実家のほうで大事にしていた古代魚、ポリプテルス・エンドリケリーが死んでしまった。
もともと、とんでもない捨て値で投売りされていたのを、
不憫に思って家においていたものだった。
我が家には伝統的に弱っちい生き物がもらわれてくる。
アルビノ(色素の抜けて真っ白な)モルモット、
あらゆるヒレの溶けかかったギンブナ、
大雨で流されてきた金魚、
カラスに餌にされかかった鳩などなど、挙げればキリがない。
わたしの人生をかけたテーマのひとつに、
「生まれを言い訳にしない、させない」
ということがある。
人間でも動物でも、
「今はこんなかもしれないが、なんとかてっぺんをめざしたい!」
という生き方をしているものたちが大好きで、
自分にできることならどんなことでもしたいと思っている。
だから、学生さんを見るときにも、
「いま才能があるかどうか」ではなくて、
今の自分をなんとかしたい!という
「意欲があるかどうか」で見てきたつもりである。
◆◆◆
しかし、人間に飼われている動物というものは、
ヒトとは違って「意欲」など持てようはずもないわけで、
そんなところに期待したり、頼るわけにもいかないのだ。
必死に生きているように見えるのは、意欲などではなく「本能」のなせるわざだ。
そうだから、単純なマニュアル通りに育てられるという意味では楽だが、
最後の最後でふんばりがきかないという意味では、たいへんな損失である。
今回の場合も、やはりそうだった。
だから、生き物が死ぬというのは、いつも唐突である。
生物史が敗者復活を許さないのも、同じ理由である(人類史には起こりうる)。
以前から弱っていたのは知っていたので、
今日は少し早めに帰ってきたが、もはや息も絶え絶えであった。
弱ってきて、浮き袋の調節が効かずに腹を上にしてしまう彼を、
すこしでも楽にしてやろうと、身体を支えてやった。
だんだん眼が白味がかって動かなくなるまでの3時間ほど、そうして過ごした。
わたしには、それが彼のためになったかどうかすらわからない。
体温の違いがありすぎて、熱かったのでなければいいけれど、と思う。
もっと近くで、できることをやってやりたいが、それもかなわぬこの懸隔、
感情の付け入る隙を許さないこの距離が、
やはり自然というものなのだな、と思う。
人間の世界に生きていると、忘れてしまいがちだけれど。
◆◆◆
身体が弱かったのだろうか、それとも、と考えかけて、やめた。
わたしにできることは、今の自分ができることを、
手を抜かずにやる、ということだけだ。
それ以下のことではいけないが、それ以上のことは、できるはずもない。
◆◆◆
甥っ子が実家に来たときに、生命史になぞらえて、
魚類から両生類へ、そうして陸地への上陸という進化の過程を、
目に見える実感と共に教えてくれたのは、ほかならぬ彼であった。
ゆったりと構えたその出で立ちは、途方もない長い世紀を、
そのままの姿で過ごしてきた生き物の、貫禄を感じさせた。
同じくらいのサイズの他の魚と混浴させたら追い回されたもので、
家の者に怒られながら勝手に水槽を新設したんだっけ。
こういうときは、水槽を掃除しながらこう思う。
過ぎ去ったことは、この先きっと、無駄にはするまい。
冥福を祈ります。
0 件のコメント:
コメントを投稿