2010/11/06

朝―太宰治

うーん、このBlogger、全体的なシステムは悪くないのだけど、
プレーンテキストをコピペすると、なぜか行はじめのひとマスを勝手に削ってしまうぞ。
リッチテキスト形式にしてからコピペすればいいのだけど、なんともめんどくさい。

文章の校正なんかを引き受けると、文体や文法の乱れは仕方ないにしても、
日本語としての形式を守れていないものが結構多い。
学生さんだけではなくて、年配の方にしても、それはもう酷いものがある。

どうでもいい雑記やこういう愚痴を書くときにはひとマス空けをしないのだけど、
人に対する文面では、きっちりルールを守ってゆきたいもの。

ただでさえ、情報化なんて殺し文句やTwitterなんかに押されて、
ちゃんとした形式や論理ってものがないがしろにされがちなのだし。

みんながやらなくても、自分だけはちゃんとしていよう、
って意識は、どんなことについても譲ってはいけない。


◆◆◆


◆ノブくんの評論◆

 何よりも遊ぶ事が好きな著者は、家にいてもなかなか仕事がはかどらない為に、某所に秘密の仕事部屋を設けています。その某所とは女性の部屋なのですが、彼女との関係はやましいものではありません。ただの知り合いの娘さんとそのおじさんという、それだけの間柄でした。そして部屋を設けているとは言っても、普段彼らは互いの顔を見る事はありません。著者は彼女が仕事に出かけて部屋が空いている時間を見計らって、4、5時間だけそこを使わせてもらっていたのです。
 ところがある時、その関係がぐらぐらと揺れ動く出来事が起こりました。それは著者が例の如く大酒を飲んだ、ある晩のことです。立てなくなるくらいに酔っていた彼は、いつも部屋を貸してもらっている女性の部屋で休ませて貰っていました。ですが著者の様子が普段とは違い、彼女を一人の女性として見ているのです。普段決してそのようなことはなかったはずなのに、一体何故彼は彼女をそのような目で見るようになってしまったのでしょうか。
 この作品では、〈結果に至るまでの条件とは一体何所にあるのか〉ということが描かれています。
そもそも、私達は「どうして彼は彼女を一人の女性として魅力を感じ、一晩の過ちを犯してしまいそうになったのか」という問題に対して、まず二人に原因があるのではないか、と考えてしまいがちです。もちろん、彼らにそうなる要因がなかった訳ではありません。部屋の女性は元々の知人よりも著者を信頼している様子でしたし、著者とも部屋を貸す程親しい間柄にあった訳ですから。ですが、原因はそれだけではありません。例えば、私達が湖に石を投げ入れると波紋が生じ、その波紋がそこに浮いていた葉っぱをゆれ動かします。ですが、この現象がおこる要因はなにも石と葉っぱだけにあったのではありません。もし湖が凍っていたら石は波紋を起こしませんし、湖ではなく沼等であったら波紋はそこまで届くでしょうか。このように、ある現象の要因というのは何も直接的な原因と結果(著者と女性、石と葉っぱの関係)だけにある訳ではなく、周りの環境にもその現象の要因というものは存在するのです。
 この作品でも、著者が一晩の過ちを起こしかけたきっかりは、お酒を飲み意識が朦朧としていたことも、夜で周りの景色が暗く周りがよく見えていない事も原因の一つになっています。それは作中の著者も認めており、「あの蝋燭が尽きないうちに私が眠るか、またはコップ一ぱいの酔いが覚めてしまうか、どちらかでないと、キクちゃんが、あぶない。」と、夜の暗さと自身が酔っている状況が今の自分にどう影響するのかを感じ取り、だからこそそれらを恐れているのです。

◆わたしのコメント◆

 あらすじに関しては問題ありません。話を進めましょう。
 論者は、「筆者」が顔なじみで年下の「キクちゃん」のことを、酒や夜の暗闇のせいで、女性として見てしまいつつある自分に、自省を働かせる場面を見てとります。そしてそこには、彼らという直接的な原因の他に、周りの環境という間接的な要因も働いている、と言っています。
 さて、この論証は、果たしてこの物語の本質をとらえているでしょうか。論者の引用しているのは、三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』の例をほぼそのまま抜き出した形のものです。そこで三浦は、いわゆる<媒介>の説明をするために、物事は原因と結果を見るだけではなくて、その物事が持っている性質の関わり合い方を、つっこんで調べてみなければならない、と言っています。たしかに、池に石を投げ込むとハスの葉が揺れる、という現象は、なにも石が直接に葉っぱに働きかけているわけではありません。石を投げ込まれた水という<媒介>があってこそ、はじめて蓮の葉が揺れるのであって、同じH2Oでも、凍っていてはいけなかったという意味では、水の性質がどういったものであったか、ということも重要な原因となっている、という主張です。
 表面的な読み方しかできなければ、「だからどうした」といった感触を持たれる方も多いのではないかと思いますが、実は非常に重要なことを三浦は言っています。詳しい説明をする段ではありませんが、たとえば、「光は粒子か波動か」という科学史を200年間も賑わせた話題というのは、<媒介>というものへの理解が乏しかったために起きています。

 さて、そうして、<媒介>というものの重要性をなんとなくわかっていただけたのではないかと思いますが、この評論における問題は、この物語にとって、<媒介>が存在するのか、あるとすればそれは重要なのか、というものでした。
 結論からいえば、答は否です。それを詳しく見るために、三浦の用いた例を整理しておきましょう。それは、池に石を投げ込むとハスの葉が揺れる、というものでしたから、図式化するとこうなります。

 石→池の水→ハスの葉

 次に、この物語の構造を図式化することを試みようとしてください。筆者は、大酒と暗闇のせいで、キクちゃんと過ちをおかそうとしています。

 筆者→大酒・暗闇→キクちゃん

 そうすると、筆者が大酒や暗闇に働きかけて、それらが<媒介>という形をとって、キクちゃんになにか影響を与えたものでしょうか。ここまで書くと、もうおわかりになるでしょう。それらの間には、直接、間接かかわらず、とくになんの関係も認められません。


 この物語は、素直に読めば、大酒と暗闇のせいでキクちゃんを女性として意識してしまう筆者の理性のともしびを、「蝋燭の 焔」という象徴を用いて描いているだけだとわかります。次の箇所が決定的でしょう。「蝋燭に火が点ぜられた。私は、ほっとした。もうこれで今夜は、何事も仕出かさずにすむと思った。」彼は、暗闇のなかでちらちらと燃える小さな蝋燭の火を、酒の勢いに身を任せてしまいそうになりなるのを必死に堪えるという自制心になぞらえてみているのです。最終的には蝋燭の火は消えてしまうのですが、それと同時に訪れた夜明けのおかげで、筆者は一線を超えずに帰宅することができたわけです。

 論者の誤りは、論理的になにが同一であるか、という判断の間違いから来ています。『弁証法はどういう科学か』に書かれている例でいえば、「相手の表情に合わせて相手の次の手を読み、じゃんけんでは負け知らずの少年」の話から、もういちど学んでください。少年は、相手の認識にぴったりあわせた認識を、自分の頭の中に持つことができたからこそ、相手に勝利することができたのです。
 そういった観念的二重化における誤りは、ひとつに、相手の力を過小評価しすぎるということです。もうひとつは、過大評価しすぎて、相手の意図していないようなことでも、自分の頭の中で勝手にでっち上げて解釈してしまうという、「コンニャク問答」です。あなたは、素直に読めば理解できるものを、わざわざとんでもなく難しい読み方をしてしまっていませんか。『ぬすまれた手紙』でいえば、「G警視総監」の誤り方がどんなものであったか、思い出してください。彼は、D大臣がとんでもないところに手紙を隠したものだと自分自身の頭の中で勝手に決めつけ思い込んでいたために、目の前の手紙を見つけることができなかったのです。

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