わたしの専門は、大雑把にいえば学史研究からその論理を取り出す、ということである。
それに付随することについても、どうしても避けられないものが多いので、
あっちこっちに手を出すことにもなるのだけれど、本筋の研究は常に欠かせない。
というわけで、今回は言語学である。
といっても、いきなり言語学史を講義するわけじゃなくて、できたところまでを貼るだけだ。
なにしろこの作業が一番大変で、
どんなに慣れていても、分厚い学史資料を書庫から探してきて目の前に重ねてみると、
裸足で逃げ出したくなる。
ここをエイヤとばかりに突破して、全体像がおぼろげながら浮かび上がってくると、
これがとたんに楽しくなってくる。
それが仮説となって、仮説を持って歴史に語りかけ、
歴史からつかみとってきたものを仮説にも働きかけて修正してゆくなかで、
仮説が一般性として明確な像になってゆくのが実感として持てるからである。
◆◆◆
ところが、作業工程も最後の95%となってくるころ、大きな障害が待ち受ける。
それが、「削る」という作業である。
なにしろ人類の残した歴史は膨大であるから、すべてを記載するわけにはいかない。
だから、どれが幹になっていて、どれが子葉でしかないかという篩にかけて、
その大きな流れを浮き彫りにしなければならない。
これが、とっても難しい。
わたしが上みたいな系譜図をいちおうはつくったのちに、
机に広げて一日中、石仏が如くにらめっこしなければならないのは、それが理由である。
他の人からすれば、できたのだからさっさとコピーしてくれ、と言いたいようだが、
わたしにとっては一番大事なところができていないのだから、まだ渡せない。
観念的な言い方だが、「細部にこそ、神は宿る」というものだ。
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と、こういうふうに言うと、「あいつは自分の研究を独り占めしている」とかなんとか。
もう呆れてモノも言えない。
(わたしの周りの学生諸君は正義感のある人達ばかりだから、大いに笑ってくれそうだけども)
こんな系譜図をもらったからといって、歴史が身につくと思っているのである。
開いた口も塞がらないとは、まさにこのことではないか。
こんなものをコピーして持っていて、いったい何になるというのか。
自分自身で歴史と格闘して、一身のうちに歴史を繰り返してみなければ、
またこの系譜を有形無形にかかわらず作るという過程をたどってみなければ、
本質などは把握しようもないということが、教えられなければわからないのだろうか。
こんなものは、言ってみれば単なるヌケガラ、中身を伴っていなければ墓石の羅列である。
大事なモノは、ぜんぶここ(アタマの中)にしまってあるし、そうしかできない。
もっとも、自分の研究を手元に持っていることが独り占めとはなんともはや…
といった悲しい人格レベルの問題なのかもしれない。
「近所の物知りおじさん・おばさん」で終わるのならば、わたしは何も知りたくない。
スッカラカンの馬鹿でノーテンキのほうが、どれだけ救いがあるか知れない。
ともあれ、学究心のある方にはぜひとも批判を請いたいところなので、
興味のある方は一声かけてくださいね。
学問史から美術史まではおおまかにはカバーしていますので。
この地図を手がかりに、歴史をわが一身に繰り返して、
「ここの矢印はなぜこんなところと繋がっているのだろう」などと考えて、
しっかりたたき台に使ってもらえるというのは、わたしにとって無常の喜びです。
◆◆◆
さて悪口はさておき、ここまでくれば、こんな溜息はそれほど正当でないことがわかってくるのではなかろうか。
「未来に生きる人間ほど歴史が膨大になるから、歴史の授業が大変になっちゃうんだよなあ。」
といった、学生さんたちの溜息である。
しかしこれは、歴史をゴシップ記事を集めるように、知識面だけで習得するのでなければ、
それほど心配しなくても良いのである。
まあ、受験勉強の歴史といえば悪しき丸覚え科目でしかないから、
学生さんの悩みもわかろうというものだが…
◆◆◆
ところが、である。
知識的にしか物事を見れない人間が口角泡を飛ばして批判するところは、
「そんな大雑把な見方をしていては、歴史は正しくつかめない」ということだ。
しかし、大観的な見方がなくては、論理というものはつかめないのである。
論理がないのに、どうして正しいとわかるのか。
歴史性を身につけるためには、細かな歴史的知識はさほど必要ではない。
どころか、初心においては障害にしかならない。
それから、相対論者がこれもやはり口角泡を飛ばして批判するところであるが、
「お前が導きだしてきた本質などというものは、所詮主観的なものでしか無い」ということだ。
これはたとえば、ヘーゲルとフォイエルバッハを比べて、彼らの研究のどこに、絶対的な優位性があるというのか、ということである。
これがまた、「人間に貴賎なし」などといった、ヒューマニズムと結びつきやすいから事態はややこしくなる。
しかし、それは「本質」が何かを考えたことがないからである。
歴史における本質というものは、「論理性」に他ならない。
わたしたちが「正しい」と言うのは、歴史的な論理性(=歴史性)を正当に受け継いでいるかという見方に照らして判断しているものである。
見れる人間ならば、著書の目次を見ただけでも、読む必要があるかどうかは判断できる。
ここまで言っても、「本質」は「人間的であるかどうかに照らして判断されるべきだ」という方には、「では人間性とはなにか」と問うておきたい。
言うまでもないことながら、それも歴史的に生成されてきたものなのだ。
どちらにしても、
つまらない恨みつらみを思想の笠を着せて人様の目に晒すんぢゃないよ。
と言っておきたい。
◆◆◆
それにしてもそもそも、「本質などありえない」という人間が、
個別研究ならまだしも、なぜに学問をしているなどと言えるのか、不思議で仕方がない。
まともに世の中のありとあらゆる事象を、すべてが同じ価値であり
重要であるとして、相対的に横並びにしてもみよ。
この姿勢を正しく適用すれば、正しく発狂するというのが、当然の姿である。
ここまで突き詰めてくれれば、わたしはその人に、無上の信頼と尊敬を寄せる。
事物の本質が直感的形式によって掴みうるというのなら、禅者にでもなって、
月を見て大笑いでもするまでなるのがよろしかろう。それが、いちばんの近道だ。
わたしはああいう姿勢は大好きで、禅問答を読むだけでも心踊る。
道が少しずれていたら選んでいた道かもしれないとさえ思う。
◆◆◆
さて、どうでもいい悪口もさすがに過ぎたようだ。
賢明なみなさんは、ぜひとも脇道にそれて変な完成をしないようにしてください。
いつもの本筋に話を戻すと、
対立物が互いに浸透しあうというのは、弁証法の教えるところである。
私たちの身体は、古くなった細胞が死んでくれるから全体として生を維持できる。
冬が終わるから春が巡ってくる。
正気を突き抜けると狂気にも似てくる。などなど。
「武士道と云うは死ぬことと見つけたり」という言葉が、
心地良いひんやりとした実感を伴って感じられる昨今である。
死ぬことを突き詰めてみなければ、生は見えてこないのである。
武士道のみならず、道に真正面から向き合う者であれば、
だれしも実感するところではないだろうか。
義。
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