MacOS X Lion (4):前を見据える者はどんな橋を渡ってゆくか
(3のつづき)
前回までは、Appleが、自ら世に問うたタブレット型のコンピュータiPadがユーザーにどのような利便性をもたらしたのかを学び、その長所を取り入れいたものがMacに合流されることによって"OS X Lion"が生まれたという経緯と、その設計思想について見てきた。
ものごとをゼロから考えるということは、自分が築きあげてきたものをも、一旦はなかったものとして考えた上で、根本的な土台の作りなおしを要請するものだから、誰にも知られることのない数えきれぬ試行錯誤の末に、そういう設計思想を持つものが世に出たときは、当然のことながらある種の革新性を帯びているわけである。
iPhoneは、それまでの携帯電話業界とそれを使うユーザーが縛られていた「テンキー」から解放されたところに、その革新性があった。
今回取り上げた"Lion"は、それまでのPC業界とユーザーが縛られていた「PCの独自ルール」から解放されたところに、その革新性があったのである。
そしてそのどちらもが、その当事者であった誰もが、「自分が縛られている」という事実に気づいていなかったことなのである。
そんな中で発売された"OS X Lion"は、世界ではじめてオンラインでのみ販売されたOS(USBメモリ版は後日)であるが、そのダウンロード可能になった時間というのがアポロ11号が月に着陸したのと同じ7月20日の21:30であったところにも、Apple自身の自負が伺える。
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わたしが前回の記事で、この"Lion"には未成熟の部分もあると書いたように、このOSの発売をもって、新しい時代への流れが明確に生まれたとは考えてはいけないと思っている。
言い換えるなら、このOSは「ポストPC」時代に向けた革新的な第一歩ではあっても、それが根底から、PCに初めて触るユーザーのためのものになっているとは言えない、ということである。
ずっと未来にどうあるべきかという話でなく、単にiPadと比べてみても、そのユーザー志向とは比ぶべくもない大きな差がある。
それは、「帰るべきホームがない」ということだ。
iPhoneやiPadが、相当に複雑で高度な機能を持っているにもかかわらず、女性を始めとした一般大衆、ときには子どもや年配の方にまでなぜ受け入れられたのかといえば、そういうコンピュータを苦手とするユーザーにとって、画面の中央下に位置する「ホームボタン」が、いちばんの安心感をもたらしているからだと思う。
iPhoneの画面下部に位置するホームボタン。 カドのとれた正方形のアイコンが描かれており、本体を横向けで使うときにも同じ模様になる。 |
もしあなたがあるアプリケーションを使っているときに、それが固まって動かなくなったり、深い階層に潜りすぎていま自分がどこにいるかがわからなくなったりしたときには、このホームボタンを押すだけで、すべてのはじまりである場所へと戻ることができる。
これをホーム(家)と呼ぶのは、その意味で実にふさわしい表現なのであって、物理ボタンによるカチッとした確かな手応えと共に、それを使うユーザーに「困ったときにはホームに戻る」という安心感をもたらす効果を果たしている。
おなじスマートフォンの系列に属するAndroidを見ると、iPhoneの場合にはホームボタンが鎮座している画面下部には、「メニュー」、「ホーム」、「バック」、「検索」ボタンがある。
しかも、このボタンのどれを搭載するか、またどの順番で搭載するかは機種によってバラバラなのである。
Engadgetの記事(Android の分断化問題がよく分かる一枚の写真)より |
Androidのボタンについては、メーカーの試行錯誤の中から、最近ではようやく事実上の標準(デファクト・スタンダード)の構成が決まりつつある状態であるが、メーカーの試行錯誤に付き合わされたのは、他ならぬユーザーであるし、押下感のないタッチセンサー式のボタンを搭載した機種も未だ多いことから考えると、形だけを真似した、やはり似て非なるもの、と言わざるを得ない。
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ものごとをゼロから考える者は、橋を作りながら渡ってゆく者である。
その橋というのは、他ならぬユーザーがものごとをうまく運ぶための橋なのであるが、それがすでに目の前に出来上がったものとしてしか映らない同業他社にとっては、それは単に金のなる木であり、一刻も早くコピーするだけの対象となってしまうのである。
しかもここで言う模倣者は、革新者が寝る間も惜しんで橋をかけている間に、「あんなところに橋がかかるか」と言わんばかりに狂人扱いしていた、当の本人なのだ!
誰かが動き出したときすでに、その目指すところが見えその価値が知れているのなら、それが結果を表さずとも、自ら動いていたはずではないだろうか。
わたしは前に、人間には「以心伝心」というものはありえない、と言ったけれども、あれは、どんなに気心の知れた人間であっても、人の気持ちを読み取るためには、その相手が物質的な形で表現したものを、まずは見なければならない、ということである。
わたしたちは相手が笑ったり、手紙を書いてくれたり、自分のために音楽を奏でてくれることを対象として受け取り、自分の頭の中に、相手のこめた感情を再現してみるのである。
ここを要せば、わたしたちは相手の「物質的な」表現を対象として受け取ったものを、「精神的な」認識の上に持った上で、相手が認識→表現と進んできたことを逆向きに遡るように理解しなおすことと直接に、相手の思いを受け止めるのであって、相手の精神を直接に読み取るわけ「ではない」。
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この表現にまつわる過程における構造は、企業が他社製品をコピーするときにもやはり横たわっている。
模倣者が、向こう岸に橋を渡しきった者の功績を横目に見つつ、それを真似て橋を作るときには、何も無いところから良い橋を作ることを考えて、時には崖下に転落しそうになりながらも歩みを止めずに歩ききったという革新者のその過程を、「どれだけ自らのものとして繰り返すことができたか」が問われねばならない。
多くの場合には、革新者が橋を作り終えて休んでいる間に、ほかでもないその橋を使って向こう岸にロープをわたした上で、何食わぬ顔で同じような橋を模倣しているにすぎないことがほとんどなのである。
こういった敬意のなさ、過程というものにものごとの本質があるのだという理解なしに、真の模倣というものがあり得るはずがない。
結果だけを真似してみても、あらゆるところに綻びが見えているものなのである。
わたしにとってAppleという会社は、会社組織としては例外的に、誰よりも前を見据える者が、どれだけの厳しさの中で歩みを続けなければならないかを、饒舌にではなくあくまでも背中のみで学ばせてくれた、ひとりの偉大な師でもある。
(了)
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