2011/07/14

はじめはどうして肝心なのか (2):子供と向きあうための弁証法

※以下では、弁証法の3つの法則「否定の否定」、「対立物の相互浸透」、「量質転化」に照らして子供との向き合い方について論じてゆきますが、その際には、前回の記事で述べた参考書を読みながら理解を深めてください。
また文章を受け身に読むだけではなくて、自分の身の回りの生活のなかの、どこにその法則が働いているか、と積極的に考えてみてください。
毎日の昼休みなどにすこし時間を作って、日記帳にでも「今日はどの法則をどんなところに見つけたか」を書き記してゆくと、1年後には見違えるほどに賢くなっている自分に気づかれることと思います。
さらに進んで、日記そのものや知人への手紙などに、法則性を意識しながら「表現する」ことを心がけると、飛躍的に効果が増します。
ここでの「賢さ」というのは、なにも一般に思われているような「勉強がよく出来る」などに限ることではなく、ましてや「議論で相手をとにかく打ち負かせる理屈がうまい」といったようなことでもなく、これから述べてゆくように、子供を健やかに育てたり、人に優しくしたりといったようなことを目指すためにも、どうしても必要な物事の考え方の基礎のことです。

(1のつづき)



◆否定の否定◆

形式論理なんていうことばは子供は知らないけれど、すこし「自分のアタマで」考えてみることができれば、「バスケットのゴールに野球のボールを投げ入れることはできるけれど、野球用のキャッチャーミットでバスケットボールを受け止めることはできない」といったことくらいは経験から引き出してくることができよう。

そうして、それを手がかりにすれば、小さな穴にはそれより明らかに大きなものは通らない、というところくらいまでは実感として持つことができる。

子供たちは身の回りのことしか知らないけれども、そのおかげで、大人が慣れてしまったせいで疑問に感じなくなったようなことや、言い訳で塗り固めて見ないようにしているところでも、敏感に反応する。「なぜなの?どうなってるの?」と。

身近な経験だけから地に足の着いた知識を引き出してきているから、すこしでも宙に浮いた考え方があるときには、変だな、と気づくことができる。
子供が大人よりも優っていることは、まさにこういう考え方をしている、というところにある。

それは、大人が、自分の実際には見たことや経験したことのないことをも、「自分のアタマで」考えることなしに丸呑みにしてしまう習慣を身につけてしまっていることに対して、子供は、それがどれだけ限られたものであろうと、その数少ない経験を「自分のアタマで」総合して、知識を創り上げるとともに、自分のアタマそのものの仕組みも整えている最中だからである。
言ってみれば、知識的に学んで間接的に追体験するしかないことがらを理解するための能力を、直接的な体験によって養っているところなのである。



子供のほうがその純朴さで大人よりも真理に近いということは、童話『はだかの王様』でも根底のテーマとなっているところであるし、一休禅師が「嬰児(みどりご)のしだいしだいに智慧づきて仏に遠くなるぞ悲しき」と詠んだところにも現れている。
また「負うた子に教えられて浅瀬を渡る」ということわざも、大衆の経験が歴史的な風雪に耐えたものが純化されて伝えられてきたものなのである。

こういった格言や経験は、過程も知らないものごとを「まる覚えした」ということを、「わかった」ことだと勘違いしたり、大人が子供に歳の差や強力で訴えかけたり、講壇学者が使えもしない理論を大衆に押し付けたりといった過ちを、未然に防ぐための反省を促してくれる。

このような、「知識のない子供のほうが、知識にまみれすぎた大人よりも『かえって』、より正しく真理をとらえている」という例は、ひとつの<否定の否定>のあり方を示している。



もし子供が、大人の考え方が飛躍しすぎていることや踏み外しがあることに気づいて指摘してくれたのなら、本来ならば大人はそのことについて頭ごなしに叱りつけたりせずに、いちどいっしょに立ち止まって考えるべきなのである。

「たしかに、言われてみると、なんでなのかよくわかっていなかったな」、と。

子供が直感で「どうして?」と気づいて指摘したことに大人が腹を立ててしまうのは、大人たちがたとえば会社の中で行っているような、言葉尻を捕まえて相手の揚げ足をとったりするような経験で身につけた作法を、そういった悪意をまだ持たない子供にまで度外れに押し付けて解釈してしまうからである。

この場合には、まだ何色にも染まっていない子供が鏡の役割をしていることに気づかず、それに向かって眉根を寄せているわけであるが、実のところそこに映っているのは他でもない、自分自身のしかめっ面なのである。

子どもの認識のあり方が、大人のそれとは質的に違うということをふまえるならば、「子供の立場に立って」とのスローガンが、いかに過程を忘れて掲げられがちなのかも知れてくる。
あれはなにも、「とにかく子供を大事にすればよい」といったイデオロギーを指しているのではなく、子供とまっとうに向きあうためには、ひとつの技術が必要なのだ、ということだ。

子供の土台を創り上げることを、ほとんど本能のみによって行える動物と、人間との分水嶺はここにあるのであって、人間の場合は本能にまかせることではなく、人類の歴史が創り上げてきた人間らしさの尺度に照らして、教育を与えてゆかねばならないわけである。


(3につづく)

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