一般の読者の方々にも、ぜひ取り組んでほしいものです。
(またノブくん、行はじめのひとマスのあけ方がわからないようですが、
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まともな文化を残したければ、やはりまず形(形式)から整えねばなりませんから)
文学考察: 火事とポチー有島武郎
◆ノブくんのコメント
ある夜、武男は愛犬ポチの鳴き声で目を覚ましてしまいます。と、思うと彼の目には真っ赤な火が映ります。そしておばあさまが布のようなものをめったやたらにり振り回している姿を見て、彼はそれが火事だとはじめて気がつきました。彼はおばあさま一人では駄目だと思い、彼は事態を納めるために、お母さんのもとへ、そこからお父さんのところへ、近所のおじさんの家々を走りまわります。そして彼や近隣の人々の助けもあり、火事騒動はどうにか落ち着きました。ですが、その三日後、彼らは火事の第一の発見者ポチが行方不明になっていたことがここで発覚します。はたしてポチは無事に生きているのでしょうか。
この作品では、〈主人公とその大切な友人との別れ〉が描かれています。
まず、作品を論じる前に、一般的な感動的なヒューマンドラマの構造について論じておきます。多くのヒューマンドラマの場合、その舞台として日常的な場面(ある事件が起きる以前のこと)と非日常的な場面(ある事件以降のこと)が用意されています。そこに二人以上の登場人物をおいて、事件の前後を比較するように描かれています。そうすることにより読者は、登場人物たちのバックグラウンドを知ることにより、「以前は仲良く暮らしていた人々が事件が起こったせいで、このように不幸になってしまった」と、事件の前後の彼らの様子を比較し悲しみをより引き立たせるのです。
では、この作品ではそれがどのように設定されているのでしょうか。まず、非日常的なパートとして火事という場面が設定されています。ですが日常的なパートは、物語が火事の場面(事件以降)から始まっていることもあり、一見、ないようにも感じます。しかし、よく見ると、「もとはっていえばおまえが悪いんだよ。おまえがいつか、ポチなんかいやな犬、あっち行けっていったじゃないか」という武男とその兄弟との喧嘩での会話や、ポチの普段の仕草や癖を描いている箇所があり、そこから日常のポチという像が浮き彫りになってくるのです。そして、ポチが衰弱するにつれて武男を中心にポチを労る姿から、読者は武男一家のポチへの思いを読み取り、更にそこから日常のポチの姿を思い起こし、感動するのです。
◆わたしのコメント
評論としては不完全燃焼ですが、論者がいちばんそのことを自覚しているでしょう。論者は、この作品の全体の構造を見ようとしたものの、特段目立ったものが見つからなかったようで、「ドラマの構造」という、どんな作品にも含まれるような一般的なところまでしか言及できていません。たしかに、こういった児童文学では、「全体としては」複雑な構造を含んでいることはほぼないといってよいので、それを責めるのも酷というものです。ですがそれでも、この物語が子どもを始めとした大人の読者をも感動させる要素を持っていることは、論者も認めていますね。
そうすると、この作品のどんな要素が読者をそうさせるのかと突っ込んで考えることも、文学作品を創作活動の糧とするときには重要な意味を持ってきます。それを以下で追ってゆきましょう。
◆◆◆
さてこの作品は、一言でいえば、タイトル通りに、ある家族を襲った「火事」と、それを境に姿を消した「ポチ」の行方、そしてその顛末を描いています。火事とポチが関わるのは、「おばあさま」が回想するところを見ればよく読み取れます。それは、火事の際に、「もしポチが知らしてくれなければ焼け死んでいたかもしれない」ということなのでした。そんな忠犬であるポチはといえば、火事のあと、焼け崩れた物置の下敷きになっているところを見つけられます。彼は結局、物語の最後に息を引き取るわけですが、その際の表現を見てみましょう。
「次の朝、目をさますと、ぼくは着物も着かえないでポチの所に行って見た。おとうさんがポチのわきにしゃがんでいた。そして、「ポチは死んだよ」といった。ポチは死んでしまった。」
とても単純な表現だけに限られていることがわかるでしょう。さきほども言っておいたように、この物語のあらすじを述べれば、ある家族を襲った火事を、彼らに知らせた忠犬が息を引き取ること、それだけなのです。それではなぜ、こんな単純な物語が、わたしたちに感動を呼び起こすのでしょうか。主人公と、そのきょうだいにとっての友だちであった「ポチが亡くなる」という結果的な事実そのもの以外に、その理由がありそうです。
◆◆◆
火事が起きて家族みなが非難したあと、「ぼく」がある違和感に気づいた、という大きな転機から、話を始めましょうか。彼はそのとき、「なんだか一つ足らないものがあるようだったが、それはポチがいなかったんだ」ということを思い出したのでした。そしてその気持ちは、坂道を転げる雪だるまのように膨らんでゆきます。少し長いですが、引用してみましょう。
「ポチのことを思い出したら、ぼくは急にさびしくなった。ポチは、妹と弟とをのければ、ぼくのいちばんすきな友だちなんだ。居留地に住んでいるおとうさんの友だちの西洋人がくれた犬で、耳の長い、尾のふさふさした大きな犬。長い舌を出してぺろぺろとぼくや妹の頸の所をなめて、くすぐったがらせる犬、けんかならどの犬にだって負けない犬、めったにほえない犬、ほえると人でも馬でもこわがらせる犬、ぼくたちを見るときっと 笑わらいながら駆けつけて来て飛びつく犬、芸当はなんにもできないくせに、なんだかかわいい犬、芸当をさせようとすると、はずかしそうに横を向いてしまって、大きな目を細くする犬。」
彼の中で、ポチについての記憶が呼び起こされ、その像はどんどん確かなものとなり、彼の心のなかで大きなものとなっていきます。だから、「どうしてぼくはあのだいじな友だちがいなくなったのを、今日まで思い出さずにいたろう」と深く反省したのです。「ぼく」は妹と弟を引き連れるようにして、ポチを探しにゆきますが、手がかりすら見つからない焦りを妹にぶつけてしまいます。妹も妹で、「ぼく」がかつてポチをぶったことをなじり、それを認めたくない「ぼく」が反論するなかで、妹が泣き出し、弟が泣き出し、結局は「ぼく」もつられて泣き始めてしまいます。
ここには、子供たちの、みずみずしい感受性が豊かに描かれていることがわかるでしょう。ある物事を見たときに、安定したものの見方をすることのできる認識の力を持つ大人と比べて、その揺れ動く感情のあいだで振り回されるという姿が、「子ども」という存在を生々しく浮き彫りにしています。その姿は、良くいえば純粋でありながら、また他方、人間らしさが定着しきっていないという、ある種の冷酷さも見え隠れします。
◆◆◆
ポチが半焼けになった物置きの下から見つかった、この箇所を見てください。
「いたわってやんねえ」/「おれゃいやだ」/ そんなことをいって、人足たちも看病してやる人はいなかった。ぼくはなんだか気味が悪かった。けれどもあんまりかわいそうなので、こわごわ遠くから頭をなでてやったら、鼻の先をふるわしながら、目をつぶって頭をもち上げた。それを見たらぼくはきたないのも気味の悪いのもわすれてしまって、いきなりそのそばに行って頭をかかえるようにしてかわいがってやった。なぜこんなかわいい友だちを一度でもぶったろうと思って、もうポチがどんなことをしてもぶつなんて、そんなことはしまいと思った。ポチはおとなしく目をつぶったままでぼくの方に頭を寄せかけて来た。からだじゅうがぶるぶるふるえているのがわかった。
死に体で発見された、身動きもしないポチを、大人たちは冷たくあしらいます。それほどポチとの接触もなかったであろう人足ならば、その反応も致し方ないというべきところですが、この反応は、「ぼく」にも伝わってしまいます。彼は、愛犬のことを、あろうことか「なんだか気味が悪かった」と率直に述べているのですから。
ところが、頭をなでてやったところ、ポチが反応するのを見たとたん、「ぼくはきたないのも気味の悪いのもわすれてしまって、いきなりそのそばに行って頭をかかえるようにしてかわいがってやった」のです。彼の態度が、急変しているのがわかるでしょう。
このことは、まだ年端も行かない彼の心が、人間としてのそれとして完成しかかっている段階にあり、そうであるからこそ、ある両極端の間で揺れ動きながら、認識する物事との距離を図っているのだ、とわかります。
この心情は、大人の視点からだけ見ていては、とても理解することはできませんから、大人の観点からしか子どもを見ることのできない人間によれば、彼らは「とても愛情深い」かと思えば、とたんに「非情」な存在にも映る、ということなのです。冒頭の火事をはじめ、物語の各部に、「ぼく」の、振り子のように揺れ動く、子どもらしい心の動きが見え隠れしているはずです。丁寧に探してください。
要すると、筆者が意識していたにしろそうでないにしろ、この物語には、「人間は、人間として育てられて始めて人間足り得る」という大命題が含まれており、そのことが、この物語のリアリティを非凡なものとしている、とも言えるわけです。そうした人間一般という原則から、子どもという存在を的確に捉え直し、さらにその心の揺れ動きをとても丁寧に記述しているので、この作品は児童文学ながら、あらゆる人間に訴えかけるものを備えることになったのではないでしょうか。
わたしたちの心を揺さぶる物語が、単なる結果的な出来事だけで成り立っているのではないことがわかりましたか。ドラマが引き起こす感動というものは、起きた事件の重大さ、つまり人が死ぬことや大きな事故が起きるといった出来事に依存するのではなくて、その過程そのものにこそ由来しているのだ、ということです。物事のほんとうの意味は、表面に見える現象ではなくて、その過程にこそ含まれているのだ、という一大論理が、ここでも明らかになります。
その論理がわかっていれば、読者の心を揺さぶるために、安易に「人を殺したり救ったりする」という手段をとることの愚、その短絡というものも、自ずと読み取れてくるのではないでしょうか。物語に抑揚がなくなれば人を殺したり生き返らせたりするような、暇つぶしの安っぽいメロドラマが、歴史に残る文化たる素質を少しも備えていないことは、論者が常々嘆きつつ表明していることのはずです。
◆◆◆
ここまで読んでくれば、そろそろこの物語の一般性を引き出してもよさそうです。現象論的にしかこの作品を読めなければ、「家族を助けた忠犬の物語」などと言って済ませてしまいそうです。しかし、この物語でもっとも深く描かれているのは、「ポチ」を通した「ぼく」の少年らしい心なのですから、「友だちであるポチがゆさぶる少年の心」を描いている、などと言えば良いことになりそうです。
◆◆◆
この物語の読解は、現在の論者の実力からすれば、かなり背伸びをしないと難しいのではないでしょうか。以前に、論者は自分の論じ方が、「ときには冷たく、機械的なものと言われる」と言い、それは「唯物論的弁証法のせいである」と説明していましたが、実のところ、まったくそうではないことが少しはわかってもらえたでしょうか。「物事の見方が機械的」、つまり現実にある人間の心情をはじめとした現象を、満足に説明しきれていないとしたなら、それは、形式論理で物事を見ているからであって、自分自身の弁証法的な論理力が不足しているから、なのです。
この作品を紙に印刷して線を引きながらしっかりと読み通すことをはじめ、同じ作者の『一房の葡萄』、モンゴメリ『赤毛のアン』などを、論理の光を当てながら、丁寧に読み通す修練を怠らないでください。
【誤】
・そしておばあさまが布のようなものをめったやたらにり振り回している姿を見て、
文中に誤りがあります。お詫びして訂正します。
返信削除・火事が起きて家族みなが非難したあと
→避難
読みたくなって、ダウンロードしてしまいました。
返信削除ありがとうございます。