ふるい図鑑に載っていたアブラボテ。名前の由来は重油のような体色から。 |
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アブラボテはあまり見栄えがしないので本家ほどの人気はないため、ペットショップなどでの取り扱いもそれほど派手ではないと思うのですが、本家タナゴのオスともなれば、繁殖期になると綺麗な虹色になることから、観賞用の魚として有名でした。
ところがタナゴのつがいが二枚貝に産卵することが災いして、二枚貝の生態系の影響を直接にうけてしまうのです。
みなさんも、小さい頃には土手だったはずのところが、いつのまにかコンクリートで固められたりした覚えがあるでしょう。
河川の氾濫を防ぎ、ボウフラの繁殖を防ぐこの施策は、人間にとってはそれなりに意味がありますが、川に生きる生き物にとっては、その生活を根底から揺るがす大問題なのです。
魚類は多かれ少なかれ泳ぐことができますから、住んでいた環境が悪くなったときには、ある程度であれば住む場所を変えることができます。
しかし二枚貝というのはそうはいきませんね。
世界は広く、中には貝殻をパタパタさせて遊泳する能力のある二枚貝もいたりしますが、あれはカルシウムで身を守るための殻をもったことの、副次的な働きなのであって、あくまでも本来の働きではないですし、とくに淡水二枚貝にはそんな運動選手はほとんどいません。
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生命史に軽く触れるためにちょっと脱線しますけれど、生物一般に言えることのひとつに、運動能力の一つである「移動する力」というものが、その担い手の運命を大きく左右することがある、ということが挙げられます。
生命史をたどれば、岸壁に固着していたカイメン段階の生物が、大海の生成と共にクラゲへとその姿を変えてゆき、さらに海流の生成と共にサカナ段階へと進化していったのでしたね。
身体を統括する「脳」が生成されなければならなかった必然性も、クラゲとは違ってサカナが、波に身を任せて漂うだけではなくて、それに逆らって遊泳する必要性があったからなのでした。
人類の歴史を大局においてとらえたときにも、ある力を持った民族が移動し、その先で多民族との対立が起きたときにこそ、歴史が大きく動くことをみてとることができます。
また学問の歴史に目を向ければ、観念論と唯物論が互いに競いあう中で、本質的な発展がなされてきたことは、もはや常識と言ってもよいでしょう。
学問の用語で言えば、これらは保存しなければならない「矛盾」ということから、「非敵対的矛盾」という位置づけにあたるものです。
ここを非常に限定してとらえれば、「競争なくして発展なし」といったような極意論がでてきますが、あれは人間からの意味付けがとても大きいので、みなさんはこの際ですから、もっと大きくものごとをとらえる見方をしてほしいと思います。
ともあれ森羅万象については、古代のギリシャから人類はそのあり方をとらえていたのであって、たとえば古代ギリシャの哲学者とみなされるヘラクレイトスは、「万物は流転する」と言いました。
そのように、自然・社会・精神に限らず、「移動」する力、つまりより大きな観点から見たときには「運動」というものごとのあり方は、いくら強調してもし足りないほどの大きな意味合いを持っているのです。
森羅万象はつねに運動し続けるものであるからには、運動をしないというのは、その意味でとても不自然なことなのです。
わたしたちの身近な例を見ても、休息をとるはずの睡眠も、とりすぎるとかえって疲れてしまいますし、また運動しなければ欝になりやすく、またボケにもなりやすいことからも読み取れますね。
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そういう前置きをした上で、ここでは生物に限定してお話ししてゆくわけですが、生物の場合にでも、移動能力に乏しい存在は、かなり簡単に種の分化が起きることになります。
たとえばマイマイ科の巻貝、一般にいうカタツムリなどは、日本国内に限っても、旅先で見つけたものがとても珍しく映る場合が多いでしょう。
同様の形態のものにかぎっても、鹿児島と北海道では、その大きさははもちろん、色までもが大きく異なっています。
関東と関西でも、渦の巻き方が違っていたりするほどです。
ですからわたしは、旅行に行くと必ずカタツムリを探してまわり、定規を横において写真を撮ることにしています。
なにしろ、人間にとってはとてもゆっくりですから捕まえやすく、横にノギスを置くこともできるために意味のある写真を残しやすいので、あとから比較するのにとても便利なのです。
彼女や彼ら――カタツムリにはオスもメスもありませんが――は、まさにその移動能力の無さゆえに、移動したりさせられたりした先で、ほそぼそとした独自の生活を送るしかないわけです。
カタツムリたちは多湿なところでしか住めませんから、大きな樹の陰や川のせせらぎの近くなどでよく見ることができますが、それでも大雨ともなると、それらにとっては度がすぎるということなので、やはり容易に生息地が分断されてしまうのです。
それに人間が自然に大きく手を入れ始めるようになると、日中のアスファルトなどはとても横断できないことから、なおさらに分化が進んでしまいます。
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カタツムリの移動する力はこのようなものでしたが、ここから類推してみると、二枚貝はどういう生活を送ることになるでしょうか。
彼女や彼ら――ただしこっちも同じく雌雄同体ですね――の場合は、まともな意味で移動することができるのは、卵から孵化した幼生の時だけです。
小さい頃には簡単な遊泳能力をもっていたこれらの場合は、生育してしまったときには、カタツムリのように這って歩くことすらできないのですから、こと「移動」に関しては、その制限たるや恐ろしいものがあるのです。
その生き方はまさに「運を天に任せる」といったところで、人間存在が、その生まれや育ちを乗り越えて自らの足で前へ進もうとする自由意志の力を持っているのとは比ぶべくもない大きな差があることになるわけです。
ここまでふまえると、ようやくタナゴという生き物に話を戻す時がきました。
このタナゴという魚は、魚であるにも関わらず、その生殖活動を直接的な形でこの二枚貝に依存することとなってしまっているのです。
ということは、彼や彼女らの生態系というのは、いってみれば重い足かせをはめられていることになりますね。
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アブラボテというタナゴの仲間も、やはり二枚貝の存在にその生活を大きく左右されるという点で、タナゴという大きな括りからは抜け出ることはありません。
しかも彼女や彼らといえば、その強い縄張り意識のおかげで、ここだと決めたらテコでも動きません。
他の魚が入ってきたら追い出すか、アブラボテのオスどうしともなれば、どちらかが力負けするまでの喧嘩になってしまいます。
ところでわたしは研究するときにはどんなときにでも、景色の見える場所を選んで取り組みます。
窓を少し開けて風が入るようにしておくと、春には山が色づき始めるとともの草いきれ、梅雨にはぐっと色が濃くなって鮮やかになり、夏の終わりには冬支度をする木々に励まされながらの勉学ができます。
どうしても机上での研究が多くなってしまう研究者にとっては、運動というものを念頭におくことが、まっとうな人間観をつくるためには欠かせないのですね。
それと同じようにアブラボテたちの動きを見ていても、春が近づくとソワソワしはじめますから、どれだけ寒い日でも、ああ春の訪れを感じているのだなあ、と実感が湧いてくるものです。
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しかし当のアブラボテはその名のとおり、タナゴの仲間であるはずなのに繁殖期にもとくに虹色になるわけでもない茶色な油いろで、天はなんとも罪づくりであるなあと思わずにはいられません。
飼育する側から見れば、地味で頑固で他の魚と共存しにくいというもので、これはよほどの物好きではない限り飼う意味を探すことすら難しい、というくらいではないでしょうか。
わたしの実家で飼育している個体も例にもれず、水槽のド真ん中の大きな流木のくぼみに陣取ったかと思うと、アブラボテらしい頑固さで迷い込んだ不運な魚をことごとく撃退して過ごしていたのです。
ところが我が家に来て数年したころ、なにやら動きが怪しくなってきました。
水面の当たりを、頭を突き出すようにして泳ぐようになったのです。
これは老衰か、と覚悟したものですが、そうなってからもう数ヶ月、まだがんばっているので注意深く眺めていましたら、あることに気づきました。
いまは眼球の部分がはっきりと白濁してきており、どうも眼が見えなくなっているようなのです。
ああなるほどそういうことだったのか、と振る舞いの怪しさについては合点がゆきましたが、それでも数ヶ月生き延びてきたということは、どうにかしてエサにありついているはず。
どうやっているのかと確認してみたら、エサを察知してやってきた他の魚たちが騒ぎ立てる水音や波の動きを察知するやいなや、アタマを水面から付き出して、口がエサにぶつかるまで泳ぎわる、ということなのでした。
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彼は目が見えませんから、たとえ食料が頭の真横にあってもわからないわけで、下手な鉄砲なんとやら、というやり方をとるしかないのですね。
そうはいっても、彼らの本能のなかには、人間のように「こうすればこうなるだろう」という予測を立てるための仕組みはありませんから、彼のこの行動というのは、あくまでも必死の積み重ねのなかから偶然に掴みとった、こうすればなんとか食える、という彼独特の振る舞い方なのです。
わたしはこれに気づいたときに、ひとり驚きました。
ものを考えることを知らぬ魚の身にあって、自分の身体の不足にあわせたここまでの工夫をすることができるのか、と。
意志を持たない動物のふるまいを、わたしたち人間の意志のありかたを押し付けて解釈することは誤りにつながりますが、それでもやはり、生きることにすべてをかけたものの姿というものは、荘厳に映るものです。
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わたしは今回、わけあって実家に帰ってきたのですけれど、実家の人たちとは必要なだけのかかわりあい方にとどめることにしています。
こう言うと、なんと薄情なと思われるでしょうが、人の生き方というものは浸透しあうだけに、違った生き方をしたいのならば、どうしても意識的に区別して振舞わねばならないところもあるのです。
そういうわけで今回も、他につられて甘えが身につくことだけはなるまいぞ、との思いを念頭においていましたから、それだけに、今回のアブラボテの姿というのは、思うところ大なり、というものがあったのです。
人の築きあげてきた文化を一歩でも前に進めたいと望むなら、そこには人の身を越えた覚悟というものが要求されるのであり、これはいうなれば、内なる甘えとの闘いです。
安易な甘えに流されずとも、真剣勝負のさなかに小指が切れた、耳がもげたと騒いでいたら、次は首をもっていかれます。
目が見えぬ、それがなんだというのか。
この仕打ちは神の与えたもうた運命か悪魔の仕業かと御託をのたまったあげく、自らの不運を逃げ口上にして前に進むことを諦めないひとつの生命のありかたは、人間の言う「覚悟」というものとは質的に違ってはいても、なかなかに見どころがあることには変わりがない、そう思うのです。
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