2011/07/18

ものごとの本質とはどこにあるか

昨日は「更新できる環境にない」と言いながら、


その記事そのものをしっかり書き込んでいるということは更新できているではないか、と思われたかもしれません。

実はこのBloggerというシステム、携帯電話のメールを使って更新したりもできるのです。
その場合には、件名がBlogの記事のタイトル、本文がBlogの本文になるという仕組みで、昨日はそれを使ったというわけです。

その場合には、長文を書くのには向いていませんし、画像を好きなところに貼り付けることもしにくいと思うので、どうしても機能的には制限がありますが、それでも便利なものです。

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ところがこの便利さというのはなかなか曲者で、たとえば携帯電話というものは、それを買った途端に、旅行中であろうがなんであろうが、こちらの事情はおかまいなしにひっきりなしの連絡が入ってくるという面も持っています。
それが嫌で国外旅行を中心にしようと思っても、最近ではスマートフォンなんかもありますから、国内だろうが海外だろうがそれまではPCを立ち上げて確認していたメールも入ってきてしまいます。

わたしはどちらかと言うまでもなく、あまりに便利すぎるのは好きではありません。

利便性を実現するために、失ってしまったものがどうしても目に付くからです。
都会に屹立する高層住宅や、途方も無く大きく長い大橋なんかをみていると、「なにもここまでしなくても…」といった、人間の文明に対するなんともいえない物悲しさを感じます。

なにを感傷に浸っておる、お前もその利便性を享受しておるではないか、と言われればたしかに直接・間接問わず、暮らしを支えてもらっているのは否定することができません。

人が社会性を持った動物であるということは、どれだけ努力してみたところで、社会性から切り離されてはまともに生存することすら叶わない、という意味でもあるのです。

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ただそれでも、「便利になる」というのは、本来ならばその中にあった過程を飛ばして、結果だけを享受する、という意味合いも含んでいます。

デジタルなペイントツールではなく、鉛筆や絵筆を使って自分の手でキャンパスに表現するのは――
キーボードを叩くのではなく、万年筆を使ってノートをとるのは――
メールを使って一瞬で意思疎通ができるところを、自筆の手紙として認めて送るのは――
ナイロン製のバッグを使えば雨の日にでも濡れずに済むところを、革の鞄を手入れしながら使うのは――
電車を使えば5分で着くところを、あえて自分の足で景色を見ながら歩いてみるのは――
――そこに、損なってはいけない過程があると思うからです。


この問題について、美術表現ひとつとってみても、絵画などの平面的な表現は、デジタルで作成できるが、彫刻などの立体的な表現はプリンタからでは出力できないので、そこから先は人の手によればよいのだ、という使い分けを提唱する人がいます。

ところがこの考え方は、現時点ではこうである、という現象をみたところの考え方なのであって、いまではプリンタも平面的なものにとどまらず、立体プリンタというものまであるのです。

これは、コンピュータで取り込んだ立体データを、石膏のような素材で立体化して出力するというもので、形だけはかなり精密なレプリカを作ることができます。
しかしそれでは色がついていないのでは、という意見に対して、立体物に色を吹き付けるものまであるのだから驚きです。
わたしもこういった企業の研究に参加したことがありますが、これらは現在、とても大型なのものの、小型化がすすめば10年ほどで家庭の中に入ってきてもおかしくないのではないかと思います。

言い換えれば、人のやらねばならない範囲は、放っておけばいくらでも狭まってくる、ということです。

このような、「向こう岸まで簡単に渡りたい」、「できるだけ短い時間で情報をやり取りしたい」、といったような、想像できるものはすべて、何らかの形で実現しようとする人間の力を見ていると、残る問題は、目標を実現するのにどれくらいの時間がかかるかどうか、といったことだけに限定されるようにも思えてきます。
かつては人類にとって、「火が森を焼くのは困るけれど、必要なときには自由に使いたい」、「走るのをはるかに超える速さで荷物を運びたい」、「鳥のように空を飛びたい」、といった願いも、当たり前に叶えられるものではなかったのですから。

そういった大きな目標に立ち向かい、失敗の中でもくじけずに歩んできた人類の力を十分に認めるとしても、「何らかの手段でできることならすべて、それに頼り切る」という姿勢だけでは、本来的にその過程が担っていた意味合いとはどのようなものだったのか、と実感することは、やはり意識的に過程を辿ることで取り戻してみなければならなぬものだということになります。

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わたしは、ともすれば結果だけを享受しておしまいになりがちなところを、過程をふまえるためにといろいろな工夫をしてみて、一流だと信じられる人とのやりとりを通して、やはり、「結論そのものにはさほどの意味がない」ということが、深く、深く理解できるようになってきました。

こういうことは、ある程度齢を重ねてみなければ、とてもとても、わかりにくいことです。

この連休のうちの1日は外に出かけてきましたけれども、その時にであった人とも、自然とそういうお話になりました。
その人が何気なく口にした、上の言葉を聞いたときには、背筋がぞくぞくするようなうれしさがあったものです。

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実は今日までの1ヶ月は、「ここに毎日記事を書くことは、本当に可能だろうか?」という目標に向かって、わたしなりに取り組んできました。
Blogを毎日更新されている方はほかにいくらでもおられるようですが、毎日、それなりに意味のあることを、そのとき進めることのできた研究の一端を使って書き進めることができるか、という目標は、わたしにとっては試練でした。

そのことに取り組むことになった直接の理由はといえば、7月のはじめに「毎日の暮らしを整えるには」という記事を公開したとき、こんなことを言ったからです。

基本的には、毎日同じペースでコツコツ前に進んで、結果としていつのまにか力がついているという、<量質転化>ができる環境を生活の中で整える、ということに最大限の注意を払ってください。
わたしのBlogは、一般的な問題を取り扱っているように見えて、その裏側には、わたしの周りにいる人がぶつかっている問題などを解決する手助けになれば、という側面があり、これもそういった類のメッセージを含んだものでした。

率直に言えば、ある理由でそれまでの生活が崩れざるをえなかった人に対して、こうすれば生活を整えて、自分のペースを作って一流の道を歩むことができますよ、というメッセージがあったのですが、そう言ったところの当の本人が、実際にそれをできていなければ、なんの手助けにもならないどころか失望の種をさらに増やすことにしかならないのです。

言うことだけは一丁前なのに、自分は涼しい部屋で寝そべってだらだら映画などを観ている人間などは、信用するに値しません。
そしてまた、一生をとおして化けの皮を被っていられるほど、時間の流れというものは甘くないものです。

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そうであれば、過程をくどくど述べなくとも、結論として提示した一語、一語のなかに、当人の生き方をなみなみとたたえていることを感じさせるような、そんな人物になってゆきたいものです。

そうは言っても、やはり正しくものごとを伝える表現というものは欠くことのできぬゆえ、読者のみなさまには、これからさきもそのとおりご了解いただき、ともに歩んでいただければ、これほどのうれしさは他にありません。

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