わたしの周りにいる学生さんには個別に連絡をするだけになってしまっています。
それでも、よっぽどの大問題がある場合には寝不足だろうがなんだろうが「これではいけません!」としっかり伝えておかねばなりません。
ですから時間はなくとも、そういったことの必要がなくて平穏な日々を送っているということは、ある意味で健全でもあります。
日々の修練をちゃんとこなしてくれていることを確認して、「なるほどそのとおり」で済むときには、これといった記事にする必要がありませんからね。
ところがそういう場合には、ここのBlogだけを見に来てくれている方からすると、「あの手厳しいコメントをもらっていたレポートは無事に完成したのだろうか…」と心配されかねません。
ゼミや道場などの、直接的な修練の場では、同胞の面前で叱り飛ばしたあとに、当人だけをこっそり誘って横に並んで同じ方向を向いて、夕食を食べながら、どこがいけなかったのか、どうすれば良くなると思うかを議論したりするということが珍しくないのです。
こういう経験を通して、指導される側は、叱られたからといってなにも人格を否定されたわけではないのだ、それだけ目をかけてもらっているからこその叱責なのだ、指導者という立場と個人の感情は別のものなのだ、ほんとうの指導者というのはそれを切り分けて演じているものなのだ、などなどのことが、しだいしだいに身にしみてわかってゆくことになるのです。
しかしこういった場での発表は、どうしても結果だけをずらっと並べることしかできません。
今回の記事の意図はそういった方に、心配ご無用ですという目的で書き始めました。
そういうわけで、いつもより細かな問題を扱っています。
ですので、一般の読者の方は、個別の知識に深入りされる必要はありません。
論者にとってはそうでないことは、わかってもらえていますよね。
◆文学作品◆
菊池寛 屋上の狂人
◆ノブくんの評論◆
文学考察: 屋上の狂人(修正版2)
身体に障害を持っている狂人、「勝島義太郎」は毎日屋根の上にのぼり、雲を眺めていました。彼曰く、そこには金毘羅さんの天狗が住んでおり、天女と踊っていると言うのです。この義太郎の狂人的な性質に、「彼の父」は日頃から手を焼いていました。そこで彼は、近所の「藤作」が「よく祈祷が効く巫女」がいるという話をもちかけた事をきっかけに、早速その巫女に祈祷を依頼します。そして彼女が祈祷をはじめると、なんと神様が彼女の身体にのりうつり、「この家の長男には鷹の城山の狐が懸いておる。樹の枝に吊して置いて青松葉で燻べてやれ。」というお告げを彼らに残しました。そこで父らは気は進まないものの、神のお告げならばと義太郎に火の煙を近づけます。そんな中、義太郎の弟である「末次郎」がたまたま家に帰ってきました。彼は父から事の次第を聞くと憤慨し、松葉の火を踏み消してしまいます。そして事の発端である父を諭し、巫女をその場から追い払いました。その後、弟に救われた兄は何事もなかったかのように、屋根にのぼりはじめます。そんな兄を弟は労り、2人で同じ夕日を眺めるのでした。
この作品では、〈狂人であるあまり、かえって不狂人以上の信仰をもっている、ある男〉が描かれています。
この物語は義太郎の家族がそれぞれの意味で使っている、「神」という言葉を軸に話が進んでいます。ですから一度、各々が考えている言葉が指しているものはどういうものか、一度整理してみましょう。
まず兄の義太郎ですが、彼の考えている「神」とは雲の中の金毘羅さんの事を指しています。それは彼にとって絶対的なものであり、何をさしおいても優先すべき対象なのです。
一方、彼の父を含めた家族の「神」とは、彼以上に曖昧なものでした。その事は、巫女が自らお金を稼ぐため自らの祈祷によってつくりあげた、「偽りの神」にまんまと騙された事からも理解できます。また、彼らが祈祷によって騙されたという経験は、弟の「またこんなばかなことをするんですか」という台詞からも理解できるように、この一度だけではなさそうです。つまり、父たちにとって「神」の存在はどうでもよかったのです。ただ兄の狂人的な性質をなおしたいが為にすがっただけの、言わば手段のひとつでしかなかったのです。ですから彼らはその信仰心の無さから、これまでにも形は変えながらも人々がつくりあげてきた「偽りの神」に騙され続けてきたのです。
そして、こうした兄とその他の家族を傍にいながら冷静に比較している人物がいます。それが弟の末次郎その人です。というのも、彼は物語のラストで兄と夕日を眺めている際、「不狂人の悲哀」を感じています。これはどういうものなのでしょうか。その時の彼の頭の中には、理不尽に火を燻べられながらも、騒動が終わるとまたすぐに屋根にのぼった兄の姿が印象的に残っています。そこから彼は、巫女に騙さたとは言え常軌を逸した行動をとった父たちと、狂人とは言え自らの信仰心によって屋根にのぼっている兄、果たしてどちらが本当の意味で狂人なのだろうと考えていったのでしょう。ですがその一方で、そうした兄の不狂人以上の信仰心という一面を知った末次郎は、その時、兄との絆を同じ夕日を見ることでその絆を一層強いものにしてもいるのです。
◆わたしのコメント◆
今回の評論は、前2回の評論へのコメントを受けて書きなおしてもらった、3回目の評論です。
前回のコメントの最後に、わたしはこう書いておきました。
一般性についても書いてしまおうかと思いましたが、ここでは書かないでおくことにします。◆◆◆
神についての対照的な立場を主眼に置けば「相互浸透」、事件をきっかけに兄弟の仲が深まったことは「量質転化」、狂気が正気に通じているというのは「対立物への転化」、などなど、法則性はいくつか見つかりますから、そのどれを一般性として表すかというのは、なかなかに難しいものがあると思います。
しかしそれでも、しっかりと理解しておく必要のある作品であることには変わりがありません。
それだけにこの作品は、立体的な構造を持っているからです。
焦る必要はありませんから、後回しにしてでもじっくりと物語に取り組んで、論者自身の手で書いてもらえることを願っています。
論者は今回、作中の「対立物への転化」を一般性として引き出すことにしたようです。
〈狂人であるあまり、かえって不狂人以上の信仰をもっている、ある男〉なるほど、これならばこの作品がすっきりと筋道を立てて読みこなすことができますね。
はたして、わたしからのお願いは果たされました。
初出の評論でこの一般性が提示されていたのなら、わたしは嬉しさのあまり外を走りに行ったでしょう。
◆◆◆
しかし今回は、「よくできました」と言うだけでなくもう少し先を、というお約束ですから、細かな表現について少し突き詰めて考えてみましょう。
「狂人であるあまり」の「あまり」という表現は、より適切なものを探す必要がありそうです。
ここでの「あまり」というのは、たとえば「可愛さ余って憎さ百倍」といったように、「可愛いと感じすぎて」、つまりあるものが過度に高まりすぎて、ということを言っていますね。
しかし、「義太郎」の狂人という性質は、なにも作中で高まりを見せていったわけではありません。
彼の狂人ぶりは、徹頭徹尾変わらないのでした。
そうすると、ここでの表現には量質転化の意味合いを含めるのは正しくないことになりますから、恒常的な表現を使って、「狂人であるゆえに〜」とするのがよいでしょう。
ただ、論者が「狂人の中でも、その声質の程度が特に高かった「あまり」」という意味合いを込めたかったのであれば、「狂人でありすぎて〜」とするのがよかったことになります。
◆◆◆
ただどちらの場合も、こういったふうに推敲が必要な箇所に「おや?」と気づくのは、理性的・論理的な見方を随時しているからというよりも、感性的な認識からであるということは断っておきたいと思います。
感性的な認識を高めるためには、という上達論は以前にも書いた覚えがありますので簡単に触れるにとどめますが、あらゆる部分を細く論理の光を当てながら読んでいるうちに努力の必要が少なくなってゆく行き方と、目的意識なしに個別の対象との数えきれないほどの関わりあいの中で自然成長的な技として身につく行き方があります。
前者は感性→理性→感性という過程、後者は感性から媒介を含まずに質的に高い感性的な認識へと登ってゆく過程を持っています。
後者の場合は、たとえば幼少の頃から読書家の両親のもとで育ったときに国語力が自然成長的な高まりを見せる、などといった場合ですが、すでに物心のついた、つまり一定の価値観を持ってしまっている我々にとっては、前者の過程を選ばなければならない場合がほとんどです。
私の両親は偉大だから超える必要はない、という場合はさておき、持って生まれた能力以上の力でさらなる高みを目指すためには、目的意識性でもって、自然成長ではない認識と論理を身につけてゆかねばなりません。
そのためには、それ相応の努力が必要なのはもちろんですから、三浦つとむが残している、認識と言語の理論を少しずつでも自分のものにしていってほしいと思います。
◆◆◆
そうして身につけた力は、いったいどのように働くのかを、評論中の表現を一例をもとに書いておきましょう。
たとえばこの箇所です。
そして彼女が祈祷をはじめると、なんと神様が彼女の身体にのりうつり、「この家の長男には鷹の城山の狐が懸いておる。樹の枝に吊して置いて青松葉で燻べてやれ。」というお告げを彼らに残しました。
あるていどの国語力が備わっている人にとっては、どのような間違いであるかを指摘できるかできないかはともかく、この箇所の表現は違和感の残るものになっています。
「おや?」と気づくためには感性的な認識が一定段階に高まっている必要があり、その誤りを正しく指摘し、どのような表現であればより適切なものになるのかを指摘するためには理性的な認識が必要というわけです。
ではどこをどう直せば良いのかと言えば、「なんと」という感嘆表現を文頭に置くときには、文章の締め方もそれに合わせたものにする必要がある、ということなのです。
論者は「なんと」という感嘆表現で、その後に続く文を強調したかったのですが、そうすると、文末は、「残しました」ではなく、「残したのです」としなければ、違和感の残る文章表現になってしまいます。
それは結論から言えば、強調の表現が片手落ちになってしまっているからです。
「残したのです」という表現はおおまかに言って、まず「残した」という事実を確認したあとに、そのことを形式名詞「の」で固定化して捉え返したのちに、もう一度断定の「です(だ)」で文章を締める、という構造を持っています。
「〜だ」という表現にたいする「〜なのです」も、これらと同じ関係にあり、後者は、まずは「だ」と断定したことを「の」固定的に捉え返したのちに、さらに断定「だ」の丁寧な表現である「です」を用いているのです。
これは、「だ+の+だ」となり、「だ」を一回用いるよりも文意を強調するときの表現になっているわけです。
一回目の「だ」が「な」に変わっているのは、口語表現のときに言いにくいからです。
ほかにも今回の場合なら、「なんと」ではじめて、「お告げを彼らに残したではありませんか」という形での強調でもよいでしょう。
◆◆◆
ここまでの説明を、無理に極意論的に言えば、「なんと」と書き始めた時には「なのです」と締めるべし、などと言えばよいことになり、これは受験勉強の際には効果的に作用しますが、受験勉強アタマなどでは新しい道を開拓するどころか、むしろそこへの第一歩から踏み外していますから、こういった幼稚なまる覚え根性は棄ててください。
残念ながら必要に迫られて受験勉強アタマが身についてしまった人は、過程を飛ばして覚えこまされてしまった過程をこそ、自らの足で逆向きに辿ってみる修練を欠かさずにやってください。
一般教養の過程的な構造の解明にこそ、本質に辿り着く鍵があるのです。
応用研究を無数に積み上げれば本質に辿り着けるはず、というのは幻想です。
鉢植えにしたアサガオが、一見すると水をやっているだけでなぜあそこまで大きくなるのか、つまりあれだけの質量をもった個体にまで成長するのかという過程を合理的に説明できないままでは、植物学を専攻しているとは言えないのと同じです。
わたしたちの目指しているのは、あくまでも対象に潜んでいる過程、つまり法則性、論理構造の探求なのですから、当たり前に見える事実の中に、どのような合理性が潜んでいるのかを突き止めてゆかねばならないわけです。
人の集めた事実を我が物顔で誇るという誤りに陥ることなく、自ら新しい事実を見つけることのできる見る目を養わねばならないのです。
そのためにすべきことは、というのは上でも述べましたので繰り返しません。
文章表現をする際にも、ここはこのような意味を込めて、あらゆる選択肢の中からこれを選んだのだ、というしっかりとした根拠を探して歩んでゆかねばなりません。
他人が一足とびに飛び越えてしまうところを、何回も崖から転げ落ちて何倍もの時間をかけて谷底から這い上がってくるのには、当然ながら何倍もの時間と努力を要しますが、その努力は何よりも、自分自身を決して裏切りません。
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