2012/08/20

【メモ】研究会の補足と、弁証法の立体構造、世界は過程の複合体である、について

研究会に集まってくれたみなさん、お疲れさまでした。


どんなことをご説明するときにも惑星の運行の物理的一般性、それに従いつつも抗するところの、わたしたちの地球が存在する太陽系の化学的一般性、その地球で育まれた生命現象というものの生成発展、そこから自然、社会、精神の三重構造…というふうに、いちばんの土台から何度も何度も説明し直すので、はじめから参加されていた方は、そろそろ耳にたこができそうだ、との思いが心の奥底から浮かび上がってきたのではないかと思います。

しかしこういった論理的な修得を目指そうとする個人の内面にも、そういった感情のゆらぎがあったとしても、これは当然ですし、まったくかまわないのです。

そもそも論理的な修得ということをやってゆくときには、自分の個性を、感情と論理とに分けて見られる実力を養ってゆく必要があります。
つまり、心の奥底にある「これは何の意味があるのかな…?」「これは本当かな…?」という「感情」的な疑念といったものを、まずは棚上げした上で、相手の話している事柄のなかから「論理」を掴もうとする姿勢を繰り返しながら、対象を感情を交えずにありのままに見る、という客観視の実力を養ってゆくということです。

唯物論の立場を表明しながら、対象をあれやこれやの感情を込めて見つめてしまうというのは、入り口の時点ですでに躓いてしまっている、つまり本質をア・プリオリ(先天的)に規定するという観念論的な踏み外しをやってしまっているわけですが、個性というものがそもそも、十人十色の生まれと育ちによって相互浸透的な量質転化が起きた結果として個々人それぞれの精神のあり方として現象しているものですから、踏み外しを避けるということは実のところ、十分な訓練を積んでいなければ、非常に困難なのです。

もっとも、事情はこのようであるとはいえ、実際にわたしの感じたところは、みなさんの、目に見える現象の奥底にはどのような構造があるのか知りたい、それを手繰り寄せて正しく実践したい、という熱意と探究心、それに裏付けされる誠実さ、謙虚さでした。

その姿勢を、第三者の目がないときにでも目的的にしっかりと持ってコツコツと人知れず努力を続ければ、「耳にたこができる」という認識の変化がどのような過程的な構造を持っているのかが、実感としてよくわかると思います。

そうすると、みなさんが後進を、学的能力・人格を含めた育成を目指すときには、どのようなところに力点を置いて指導に当たればよいのかが、把握されてゆくことになるでしょう。

それから、喋りに喋っていたのですっかり喉をやられましたが、休日は十分に休めたので声はちゃんと出るようになりました。
お気遣いをいただき感謝。今週から後半戦です。



下は、ご質問への簡単な解答です。

ただ簡単な解答と言いながら結論的なことを書いてあるので重要なことを書いてあると思ってしまいがちですが、それはこれらの答えが、ものごとの探求が最終的な段階にまで達すれば、自ずと明らかになってくることでしかない、と言っておきたいと思います。
ですから、ものごとを論理的に見ようとする時に、指針としては有用でありながらも、その言葉だけを知識的に捕まえて云々しはじめることになると、そもそもの「論理修練」の道から踏み外してしまうために、かえって害をもたらす恐ろしさを持ったものである、と理解してください。

これらは単なる結論であり、極意論です。
その過程については、みなさんそれぞれが、自分の専攻分野を論理的に見ることを通して、必ず、各々の努力によって追ってゆかなければなりません。
こんなものをまる覚えしてしまっては、頭脳活動を高めるどころかかえって引き下げる作用しか持ちません。
ざっと流して読んだあと、アタマの片隅に留めておいて、自らの修練が一定の段階にまで達した時に、「ああ、あの人がああ言っていたのはこういうことだったのか」と、ごく自然に気づいてゆける修練過程を持つことが、何よりも重要です。

学問、文芸をはじめとした人類文化というものについて、それらすでに現象したものをいくら集めていくら覚えていくら組み合わせたとしても、なんら自慢できるようなことではないのです。
わたしたちに要請されているのは、それら人類文化の歴史を、自分自身の一身に繰り返したうえで、そこからさらに生涯をかけて人類文化の新しい一歩を付け加えてゆくことです。
そのための論理、なのです。


◆弁証法の立体構造について◆

「弁証法とはなにか?」と聞かれた時には、いろいろな答えがあり得ます。

このことは、ごく一般的にでも自分自身の認識が弁証法的なものとして技化している人間にとってはごく当然のことなのですが、初歩の習練過程にある人にとっては、尋ねるたびに違う答えが返ってくるので、「結局どういうことなのか?ああいえばこう言い、こういえばああ言う…弁証法というのは結局のところ、論者によって様々な解釈が成り立ちうるといったたぐいのものなのではないか?」と、疑いの思いが心の奥底から浮かび上がってくることでしょう。

しかしその疑念を棄てる必要はありませんが、まずは一旦棚上げすることにして、このように考えてみてください。

あなたには保護者やご両親がいますね。
ここではその中で、あなたのお母さん、という一人の個人を取り上げて考えてみましょう。

さてでは、その個人は、母ですか、娘ですか、姪ですか、日本人ですか。そのうちのどれでしょうか?

あなたは「どれといっても…見方によっては違いますから…」と言いかけたところで、「あっ、そうか!」とわかってくれるのではないでしょうか。
ひとりの個人は、母でもあり娘でもあり名でもあり日本人でもあるのであって、そのどれかひとつが本質である、というものではないのでしたね。

同じような理由で、弁証法についての説明がなされるときにも、様々な説明が成り立ちうるわけです。



ただ上で例に挙げた「ひとりの個人」というのはひとつの実体ですから、目に見え手で触れるだけに明確なかたちをもった像として認識しやすく、よって誰しもがなるほどと納得しやすいのですが、弁証法はそうではありません。
目にも見えず手でも触れず、文字表現としても限界があるという、<論理>に属する事柄です。

文字表現が困難であると言ったのは、もし<知識>であれば、事実を淡々と書けばよいのにたいし、弁証法の<論理>というものは、文章全体を通して根底に貫かれている運動法則の把握なのであり、読み手がそれを、自分自身の認識において捉え返してみる実力がなければ、まったく浮かび上がってこない論理の像だからです。

しかも、弁証法は、因果関係を直線的な関係で結んだだけの形而上学的な論理とは違って、対象の<立体構造>をこそ浮かび上がらせる論理ですから、なおのこと困難がつきまとうことになるわけです。

そう断った上で答えてゆきますが、ここでは、弁証法の立体構造を少しでも把握してもらうために、立体構造をあえて切り分けるかたちで書いてみましょう。
しかし念を押しておきますが、これらはあくまで立体構造なのですから、それぞれを知識的に覚えてしまっても何の意味もありません。
必ず、自分でコツコツと習練・修練を積み重ねて、自分自身の責任において「技」として身につけねばなりません。



まず「弁証法は、自然・社会・精神という森羅万象における運動法則である」とされていることについて。
これは、【本質】的な段階における規定です。

太陽系において、太陽から振り飛ばされた惑星が、他の惑星を媒介として太陽のエネルギーを受け止めることによって、冷えてゆくという物理的な一般性を土台にしながらもなお、冷えてゆかないという契機を持つことによって、結果として化学的な一般性を持ちうるまでになり、そこから生命現象が生まれることになった、というところから現在の自然のあり方までが、ここでの<自然>が指している意味内容です。

この自然の生成と発展という自然の一般性を土台として、社会性を持った動物の生成と発展があり、さらにそれら二重構造を土台としての社会性の中から精神の生成と発展があり、それらは当然に相互浸透をしつつ現在にまで至ったというのが森羅万象のあり方です。
それぞれの一般性を三重構造として受け止めたときに、弁証法という運動法則が浮かび上がってきたのだ、ということです。



森羅万象の大きな流れを捉え運動法則としてみるときには、古代ギリシャの哲学者ゼノンがアキレスと亀などの例示を挙げて哲学上の根本問題を提出していたように、運動というものが一般的に、「そこにあるとともにない」という構造を持っているものであるがゆえに、その構造として<矛盾>を含んでいることになります。

こういった、現実と認識との矛盾のほか、弁証法はそもそも、古代ギリシャにおいて、考えの違うそれぞれが議論を闘わせるなかで互いにより高い認識に到達するという過程において発展してきたという経緯を持っているものですから、「弁証法は矛盾の統一にかんする学である」、というときには、これらの【構造】的な側面を指してのことであるのです。



では、いつも習練としては必要だという意味を込めて、ここのBlogでも括弧書きで、ことあるごとに登場する三法則、つまり、量質転化、相互浸透、否定の否定についてはなにか?と言うときにはどうなるでしょうか。

このそれぞれは、上で述べた矛盾の統一、対立物の統一という統一過程の、ある一面を切り抜いて表現したところの法則です。
ここまで段階が下りてくると、具体的な例示を使って説明することが容易くなります。

たとえば、「新しい靴に履き慣れる」という現象を調べてみるときには、まだなじまない新しい靴に足を通し、何度も何度も歩きつづけることを通して、自らの身体とふるまいによってカカトが擦れたりつま先が傷ついたりといったように足が靴の形を変え、またタコが出来たり歩き方を矯正したりといったように靴が足へ、互いが互いへと影響を与え合いながら、最終的に馴染んでゆくことになるという構造があることがわかります。

これらは全体として、新しい靴と足のあり方という、対立物が統一されてゆく過程として見ることができますね。
同じようにして、上で述べた太陽から振り飛ばされた地球を見るときには、「冷えてゆく」という物質としての一般的な過程と、「冷えてゆかない」という化学的な抗力が、結果として、押し寄せ揺り戻す波、といったあり方の運動を生んでいることがわかります。

ですから、この段階で表現されているのは、【現象】的な段階です。



他にも、<対立物への転化>は、<否定の否定>のうち第一の否定が行われた過程を捉えたものです。
また<相対的な独立>というのは、「そこにあるとともにない」という運動における矛盾のうち、「つながっているとともにつながっていない」という性質を持っている事柄について一言で論じていることがわかります。

弁証法が技として身についたときには、ここまで述べてきたようなことはごく自然に把握されます。
このBlogでは括弧書きで三法則が出てくるので、あたかも対象に弁証法的な解釈を押し付けたように見える人がいてもおかしくありませんが、あれらは単に、弁証法的な認識によって把握されたものを、三法則の段階にまで下ろして明記することで、初心の読者の便益を図ったものにすぎません。
一時は段階的に除こうとしていたこともあったのですが、新しい読者が増えてくださっていることがわかったので、依然として続けているだけのことです。

今回の記事では、直接表記したもの以外にも弁証法が働いています。
今回はあえて、括弧書きで明記しませんでしたから、探してみてください。
もっとも、弁証法が技化されてくれば、論文、メール、文芸作品、立ち居振る舞い、その者がとる表現すべてに弁証法的な性質が自ずと現れてくるものですから、ごく当たり前のことではあります。


◆世界は過程の複合体である、について◆

何度も念押しをしますが、先ほどもお伝えした通り、これらの立体構造は極意論としての規定ですから、これらを丸暗記してしまうのはもちろんのこと、これらのことばそのものに振り回されすぎるのも良くありません。

これらはあくまでも、弁証法の修練が一定の段階に達し、そのことと並行して専攻分野についての探求が本質的な道程にしたがって一定の段階にまで成されたとき、つまり自然・社会・精神という土台の上に専攻分野を正しく位置づけられたときには、ごく当たり前の構造として認識に浮かぶものです。

ですから、またまた念押しをしておきますが、一般、構造、本質や世界観などといった言葉だけと、いくら向きあったところで、これらの構造を導出することはもちろん、正しく像として持つことは絶対にできません。

論理というものは、それ自体像として持つことはできるものであっても、それはあくまで対象についての探求が一定の段階に差し掛かった時に持ちうるものなのであって、それ自体をいきなり学び「きる」ことはできません。
ですから弁証法という論理を修得するには、まずは三法則に照らしながら対象的な事実と向きあった上で、そこから自らの力で、論理を引き出してみることから始めなければならないのです。

論理というものは、具体的な個物を抽象化したところにある一般的な像であるがゆえに、最終的には具体的な個物と切り離せはしても、過程的には必ず繋がりを持ち続けているものですし、またそうでなければなりません。

この前の記事で、「亀の甲羅」や「硬い」という概念、それらの連関についての考え方のうち、どう考えるのが正しいのか、つまりどう考えれば現実の立体的な構造を正しく浮かび上がらせることが出来るのか、と検討してきたとおり、これら日常言語のレベルであっても、それぞれの概念は、必ずそのうちに過程を含んでいるものなのです。

当人の言葉や人格が本物であるかどうかは、その言葉や表現の中に、どれだけの過程性が含まれているのか、という原則に照らして判断される、ということでもあります。

このことは学問的な段階、文芸における最高の段階では厳しく問われるために、たとえば上のそれぞれの概念を示すときにも、必ず亀の甲羅の生成と発展という過程性を自らのアタマで捉え返したうえで、それらを一言に要したものを、「<亀の甲羅>はこれこれこういう生成・発展の必然性を持ち、こういった性質のものとして現象しているものである」として概念規定しなければならないわけです。

対象の持っている具体的な過程性を捉え返して一般的な概念として持つことを、過程を止揚する、といいますが、実体として見えない論理的な概念についてもこの姿勢は貫かれていなければなりません。

思想家レベルの人たちは、過程性を捉えずに他所の学説を横滑りさせたり組み合わせたり、その見方を現実に押し当てて解釈したりしますが、学問のレベルで絶対的に必要なのは、<過程>であり、<過程性>の把握、なのです。

この立場にしっかり立つのであれば、たとえば「マルクスは死んだ」と言う場合には、好きや嫌いやといった自分の感情を棚上げした上で、彼の学説を正面に据えて検討し、彼が言ったことが現実に起こったか否かということだけで成否を判断するのではなく、彼が歴史から引き出した論理的な把握が高かったのか低かったのか、どうすれば正しくあれたのか、を提出しなければならないのです。

同じように、「いろはにほへと」、「諸行無常」、「万物は流転する」、「理念の自己展開」などといったことばが、いかに同様のことを指していると考えられるときにでも、それらのそれぞれが、一体どのようなレベルの認識に基づいてのものなのか、つまりどのような論理の段階において対象を捉えているのか、を問わねばならないのです。

「世界は過程の複合体」ということばはとても単純に聞こえますが、これが人類文化を担おうとする者にどれほどの学的献身を要求しているのかを、自らの人生に直接的に関わりのあるものとしてまともに考えてみるという姿勢は、わたしたちの各々の人格に、厳しく問われているのです。

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