2010/12/07

感受性というものの周辺 02:考え事がぐるぐるまわるのはなぜか

前回のあらすじ。

感受性を持つ人間というものを、
理解されにくいものにしている理由をいくつか書いてきた。

そのことを通して言いたかったのは、
それが難しいということそのものではもちろんなくて、
難しいと言われているけれど、不可能ではない、ということであった。

◆◆◆

前回の話に出てこなかった、ある人と話した具体的な内容についての説明、
というものが気になっている人もおられるのではないかと思う。

そういうわけで、冒頭のお題に戻ることにするのだが、そのまえにちょっとおことわり。


感受性が、感受性が、というと、まるでそれを持っていなければ
まともな人間ではない、と言っているように聞こえるかもしれないが、
もちろんそんなことを言っているのではない。

たしかに他人の気持ちを理解する、という時には重要な要素であるが、
そういった能力がそれほどなくても、あるいはまったくなくても、
真っ当に生涯を終える人間はいくらでもいる。


この場合は、いわば内容は理解していなくても、
周囲の人達の行動や、自らが置かれている環境に付随する規範から、
自身のそれなりに正しい行動を導いてこれているのである。
宗教も、その規範の一端を担っていることがある。

一般的な大衆としては、それでかまわないのである。
事実、日本人はそういった協調性には非常に長けているから、
そういう道徳は染み付いて、いわば一定の倫理となっている、と言っていいわけだ。


行動としてはそれほど変わりがなくとも、その内面はどうかと考えたとき、
アメリカでハリケーン・カトリーナが起こったときに発生した
暴徒のことを思い出していただきたい。
あれと同じことが、日本の阪神大震災のときに起こったか、と少しでも比べてみれば、
表面上「宗教をしている人間」が、直ちに内面まで「宗教的な人間である」ということにはならないことがわかるはずである。

事実としてはむしろ逆、ともいえるほどで、
宗教的な民族ではない(各自の倫理観に頼ることができない)から、
宗教(による統制)がなければならない、とさえ言えるのだ。


平時ならばいざしらず、有事となれば、
道徳という皮を脱ぎ捨て、多かれ少なかれ本性を表すわけである。

人のことを想うということを、
単に外的な規範からの推論や他者の模倣としてだけではなく、
心の奥底から湧き上がる実感として持っておいてほしい、
「我が一身に繰り返す」かのごとく理解してほしい、
と言う理由がわかってもらえればと思う。

◆◆◆

さていつものとおり前置きばかり長くなってしまうのだが、
こう書いたことで、少しは興味が深まっていただければ幸いである。
本題をはじめよう。


「考え事が、同じところをぐるぐる回るのはなぜか」
という疑問について考えてゆくのだった。


さて、科学的な観点(唯物論)からすると、
人間というものも、もとは物質の中から生まれた生命現象から、
数億年という長い年月の果てに、進化を遂げてきた生物として説明することになる。
(観念論の立場ならば、いきなり「精神が存在する」と言える。詳細は後述)

そうすると、人間の認識の中にも、
その土台には物質と共通する一般的な構造が隠されていることになる。


もともとそれは、古代ギリシャ時代に哲学的な弁論術として究明をなされたのち、
「弁証法」という名前が与えられていたものである。

当時としては、哲学的な問答を経たあと、互いの認識が高まってゆくことによって
矛盾が乗り越えられる、という仕組みに着目されたものであったから、
その過程では何が起きているか、というところの解明はなされていなかったわけである。

それが人類が持つ最良の論理性として認められ、
2000年という年月を経た発展の後に、
いまでは、科学的な立場にたって法則化がなされている。

法則の良いところは、それが誰にでも使えるということである。

だから、今回わたしたちは、それに助けられながら、上記した問題について考えてゆこう。

◆◆◆


「しばらく考え事をしていると、いくつかの過程を経た後に、振出しに戻ってきてしまう」
そういうことが、誰にでもあるのではなかろうか。


「考え事の堂々巡り」である。


物事を簡単にするために2つの事柄を選ぶときにでも、
重要な決断をするときには、やはりそれは大きな問題として認識されるから、
その振れ幅も大きくなってくるはずである。

たとえば、誰かに結婚を迫られた時や、生涯の家を選ぶとき。
これも良いが、あれも良い。
いったん心に決めたつもりになったとしても、
誰かのアドバイスで簡単に揺らいでしまうことだってあるはずだ。

あれかこれか、と決断するときにすらこれだけの悩みなのだから、
その程度や内容を決めなければならないときなどは、
より一層の重みとなってのしかかってくるのだ。

◆◆◆

あることに悩みながら考えを巡らせるというのは、森の中をめぐり歩くようなものだ。


そのときの考え方を、歩き方になぞらえてみると、
考え事を始めたときには、なにもないところから手探りで考え始めるわけだから、
ゼロ地点から歩き始めるわけである。

そうして手探りに歩くとなると、どうしても蛇行しながらとなるから、
出発点からその地点を直線で結んだ道よりも、遠回りをしているはずだ。

それを円形に単純化して、30度、45度と歩んでいき、
つまり悩みながら考えを進めて、180度のところにまで来たとき、
自分はこんな道を歩いてきたのだ、ということがわかるとしよう。



その地点から0度のところを振り返ってみると、
文字通り、180度違うところに出てきた訳だから、
いまは元とは反対の側に立って物事を考えているのである。

その道程を思うと、
「迷いながらだったから道のロスも多かったけれど、
それでもずいぶん遠くまで来たなあ」、
という感慨と共に、
「あのころはなんだか幼かった、あれくらいの考え方しかできなかったのか」、
となんだか恥ずかしい気もしてくるものである。

◆◆◆

ところが、
「さてここまで来たけれど、まだ先があるのではないか」、
と思い直して、再び歩き出してみたとしよう。

そうすると、今度は、210度、225度と歩んでいき、
いつかはついに、360度の地点に出てしまうことだろう。



見覚えのあるところに出てしまった、という感触とともに、
ああなんだ、これは結局0度のところ、つまり出発点に戻ってきただけだったのか、
という感想を持つはずである。


白い服に決めていた立場をひっくり返して黒い服を選んだはずなのに、
カタログを眺め直していたら、また黒いほうが気になってきた…

株を手放そうと思っていたのに、もう少し持ってみたほうがいいような、
しかし妻の意見ももっともだ…


こういう考え事における逡巡のあり方を、
一般化して論理としてとらえることができれば、
今回紹介したひとのような経験則を持つことになるのである。

◆◆◆

しかしそうすると、
「回りまわって元の所に戻ってきたということは、
まったく歩かなかったのと同じことだろうか?」
という疑問が湧くに違いない。

これは森を歩くというたとえであるから、今回の話に表現を合わせれば、
「ぐるぐると考えをめぐらしてきたはいいけれど、
結論としては元の所に戻ってきたのだから、
なにも考えなかったほうが良かったのだろうか?」
ということになる。


これは、感性のレベルの認識ではあるけれど、たしかに一面の真理を捉えている。
0度から180度までの運動が「否定」、180度から360度も「否定」、
つまり、「否定の否定」という、弁証法の法則のひとつである。

これは、今回の場合には認識における運動法則を表しているのであるが、
歴史の流れを見たときに、それが大局的には「振り子の振れ」のように見えることからも、
導いてくることができる。

◆◆◆

弁証法について勉強をしている人であればご存知だろうが、
「否定の否定」の過程を経るということは、それは元の段階が、
ひとつ高まっていることを表しているのだ、ということ知っているはずだ。


では、先程の森の散歩のはなしのどこに、
「段階が高まった」という要素があるのか、と思われるだろう。

それは、「円」という例えではなく、
「螺旋階段」というイメージで考えてみればわかりやすくなる。



真上から見ていると、円周上をぐるぐると回っているようにしか見えない場合にでも、
それを横から見れば、元の所に戻ってきているように見えて、
実は一段階、上に出てきているのだ。


弁証法の法則でいえば、螺旋階段を一歩ずつ登って厚みを増してゆくことが、
「量質転化」にあたる。

その一歩ずつは小さくとも、大きく見たときには「否定の否定」的な進化をとげている、
というものである。


◆◆◆

こういうわけで、弁証法は、原因と結果という二元論や、
まったく相容れない0度と180度、右派と左派といったような形而上学的な捉え方を越え、
その「過程」にこそ、本質が隠されていることを主張するのである。


過程の中で出合ったものこそが、そのものの本質を作り上げている。
これが、残された弁証法の法則、「対立物の相互浸透」ということになる。

生物を例にとれば、
クラゲが魚類に進化したのは、その時の地球に海流ができはじめ、
泳ぐ必要が出てきたからだし、
魚類が両生類に進化したのは、大陸が隆起して、陸地ができてきたからである。

どちらも、生物種と環境の、互いにたいする影響の与え合い、
つまり相互浸透なのである。


小さく見れば、赤の他人であった夫婦が似てくること、
はじめは靴ずれしていたのにだんだん慣れてくることもおなじである。

◆◆◆

前回のエントリーの冒頭で紹介した友人は、
わたしのここまでの説明で、
「なるほど、そう理解すればいいのですね」と言ってくださった。


学問というのは、「役に立つ」ことが実感できる段階に到達するまでに、
途方も無い時間がかかるものなのだが、
「納得できるかどうか」が最重要である人にとっては、
直接的に救いになるものなのである。

ついでに言っておくと、
以上の説明が、形式的な説明なものにもかかわらず納得できる理由は、
ひとつに彼女の「感受性」というものに助けられて(対立物の相互浸透)、
端的な表現の行間を、彼女が埋めてくれている(量質転化)からである。

◆◆◆

弁証法については、誤解が少なくないから、
すべての批判についてみてみるわけにはいかないのだけど、
それが「あまりにあちらこちらに当てはまりすぎている」ことを指摘されることは多い。

そういうことが気になってくると、弁証法といいながら、
結局はあらかじめ用意した形式に、
目の前の事象を無理やり押し込めているだけではないか、
という疑念が湧いてくるのも無理はないと思うのだ。


しかし頭から批判するつもりがないのに、
その有用性を認識しないままに等閑視してしまうのはあまりに勿体無い。
なぜなら、何回も言うが、弁証法というものが、
「森羅万象を理解するときの、人類が持ち得た最高の論理性」だから、である。


今回は主に個人の中の認識についてみてきたが、
こういった疑念については、大きな視点から見たときのほうが、
理解してもらいやすいので、次の回には、そういった視点から論じることにしよう。

その理由というのは、大きな視点で見ると、
「あれかこれか」としか考えられない論理であるところの、
「形而上学」なものの見方との比較において、
弁証法というものの見方の有用性を確かめられるからだ。


今回のおはなしの中では、少なくとも、以下の基本線をおさえておいてほしい。


弁証法は人類が持ち得た最高の論理性である。

そして、それは3つの法則から成り立っており、
全体像としては、平面的なのではなくて立体的な、
それも螺旋階段のようなものである、とイメージしていただければよい。

◆◆◆

机に向かって考え事だけしているつもりの学者と違い、
現実に向きあたって弁証法を身の回りの事象に適用してみる場合には、
それが最終的には「像」として持てておかねばならない。

チワワ、キリン、オラウータンを「哺乳類」という「像」でくくれるように、
量質転化、相互浸透、否定の否定を「弁証法」という「像」でくくれなければいけない、
ということである。

だから、これは単なるイメージとしてではなく、弁証法の教科書の再読を通して、
あくまでも「像」として持てているかどうかを確認しておいてほしい。


弁証法の像を簡単に使って武道の修練で例えてみると、
はじめは意識しても技が使えない段階から、
師の導きに学ぶこと幾千日、
修練を重ねるうちに意識して技が使える段階へ、
そして最終的には、意識せずとも技が使えるようになってゆく。

つづめていえば、「相互浸透」的な「量質転化」の後の「否定の否定」である。

最終的な段階から初心を振り返ると、双方ともに「意識していない」という意味合いでは
共通しているから、これが「否定の否定」にあたる。
(もっとも、これはあくまで例えの段階にまで極度に一般化しているから、より深い構造が隠されているし、上達論とはまったく異なっているのは言を待たない。)

◆◆◆

さて、ここまで念を押しておけば、あるていどの納得はしてもらえただろうか。

ほんとうならば、わたし自身の考えてきた過程や、思い悩み、回り道などを
陳述したほうがより具体的にはなるのだが、ここで書くような性質のことでもなし…


余談だが、
SNSなんかでは、そういうことを「公開」している御仁がおられる、
というか、そういうことをするものらしいのだが、
そもそも日記というものは、公開するということに馴染むものではないはずである。

読者を想定した日記というものが、物語じみてくるのは、
読者としては真に迫るものなのだろうか。
返されたコメントを見て、当の本人は納得できるものなのだろうか。

もっとも、なんの論理も含まないたんなる書きなぐりでよいのなら、
そんなことに悩む必要もないのだけれど。


よけいなおせっかいだとは思いますが、
本当にちゃんと悩んだり考えたりしたいのなら、
自分なりに最高の話し相手というものを、
ちゃんと見つかるまで探したほうがいいと思いますよ。

一番大事なことは、そんなおいそれと、
誰にでも見せられるようなことではないと思うのです。

4 件のコメント:

  1. 物事を2次元と3次元で考えることは、雲泥の差ですね。
    その分、構造も複雑になり理解師がそう。

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  2. 「しがたそう」の間違えです。すみません。

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  3. 〉人のことを想うということを、
    単に外的な規範からの推論や他者の模倣としてだけではなく、
    心の奥底から湧き上がる実感として持っておいてほしい


    他人の感情に巻き込まれることを恐れ怖がっていた頃…
    自分が自分である為の精神力が不足していた若かりし~あの頃…


    〉「考え事が、同じところをぐるぐる回るのはなぜか」
    という疑問について考えてゆくのだった。

    同じ考え、と思えても、その想い、感情が深まってゆくもの…でしょう?!

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  4. >人のことを想うということを、
    単に外的な規範からの推論や他者の模倣としてだけではなく、
    心の奥底から湧き上がる実感として持っておいてほしい、
    「我が一身に繰り返す」かのごとく理解してほしい、
    と言う理由がわかってもらえればと思う。<

     今回も、前回と同じ文面に心捉われてしまった。
     
     でも、今回は以下の文面も心に残りました。

    >弁証法は人類が持ち得た最高の論理性である。

    そして、それは3つの法則から成り立っており、
    全体像としては、平面的なのではなくて立体的な、
    それも螺旋階段のようなものである、とイメージしていただければよい。<

     お陰さまで、弁証法の習得に修得も、
     かなり実感できるようになりました。
     
     何事も繰り返しの上に、更なる正規
     分布的過程の繰り返しなのですね♪♪♪
     ♪♪♪~ありがとう~ございます~♪♪♪



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