(3のつづき)
前回は、「もともと空気中には水分が含まれているから、晴れの日も雨の日も同じだよ。」というお題をとりあげて、「リクツの上で考えてみたとき」と、「現実に向きあって体験したとき」のあいだに矛盾が起きることがあることを紹介しました。
「起きることがある」と言っても、これは日常生活だけではなく学問や文芸の世界でも、常に起こっていることなのです。
ただそのことの解決をせずに思考を止めてしまい問題を放り投げてしまうか、問題を横に退けて側面からつつくのに汲々とするか、「あれ」の立場に立って「これ」の立場を攻撃するかとなってしまうことが多いために、突き詰めて考えることが少ないにすぎません。
そんな姿勢をとらずとも、わたしたちは弁証法の存在を知っていますから、この問題にも「真正面から」取り組むことができます。
たしかにどんな晴れの時にでも、多少の水蒸気は空気中に含まれています。
それが量的に増加して、ある一定量を超えると、質的な変化が起きることを、<量質転化>と言うのでした。
雨の場合には、空気中の水蒸気が、気温の変化などのきっかけによって凝結することで、雨となって降ってくることになるわけです。
<量質転化>をはじめとした弁証法の3法則がどのような過程を経て歴史的に獲得されてきたかは、哲学史と科学史を述べねばなりませんので今回はさておくとしても、自分の考え方の中に<量質転化>という法則が把握できているのなら、「量的な変化は、質的な変化として現れることがある」のだから、量が増えただけだからそのものの性質は何も変わりはしないという短絡は、誤りに繋がっていることを意識することができます。
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そうすると、友人の考え方は、現実から得られた素材をアタマの中で考えようとしたところまではよかったものの、その論理性が形而上学的であったことに引きずられて、誤った結論に辿りついてしまった、ということなのです。
その人がもし、量の変化が質的な変化をもたらすのであるという<量質転化>という考え方を採用して、少しでも弁証法を自覚的にでも使ってみることが出来れば、誤りは防げたはずですね。
このことをふまえればこの例は、<量質転化>という考え方が欠けていたことがもっとも大きな失敗の原因でしたが、同じ例をとって、他の法則は働いていないか、と考えてみることもできます。
「雨が降る」という現象は、さきほど挙げたように空気中の水蒸気が集まって<量質転化>したところにおこるものでしたが、そのきっかけとなっているのは温度の変化などによるのですから、そういう意味では<相互浸透>です。
また、雨となって流れた水は川となり海へと合流するどこかの過程で水蒸気に形を変えて、雨になって降るのを待つことになるのですから、これは<否定の否定>です。
また考え方そのものに目を向けても、些細ではあっても原理的な誤りの積み重ねが大きな誤った結論を導くことは<量質転化>といえます。
同じようにすこし大きな観点に立って、一面の真理を度外れに押し広げて解釈するところに誤りがあるのだと理解すれば、真理は誤謬に転化するという<対立物の相互浸透>が示されていたのだとわかります。
より大きな観点に立てば、あなたの、「リクツではそうだけれど現実には濡れてしまうじゃないの」という、現実的で素朴なものごとの見方のほうが、友人のリクツよりも結論としてはかえって真理に近いものであったということを見てとれますから、これは<否定の否定>である、ということができます。
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これらのことを指摘するのに、いちいち「ええと、弁証法の法則はなんだっけな」と考えてみなくても、見たまま自然に「あれっ、どこかおかしいな」と気づけることこそ、弁証法が使えるようになった、という段階なので、わたしはそれを、「技」のようなものですよ、とお伝えしたのです。
たとえば語学があるていど身についてくると、相手のしゃべる発音や文法に誤りがあることに気づけるでしょう。
熟練の職人さんは図ることなしにアルミの板をきれいな半球に仕上げますし、学者ならば書籍の目次を見ただけで一流の本であるかどうかがわかります。
それがごく自然に身について、特別に意識しなくても使えるという段階になると、「技」としていちおう身についた、ということができます。
この技が、どのようなイメージとして自覚されるかといえば、はじめはバラバラに修練していたはずの3つの法則が、「ひとつのものだったのだ!」とわかることから、アタマのなかにひとつの球体があって、それがすべてを照らしてくれる、といったような言い方をすることもあります。また弁証法をつかって歴史をしらべていると、それが3つの法則がひとつになったという螺旋階段として意識されることもあります。(後者については、以前にも書いたことがありますね。気になる人は探してください。あのときも無茶をやりました。)
ただここをどんなふうに表現するにせよ、認識のなかのものを実体として説明することは、わたしが意図していることとは反して観念論的になってしまいますし、もっと悪くはオカルト的な響きも帯びてきますから、このくらいにしておきましょう。
とにもかくにも、知識的にはほとんどなにも必要のない当たり前のことがらを扱うときにも、ここまでの視点から正しさを突き詰めてみることができるのか、と思ってもらえれば、これは身につけたいな、という気も少しは起こしてもらえたのではないかと思います。
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それでもなぜここまで無理をして弁証法を薦め、ものごとを平面的に見る「形而上学」ではなく、ものごとの立体的な構造をみようとする「弁証法」でなければ、正しい結論にはならないのだと強調するかといえば、以下の理由によるのです。
この世界にある森羅万象、つまり自然や社会や精神といったものは、無限の広がりを持っています。
ところが、わたしたち人間がそれを対象として認識するときには、そのすべてを一挙に理解しつくすことはできません。
森羅万象が広大すぎる、という理由だけであれば長く生きればすべてを把握できるかもしれませんが、世界は常に変わり続けているのです。
もしあなたがある時点のことをすべて知り得たとしても、「万物は流転する」(ヘラクレイトス)という性質に規定されて、原理的にこの限界と、それと直接に森羅万象と認識とのあいだの矛盾が出てくるわけです。
そうすると、人間が森羅万象を理解しようとしたときには、ある一面を切り取って、それに基づいて認識を創り上げることになりますね。
ところが、それは一面であるかぎり、他の一面が存在することを認めねばなりません。
そういうわけで、ひとつのものごとを見るときにも、多種多様な見方が存在することになるわけです。
多種多様な見方をそのままにしておけば、解決できない矛盾がそのままの形で保存されてしまうのですから、それをどうにかして「総合」して、ひとつの実体としてとらえることが、森羅万象の本質的な理解のためにはどうしても必要になってきます。
このことはなにも、「とにかくたくさんの経験をしなければならない」ということなのではなくて、「正しい考え方で考え進めてみたときに、どうしても避けられない矛盾があるように見えるときには、それが本当に正しいと言えるのかと考え、一方ではそれを『あれもこれも』と総合して考えてみなければならない」、ということなのです。
弁証法は「論理」であって、目には見えませんから、これを使える人は、同じくそれを使える人としか本質的な議論をすすめることができません。
そのあり方に差がありすぎる場合には、切れ味の鋭い刀で斬られた人間が、何事もなかったかのように去ってしまうために、人も斬れぬ根性なしにナマクラ刀、と評されることさえあるのです。
そういう意味で、「近所の物知り」になりたいだけなのなら、むしろ無用の長物ともいえるのですが、一度きりの人生、名実ともの一流を目指したいという方には、どうしても自らの力で磨いてもらわねばならない刀である、と念じ、決意を新たに、日々を歩んでいただく必要があります。
(了)
◆補足◆
わたしのたとえは、読者の便益を考えて、あまり知識的なことを例にあげませんが、だからといって「弁証法さえあれば知識はいらない」とは短絡しないでくださいね。
弁証法はあくまでも、歴史的にもっとも進んだ分野でそれを駆使しながら活躍するときに本質的な発展を遂げるものですから。
とはいえ、いきなり専門書のなかから弁証法を見つけ出すのはほとんど不可能ですし、そもそも弁証法を使えている専門書もほとんどないので、三浦つとむ先生の本を土台にしながら以下の本の読みすすめて、弁証法の法則を見つけて線を引き、書きだしてゆくことをおすすめします。(前にも言いましたけれども)
・『発展コラム式 中学理科の教科書 第一分野』
・『同 第二分野』
・林健太郎『歴史の流れ』
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