ゼミで発表することがあるらしく、ある学生さんから聞かれたのがこれ。
「善悪を判断する基準はありうるか」。
本文の構成はだいたい下の通りでどうかとお話ししたのだけど、
一般的すぎるだろうか、もしかすると難しいだろうか。
(わかるひとにはすぐわかるが、観念論に触れたあと、唯物論の触りだけ書いた)
決着がつくまでのメモを下に。
それはそうと、前回の更新からちょっと時間が経ってしまった。
ここのところ、わたしのような人間にも年末進行の余波が押し寄せてきており、
酒の席からチョコマカと逃げ回っていても、やっぱりいくつかには捕まってしまう。
それから、後進からのお誘いにはできるだけ出ることにしているから、
ある程度は時間も押してしまうのである。
今月に入ってからそういう状態でここの記事を更新していたら、
「最近誤字多いですね」と指摘されてしまった。
まったく申し訳ない限りである。
◆◆◆
積み残している記事は自分でも分かっていながら書きためているのだが、
記事の大筋は完成していても、最後の推敲というのに時間がかかるのである。
近頃、なぜか一般の方から「ブログ見てますよ」という反応をいただくことが多いので、
広がった読者層を意識すればするほど、
行間をなるべくうまく空けるようにしよう(空けないように、ではない)という
注意が働いて、けっきょく長くなるわ、くどくなるわで時間がとられちゃうのだ。
かといって、論理のわかっている人にとっては、
「こんなすぐわかることを偉そうに…」と思われているだろうから、なかなか難しい。
最近ここを読み始めた読者にはピンと来ないかもしれないけれど、
ここで記事にしているような一般的な構造の把握は、
論理性についての理解がある人にとっては、
「一目見てすぐにわかる」という類のものでしかない。
取り扱った現象について、より突っ込んでみれば、
もっと複雑で、とんでもなく面白い構造があるので、
勉強を始めた読者のみなさんをも、そこまでご案内できれば、と思っている。
こちらとしては、20代のうちに基礎をお伝えしておかないと、
森羅万象についての正しい理解が身につかずに終わってしまい、
まともな頭脳活動の道が閉ざされるという危惧があるから、けっこう必死である。
経験を重ねて変に自信がついて、誰のどんな話も、腕組みしながら
「ワタシもそう思う!(いつも自分の考えているとおりだ!)」
と頷くようになってしまったら、終わりである。
◆◆◆
このブログでしょっちゅう出てくる
「相互浸透」、「量質転化」、「否定の否定」というのは、
三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』
でだいたい学べると思うので、参考にしてください。
その法則を日常生活の中で見つけながら、
弁証法のばらばらな三法則が合わさって、
ひとつの球体のような感触として持てるように意識してください。
次に、三法則を念頭において、
法則が下の本のどこに顕れているか、ということをメモしながら読みといてください。
『発展コラム式 中学理科の教科書 第1分野』
『発展コラム式 中学理科の教科書 第2分野』
加えて、中学レベルの社会の教科書の類を同じように読み解く。
とんでもなく時間がかかりますよ。
わたしはこの本はどれも2,3年間ほど毎日使って
ボロボロになって空中分解したので、買い直しました。
注意して欲しいのは、
「覚える」ことではなくて、「使えるかどうか」ということです。
ではよしなに。
◆◆◆
◆善悪を判断する基準はありうるか◆
「善とはなにか、悪とはなにか。」
そういうふうにこの問題を抽象的に考えてみても、なかなか答えが見つかりませんでした。
それに、複雑に考えすぎるとそんなものは人によって違う、ということにもなりますから、
もっと具体的で、判断しやすいところから考えてみることにしました。
私は以前、こういう光景を目にしたことがあります。
おばあさんが道で倒れているのを見つけたときに、
あっ助けなきゃ、と思っていたら、
ある青年が、さっと駆けつけて彼女に声をかけたのです。
他の人たちといえば、遠巻きに眺めたりしているだけでした。
かくいう私もその一人で、なにも力にはなれなかったのですが、
少なくとも、私は「良い人もいるんだなあ」という感想を持ったことは確かでした。
◆◆◆
いま、あの時のことを思い返してみると、
「良い人もいるんだなあ」という感想を持ったということは、
おばあさんを助けた青年のことを、私は「善」だと感じた、ということになります。
あのとき私は、彼のことをみたときに、
「悪い人がいるんだなあ」とは思わずに、
「良い人もいるんだなあ」と思いました。
ほとんどの人は、そう感じると思うのです。
私たちが何かの物事を見たときに、そういうふうに感じられるとしたら、
ここには、たしかに「善」が存在する、ということになります。
◆◆◆
そもそも、善と悪という価値は、自然界には存在しません。
たとえば、ライオンがシマウマを捕らえるときには、
ライオンそのものは、シマウマのことを「かわいそう」だ、などとは感じません。
それを私たち人間の心に照らしてみるとようやく、
私たちは自分の心をこれから殺されて食べられるシマウマの立場に置き換えてみて、
「かわいそう」、というふうに感じます。
◆◆◆
こういう善悪の感覚は、私たち人間が、ほとんどの場合に持っているものです。
それは、今から見れば、自然に身についているように思えますから、
自分が生まれる前から、善悪の判断基準を与えられているように思います。
そういう不思議さが、宗教などを産んでいます。
ただ見方を変えれば、オオカミに育てられた少女たちは、
小動物をとらえて食べているときにでも、なんの罪悪感も感じてはいなかったのですから、
私たち人間は、教育やしつけを教わって始めて、まっとうな人間として育ってゆくことができる、ということができます。
そういった善悪の判断基準というものは、
私たちがおぎゃあと生まれて今まで生きてきた中で、少しずつ培われてきたものだ、ということです。
お母さんやお父さん、周りの人たちの行動を、意味もわからないながらとりあえず真似をしてみて、
自分の行動にたいする相手の反応を見ながら、少しずつ自分の性格や判断として、身につけてきたものなのです。
◆◆◆
そういう、人間とは教育を受けて始めて人間になったのだ、という立場にたって考えるとき、
私たちが日常的に向きあうことになる問題には、大体の場合は、適切な答えを見つけることができます。
たとえば、「子どもを褒めることは善いことだ」、「人を殺すのは悪いことだ」、などです。
しかし人間の社会では、それがもっと複雑になってしまうことも、少なくありません。
たとえば、子どもが年下の友達の腕をつねって泣かしたのに、
それを褒めるとしたら、それは善い行いとは言えません。
また、戦争で自分を殺そうとしている相手が目の前にいるときにも、
人を殺すな、という常識が通じるかというと、難しい問題です。
そういう複雑な問題に正しい答えを見つけようとするときには、
「善か悪か」というふうに、あれかこれかという考え方ではなくて、
それがどういう条件の時にはそう言えるのか、と考えてみることが必要なのではないか。
私は、そう思うのです。
新渡戸稲造の『武士道』を思い出しました。
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