2012/01/19

どうでもいい雑記:就職活動はどう考えるか

就職活動が始まっているようですね。


今年度は2ヶ月ほど始まるのが遅いようです。

日本の就職活動は戦後から、だんだんと早まってきていて、今では気の早い人は3年の中頃あたりからソワソワし始めるというので、大学側も企業側と協定を結んで、就職活動が勉学に差し支えないようにしたいと思っているようです。
もっとも、制度だけを整えれば学生たちが勉学に関心を向けるかというとそんなことはないのですが。

ところで就職活動を考えるようになった学生さんに、そのころどうしてたか聞かせてくださいと言われますが、進んだ道がジグザグすぎて、少なくとも直接的にはあまり参考にならないことを前もって白状しておきます。

わたしは3年の前期で卒業に必要な単位が揃ったので、長い長い夏休みの間はずっと絵を描いていました。
ほらね、参考にならなさそうでしょう。

ええっ、じゃあ絵を描いていたということは美術大学にいたんですか、と聞かれますが、大学では経営を勉強していたのでそうじゃありません。大学時代に先生たちからそれはそれは結構な扱いをされていたので、大学のあり方や人を導くはずの立場の人たちの人格に呆れ返ってしまっただけなのです。ただもっと勉強してちゃんとした大人になりたい、という思いだけはくすぶっていたので、学費を稼ぎながらでも好きなことのできる美術の学校にでも入り直そうと思ったのですね。

そのあといろいろあって研究者の道に戻ったり、それを活かして芸術の分野に取り組んだりもしていますが、今の自分からふりかえってみると、研究者一本だと道は通じていなかったし、芸術家一本でも同じことだろうと思うのです。
ひとつだけ言えるのは、いまではその曲がりくねった曲がり道のひとつひとつにすべて大きな意味があって、そのどれもがなかったのなら今こうしてはいなかっただろう、ということです。

◆◆◆

どんな生き方をしていても、人間としてまっとうな生き方をしたいと思えば思うほどに、周囲からの不理解や圧力が身に染みることもあります。

ものごとの進め方が人と違っている場合には、その過程では散々の村八分にされるわりに、いざ成果がではじめると衆目が手のひらを返したように「前からきみはできる人間だと思っていたよ」などと言い始めるものですから、人間なんてアテにならない、という実感も湧きそうなものですが、自分だって赤の他人が風変わりなことをするときには眉をひそめて世論に同調するのだとしたら、世間を非難するわけにもゆきません。

もっとも、一見した印象で人格を推定してしまうという悪い癖が人間にはあって、世間の目はそのような作られ方をしてしまうことの裏返しとしてこそ、結果が出ないときにも自分のことを理解して、支えてくれる人たちのありがたさが正しく受け止められるわけですから、ここでもやはり、ものごとを相互浸透として理解する姿勢を持っておきたいものです。

わたしも振り返ってみると、それなりに人並みの進み方をしてきましたから、八方塞がりでこの先どうしたらいいのか、と、途方に暮れることもないではなかったのですが、先ゆく道の手がかりがまるでなくなったときにひとつの指針になったのは、「いちばん自分が幸せになれることをやろう」ということでした。

幸せといっても漠然としていますよね。たしかに倫理の教科書を開くと、幸福論はアリストテレスに始まり〜という書き出しで、その結論は「未だ完成されていない」というような論調が多いので、あんなに賢い人にも答えはわからないのかと頭を抱えてしまいそうになりますが、わたしにとっての幸せというのは、ただ単に「好きなことをやれるかどうか」、「胃の痛くなるような思いをしなくてすむかどうか」、「自分のやっていることをあとで振り返ったときにがっかりしないかどうか」といった、ごくごくふつうのものさしで測った時の感じ方です。

相互浸透の関係を捉えるために逆のことを言うとすると、「お金や地位のために人として恥ずかしいことをやっていないかどうか」という表現がふさわしいところです。自分の生きる道しるべを自分の外側の、もろもろのルールに丸投げしてしまっていないかどうか、ということで、他の人がそれくらいいいんじゃない、と言っても、自分で考えてみて納得できなければやらない、ということです。

結局のところ、自分の好きなことをやる、ということを生き方のいちばんの前提にしておくと、そこからどんな結果が生まれたときにでも、後悔しなくてもすむでしょう。失敗を人のせいにしなくてもすむでしょう。成功に舞い上がりすぎなくてすむでしょう。

それからあわよくば、自分の好きなことをやって人の幸せにつながるというなら、誰にとっても悪いことはなさそうだと思えませんか。わたしは自分の夢というものを、そういうぼんやりしたところから考え始めて、実際にものごとに取り組む中で、しだいしだいに絞りこみ明確な像として持てるようになってゆきました。

もちろん実際に道を歩んでみると、ことはそう簡単ではないことを思い知らされることもありますが、突き詰めたところに出合う矛盾というのが、核心的な問題なのですから、それはそれで収穫があるのです。
本質とずれたところで頭にレンガをぶつけられるようなことがあったとしても、それでも折れずにやっていられるのは、そういうことを常々考えて、少なくとも自分は悪いことはしていないだろうと確かに確認できているからではないかな、と自分では思っております。

◆◆◆

いつも堅苦しい話をしているのにえらくぼんやりした話だな、と思った学生さん、鋭い。

冒頭の「制度を整えてもだめなら学生をどう指導すべきか」に始まり、「幸福とはどういうものか」、「倫理とはどう生成されるか」、「好きというのはどう決めるか」、などなど、たくさんの解かなければならない疑問点がここにはありますね。

どんな人生を送るにしろ、その過程をしっかり捉えてちゃんと考えて歩むときには、そういった事柄も少しずつ解けてくるものですから、今度お会いしたときに、順を追って議論しながら進路を考えてゆくことにしましょう。とても長くなりますよ。

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