はたして、昨年末の修練は実り多いものになっていたのでしょうか。
◆文学作品◆
ライネル・マリア・リルケ Rainer Maria Rilke 森林太郎訳 駆落 DIE FLUCHT
◆ノブくんの評論◆
文学考察: 駆落(修正版)
高等学校生徒であるフリツツと、とある娘のアンナは互いに愛しあってはいるものの、互いの家族は二人の関係を認めていない様子。二人はこのような状況に嫌気を感じており、漠然とながらも、駆落について考えていました。
ある時、フリツツが自宅から帰ってくると、アンナから一通の手紙が届いていました。その内容は、「父親に何もかもばれてしまし、もう一人で外へ出られなくなってしまったので、駆落を実行しよう」というものでした。この手紙を読み終えた時、フリツツは嬉しくて仕方ありませんでした。ですが、後に彼は彼女のことを考えれば考えるほど、彼女を嫌いになっていきます。さて、彼は何故彼女を嫌いになってしまっていくのでしょうか。
この作品では、〈理想と現実の間の隔たりが大きすぎた為に、理想を諦めなければならなかった、ある青年〉が描かれています。
まず、この作品の論証するにあたって、下記の箇所を中心に進めていきたいと思います。
少年はその音を遠くに聞くやうな心持で、又さつきの「真の恋愛をしてゐる以上は」と云ふ詞を口の内で繰り返した。
その内夜が明け掛つた。
フリツツは床の上で寒けがして、「己はもうアンナは厭になつた」と思つてゐる。
この箇所は、「その内夜が明け掛つた。」という一文をまたいで、フリツツの心情が大きく変化していることが見てとれます。その前の文章では、彼はアンナに対してまだ恋愛感情を持っており、駆落のことを考えています。ですが彼は考えてはいるものの、その具体的な問題が全く解決出来ず、次第にアンナが嫌になっていき、やがて夜が明けてしまいます。
では、彼は何故駆落に関する問題がひとつも解決出来ず、彼女のことが嫌いになってしまっていったのでしょうか。それを知るためには彼が語る、「真の恋愛」というものの中身について考える必要がありそうです。彼は彼女の手紙を受け取り、「兎に角一人前の男になつたといふ感じがある。アンナが己に保護を頼むのだ。己は女を保護する地位に立つのだ。保護して遣れば、あの女は己の物になるのだ」と喜んでいるあたり、彼にとって彼女と暮らすということは、彼女を自らが養うことであり、同時にそうすることで自分が考える理想の男になることでもあるのです。ですが、彼女と暮らすことそのものに対する理想の像というものは、まるで語られていません。ここが彼の理想の像が薄いと言わざるを得ない、決定的な点となっています。ですから彼は何処に住むべきかなどといった、具体的で現実的な問題がまるで解けなかったのです。だからこそ、今自分が持ちうる全てと彼女とを天秤にかけた時、彼女を選べなかったのです。それどころか、現実的に彼女と暮らす事が理解できた時点で、恐らくフリツツにとって、アンナは愛する対象から自分が持っているもの全てを奪ってしまう、嫌悪の対象へと変わっていったのです。
まさに彼の失敗は、自身の理想に対する像の薄さからきており、その薄さが現実との隔たりを大きく広げていったのです。
◆わたしのコメント◆
評論の構成として、よくできています。
忘れかけていた修練内容・修練への姿勢をわずかの期間で取り戻せたことについては、論者自らの自制心と反省を信頼して、小言を繰り返しません。その積極面・消極面ともにきちんと評価して、ノートに赤字で書き留めておいてください。
ともかく去年の終わりに指摘しておいた問題点をうまく注意しながら書き進めてくれていますので、このことを活かしながらあたらしい作品に取り組んでゆくとよいでしょう。
また作品の持つ論理構造が自分なりにでも正しく読み取れるようになってきたのであれば、直ちにそれを創作活動に活かすことを強くおすすめしておきます。目安としては、月に一つの作品を仕上げることができるのなら上達も早くなりますから、物怖じせずに目標を立てて取り組んでください。
たとえば今月の末までにひとつの作品を仕上げるのであれば、去年の12月期に取り組んだ作品の中から、自分の手に負える論理構造を含んだ作品をひとつ決めて、その論理性を同じくする作品を表現を変えて自らの手で書くことを通じて、過去の文学作品を乗り越える努力をするとよいでしょう。
◆◆◆
わたしが今回の評論のどこを評価しているのかをわかってもらうために、その構成を整理しておくことにしましょう。
論者は作中の主人公フリツツの、駆落を約束している恋人アンナへの気持ちが豹変する一節に着目した上で、そのことがなぜ起きたのか、と問いかけます。
ここで評価すべきなのは、フリツツの気持ちが豹変する原因を彼の「真の恋愛」観にあるのだといちおう特定したのみならず(この指摘で立ち止まってしまっているのなら、合格点はあげられませんでした)、その過程における構造はどういうものであったのかと問いかけて、一定の答えを出していることです。
因果関係を、単なる原因→結果という形而上学的な変化に帰してしまうという誤りに陥らずに、あくまでも過程における構造を手繰り寄せようとしているところは、論者があらすじのさいごに問いかける「さて、彼は何故彼女を嫌いになってしまっていくのでしょうか。」という表現に現れています。
ここをもし、形而上学的な論理性しかないのであれば、「彼は何故彼女を嫌いになってしまったのでしょうか」と問いかけることしかできずに、その答えを、経時的な心情の揺れ動きではなく、一時点におけるひとつの主たる原因として探し回ることになったはずです。
(また欲を言えば、「嫌いになってしまっていく」よりも、「嫌いになっていってしまった」と表現してほしいところです。「しまった」は、「結局のところ意図しない結果になった」という意味合いを含んだ補助動詞としてのはたらきを持っていますから、動詞の末尾に付け加えるのが読者の便益に叶う表現となるでしょう。今回の作品に即しても、「嫌いになった」という結果まで描いていますから、後者の表現がふさわしいことになります。一般的に、事実のあとに価値判断を付け加えるのが、日本語表現としては自然な流れです。)
弁証法を意識した問いかけの形は、あれがこうなった、という平面的なものではなくて、あれがこれと関わり合いつつこうなっていった、という<相互浸透>的かつ<量質転化>的な、立体的な構造を意識したものでなければなりません。
またエンゲルス・三浦つとむ流の弁証法に即して考えたとき、残る法則である<否定の否定>を今回の作品になぞらえて言うなら、フリツツの感情が豹変する境界において、第一の否定が起きたのだと考えることもできます。
◆◆◆
さてそうして、論者の問いかけにたいする論者自身による答えを検討すると、それは「真の恋愛さえあれば」駆落の困難にも耐えられるはずだ、というフリツツの恋愛観が、いわば「言葉に酔った」ものでしかなく、恋人との生活と引き換えに犠牲にしなければならない困難についてまともに想像してこなかったことが問題であったのだ、というものでした。
ここで惜しむらくは、と言わねばならないことは、コメントのはじめの「評論の構成として、」ということわり方を見たときに行間を読んで気づいてくれていることと思いますが、それは過程的構造の立体構造が単純な形になってしまっているということです。
フリツツはアンナと駆落の約束をしたあと帰宅して彼女の手紙を手に取り、「(彼女を)保護して遣れば、あの女は己の物になるのだと思ふと、ひどく嬉しい。」と舞い上がっています。
これは、かねてからのアンナとの密会が実を結び、ついには近いうちの駆落の約束をするまでになったという段階を、彼がとても喜ばしく思っているということなのですが、彼とアンナの中があたらしい段階にまで進む時になると、それと同時にある問題が首をもたげてきます。
それは、「その時、どこへ行つたら好からうと云ふ問題が始めて浮んだ。」ということだったのでしたね。
この問題を考えてみても答えが出ないというので、それをごまかすために彼は、それはさておき荷造りを始めることにしました。
ところが、荷造りが終わり寝台に寝転び考えを進めてみても、その疑問は一向に氷解しません。
そのことを認めたくない彼は、わずかに芽生え始めた不安を払拭するように「なに。真の恋愛をしてゐる以上はどうでもなる。」と独りごちますが、往来を行く馬車の音が、時計の針が時を刻むのを聞いていると、しだいしだいにその不安は彼自身の心を覆うようになってゆくのでした。
この不安は、アンナの父親に反対されるながらも密会を繰り返すなかで彼女との恋心が燃え上がっていたころには、まだ想像してみる必要もなかったために影を潜めていたはずのものですが、いざ彼女との愛を確かめ合い、ついには駆落を決意する頃になると、次にはこれからの生活上の困難を、他でもない我が身そのものに振りかかることとして受け止めねばならなくなっていったことから生じたものでした。
◆◆◆
論者はこの箇所を指して、フリツツの感情が豹変したことは、彼のいう「真の恋愛」というものについて、彼が深く考えなかったため(「真の恋愛」の像を薄いままにしていたため)だと言いましたが、フリツツが深く考えていなかったのはむしろ、「駆落」がどういうものであるか、という「駆落の像」だったのではないでしょうか。
フリツツは、恋人との淡い恋心のなかにあって、それがすべてを覆い尽くすような錯覚にとらわれていたために、真の恋愛さえあれば現実のどんな困難にも耐えられると信じこんでいたところを、アンナとの仲が深まり駆落するまでになったときには、具体的な行き先について考えを進めざるを得ず、現実の困難に押され真の恋愛観などはどこかに吹き飛んでいってしまったのだ、と理解するのが自然です。
整理して言えば、フリツツを取り巻いているのは、「理想的な真の恋愛観」と、それとは相容れない「現実」という、対立する2つの世界観なのです。
恋人との間柄がまだ未熟であったときには、理想の世界に閉じ篭ることができていましたから、その世界観から見る「駆落」というものは、恋人との甘い生活を意味していました。
しかし恋人との間柄が進展するようになると、その現実化と相まって、世界観は現実的なものへと移行してくることになり、その世界観から見る「駆落」には、生活上の困難が必然的に浮上せざるを得なかったということです。
フリツツの感情が豹変してしまうのは、彼にとっての「駆落」には2つの側面があり、さらにはその側面が、敵対的に相容れない世界観で分かたれているという意味で、形而上学的な性格を持っているからなのでした。
自らが理想の世界にいるときには現実上の困難を看過し、自らが現実の世界にたどり着いたときには恋愛感情などどこへやら、といった極端な感情をあらわにし、またそのように行動することは、彼の考え方があれとこれとが相容れない関係にあるという「あれかこれか」の形而上学的なものであることを示しています。つまるところ彼の失敗は、彼の考え方にこそあったのでした。
またそれは、作品全体から言えば、「駆落」をめぐる2つの世界観のせめぎあいであった、ということができます。
◆◆◆
こういったふうに、段階ごとに登場人物の感情の揺れ動きを整理して理解したときには、一般性や評論も、弁証法的な表現と論じ方になっていくことになるでしょう。
論者の引き出してきた一般性〈理想と現実の間の隔たりが大きすぎた為に、理想を諦めなければならなかった、ある青年〉は、やや一時的で平面的な変化を指摘しているようにも見えますから、<理想が現実のものへと近づくにつれて、皮肉にもその理想を捨て去らねばならなかったある青年>といったふうに、「かえって(=今回の作品に即せば「皮肉にも」)」という表現を使って、第一の否定を意識した立体的な表現にしてもよいと思います。
とはいえ、ここについては相当に難しいと思いますから、背伸びせずに着実に、今回のようなレベルの評論を積み重ねることと、自分なりにでも作品の論理性をとらえた作品を書くことをとおして、確実な土台を創っていってもらえれば、指導のかいがあったと言えるでしょう。
合格です。
【正誤】
・「父親に何もかもばれてしまし、
・この作品の論証するにあたって、→この作品の論証をするにあたって、orこの作品を論証するにあたって、
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