2012/07/28

どうでもいい雑記:最高のボールペンはどれか

ひとりの友人から、


最近アレないの?、と聞かれました。
“アレ”とは何です、と聞き返しましたら、「雑記。」とのこと。

なんでもここの文章は楽しみにしているけれど、内容が内容なので読む方も大変、たまには息抜きもさせてほしい、と言う。
こんなところに息抜きをしにくるというのは、水をもらいに砂漠にでかけるようなものでは…と思うのですが、まあそれだけちゃんと受け止めようとしてくれているのは嬉しく思ったので、では研究も落ち着いたし楽な話題探しときます、とお約束したのでした。

といっても、毎日ほとんど同じ過ごし方のわたしにとっては、NewでHotな話題なんてものは無いので、今回は身の回りにある道具についてお話しましょうか。


◆WiMAXルーター(AtermWM3600R)◆


ほんとにどうでもいい方から。

これまで固定線を引いていたのですが、大きな画像ファイルをやりとりするようなデザインの仕事もしばらくしそうにないし、ということで、持ち運べるルーターに乗り換えました。
よく行く場所はサービスの圏内だったので、WiMAXに。
自宅と実家、研究室、iPhoneの通信費をまとめられ、月額8,000円弱くらいは浮くので、ソーセージをコラーゲン皮からシャウエッセンに、ニンニクを国産に変えられそうです。
ただこれだとわたしがいない時には実家の人間もインターネット出来ませんが…まあいいでしょう。

このルーターの何がいいかといえば、外に持って出られることの他に、自宅ではクレードルを使って有線接続できる、というところ。
写真のうち、青いガチャピンとムックがプリントしてあるのが本体、それが刺さっている黒い台座がクレードル、です。

クレードルの背面には、有線LAN(Eathernet)端子がありますから、こことAirMacなんかをつなげられるのです。
そうできると何が良いかといえば、鉄筋コンクリートで電波が入りにくい集合住宅でも、窓際から入ってくる電波を受け止めた本体の電波を、AirMacが増幅して、各部屋に送ってくれる、ということなのですね。

こういったコンピュータ、とくに目に見えない通信の仕組みを基礎知識の無い方に説明するのはかなり難しいので必要なら調べてください、というしかないのですが、大雑把に言えばこんな具合です。

(屋外)WiMAXの電波
↓無線
(屋内)ガチャピンとムックが電波を受信
|有線
(屋内)AirMacが電波を増幅、各部屋に届くように

ガチャピンとムックがいくら頑張ったところで5mも離れればあからさまに電波が弱まりますし、家の奥まったところに本体を持って行くと、そもそも屋外からの電波を受信できませんから。

そういうわけで、すでにある光回線やADSL回線をWiMAXに置き換える場合には、このモデルといっしょにクレードルを注文すると良いと思います。

デザインが表現が云々、と述べているわりにガチャムク押しってどうなの?と言われるかもしれませんが、わたしは気に入っています。落としたときに目立つでしょ。

もし導入するときには、ひとくちにWiMAXと言ってもいろんな会社からサービスを受けることができますし、各社ともいろいろと値引きをしまくっているので、よく検討すると損がありません。
わたしの入ったのはUQ WiMAXというところで、お友達割引というようなものもあるそうですが、会社のマワシモノだと思われると癪なのでリンクは張りません。割引を受けたい人は直接声をかけてください。もっとも、他にももっと安いところがありますけども。

あっちなみにガチャムクモデルは、UQからでしか買えないようです。


◆ZEBRA HYPER JELL◆

JJ101

どこぞの会社が鳴り物入りで発表した電子書籍リーダーは、セットアップが煩雑だったり購入者レビューが一斉に削除されたりとなんともいえない有様のようですが、良くも悪くもそれだけに注目度が高いということもあるのでしょう。

しかしそんな時代になっても、わたしの場合は紙の本と筆記用具は手放せません。
電子機器についての偏見はまるでないし、実際にiPadを手洗いだろうが風呂だろうが持って入る人間ですが、紙でつくられた本が、内容が同じだからといっていきなり電子機器に置き換わるかといえば、そんなことはないのです。

ひとつのものごとを深く突き詰めて探求する、という傾向のない人は、世の中にある文字や音や色彩といったものを、単に「情報」といったレベルでしかとらえません。
現代は何につけてもマネタイズ(お金にすること)が求められるということもあって、忙しい現代人は情報、情報、と、店頭で平積みになっているような本や研究論文を読んでは捨て、読んでは捨てをします。

これらの場合、その書籍からなにを得るのかといえば、「あそこでは今こんなことが起きている」だとかいう個別の情報でしかありません。
ですからたとえば、ブラジルの国債の値段が上がった下がっただとか、どこぞのCEOが不祥事を起こしただとか、新しい粒子が見つかっただとか、それぞれのダイジェストを「結論だけ」知ってしまえば、それで用済みなのです。



わたしはここの記事では、知識よりも論理に焦点を当ててお話しているし、事実学問という山の頂にまで上り詰めようと思っている人間にはそれこそが絶対的に必要なのですが、このことが直ちに、知識の収集を軽視してもよいということにはつながるわけはありません。

学問をするにあたっても、知識というのは当然に膨大な量が必要です。

では、ものごとを実用主義的に捉える場合と、ものごとそのものを突き詰めてやらなねばならないという場合に、知識の受け止め方がどのように変わってくるかといえば、それは、その知識を流れを持って読む、その「過程」をこそ読み取る必要があるかないか、ということなのです。
後者の見方を一言でいえば、「知識」のことを「情報」レベルで受け止めてしまってはいけない、ということなのです。

ビジネスマンでも、日々、新聞を読んで「定点観測」をしていなければそう遠くない将来、ビジネス能力に質的な差が出てきてしまうものですが、自分の道を無上の段階にまで高めようと考えて、大衆からの評判ではなくあくまでも歴史性を一身に受けた自らの価値基準で以ってものごとを徹底的に突き詰めるときには、なおのこと過程に目を向けねばなりません。

今日の株価がこうだったという知識ではなく、それを前後日と比べながらさらに広げ、数ヶ月、数年間という大きな流れの中に位置づけられるかどうかはもちろんのことながら、「その「流れ方」はどういうものであるか」を論理として見極めることができるというのが、一流という名にふさわしい能力ということです。

もっと言えばその論理が、周辺的な事情と正しく位置づけられ体系性を帯びてきた時、「こんなときにはこういうことが起きるであろう」という将来的な見通しが鮮やかに立てられる認識にまで達すると、これを論理の体系、つまりひとつの「理論」を認識として持った、ということになるのです。



ただビジネスの現場に身を置いている場合には、会社組織が永続してゆくためにはとにもかくにも経済が回らなければいかんともしがたいという事情があり、それゆえ「歴史性を一身に受けた自らの価値基準」よりも、「現時点・近い将来での大衆からの支持」に圧倒的な重きがおかれるあまりに、これら論理、理論といったものに着目するだけの合理的な理由を欠きがちになります。

支持をしてくれる人間の数が多ければ多いほどよいというときには、無上の真理などよりも、大衆の、いわば最大公約数的な認識に訴えかけねばならないのは当然というものです。
文芸を創るやり方と、経済のやり方は、その根本的な原理が異なるために、あちら立てればこちら立たずの関係にあるのであり、これらを中途半端にちゃんぽんしたときには三流の道しか待っていないというのは、実にここに理由があるわけです。

そこまでいかなくともビジネスの現場で、よし100年先の我が社の存続と従業員の生活を思えばこそ、ここで科学的な運営の理論を身につけねばなるまい、と志そうとも、それを株主や取引先といった利害関係者に根本から理解してもらうというのは、難事中の難事でもあるのですから。

自分がこの世に生を受けたという事実を、人類総体としての大きな流れの中に位置づけることをしないのなら、100年先どころか10年先、それよりも明日のことが一番気になるのもやむを得ず、地球の裏側で起きている飢饉よりも、今日出来たニキビのほうが気がかりであるとなるのも必然、というものでしょう。

さてこのような、知識についての受け止め方の質的な差がある以上、それを受け止めるやり方というものも、質的に違ってきます。
ごく一般のビジネスマンは、感性的な差はあれど、電子書籍で十分に用を済ませられます。
ところがそれよりも視線を高みに向けて、人類総体のうちの一員として、我が生涯をかけての人類文化の向上を目指そうというときには、現時点の電子書籍では、まるで力不足です。

知識のみならず、大きな流れの中でそれを位置づけ自分のものとしてつかまえたうえで、その流れ方そのものを修得してゆこうという場合には、事実との何回も、何回も、気の遠くなるほどの何回もの取っ組み合いのなかで自らがそのものとなってゆくという、相互浸透的な量質転化が絶対的に不可欠だからです。

このためには、これと見定めた書籍を、その著者の他のすべての表現を手がかりにしながら、自らの人生のおける問題と関連させながら読み解くという過程が必要になりますから、書き込みはもちろんのこと、読みすぎて本がバラバラになってもう一冊買う、というくらいの浸透ぶりでなければいけません。
これが直感的にできる電子書籍というのは、どれだけのものであってもなかなかに出てこないのではないかな、と思うのです。
わたしもiPadで論文や文学作品を少なくとも毎日2万字は読みますが、これはというものは必ずプリントして書き込みをして付箋を貼って、ファイルに綴じる必要がどうしてもあります。



さてそろそろ、友人の怒りを通り越して呆れる顔が浮かんできましたが、今回の取り上げたいボールペンの話題にまでようやくたどりつきました。

お叱りを受けるのは後日として、ともかくそういうわけなので、わたしにとっては良い筆記用具というものは欠かせないのです。
わたしがかつて受験勉強をしていた時に、当時から知識的な丸覚えが実に苦痛でありましたので、単語の語幹を調べてまとめて絵に書いたり概念をリズムに乗せて何回も何回も書きながら覚える、などというありったけの工夫をしながら勉強に取り組んでいたのですが、そのことと並行して、勉強に取り組む環境を整える、ということも実に熱心にやりました。

こういうことは、いっさいの不要な努力を排除する、ということに力を割いておくと、後々ぐっと楽になるのです。

その際、景色の見える机に座る、ということとともに、わたしの心を大いに助けてくれたのが、このボールペンでした。
一口にボールペンといっても、実に様々ですから、わたしは知る限り一番大きな文房具屋さんに行って、すべてのボールペンの書き味を比べたのです。
そのうち、わたしにとってはあまりに光り輝いていたのが、ZEBRA社の「HYPER JELL」という筆記用具だったのです。

受験勉強、資格試験ともなれば1日12時間ほどは手を動かしていましたので、1日に1本は空にしていましたっけ。
そのときも腱鞘炎にならず、ハネやハライもきちんと表現でき、書き始めから他のボールペンのようにボール跡を残さず気持ちよく、書き進めるほどに筆が乗ってくる、というのはこのおかげ、だったのです。

いつも毎朝のペン習字のときに必要なので、まとめ買いをしてたくさん持っているのですが、つい最近、語学の基礎を習得する要があったため、久しぶりにそのありがたさに感じ入ったものでした。

お話はこれでおしまいですがそういえば、心のあり方を整えたい、悪筆を直したい、という学生さんたちにも、この筆記具を薦めたことがあります。
もし読者のみなさんもそういったことを目指したい場合には、「字が綺麗になってゆく」という過程と、「気持ちが整ってゆく」という過程を、直接的に同じものとして受け止めながら、少しずつでも毎日欠かさず取り組んでください。

100円均一のお店に行けばマス目のついたこくごノートを売っていますから、練習帳には直接書き込んでしまわずそちらに、毎日1ページは書くことにしましょう。
そのとき、正しい姿勢で机に向かい、ちゃんと顎を引いて30cmは机を目を離し、ひとつひとつお手本をよく見て、一文字ずつ、「いまある心の中の迷いはとりあえず棚上げして、今はこの字をしっかり綺麗に書くことにだけ集中するのだ」という一念を込めながら書いてゆくのです。
ここで間違っても、自分のさっき書いた文字などは参照してはいけません。
お手本とこそ、心身ともに浸透するのが目的ですから、目的を違えないように。

姿勢の悪い人や悪筆のひどい人は苦痛を感じるでしょうが、苦痛の大きいのは現時点でそれだけの歪みがあるということなのですから、一文字を書くたびに、これらのことを確認し直す、ということを怠け心に負けじとやってください。

今の時期ならじりじりと汗ばんできて、こんな同じことを繰り返すよりもジュースを飲んだりシャワーを浴びたりしたいという気持ちがふつふつと沸き起こってきますが、それをぐっと堪えて椅子に深く腰掛けなおし、ひとつの文字を書く、ということにすべての神経を集中させるのです。
まずは1ヶ月取り組んで、窓の外の蝉の鳴き声や喧騒、蒸し暑さが消えてなくなるくらいの感覚が少しでも掴めれば、心を整える力がつき始めていると見てよいでしょう。

そもそも幼少の頃から間違った生活習慣のなかで過ごしている場合には、度外れな温度で冷房を入れていないとイライラしたり、食事をするまえに歯を磨いたり、着替えるものがないからと入浴しなかったり、といった感性が身についてしまっており、それが感性的に心地よい、という間違った感覚として生成されてきてしまっています。
しかしたとえば、そもそも歯に食べかすが残るのを防ぐために歯を磨くのであり、着替えがなくとも入浴したほうが健康上良いのですから、これははじめは嫌でも、正したほうが身のため、なのです。

人間の習慣はこのようにその実体としての器官にも相互浸透していることをふまえれば、煙草を吸い続けていると異常な状態を好きなものと勘違いしてしまう生理のあり方を養ってしまっていることがわかるのであり、心が乱れているのもそれと同じことなのですから、ご自分のためにも整えてゆくのが肝要、ということであるのです。
整っていることを正しく整っている、と判断できるような心身を創っていってほしいと願っています。

さて、この修練の説明を見て、「実体と精神を同一視するとは…」という向きには反駁しておこうか、思いましたが、やめておきましょう。今回は雑記ですからね。

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