2011/04/17

盲目の人間が目を移植されたあと、その日から目が見えるようになるだろうか?(1)

 前回の問いかけについて、お返事をいただきました。



 ただ書き終えてから読み直しましたら、初学者にはやや難しい内容になっているかもしれません。
 ここの読者の理解の度合いも自然に高まってきたために、彼女・彼らの反応を手がかりにするだけでは、わたしはどのあたりまで加減すればいいのかがわかりにくくなっています。
 「ここってどういう意味?」、「ここまで言っていいの?」などといった素朴な反応でかまいませんので、ご連絡をいただけましたら補完してゆきます。


 前回の問いかけは、太宰の『女人訓戒』に端を発したものでした。引用してみましょう。

【問】
 ところで、仮にもまともに人間の認識の過程的構造を唯物論的に追うならば、気にならなければならない決定的な問題が、この作品には含まれています。その箇所は、「盲目の女が、兎の眼を移植されてその日から世界を杖で探る必要が無くなった」というところです。ここでは問題を明確に浮き彫りにするために、人間に兎の眼を移植することには成功した、としてください。つまり、それまでは盲目であった女性に、「物質的には」なんらの問題のない眼球が移植され、彼女は「物質的には」五体満足になったのだ、という仮定のうえで考えてみてください。わたしが括弧書きしたことには、それ相応の意味が隠されていることはわかりますね。そうすると、実際にこのような手術が行われ成功した場合、本当にその日から目が見えるようになるのだろうか?と考えればいいことになります。ちょっとヒントを書きすぎてつまらないでしょうか。考えてみてください。

◆◆◆

 この問を考えるにあたって必要な条件だけを残すと、こういうことになります。

 「盲目の人間として生まれた女性が、正常な目を移植された場合、
 その日のうちに目が見えるようになるだろうか?」

 それにたいする返事はこのようなものです。

◆◆◆

ブログを拝見しました。
今回のブログでコメント者が「物質的には」と括弧書きしたのは、では「精神的には」どうか、というところを指摘しているのだと推察しました。
太宰は物質的に何かを取り入れる、或は何かを取り替えると当然精神にも影響があるはずである、ということを指摘したかったのでしょう。
ですが、彼は物質から精神への流れは説明できても、その逆は説明できていません。
これがあなたの述べている「筆者の考察が一面的である」ということの中身です。
大雑把に全体をとらえたつもりなのですが、どうでしょうか?

◆◆◆

 彼はこの問を考えるときに、「コメント者が『物質的には』と括弧書きした」ということを手がかりとしたようです。

 まず、「物質的」に対する言葉は「精神的」である。
 そして、作品の中で太宰は、Lの発音を正確にするために西洋人の真似をしてタングシチュウ(牛の舌のシチュー)を食べる夫人の話などを挙げている。
 そうすると、太宰は、「物質から精神へのありかたを述べたのだ」。

 論者は、このように解釈したようです。


 このことについて注意をしておきますと、論者が、物質か精神か、という二律背反の考え方で留まっていないことは、いちおう評価できます。
 これは、「物質から精神」という影響を考えるにあたって、いやまてよ、「精神から物質」の影響も考えておかねばならないのではないか、と考え始めたことは悪くない、という意味です。
 しかし、この「逆をとる」という考え方そのものは、決して弁証法的な論理を使って考えていることにはなりません。それは結局のところ、形而上学的・形式論理的の域を出ないのです。形式論理で考えても、命題について裏・逆・対偶くらいはとってみて考えてみることができてしまいますからね。

 ところが、形式論理を身近な事柄に適用して考えてみればわかるとおり、あのような考え方では、あらゆるところで先に進めなくなります。
 たとえば振り込め詐欺が起きたときのことを考えてみてください。テレビを見ると、被害者やそれに同情する立場の人は、なんという痛ましい事件だろうかと思うでしょう。そうすると、これは大きな失敗であるということになります。しかし他方、人を騙してお金を稼ごうと思っている人間がその手口を見たなら、なるほどその手口があったか、と思いますね。そうすると、彼らにとってはこの出来事はある種の成功として追体験されるわけです。
 「あれかこれか」と割り切る態度では、現実の持つ立体的な構造を正しくつかむことはできません。

 その形而上学的・形式論理的に凝り固まった考え方に対して、精神と物質について弁証法的に考えるということがどういうことなのかと言っておきましょう。それは人間の精神活動ですら、物質の運動が高度に量質転化した働きであるとして考えてゆくことなのです。
 一般的なものごとの見方しかできなければ、「精神が物質の運動であるとはなんとバカなことを…」と短絡してしまいそうなところを、歴史的な流れをふまえて、物質が大きな流れを経て量質転化的に精神へと発展してゆくさまを、弁証法的に解明してゆくわけです。

 ところが今回のメールでは、論者は精神から物質か、物質から精神かという「あれかこれか」にとどまった考え方をしているように察せられました。そうしてわたしは論者のメールから彼の論理性をアタマの中に描いたうえで、彼はまだ以上のようなことはうまくふまえられていないのだと確認しましたから、この問題を解くに当たっての方法論について、こうアドバイスしました。

◆◆◆

それはコメント全体をふまえたうえでの推察のようだね。
間違ってはいないが、やや方向性がずれていると思う。
この問題を解くにあたっては、問題の部分だけをしっかり読んで、自分が同じ身体を持って生まれて同じ手術を受けたとしたら、術後に包帯を解かれたとき、目の前の景色がどのようにみえるだろうか、と想像をめぐらしてみたほうがいい。
そのとき、器質(物質)的には五体満足になっているはずだが…術後、「本当にその日から目が見えるようになるのだろうか?」

ヒント:
認識のあり方は、人によって違うのだったね。

◆◆◆

 わたしはここで、弁証法的な論理をまだうまく現実の問題に適用できるだけの技術(=認識の適用)と知識が足りないことをうけて、難しく考えるよりも、同じ人間が体験することなのだから、彼女の身になってその体験を捉え返してみてはどうか、「こう想像してみたらどうか」という方向性で助言をしたわけです。

 そうしましたら、返ってきた答えはこのようなものでした。

◆◆◆

物質的には五体満足になっても、彼女はすぐに目が見えるようになったとは思えません。
彼女はこれまでの人生の中で、光や色といったものと無縁の世界で生きてきました。
その彼女が目を移植され、目をあけることができたとしても、まず世界の明るさに驚くのではないでしょうか。
そして、長い時間をかけて、光に慣れると、今度はぼんやりと色をとらえはじめるでしょう。
そして、その色がやがてくっきりと見えるようになり、物質と物質の境界が見えはじめる事でしょう。

ですので、物質的に五体満足になったとしても、認識の上では、それに追いつく迄には時間がかかるはずです。

◆◆◆

 悪くない答えですね。

 みなさんは、この解答のどこに要点があるか、おわかりになりますか。
 論者は、ある表現を対象として受け止めて、アタマの中にその人の思いを写しとり、その人の立場になって考えてみる、という「観念的二重化」ということを、あるていど行うことができています。

 それを敷衍して、彼女の認識のあり方がどういうものなのかをすこし追ってみましょう。

◆◆◆

 まず問題にあった女性は、これまで一度も、自分の目でなにも見たことがなかったわけです。
 彼女は、一般の五体満足な人間ならば、五感を通して認識できるであろうはずのところを、生まれてこのかた、いわば四感をとおした像としてしか結実出来ていません。
 わたしたちが日常的にやっているような、街角で友人の顔を見かけてぱっと明るくなるようなあの気持ちを生み出す条件、朝鏡に向かっての今日は疲れた顔をしているなあというつぶやき、美術館で先人の残した絵画や彫刻を眺めに眺めて、それでも理解できずに自宅で模写をしてみることの、土台すらないのです。
 彼女は、普通に食事を摂るときにすら、指に触れることでしかコップに入れた水のかさをはかることができませんし、口に入れてみるまでそれが醤油なのかオレンジジュースなのかもわからないのです。

 もっとも、彼女は「目が見えるということがどういうことなのかを、身を持って体感したことがない」のですから、健常者が、「目が見えなくてさぞ大変であろう」という同情を強く出した感情的な反応しかできないのにたいして、他の四感で、非常にうまく、自分なりに必要なだけの生活を送るための工夫を積み重ねてきているわけです。
 現実にも、舌を鳴らした音が反響するのを聞き分けて、物にぶつからずに外出できる盲目の少年もいるほどなのですから。

 そうすると、彼女にとっての世界のあり方は、視覚を除いた認識であることがもともとすべてなのですから、視覚をふくんだ五感覚器官がどのような認識をもたらすかは、他人の表現を受け止めて想像することしかできません。そこでの不自由というものは、周囲の健常者が「こんなこともできなくて大変だろうね」と表現することを通して、「想像してみる」ことでしかとらえられないのです。
 彼女にとっては健常者のありかたについて、「それができたら便利ね」ということではなく、「それ」がどのような中身を指しているのかはうまくはわからないけれど、目の見える人が便利だというなら便利なのだろうな、という感じ方であることに注意してください。

 彼女は、他の大多数の人たちが、自分とは違ったやり方で世界を見ているであろうことはたしかなようだとわかりますし、事実そういった前提の違う人たちが創り上げた社会の中では、直接にある種の不自由を感じることもあるのですが、だからといって「大変ね」と言われても、「そういうものかしら(=体験したことがないからなんともいえないな)、私にとってはこれが普通なのだけど」といった感想を持っていることは想像に難くないわけです。

(2につづく)

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