2012/06/20

お詫び

このところ、記事の途中で更新が滞ってしまっていてすみません。


自身の研究が新しい学問分野についての歴史性の把握であることに加えて、3ヶ月区切りで取り組んでいる新しい表現についての探求のほか、普通は1年かけて取り組む新しい語学を複数並行して取り組むことになったので、空き時間を全部取られてしまっていました。

ある学生さんにこのように説明したら、歴史性の把握とはなんですか、と聞かれたので、こんなふうに答えました。

ひとつの学問分野に焦点を当てて、その歴史を通史的に振り返りながら、たとえば「生物とは何か?」「経済とは何か?」と、その学問が扱っている対象そのものについての像を、一般的なところにまで高めた上で、その一般論を持ちながら歴史を再び経巡り、一般から個別、個別から一般へを何度も何度ものぼりおりしながら、一般論のレベルを本質へ向かって高めてゆくこととともに、歴史の流れをその学問の特殊的な論理性として取り出す、という研究です。

といっても、これがこの文章のままで伝わるのなら、なにもここで文字を書き散らかす必要もないわけですから、そのことについてはさておく、ということにさせてください。

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その代わりといってはなんですが、ここでは、「なにごともはじめが肝心」だということをお伝えしておきましょう。

研究者を目指したり、将来的に、どんな仕事に就くにしても、しっかり頭を働かせながら、人間として恥ずかしくない仕事をしたい、と意欲に燃える学生さんが、いちばん踏み外しがちなのも、やはりここだと思います。

それは結論から言えば、自分の道の出立時に熱意に燃えて、とにかくたくさんの本を読んだり、たくさんの人の講演を聞きに行って見聞を広げたり、というのはとても大事なことなのですが、その前提として、これから目指すことについての大きな見通しがなければ、どうしても素人芸、喧嘩殺法になってしまうということなのです。

自分のものごとの考え方や見識が高まる前に、「これはすごい」と思った人や作品があり、それに心酔して学ぶ、ということにするとしたときに、では「その当の凄さ」や如何程に?、という観点が欠けていると、いつまでたってもはじめに設定した「自分のなかでの最高」を目指し続けてしまう、ということが起こりえます。

わたしたちが小学校のときに描いた自由帳には、「ワタシのかんがえたせかいでさいこうのぬいぐるみ」や、「ボクのかんがえたせかいでいちばんかっこいいヒーロー」が描かれているでしょう。
あなたはいまでも、それを、掛け値なしの最高、だと考えていますか?
そうではないでしょう。

子供の認識のあり方は、それはそれで尊いのだとしても、それは「子供らしさ」の観点に照らしての尊さであることを忘れてはいけません。
大人でも同じようなことをやっているというのは、なんらかの理由によって、認識の発育が妨げられているのです。

人間の認識は、その年齢なりの、質的な発展を遂げるものなのです。
その発展過程を、人類が人類として出立して、現代においてこのような繁栄を見せるに至った、ということをなぞらえながら想像してみてください。

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だからこそ、眼の前に飛び込んできたものにいきなり飛びつかず、ほんとうならば、その「凄さ」というものを、主観的な情熱だけでなく客観的な視座からも見つめなおす、という期間を設けねばならないわけです。

学生時代がモラトリアムだと言われるのはここを指しているのであって、そのときに、自分の依って立つ価値観や、これから進むべき道を、大きな視野から見定めることによって相対化してみて、他のよりよいかもしれない価値観と、しっかり比べてみなければならないのです。
もっと言えば、どの価値観を選ぶかということとともに、ここで、考え方の過程そのもの(!)を、しっかりと磨き上げておかねばならないのです。

たとえば、わたしたちは物心ついたころに自分の世界を見わたしてみたとき、自分の父や母のことを、なんてすごい人なんだ、この人の元に生まれてよかった、と思ったことがあったのではないでしょうか。
さてしかし、いまそのことを振り返ってみた時に、どのような感想になっていますか。当時のママでしょうか。
いまでも、あらゆる人間中の人間のなかでの最高が、自分の両親や肉親だと思え、客観的にそのように考えることができますか。

今でも掛け値なしに最高の人格は両親である、と思えるのならそれはそれでもう述べることはないのですが、わたしたちがもし、必ずしもそうではない、という率直な感想を持ったときには、やはりより大きな視点から見なおして、自分の目標とすべき生き方を、両親に謙虚に学んだからこそ、見定めてゆかねばならないのではないでしょうか。

そしてまた、なおのこと大事なことに、そのときの「感想の変遷」からも深く学び、そこから、「自分の認識が深まる前に、最高だの一流だの、神だのと心酔したものは、自分自身の認識の発展とともに、いつの日か他のものに取って代わるのだ」、という教訓をも、事実から引き出してこなければならないのではないでしょうか。

◆◆◆

学生さんは学生さんのうちに、ぜひともそこのところをやってみてほしいと思うのです。

たまたまゼミの先生として出会った人が、自分が生涯目指すべき目標となりえますか?
たまたま入学式のときに読まされた本が、生涯をかけて乗り越えるべき対象となりえますか?

これはなにも、初対面から相手のアラを探せ、などと言っているわけではないことは、ここの読者のみなさんならわかってもらえていると思います。事実ここで言いたいのは、それとはまったく逆です。

個人的なことを言えばわたしは学生時代に、あらゆる「〜主義」「〜思想」といったものに、知識的に触れてみることだけではなくて、一定の期間を決めて、「その考え方を自分の人生として採用しながら」、実際にそのとおりに生きてみました。

このときには、感情的には受け入れがたい主義や主張であっても、とにかくそれを修練・実験として頭から信じこんでみて、そのものごとの見方が、日常生活や研究の際の対象についての理解を、いかに鮮やかに解き明かせるのかを、まるで刀をとっかえひっかえしながら斬って試すように、自分の頭でたしかめてみました。
そうしてまた、ある考え方と別の考え方を、頭のなかでの真剣勝負として闘わせてみました。

このようにして過ごした毎日というのは、99%が失敗でした。
というのも、毎日自分で落とし穴に嵌ってみるようなものだから、当然といえば当然です。
自分が立てた一方の立場は、無下もなく切り倒されているのですから、これも当然です。

そのようにしてようやく決めることができたのが、弁証法的唯物論、という立場だったのであり、そこでの日々の、頭の中での実験の数々が、あらゆる落とし穴を避けながら、一本の筋を通した考え方ができるための訓練になったのであり、学生さんが道を違えた時に指摘できるための大きな経験になったのです。

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そもそもを言えば、わたしが大学に入った理由というのは、とんでもなく漠然としていたことなのですが、「とにかくちゃんとした大人になりたい」というものであったので、それまでの自分のあり方を棚上げして、自分がいちばんなにも知らない、どうしようもなくとんでもない馬鹿、というところから歩みなおしてみなければならなかったのです。

だからこそ、書籍や講演や授業で出会った、あらゆる人の意見を聞いて、実際にそのとおり生きて闘わせてみて、そしてまたその経験をもとの自分に戻って評価する中で、次第次第に「読むべき本はどういうものなのか」、「話を聞くべき人間とはどのような特徴を備えているのか」というものごとを見る目を、なにもないところから編みあげていったのです。

しかしいま、そこから自分の道を探し求めて、それを見定めて過ごしてきたという立場から言わせてもらうと、よくある後進たちというのは、とても危なっかしいな、と思わせられるのです。

そのときの自分の好き嫌いでとりあえず飛びついてみたものを、人との議論のなかで、内心では使い物にならないものと気づいても、むしろその気づきゆえに、意地になって手放さず、自分のその凝り固まった姿勢が、なにか尊いもののように言い繕うことに躍起になっているようなところがあるからです。

そんな人に、もう一度考えてみてほしいのです。
たまたまゼミの先生として出会った人が、自分が生涯目指すべき目標となりえますか?たまたま入学式のときに読まされた本が、生涯をかけて乗り越えるべき対象となりえますか?、と。

ゼミの先生が立っていた立場を無批判に飲み込んでしまった挙句、年齢の数倍違うような若輩に根本的な欠陥を指摘された上に、学問的には敵わぬがなにくそとばかりに、その後進に感情的・政治的な圧力をかけるような人間になりたくはないでしょう。

ですから、これぞ自分の道だと踏み出す前に、しっかりとその道が確かなものであるかどうかを、−−ここがいちばん大事なところなのですが−−謙虚な姿勢でもって、確かめてみてほしいのです。

もしわたしが定めたやり方、つまり弁証法的唯物論での立場で生涯を貫きたいと考えるのなら、その考え方でまずはしっかりと一定期間生きてみて、その有用性を確かめてほしいのです。
これはわたしのところに通っている学生たちにも、一定の期間後やってもらうことですが、自分がたまたま出会った弁証法的唯物論に学ぶことになったのはいいが、それはさておき、「それがなければどういう誤りに陥るのか?」ということを、自分の頭で考えた上で、ちゃんと説明できねばならないというわけです。(相互浸透)
それができないのなら、いちばん正しい道だったとは言えませんからね。

というのも、正しい道にたまたま出合ったり、たまたま与えられたりしたときにも、やはりそれが、自分の力で次第次第に技にしてきたものであるかどうかによって、さいごまで道を歩み通せるかどうかが決まってくるからです。

学生のみなさんが、大学や研究会、学会で、どこぞのセンセイの意見を鵜呑みにした友人に、こっぴどくやっつけられた、やり込められたという場合に、自分にもなにかないかと、そこらへんに転がっていた棒きれにすがりつきたくてたまらなくなる、という気持ちもわからなくはありませんが、学生のときこそ、たくさんの恥をかいてみればよいのですし、それが大目に見て許されるのが、学生という身分ではありませんか。

素性の悪いナマクラは、いくら磨いても切れませんよ。
学生のあいだに隠忍自重して、自分の目指すべき道と、その道を歩むための歩み方を、しっかりと見定めることです。

なにごとも、はじめが肝心です。
それも、出発する前の準備こそ、いちばん肝心なのです。

◆◆◆

さて、余談が過ぎたようです。

わたしがいま取り組んでいる語学というのにも、いくつか初めての言語があり、この習得過程というのもやはり、歩み始める前の準備、というのがいちばん大変なのです。

すでにあるていど習得済みの語学の中から、関連付けて使えないものはないかと探しまわり、いちばんいい辞書はどれかと探しまわり、使い勝手の悪い資料を複写して切って貼って…という下準備に、先週の1週間はまるきりつぎ込みました。

今回は時間がないので、初日に規則的な語形変化を学んだ後、次の日にはいきなり日本語からの訳、日本語への訳、と進んでいるのですが、率直に言って、なんとも砂を噛むような味気なさばかりが残り、辞書の文字が泳ぎ始め、椅子から離れることの誘惑を抑えこむのに必死、というあたりです。
語学が面白くなってくるのは、経験上、だいたい1ヶ月すぎたころでしょうか。今回は、それが1週間後くらいには来てもらわないといけないのですが…。

しかしともかく、言語学の先生たちのなかには、「外国語なんて、3つ習得するのも30個やるのもあまり変わりないよ」という人もいるので、その実例と、その認識のあり方そのものに学ぶべく歩みを進めているところです。


じゃあ更新はいつかと言えば、実は前回までの記事の続きについては、前にもう書けているので、あとは反応を見ながら内容に手を加えるのみなのです。
とは言いながら、それがいちばん配慮のしどころなので、明日くらいにすこし簡単な記事を挟むことになるかもしれません。

というのも、学生さんからもらっている質問についてご本人へはいちおうのかたちでお返事しておいたのですが、考え方の過程についての説明はとてもできなかったこともあり、それについて言及しておくのも、他の読者のみなさんの理解を助けることになると思うからです。

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