この前、個人的に会った何人かの学生さんにそう言ったら、
「私も」、「俺も」というお返事をいただいた。
わたしも阪神大震災に遭った人間だから、
そういう若い人たちの意欲を直接聞くとうれしくなるし、
表立って出さない人の中にも、「なにかできることがあるはずなのに…」
というやるせなさがくすぶっているのもわかる。
感受性の強い人のなかには、被災した人たちのことを思うあまり、
仕事がままらないほどになっている人もいる。
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しかし、である。
実際のところ、「震災」という言葉や、「ボランティア」という言葉の、
「肝心の中身」がどういうものなのかをあまり想像できていないのではないか、
と思われる節があるようにもとれる。
かといって、せっかくの意欲を頭ごなしに削ぐことだけは避けたいと思い、
また阪神大震災からの類推がどこまで通用するかがわからず、
具体的な指摘をせずにすませてしまった。
そういうわけで、わたしももっと知らなければと
いろいろと下調べをしていたら、こんなエントリーがあった。
個人サイトにも関わらず、コメントがあまりにも多くなったために、
もうじきサイトごと消滅してしまうらしいので、こちらに全文を転載した。
自分も何かしたい、と思っている人は、まず目を通してほしい。
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被災者の役に立ちたいと考えている優しい若者たちへ~僕の浅はかな経験談~
阪神大震災が起きたとき、僕は高校3年生で、しかもセンター試験の翌日だった。
遠くから沢山のトラックが走ってくるような、不気味な音が夢うつつに聞こえ、気がつくと家全体が揺れていた。父親にたたき起こされて玄関を開け、ガスを閉めてTVをつけると、阪神高速が崩壊していた。家が揺れた恐怖と、テレビの実感の無さと、街中の静けさが記憶に残っている。
その日は登校してセンター試験の自己採点を行い、二次試験のための面談をしなければならなかった。僕は迷ったが、結局自転車で出発した。大阪城の堀から水が溢れ出していた。
学校に着くと全てがいつもどおりで、来ていない生徒もいたが、先生は特に何も言わなかった。粛々と自己採点し、粛々と面談が行われた。僕達の仲間で三宮と西宮に住んでいる友人がいたのだが、さすがに登校はしていなかった。昼休みに仲間3人で、二次試験が終わったらボランティアに行こうと話をしていた。
下校時刻になって、担任の物理教師がおもむろに話しだした。
「今回の震災で我校の教師や生徒も被災者となり、登校できない人がいます。センター試験が終わり、受験生としての役目を終えた人もいると思います。あなた方の中には、正義感や義侠心に駆られて現地に乗り込む人もいるでしょう。それは間違ったことではありませんが、正直に言えば、あなた方が役に立つことはありません。それでも何かの役に立ちたいという人は、これから言う事をよく聞いてください。
まず食料は持って行き、無くなったら帰ってくること。被災地の食料に手を出してはいけません。
寝袋・テントを持っていくこと。乾いた床は被災者のものです。あなたがたが寝てはいけません。
作業員として登録したら、仕事の内容がどうであれ拒否してはいけません。集団作業において途中離脱ほど邪魔なものはないからです。
以上の事が守れるのであれば、君たちはなんの技術もありませんが、若く、優秀で力があります。少しでも役に立つことがあるかもしれない。
ただ私としては、今は現地に行かず受験に集中し、大学で専門的な知識や技術を身につけて、10年後20年後の災害を防ぐ人材になって欲しいと思っています。」
言葉の端々は忘れてしまったが、教師が言いたかったことは今でもはっきり憶えている。
結局僕たちは、物理教師の言ったとおり、なんの役にも立たなかった。
配給のパンを配って回ったり、お年寄りの移動に付き添ったり、避難所の周りを掃除したり、雑用をさせてもらったが、持っていった食料は5日で尽きた。風呂には入らなかったが、寝るところは防犯上困ると言われて避難所の中で寝た。生活のインフラ整備や瓦礫除去作業は、消防や自衛隊があ然とするくらい力強く、迅速に問題を解決していった。僕達の存在は宙に浮き、遊び半分で来たボランティアごっこのガキ扱いをされていた。実際手ぶらで現地に入って、汚い仕事を嫌がるような若者はたくさんいたし、そういうグループと僕達が、能力的に大きな差があったかというと、とてもそうとは言えなかった。
僕達が現地で強く学んだことは、「何かして欲しい人」がいて「何かしてあげたい人」がいても、事態は何も前進しないということだった。人が動くためには、「人を動かす人」が必ず必要になる。社会人なら常識として知っている事さえ、僕たちは知らなかった。
僕達は現実に打ちひしがれて現地を離れ、浪人を経て京都の大学生になった。そして被災地への情熱も無くなっていった。結果的に僕達の正義感は、ハリボテだったのだ。正直に告白し、反省する。僕たちは、神戸への気持ちを、たった一年間も持続させる事さえできなかった。
今回の震災で、被災した人の役に立ちたい、被災地のために何かをしたい、と感じている若い人達がたくさんいると思う。でも慌てないで欲しい。今、あなた方が現地で出来ることは、何一つ無い。現地に存在すること自体が邪魔なのだ。今は、募金と献血くらいしか無いだろう。それでも立派な貢献だ。胸を張って活動して欲しい。
そして、是非その気持を、一年間、持ち続けて欲しい。もしも一年経って、あなたにまだその情熱が残っているなら、活躍できるチャンスが見えてくるはずだ。仮設住宅でのケアや被災者の心の病、生活の手助けなど、震災直後よりも深刻な問題がたくさん出てくる。そういった問題を解決するために、NPOなどが立ち上がるだろう。その時に初めて、被災地は「何も出来ないけど何かの役に立ちたいと思っている、心優しいあなた」を必要とするのだ。もしかするとそれが、あなたの一生を変える大きなきっかけになるかもしれない。
結局僕は紆余曲折を経てGISの技術者になり、専門分野は違っても、多少なりとも防災の分野に寄与できる立場に辿り着いた。あの頃よりも、少しは人の役に立てるようになったんじゃないかなと考えている。◆◆◆
2011/3/15 追記
沢山の反響ありがとうございました。同じような経験をされた方もたくさんおられたようで、あの時感じた孤独感が今頃癒されております。
僕は上記のエントリーで一年は待ってみようと書きましたが、そんなに待たなくてもいいようです。すでにNGOなどの支援団体が、ボランティア受け入れに向けて動き出しているみたいですね。もちろん募集など具体的に動き出すのはまだ先になるでしょうが。
時間と体と情熱のある人は、そういった「人を動かす人」としっかり協力して、自分の能力を最大限に発揮して欲しいです。もちろん1年、2年、5年、10年スパンで細く長く復興を援助する気持ちもとても大切だと思います。
2011/3/17 追記
東日本大震災:ボランティアの情報共有へ組織…40団体
災害ボランティア情報まとめ
2011/3/18 追記
このエントリーおよびブログは3/23日で削除することにしました。
内容の誤解により今後のボランテイア活動を阻害する恐れが出てきたからです。
詳細は3/17のコメント欄を御覧ください。
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あまり付け足すことはないのだが、
感情的に走って極端な読み方をしなければ、
この方の思いもよくわかるのではないかと思う。
「現地に存在すること自体が邪魔なのだ。」
という言葉の中から、
筆者がどのような意味を込めたのか、
どのような条件ではボランティアが不要になるのか、
と考えてみてほしい。
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加えて、
「阪神大震災と、東北大地震は違うのだ」
という、東北大地震の特殊性についての情報はこちらにある。
・被災地に救援物資を! いま私たちに求められていること (4)
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また前回のエントリで触れた、
「自宅にいながらにしてできるボランティア」についてはこちら。
避難所で撮影された名簿を、テキストデータにしてデータベース化しようという試みである。
諸氏の活動によって、いまのところ大部分が作業完了しているようだが、
これからも新しい情報が出てくるはずなので、我こそはと思わん方は、協力をお願いしたい。
・東日本巨大地震 - ボランティア
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さいごに、現地に行ってのボランティアについては、こちらを参考にして、
地元の自治体の動きを調べておいてほしい。
・東北地方太平洋沖地震被災支援のボランティア窓口紹介
現地に向かう際に必要な準備などの情報については、
内閣府がパンフレットを用意してくれている。
・パンフレットについて「地域の『受援力』を高めるために」
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今回の震災のボランティアについて、TVや雑誌をはじめ、
TwitterやFacebookなどのあらゆるメディアで、識者のコメントがある。
そのなかでやはり目立つのは、「素人ボランティア不要論」なるものである。
たしかに、一口に「ボランティア」と言っても、
卓越したスキルを持つ専門家が担当するものも少なくない。
しかし、あらゆる意味で素人のボランティアは
手助けになるどころかむしろ邪魔だから、存在する価値すら無い、
と言った意見はあまりに極端である。
似たようなところに、「自己満足のためのボランティアは止めろ」と言った言葉もある。
しかし、ボランティアに携わる人間が、まったく自己満足を覚えていないとは言えまい。
たしかにほめられるため「だけ」にボランティアに行くなとは言えるが、
そのことを指摘して、自分の意欲に自己満足が含まれているかも知れないと自省するだけの力のある若者の意欲を、無下に削ぐことが正しいことだとは言えない。
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震災のレポートなどしか目を通したことのない形而上学者は、
まともに現実に目を向けずに机上でこういった暴言を吐きがちであるが、
そんな戯言に耳を貸して、せっかくのやる気を萎縮させる必要はない。
こういった暴言も、よく調べもしないボランティア信者も、
同じ姿勢の両極端でしかないことが、
仮にも学者ならば、いや人間ならば、なぜわからないのか。
プロほどの専門知識がなくても、自分のことを徒手空拳でも助けに来た人間を
まるで無価値だと切って捨てるほど、人間は落ちぶれてはいない。
しかしだからといって、先程のエントリにもあったとおり、
限られた現地の物資を、ボランティア自身が浪費してよいわけがない。
あらゆるものごとには、それが正しいための条件があり、正しくなりうる範囲がある。
そこに東北大地震の特殊な状況を加味すれば、
「どういった条件であれば、ボランティアとして人の役に立ちうるか」
という像が描けてくるはずである。
ある段階では、とにかく人手が必要になるフェーズが来るのであるから、
「なにかできることがあれば」と考えている学生さんは、
そのときのために、いまはできることをやりながら情報を収集して、その像をしっかりと深めておいてほしい。わたしもそうする。
そうしていれば、あなたの力は、必ず必要になります。
自分の像の薄さに反省しました。
返信削除なので前回宣言したとおり、鶴を折りながら、現地での人々の状況、またその中で自分に何が出来るのか、その像をしっかりと考えていきたいと思います。