(1のつづき)
前回では、ご質問を受けて、人間の身体と精神が弁証法的な性質を持っている、ということについておさらいしたのでした。
一連の記事全体としての位置づけから言えば、今回の記事もおさらいなのですが、そのことを受けて土台とした上で、次回ではタイトルにある問題を考えてゆくことなります。
弁証法的にものごとを考えるためには、何回も何回も、耳にたこができるほど、ものごとの生成からその歴史性をたどって現在の形態へと至った筋道を論じなおさなくてはならないので、読者のみなさんにもある程度の努力を要求してしまうことは否定できませんが、意図して述べる繰り返しを倦まずに、ついてきてもらえれば嬉しく思います。
では、本文です。
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前回の一文め「弁証法や個人と万物のつながりは人生の一般性(普遍性)としてどの人間の根底にも存在する。」を受けて、質問内容にあった二文めはこうだった。
「しかしながらそれを認識しながら(出来るかどうかより意思を持って)生きるか、物事・現象と向き合うか否かが重要である点が極意論の所以である」ここで、文章の展開を一時停止して、読者のみなさんに問いたい。
質問者はここで、「人間には弁証法性が働いている」、「それを認識し続けることが重要である」という自分の把握が正しいかと問うているわけだが、ここに来て間もない読者のみなさんの中には、「だからなんだというのか?人間存在の根底に弁証法性が働いているなら、我々が人間である以上ほうっておいても弁証法的になってゆくのでなければおかしいのではないか。何を確認しているのかまったくわからないが…」といった向きがあるかもしれない。
結論から言って、こういう考え方こそが、「非弁証法的」、つまり「形而上学的」なものであると言わねばならない。
この考え方のなにがいけないかといえば、実体やその機能と、技術というものをごっちゃにしてしまっている(直接的に同一のものとして誤って捉えている)、ということなのである。
これは例えて言うならば、わたしたち人間のうちには、ピアニストという職種の人たちがいる。
そうである以上、わたしたち人間という存在には、そのような仕事ができうる可能性が含まれている、と言うことはできるであろう。
しかしここで問題なのは、わたしたち人間がピアニストになりうるだけの運指や暗譜、作曲家との二重化の能力を持っているはずだからといって、寝転んでいれば誰でもそれを身につけうるか、といえば、そうではないはずである。
このことからわかるとおり、いくら実体のなかに可能性が含まれているからといって、それを自らの能力として身に付けるためには、数限りない修練が必要なのであって、しかもそれは、箸すら満足に持つことができないという指の働きのレベルから、できないなりにも繰り返し繰り返しの習練のなかで、数十年という年月をかけてしだいしだいに身に着けてゆく、という能力なのである。
さらにこの前提として、「自分がピアニストになりうる」という発想や、それを自覚して自らの確固な自由意志として堅持しうるレベルへの転化、つまり夢や志といった観念が必要であることもわかってもらえるであろう。
可能性が実体に潜んでいるのなら寝転んでいてもそれは発現しうる、などといった発想は、いくら形式論理学の教科書に例示されてあろうとも、実践に耐えうるような現実の構造の理解では決してないわけである。
ここまで見てくればわかる通り、質問者の問題意識というものが、あくまで「実践」に焦点が当てられていることがわかってもらえると思う。
これはおそらく、実践でぶつかった問題を解くために、なにか良い方法はないだろうか…と探していたところ、弁証法というものに突き当たった、ということなのではなかろうか。
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質問への回答に戻ろう。
質問を整理して言えば、一文めで、「弁証法という法則性が森羅万象にあまねく働いている以上、人間の心身にも働いていると考えてよいはずだ」との旨を述べてあり、二文めでは、「しかしそういう客観的な性質があるからといって、誰にとってもその客観的な法則性を意識したうえで、目的的な技として使いうるとは限らないはずだ」、という内容のようである。
さて文面中、あなたが「出来るかどうかより…」とことわったのは、「現時点において、ものごとを実現する能力が自らに備わっているかどうかはいちおう棚上げして目的意識をしっかり持たねばならない」ということを言いたかったのであろうか。
そうならば、そのとおり、である。
実践的に考えるときには、わたしたちはその時点での自らの論理・論理の不足を押してでも、少なくともかたちの上では、対象に弁証法的に取り組まねばならない。
なにしろどんなピアニストも、「ピアノが弾け「無い」」から、「ピアノが弾ける自分で「在る」」へと量質転化してゆくのであるから、その過程は極めて弁証法的だからである。
今の条件がいかに整っていなくても、自らが置いた夢、大志、といった目的意識の高みに照らして人格は創出されてゆくものであるから、現時点での力不足を固定化して、「ないものはないままである」などと物怖じしたり、「今わからないから真理は永遠にわからない」などと相対主義に落ち込んでしまえば、出発当初から形而上学に転落しているわけである。
そういうわけで、繰り返しになるが、たとえば人を教える、ということをひとつとっても、「まだまだ勉強が足りないから…」などといって、いつまでもいつまでも爪を隠しつづける(?)というのでは、実力をいくらつけたくてもなにも始まらない、ということになってしまう。
教育についても、あくまでも実践の中でそのやり方を高めてゆくわけであるが、実践的に言えば、その時に絶対的に不可欠であるのは、「この者を一流にせねば気が済まぬ、人生の恥であると思う」という、後進の人生に影響を与えることについての、自らの全存在をかけた責任感、というものである。
その志をしっかりと、まともに持っているのならば、行きあたりばったりで「あれをやったりこっちに手を出したり…」というかたちで指導方針が右往左往してしまうことは己が恥、となるわけであるから、「弟子とともに頂上にまで上り詰めることのできる道はどれであるか(世界観の選定)、その歩み方はどういうものであるか(論理の選定)」という目的意識が、あらゆる対象と向き合う際にも発揮されないわけがない。
大志と論理性、というと、理性と感情のような水と油をごっちゃにするとは語るに落ちた、のような反応を示す人間がいるが、彼等というのはやはり、まともな責任感を持って教育という実践に携わったことがないのであろう。
大志と論理性は、実践的な側面に照らせば、極めて強い関連性を持っていることがわかってくるものであるが。
◆◆◆
ともかく、ご質問をおおまかにつかまえるならば、あくまで論理というものは、自らの専攻と定めた対象を、正面から向き合うことをとおして次第に次第に引き出されてくるものなのである。
そうであるからには、まずは出発点として、三浦・エンゲルス的な弁証法の三法則をアタマの中にいつもいつも強く持って、それに照らしながら対象とじっくりと向き合い、それらがひとつの像となって自らの認識そのものとなってゆくよう自らの人生を、目的的に生きてゆかねばならない。
わたしたちが「こうなりたい」「こうでありたい」とアタマの中に描く理想像というものは、当然ながら、未だ現実に実在するものではない。
しかし、素材となる生活経験を出発点として、それとは相対的に独立に、時には絶対的に独立なものとして、自らの作品の構想、夢、大志、というものおぼろげながらでもアタマに描くことのできる実力というものは、人間にしかない、他のものには代えられぬ、特殊的な能力なのである。
わたしたちはそのアタマの中の像を正面に据えてそれに向かうようにして、それと現時点での自分の立ち位置とを比較しながら、理想像を現実化しようとして日々を生きるものである。
わたしたち人間個々人が弁証法的な存在であるということは、わたしたちの身体と精神が、自然・社会の構造を土台として持っているという事実からすればそのとおりであると言えなくもないが、だからといって、ただ漫然としていれば弁証法的に高まってゆくかといえば、絶対にそんなことはないのである。
人類が持ち得た最高の認識の体系を学問といい、弁証法はその上に置かれた冠石である以上、わたしたち一人ひとりが自らの努力でもって、その認識をこそ、弁証法的に技化してゆかねばならない。
まわりのものごとを見るときに、弁証法的に見れる者から見れば弁証法的であり、形而上学的にしか見れない者から見れば形而上学でしかないのであるから、ものごとの弁証法性を引き出しうるかどうかということは、その意味で、それを観る者にかかっているわけである。
三浦つとむがその本の中で、「人々は議論を闘わせる中で弁証法を「意識」するようになり…」といった言い回しをしていたのは、古代ギリシャにおいて、議論の中で「こうすれば正解に近づいてゆく」というおぼろげな像が、明確なかたちをとりつつあるようになったときにそれに名前が付けられ、弁証法という名が与えられてからはそれを「意識」的に使えるようになっていった…という過程を述べての一言であるわけである。
わたしたちがやるべきなのは、古代ギリシャから現代に至るまでの、この壮大な論理の生成と発展を、なんらの弁証法性もないところからそれを自覚し、意識的に習練・修練し、発展させてゆく、ということなのである。
現実にはまだない目標・夢をいだいてそれを実現しようとする、これらのことがらを要して、「人間は認識的な実在である」と言うのであるが、これまた極意論である。
大事なのは、その概念規定を過程性を含めて捉え返した上で、さらにそれを自分の人生に直接的に関係のあるものとして、実際に自らの人生を歩んでみることが出来るかどうか、という一点にかかっている。
(3につづく)
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