2011/10/26

作家がペンを手放してはいけないのはなぜか:原則と実践の問題 (3)

(2のつづき)


前回の節では、原則というものの持つ意味合いについて触れてきましたが、一節で述べた表現過程についての構造も、そういった学問的な原則のひとつであって、それだけに大きな力を持っているものとして理解していただいて結構です。

「対象→認識→表現」という図式は、文芸の作り手の立場に立てば、物質的な対象を像として認識の上に反映させ、それを元に表現するというところを明らかにしていました。

ところでこれは裏返し、作品の受け取り手の立場に立って見るときにも大きな示唆を与えてくれます。
その理解の過程は作り手の場合とは逆向きの矢印を辿ることとなり、ある表現を見た受け取り手は、そこに現れている表現の裏側に、作り手のどのような認識があったのかと捉え返しながら、作者がその表現の込めた思いを自分のアタマの中に描いてみるということなのです。

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この原則を知ったときに、ただ単に知識的に丸暗記するのではなく、実際の表現活動に取り組むときにも、この原則に基づいてその活動をしてみることができているでしょうか。

この図式は、なにもわたしが経験的にポンと思いついたことを述べたわけでは決してなく、それなりの学問的な歴史を内に含んでいるものなのですから、原則を踏まえながら目的的な活動をするということは、自らのものごとの進め方を学問的なものとしてゆく、つまり自らの認識をも学問的なものとして技化する、という過程でもあります。

学問というものは、人類最高の…もうおわかりですね。

さてではもし一人の作家が、この原則をふまえて創作活動に取り組むときには、どのような実践となってゆくはずなのでしょうか。

「なるほど表現というのが、生活の中で得られた対象を認識として反映させたものであるなら、認識の素材となる対象を豊かにする経験をより積むことと、それを受け止める自分の認識の力を増してゆかねばならないということになりそうだ。
たとえば戦地から戻った人間が、詳細な描写と鬼気迫る人間の生きようとする姿を描き出せるのは対象が深みを持っているからであり、また認識の力が文筆活動には必須であるというのは、夏目漱石が英文学の素養を持っていたからこその遅咲きの作家デビューでも、あれほどの力量を持ち得たことを根拠付けているようだ。」

このように、作家として上達するにあたっての、ものごとの取り組み方を整理してくれます。

そしてまた、作品の受け取り手が、ある表現をどのように理解するかの過程が、創作活動とは逆向きの矢印を辿ることを見れば、作家にとっての認識論の必要性も一般的に把握しておくことができます。

「自分が前に書いたあの作品、自分としては相当に手応えがあったと思っていたのに読者にはあまり伝わらなかったのは、もしかすると表現がひとりよがりになっていたせいかもしれない。そういう意味では表現というものは、単に自分の心情を吐露するという意味を越えて、私と読者をつなぐものとして受け止めねばならないのか。そしてそれが、前回の失敗の原因だったのか。そうするとこれからは、読者が自分の表現をどう受け止めているのかをもっと自覚して捉え返してゆかねばならないのかもしれない。」

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ここまで書いてくると、わたしが今回タイトルにすることにした、「作家がペンを手放してはいけないのはなぜか」という問いかけについての答えも、考えていってもらえるのではないでしょうか。

もしこの原則を守って考えてみれば、目的意識はこうなるでしょう。

対象となる経験を増やすことを心がけ(「対象」)、
それを受け止める土台となる認識の力を増すための感受性の訓練をし(「認識」)、
表現手法を他の作品から学ぶこととともに(「表現」)、
対象から認識へと至る認識論を探求し(「対象→認識」)、
認識から表現へと至る技術論を作品を書きながら究明し(「認識→表現」)、
そしてさらに、読者の表現を観念的に捉え返しながら作品を見直す(読者の立場に立った「認識→表現」過程の観念的二重化)。

春風や冬空、みかんの色や猫のしぐさなどの自然現象があらゆる素材を提供し、人間の日常が豊かな表現に満ち溢れているときに、こういった目的意識を持ってまわりを見渡すなら、無限とも言えるほどの発見事実があることがわかるとともに、日々すべてを押さえておくことのできる技を作るには、また実際に技を使い続けるにはいかなる努力が必要なのかも自ずと知れるでしょう。

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タイトルはわかりやすいものを選びましたが、これはなにも、作家志望の人にだけ言いたかったことなのではなくて、表現に関する仕事に携わって、そこで一流を目指すのだと志していながら、なにやら考え事をするばかりでなにも行動していない場合があることを、問題視せざるをえない状況が散見されたからです。

「表現する」技術に圧倒的な自信があり、その上で大きな下調べが必要な場合にならまだしも、初心において手を動かさないというのは、上達論の観点から言えば、画家にとって、作家にとって、致命的とも言える欠陥を含んでいます。

「死ぬまでペンを手放さない」というのは、作家の最後を看取った者が語る美談などに限られることではなく、また単なる作家としての姿勢にとどまることでもなく、これはそうでなければ上達はあり得ない、というほどの重大事です。

できないなりにもとにもかくにも毎日手を動かして作品を作り、厳しい評価を受けながらでも一歩ずつの前進をして来なかった人間に、表現者としての成功は絶対にありえません。

それは、厳しい評価を受けるということが直接に、次なる表現の足がかりになるからです。
もし残念ながら、正しい評価をしてくれる主体がいない場合には、自分が観念的に創り上げた先達の立場に立って、「あの人ならこの作品をこう言うだろうな」と捉え返すという、孤独な作業が必要になるのです。
直接的な指導を仰ぐことのできる人物が、身体を持って近くにおらず、本の中にしかいないというのは、自分が根こそぎ狂っているかもしれないという疑念を完全には払拭できないという思いに恐れ慄きながらの探究と指導の日々を過ごさねばならないということでもありますから、わたしは自分のあとに続く人たちにだけは、そういう思いをさせたくありません。
怒られるにせよたまには少しばかりの褒め言葉をもらうにせよ、それがどんな内実であろうと、評価を受けるというのは、大きな前進のための手がかりなのです。

それが表現をし、それをもとに評価をされるということの直接的な効用であり、また間接的には、そこでの評価を積み上げることを手がかりに、「あの人ならこう評するだろうな」というふうに指導者を観念的な像として持ち、そこに問いかけ浸透する中で対象と触れ合う機会を増やす生活を整え、認識し、表現し、上達してゆくということもできます。

すべては、表現することからしか始まらないのです。

それでも自分の力が及ばないことを目のあたりにするのが嫌で、また怒られるのが怖いのなら、ペンをしまったままにしておけばよいでしょう。

もし自らの生涯をかけての夢というものが、近所の物知りとして知られたい、くらいなのであれば、なにも厳しい毎日を過ごして、恐ろしい言葉で怒られる必要などどこにもありはしないのですから。

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「なるほど文芸に携わる人たちはたいへんだなあ」と他人事のように考えている読者の方のため、念のために断っておくならば、わたしたちの人間の仕事に、「表現」にかかわらない営みというものが、果たしてあるだろうかと考えてみてください。
今回の記事を手がかりに、なぜわたしが以前に、一般の方にも日常生活の中で弁証法を見つけ、日記をつけることを強く勧めたのかを考えてみてください。

ひとつめの節の最後でも述べたとおり、芸術家や作家のような、実体的な作品を創り上げる仕事だけが表現にかかわる仕事なのではなくて、人とのコミュニケーションをとるのもひとつの表現ならば、会社組織の内部で、外部で働くほとんどのひとが日々の仕事の中で表現を行なっていることがわかるでしょう。

もし家に帰ったときに、仕事ではあれだけ頑張っているのに家族に評価されないということがあるのなら、家庭での振る舞い方が仕事の質とは違っているからではないか、もしくは仕事の振る舞い方を度外れに家庭にまで持ち込んでしまっているからではないか、そう考えてはみられないでしょうか。

原則が、そこから個別の事例を引き出せばきりがないほどの含意を与えてくれるのは、それが、芸術家や作家など、これまでの歴史の中で表現という人間活動に携わってきた者と、それを体系化した学者たちの議論の末に勝ち取られてきた、「頂上まで登りつめるための方法」であるからなのです。

その一般的な表現の中に、あらゆる失敗のなかで磨き上げられてきた正しい歩み方が、わたしたちの行き先を照らしてくれるからです。

もしあなたがその経緯を知っていたなら、自分が学問的に考えるときには必ず、かつての偉人たちが背中に手を当てて、「自信を持て、お前は間違っていない」と支え続けてくれているのがわかるはずです。(表現論の生成されてきた過程は、前に触れた書籍、三浦つとむ『芸術とはどういうものか』などから大まかに学べます。)

個人的な経験だけの方法をとるか、人類総体としての叡智を自分の技として身につけてゆくかの選択は、当然ながら自由なのですが、天の才を誇ったはずのあらゆる人物が、そこかしこに口を空けている落とし穴に嵌ってしまった歴史を見ると、ひとつの道が、とても光なしには歩いてゆけない険しいものであることを知るのは、難しいことではありません。


(了)

1 件のコメント:

  1. 一流が先駆者であり、開拓者でもあって
    それが、日々行う実践的な修練で培われている
    ことがよくわかりました。
    ありがとうございます。

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