(1のつづき)
わたしは一日中文字を読むか、書くかしている人間ですが、基本的には紙のノートに万年筆で書いてゆきます。
これは、前回お話ししたような、文字の像が薄まらないためにやっていることですが、とくに、万年筆というものが、ボールペンやシャープペンと比べてどれほどに心地よいものであるかは、書くことが好きで好きでたまらない人にはわかってもらえるはずです。
ただそれでも、こういう電子媒体で発表する文章や、論文の体裁を整えるときにはノートPCなどの理キーボード付きのコンピュータが必要になります。
スマートフォンやタブレットでもけっこう早く文字を書けますよ、という人もいらっしゃるかもしれませんが、長文の入力をするにはどうしても不便なところが残ります。
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そんなとき、出先でメモ書きしたものを帰宅後しっかりと体裁を整える、というサイクルで文章を書き進めていくという人にとっては、「DropBox」と「Growl」(PC・Mac)を使うのが便利です。
前者は複数台のコンピュータで同じ文書を同期するためのソフト、後者はそこに変更があったときに通知してくれるソフトです。
どちらも、PCやMac、スマートフォンでも同じアプリケーションが提供されています。
ここではインストール方法などには触れませんので、練習のためにも各自で調べてほしいところです。
わたしは以前、「Evernote」を使っていましたが、MacBook Airの11インチなど、小さな画面ではあまりに余計な情報を表示させすぎていて、すっかり嫌になってしまいました。
縦と横の比率が9:16というワイドスクリーンが全盛のこの時代において、これだけ縦に無駄な情報を占有してしまうというその設計思想には、大きな疑問符をつけねばなりません。
以下の写真は、TextEdit、Evernote、MS Wordを比較したものです。
どうですか。
右の二つは、あまりにもメニュー部分が広すぎることがわかるのではないでしょうか。
実際に文字を書く部分のスペースを比較してみると、下のようになります。
Microsoft Wordに至っては、もはや嫌がらせとしか思えないほどの狭さでしょう。
左端のTextEditと比較すると、メニューバーの広さと横幅の指定が相まって、半分ほどの文量しか表示できなくなっています。
ただ「文字を書きたい」という要望を叶えるために、なぜにここまでの余計な表示が必要なのでしょうか?
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そもそも、ワイドスクリーン全盛の時代において、ウィンドウの丈夫に位置するメニューバーというものは、その歴史的な役目を終えつつあります。
ワイドスクリーンというと、「横幅が広がった」というイメージをお持ちの方も多いでしょうが、これは場合によっては、「縦幅が狭まった」ということでもあります。
ワイドスクリーンはシネスコサイズの映画を観るのには向いていますが、横書きの文書ファイルを表示するのには不向きなのですね。
文書ファイルは、画面の縦の長さが直接に文字を表示する大きさを規定しているからです。
これはほとんどの物書きがそうなのではないかと思いますが、
「創作活動をしているときには、できるだけ邪魔をされなくない」
というのが一致した見解なのではないでしょうか。
パッと起動して、「ただ文字を書く」ためには、なにもはじめから体裁を整えるためのツールなどは必要でないばかりかむしろ邪魔なほどであり、真っ白なノートがサッと開いてくれる方がどれほどありがたいかと思います。
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そういう理由で、わたしは結局、Mac OSにはじめからついている「TextEdit」と、前で挙げた2つのアプリケーションを使うことが、いちばん創作活動の妨げにならない方法だと考えている訳です。
ちなみにエラーを出さずに連携するには、「TextEdit」の設定を以下のようにしておくのが便利です。
「テキストエディット」メニュー>「環境設定…」で、
・「新規保存」タブ>「フォーマット」を「標準テキスト」にする
・「開く/保存」タブ>「標準テキストファイルのエンコーディング」の2つを、「Unicode (UTF-8)」にする
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なぜにこんな細かなことを言うのかといえば、いちど整えた環境は、よっぽどのことがないかぎり自分が創作に取り組むことを手伝ってくれるからです。
そういう意味で、その人が使っている道具をみれば、当人がどのような生活をしているのか、それをとおして「整える」という力を身につけているのか、ということが読み取れます。
PCの扱いが苦手な人がよくやるふうに、表計算ソフトの横に電卓をおいて計算するような、本来の使い方や本質、「表計算ソフトはなにをするための道具か」を理解しない場合には、それは「道具を使っている」のではなくて、「道具に使われている」というだけにしかなりません。
その原因といえば、PCの使い勝手が一般の人たちのためのことを考えきれていないことと、そのためにうまく設計しきれていないことが挙げられますが、他方を指摘すれば、使い手の工夫が足りていないということなのです。
わたしはケチなので、PCでも自転車でも彫刻刀でも、なにか道具を使うとなれば、それと懸命に向き合って、「この道具が自分にとっていちばん使いやすい扱い方はどういうものだろうか」と考えます。
そのために足りないところがあれば、自分で手を入れて整えてゆきます。
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そういうふうな、道具側の「これならどうだ?」という主張に対して、使い手側の「もっとどうにかなるのではないか?」という訴えかけと工夫によって、お互いの在り方が相互に浸透して高め合ってゆくものなのです。
ヒトが原始の時代から自然と取り組んで作り上げてきたところのあらゆる道具は、こういう観点から選ばれ、そして欠点を指摘され、その指摘が次の道具作りに活かされているという意味で、弁証法的なものなのです。
今となっては、目的をもった営みを阻害する道具というものは、もはや道具とは呼べない代物なのであり、大量生産で日々わたしたちの生活に浸透している道具というものも、そういう観点から批判されるべきものです。
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