意見や考えを文章や口頭で表現するときには、これらのどこに位置づけられるかが決まってきます。「人は死んでも魂は残る」とすれば観念論ですし、「魂などありはしない、死ねば塵となるのみ」とすれば唯物論です。いったん告白したのに振られた相手でも諦めず、何度も何度も立ち向かって関心を引こうとするのなら、経験的につかみとってきたとはいえ、いちおう弁証法的にものごとを考えているということになります。

ですから、わたしはそれがどのようなものであるか、どのような段階のものであるかを判断します。その上で良い評価するときは、唯物論から滑り落ちずによく歩み切っているなあということか、弁証法をしっかり意識しながら発揮できているなあということが当人の表現から見て取れる時、というわけです。

何をやってもちっとも評価されないという場合は、ただ単にそれらを満たせていないからであって、ご当人と気質が合うか合わんやといったつまらないことでは絶対にありません。そもそも弁証法的に考えられるのであれば、気質は合わせてゆけるもの、ですから。

さてまとめの最後になりましたが、わたしたちの研究の立場・考え方は<弁証法的唯物論>です。世界は、物質を土台とした過程の複合体として把握されます。

もしこの立場と考え方でさきほどの問題を考えるとするなら、好きや嫌いは「あなたがおぎゃあと生まれた瞬間から生成をはじめる精神がそこを土台として、その後どう育てられてきたかという周囲の物質的な条件によって折り重なりあうように発達してきており、これは人間として育てられてきたあなたの身体のあり方やそれを作っている大本の食事や生活のあり方によって決められてきているが、その法則性を目的的に適用してゆくのならば自ら変えてゆくこともできるもの」として扱われます。

さきほどの、世界観としての<唯物論>と論理性としての<弁証法>を加味して、それぞれがバラバラであったときとはどのように問題の解き方が変わっているのかがわかってもらえるでしょうか。何を必死になって指導してきているのか、だんだんわかってもらえてきたでしょうか。それがわかってもらえれば、ここまでの記事は修了です。

次回ではようやく本題に移り、『道は開ける』の一般性についての議論を見てゆくことにしましょう。


(4へつづく)

2013/06/27

『道は開ける』の一般性はどのように引き出されたか (2):<論理性>はどのように二分されるか


(1のつづき)


今朝の記事では、学問の段階から森羅万象のあらゆる出来事をながめるとき、その<世界観>はどのように二分されるか、についてお話してきたのでした。

二分されたそのそれぞれは、どういったものでしたか?わからなければ、読み直してきてください。

簡単にでもわかったのなら、次に進みましょう。


◆<論理性>はどのように二分されるか

先ほどの<世界観>の問題と同じように、学問の歴史は、古代ギリシャ哲学、近代ドイツ哲学(あいだに中世スコラ哲学を入れてもよいですが、この二つに比べると数段重要性が落ちます)をはじめとした大きなジグザグの過程の中で、次第次第に<論理>的な段階を高めてきました。

論理というのは?と訊ねたい方は、簡単には目の前の事物や事象を貫く性質を引き出し、筋を通して説明できるようにするためのものであり、日常的な実感としてわたしたちが何かを「なるほど」と納得できるときには、この論理というものが含まれているからだ、とみなしてよいでしょう。

ただ一口に論理といっても、一見すると筋が通っているように見えて、実際にはそうでないものや、もっと悪くは相手に反論しにくい抜け道をついただけで現実には適用できないヘリクツであったりもします。また、実践家がよく口にする、「論理など何の役にも立たない。経験こそすべて」というのも、自分自身の経験から引き出してきた事物・事象の一般的な性質であると言えますから、これも程度はともかくひとつの論理ということになります。

さてこの、「こういう場合にはだいだいこうなる」、つまり現実から法則性を引き出したところの論理というものには、ここで挙げたように大きく程度の差というものがありますから、学問的な段階で研究をしたり実践をしたりしたいのであれば、いくら高めようとも高くしすぎることはない、ということになりますね。

◆

このうち、歴史的に最高度の段階と見なされているのは、このBlogでも暗に陽に出てくる(「暗に」がどこにあるのか、を見ようとしてくださいね!)、<弁証法>、という論理のあり方です。

この考え方では、世界を常に変化し続けるものとしてとらえ、その過程を追おうとします。春は夏へと変わり夏は秋へと辿ることで一年がめぐり、麦は種から生まれ成長し、やがては死に至りますが、そのことによって新しい種を育むという、それらの過程を通して眺めて、そこにはどのような法則性が働いているのかを考えようとします。

蛇足ながらイメージを深めるために一般的な傾向を俯瞰すると、この論理の必要性を強く感じるのは、人間の感情や社会といった分野の複雑な問題を解かなければならない時が多いようです。

逆に数学や物理学といった分野では、現代においては公式化されきっている法則性も多いために、「人間は必ず死ぬ。アリストテレスは人間である。ゆえにアリストテレスは必ず死ぬ」的な形式論理がすべて、とみなされることが多く、いきおい弁証法などという曖昧なものは科学とは呼べない、とあしらわれることもあるようです。

ただこういった分野で扱われる対象にも、やはり大きな視野から見れば弁証法的な法則性は根底に流れていますから、体系性を確保しながら高度な研究を進める場合にはどうしても必要になってきます。

物理学という分野から引き出された論理(法則性の把握)を、たとえば恋愛を成就させるために用いるとどうなるか?と考えれば、結果が見事にその不足を証明してくれるでしょう。いわゆる理系出身者が、実験器具を扱うように人間をマネジメントしようとして失敗することが経験則としてよく取り上げられるのも同じ理由です。こういったことを見て取って、これらを揶揄するかたちで、<形而上学>な論理、と呼ぶのです。

ですから、ここで言う<形而上学>とは、弁証法的な論理を持つ側から、いわば侮蔑的な意味あいをこめて「論理が平面的で低い」ということを言おうとすることばであるため、実際にそう言われた当人たちが自らのことを形而上学者である、と言ったりすることはまずありません。また、形而上学というものを、単に思弁哲学を意味する場合もありますので、使用したり読み取る時は文脈に注意せねばならない言葉です。

ただそれでも、一般的に言って、世界を常に変化し続ける過程的なものとして追うのでなしに、<形而上学>的に考えるということは、世界を変化のない、静止したものとして考える、というところに特徴があります。

どもあれわたしたちとしては、アリストテレスが云々という三段論法のようなものを精神の問題や社会の問題に押し付けたうえで、「論理通りに進まないのはお前たちの理性が足りないせいだ!」などというわけにはゆかない立場にありますから、やはり、<弁証法>的な段階を維持しさらに高めてゆくことを要請されているわけであり、この場合にも先ほどと同様に、<形而上学>的な論理に滑り落ちない心がけが毎瞬・毎秒、必要とされているのです。

◆

さて、ここまでを読まれた読者のみなさんは、たまに記事を書いたと思ったらこれまた難しいことを言いよって…と思われたでしょうか。この記事だけですべての事情をあまさず伝えるというのは不可能ですが、これがおさらいになっているくらいには追いついてきておいてもらいたいと願っています。

しかしそれでも難しいとは思いますので、お詫びがてら次回では、ここまでのお話を、日常的な問題を取り上げて、それぞれの立場から考えるときにはどうなるかを考え、それぞれの立場・考え方についてのイメージをより鮮明にしてゆきましょう。

そこで例えとして取り上げるお題は、
「個々人の持つ好きや嫌いは生まれつきかどうか?」
というものです。

それぞれの概念がわかりかけている人は、<観念論>、<唯物論>、<形而上学>、<弁証法>のそれぞれの立場に立って考えるとどのような答え方になるか、と腕試しに考えてみてください。


(2につづく)

『道は開ける』の一般性はどのように引き出されたか (1):<世界観>はどのように二分されるか


読者並びに学生のみなさん、


お待たせしてしまいました。

ここのところ個別の問い合わせが多いこともあって、不明な箇所をひとつひとつ並んで歩くように理解してゆく、ということをやっています。

こう書いてしまうと恐縮されるかもしれませんが、みなさんが現実にある精神や社会の問題に実際にぶつかって、それをなんとか解こうとすることを手伝うということは、わたしにとってこれ以上ない勉強になりますから、無用なお気遣いとお心得ください。個人的な事情についてはもちろん他言しませんので、ご安心ください。

ただ、ある種の問い合わせにはお伝えしておいたとおり、内容のない罵詈雑言のたぐいに返事をするのは3度までと決めてあり、その姿勢が改めてもらえない場合、それ以上は無視するよりほかありません。
そういったものに心揺るがされるようなヤワな鍛え方はしていませんので実質的にも無用ですし、なによりご当人のためにもなりませんから。

自分で表現したものを、いったん目の前においてみたうえで、「これを受け取る人はどう感じるかな?」と考えるという認識の持ち方は、身につかないうちは困難であることもわかります。しかしこれなくして、ひとりの人間は社会性をまともなかたちでは持ち得ないのです。

社会性など要らぬという開き直りが脳裏に浮かんだときには、では人間とはどういうもので、どう生まれどう育つのか、どう生まれさせられどう育てられるのか、という問題を頭の片隅に持っておき、自分の過去を振り返ったり折にふれて思い出して考えてみられることです。

これは表現するときの思いや考えをいったん棚上げした上で、他人の立場になって自分の表現を改めて見る、ということであり、これがすなわち<客観視>という、認識のあり方です。学者や理論的実践家に芸術家、ひろく文化人として生きるのであれば、その実践に直接影響を与えるとともに、それに相応しい人格たろうとするならばなおのこと、いのいちに必要とされて良いはずのものです。時間はかかっても、思うところが出てきたときには自分の言葉でその旨伝えてもらいたいものです。

◆

さて以下は、先日行われた勉強会での議論の内容を、ひとつの流れとして読めるように整理してゆくものです。ここでの内容も、<客観視>と関わることですので参考にしてください。

まず、毎度のこと前置きが長くなりますがそれでも、数回分の記事を使ってお断りしておきたいのは、「研究会」ではなくて「勉強会」とある理由について、です。

あくまでも学問的な段階を目指して研究をしようと志すのなら、その前段階として論理を見る目を養っておかねばならないのですが、その「論理を見る目」というものは、何度も何度も目の前の現実や本の中の出来事(=対象)から引き出す訓練をしておかないと、どうしても高まってゆかないのです。

そしてまたここで重要なのは、この何度も何度もの繰り返しというのは、あくまでも「正しい道筋で」繰り返さねばなりません。
それを終えられたと判断したときには、遠慮なく「勉強」ではなく対等な立場で様々な分野の「研究」を持ち寄る場、と言うことができるということです。

この前の一連の記事のうち、とくに「人を動かす」一般論はどう引き出すか (2)において厳しくお伝えしておいたことは、整理して言えば実のところ、観念論への転落を防ぐことと、形而上学への転落を防ぐこと、だったのでした。

これがわからない読者の方は、「何をそんなに目くじらを立てることがあるのか?」といぶかしく思われたことでしょうから、まずは少し説明することにしましょう。

さて、今回の議論で中心となってくれたのは、このBlogでは文学評論で登場してもらうノブくんと、先ほど述べた記事、少し前に『人を動かす』の一般性の導出の際に、果敢にも課題に挑戦してくれたOくんです。

いま改めて、その記事の際に強調しておいたことは何だったでしょうか、と聞けば、「一般性というものは、一般的すぎてもいけないし、具体的すぎてもいけない、ということですよね」という返事があると思います。ごく簡単に常識的な範囲でまとめればそれでもよいのですが、学問的な段階から言えば、この答えではいけないのです。こここそが、今回取り組んでもらいたかった大きな問題なのでした。

以下、少し長くなりますが、下線や傍点などの強調ならびにベン図などもあえて用いませんので、必要ならば各自工夫して基礎的な概念について理解していってください。

ではその、論理というものを学問を目指す段階へと引き上げる際に浮上してくる問題は何か?と言えば、ひとつに<世界観>の問題と、もうひとつに<論理性>の問題、ということになるのです。


◆<世界観>はどのように二分されるか

はて<世界観>とは?と言えば、文字通り「世界をどのような立場で眺めるか」ということですが、これを正しくわかるには哲学史を振り返らねばなりません。これには2つの世界観があり、あくまでも歴史的・過程的に見ようとすれば、一方から他方が生まれ独り立ちするようになると、それは生みの親である一方と対立する関係となり、やがて互いにせめぎ合い、影響を与え合い渦巻く中でお互いの世界観を明確にしてきたという流れがあります。

ここを説明するととても大きく横道に逸れてしまうので、上の伏字に何が入るかが分からなかった人は、まずはもう一度三浦つとむ先生の著作を読みなおすことでおさらいしてもらうとして結論だけ言うことにすると、学問の世界には歴史的に、それを大きく二分してきた二つの世界観があった、ということを思い出してもらいたいということです。それは、<観念論>と<唯物論>の立場なのでしたね。

わたしたちはどうなのかと言えば、あくまでも現実を揺るがぬ対象として眼前に据え、そこから論理を引き出し理論化した上で体系立てて理論化し、最終的には現実の問題をこそ高度に解くための指針としようという立場にありますから、これはとりもなおさず、<唯物論>という世界観に立って自らの専門分野を探究しようとしているわけです。

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しかし実際に、学問とは何かを学問の歴史から学んだうえで、学問的な段階を踏み外すことなく研究しようと志するのであれば、アレッ、これはもしや、とおぼろげながらでも気づけるはずのことがあります。

それというのは、この二つの世界観は、「ワタシは精神が大事だと思うからこっち」、「ボクは精神はモノではないと思うからあっち」、といった感性のレベルで選択してしまえるようなものでは絶対にあり得ない、という非常に厳しい事実です。

さらにもしここで、唯物論の立場に立って自分の道を探究していこうということになると、現実をありのままに見ると言ったところで、あまたある事実のうちどこから・どのように論理を引き出せばよいかが皆目見当もつかない、というさらに厳しい現実が待ち受けているのがわかるでしょう。

このBlogの記事の中で、文学を実践・専攻するノブくんという人物がわたしから、「現実を論理的に見て、そこから構造を引き出すということは、あらかじめ用意した物事の見方を現実に押し付けた上で好き勝手に解釈するということではありません!」と、何度も何度もこれでもか、というほど厳しく指導されてきたことを見てこられた方もおられるでしょう。

あの指導の繰り返しがどうしても必要であったのは、まさに学問レベルの実践にはこういった落とし穴に嵌りつつある自らを客観視し得る能力をつけなければならなかったからであって、一言で言えば、唯物論の道を歩いているつもりが、なんらかのきっかけで少しでも足を踏み外すといとも簡単に観念論になってしまう、という恐ろしさがあったからなのです。

机の上だけで勉強ばかりしている人は、この恐ろしさを現実の構造に即して脳裏にありありと浮かべることがとても難しいと思います。

そういう方は、雪山を進む一歩一歩の足元の先に、どのようなクレバスが待ち受けているかを、ありったけの五感を総動員した集中力・注意力でもって歩み「続ける」ことの厳しさ、とでも例えればイメージしやすいでしょうか。(これとは逆に、身体を動かす実践を趣味にしろ仕事にしろ取り組みつつ座学もこなすという人は、理論が現実離れしたときになんとなくでもあれっ、これは何か変だぞ、と気づけることが多く、地に足の着いた論理を作りやすいというのも、身体と精神の浸透のあり方を考え始めるときにはとても大事な気付きです。より進んで、思春期を座学・受験勉強一辺倒の生活で過ごすことの危うさも考えてみてほしいものです)

こういう問題があるというのに、ほとんどの方は、学者としての死に直結する落とし穴がそこらかしこに空いている、とは考えてもみなかったのではないでしょうか。そうでなければ、ゾンビやミイラが学問の世界を闊歩している理由が説明できませんので…。

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今回の記事は、基礎的な事項も書いてあるので、検索の利便を考えていつもより節を多めに区切ることにしましょう。

次回の記事は、今日の18:00には公開される予定です。


(2につづく)