革いじりしてるのに研究もちゃんと進めているのを見ると、
どうやって時間を作ってるんですか?と言われることがあります。
一日はみんな同じ時間ですし睡眠時間もちゃんと取っているので、規則正しく生活をする、ということがいちばんの土台になっていますよ、というのが、実に当たり前に聞こえるとしても、やはり正しい答えです。
日本の会社で働いている人の行動パターンを見ると(こういうものの統計を採るのが好きな研究者もいるのです)、行っても行かなくてもいい付き合いや隙間時間にゲームやソーシャル・ネットワークで時間を潰してしまったりすることが積もり積もって、相当な時間となってしまっていることが多いようですが、自覚していないところで、実際にはもっと無駄になっているのではないでしょうか。
行動というものはいったん習慣付いてしまうと、そこを疑うということをしなくなってしまいがちなので(だからパターンと言う)、勤務時間は一般的な範囲で収まっているはずなのになぜか時間がない、ということにもなりかねません。
平日の一日15分と休日の2時間ずつでも取り組めば、3ヶ月であたらしい語学やあたらしい趣味の基礎は作ってゆけることを思えば、今の自分がどういった環境との浸透過程において創られてきており、そしてまた現在も創られつつあるのか?という、相互浸透という観点から生活を見なおすという姿勢は、常々忘れずに持っておきたいところです。
今年も終わりまであと1ヶ月ほどですが、みなさんは今年の初めに立てた(はずの)目標までたどり着けるだけのペースを維持できているでしょうか。
わたしはいつも最後までわからないので、いまはちょうどスリリングな時期です。わからないことは、やってみるしかありません。
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さて、今回は表題のとおりの眼鏡ケースです。
前から頼まれていたのですが、簡単なようでいて意外と難しく、数ヶ月型紙を作ってはつぶし、していました。
わたしがはじめ考えていた条件は、こんなところだったでしょうか。
・鞄の中で眼鏡が潰されないだけの強度があること
そりゃそうだ、と思われるかもしれませんが、世にある革製眼鏡ケースといえば、革をくるりと包んだだけのようなものあり、満員電車で押されるどころか、書類に押されただけでも眼鏡本体がダメージを受けそうなふうに見えます。ここを、どうにかせねばなりませんでした。
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そういうわけで、真上からの圧力を分散するためには直方体よりも三角錐のほうが、つまりマチは四角よりも三角のほうが良いだろうということになり、こんなスケッチをしたわけです。
図1 |
このスケッチどおりのものを作ろうとすると、こんな開閉になりそうです。
図2:パターンA |
しかしこれを見て、あれっ?と思いました。
ボタンを手前に持ってくると、眼鏡を手探りで出し入れしなきゃいけなくなる…。
かといって眼鏡の出し入れを手前に持ってこようとすると、オーナーが正しく操作しなければいけないはずのボタン部が奥側に配置されてしまうのです。
ここどうすればいいのかな?
と思って、同じような仕組みの眼鏡ケースを調べてみると、
「フタの部分には眼鏡を置いておくこともできます。
眼鏡を机との干渉から防ぐデスクマットとして。」
みたいな文句が踊っています。
…どうやら、アテにしたのが間違いだったようです。
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いいでしょうか。そもそも、眼鏡ケースという道具とはどういうものか、といえば、眼鏡をバッグの中などで他の道具との干渉から防ぐために用いるものなのであって、その上に眼鏡を置いて適宜使うようなものではありません。
もしこの形を、文房具ケースに採用すれば、たしかに開いたフタの裏にいくつかの筆記用具を転がしておいてそれなりに便利に使えるのでしょうが、その発想を、身に付けるための道具である眼鏡にそのままの形で横滑りさせてよいはずがありません。
文房具は書くことの進行度合に応じて適宜使い分けるものですが、眼鏡というのは、つけているかつけていないかのどちらかで使えればよい、ということが、道具の使い方としての決定的な違いです。
ほかが参考にできそうにないときは、自分で考えるしかありません。
そういうわけで、
手前に開閉するための操作部(たとえばボタンやホック)があり、しかも開いた時には眼鏡本体がオーナーにしっかりと見えるところに出てくるためにはどうすればよいか?
それが、今回のはじめの問題となったのです。
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結果からいえば、これは否定の否定、ということになりました。
閉じた時に三角柱で強度を確保しなければならないからといって、何もマチまで馬鹿正直に三角形にする必要はなかったのです。
マチは折りたたんでしまえばよい、ということに気づくまで、1ヶ月ほどを使いました。
そうしてできたのがこれです。
図3:パターンB |
組み上がれば図1と同じようになるはずですが、それを実現するための構造が図2:パターンAとは違っている、ということです。
マチが台形になっていますが、これなら、ボタンも開口部もオーナー側に持ってくることができ、その開口部もかなり大きく取ることができます。
ここまでが、「認識」における問題、です。
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認識の問題が解けると、次はどんな問題が待っていましたか?
そうです、「技術」、の問題です。
この時点でアタマに描かれている理想像を、いかに現実化するのか、といえば、これは実践との格闘以外にはありえません。
以下は、これまでに作ってきた型紙の一部です。
死屍累々でした。
これはいちばんさいごの段階で検討していたものなので、実際には3桁近いマチの型紙がおじゃんになってゆきました。
こうして、思い描いたものが現実に移し替えられてゆく過程になると、それに付随するものが浮かび上がってきます。
それは、認識の段階では思いもしなかったような、たとえば「革が意外と曲がらない」だとか、「なぜかうまく染め付けられない」などといった細かな問題ですが、その他にも、その裏返しとしての、意外な収穫、というものもあるのです。
今回でも、それがありました。
実際に出来たものを見ながら確認してゆきましょうか。
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今回出来たものがこれです。
家の中を探して、家族の眼鏡を探してきました。
では実際に眼鏡を入れてみましょう。
開口部が大きめに開きますね。ベタ貼りなので、裏地がありません。
眼鏡のようなデリケートな道具を包むケースを考える時にはいつも難しい問題として、閉じる時にボタンをぐっと押し込むと本体に圧力がかかってしまう、ということが挙げられます。
今回は、マチが折り曲がるかたちになっているので、そこに人差し指を入れられるために、ボタンを裏側から支えることができ、本体に直接干渉せず蓋を閉じられるようになりました。
この2つが、マチを台形にしたことによる意外な副産物、でした。
意外とは言っても、それはあくまでも初期の段階であって、そこに現れている法則性が明確に自覚されるようになると、次にはそれを目的意識として念頭に置き、それを意識的に適用できるようになってゆきます。
大きく見た時にも人類の認識は、このように外界との関わりあいによって発展させられてきたものなのですから、座学だけでアタマが良くなる、という発想は、実は初歩で大きく踏み外しているのです。
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さいごです。
今回の眼鏡ケースのオーナーには、以前にペンケースを作ったことがありますから、それと横幅を揃えました。
写真はわたしの手持ちのペンケースですが、大きさは同じなので、オーナーのものと置き換えても同じようになるはずです。
ただ先ほども述べた通り、中身の道具がどういうものなのかを考えてみれば、表面上は同じようなかたちであっても、用途にふさわしい構造を持っているべきなのです。
その構造の違い、という認識における把握がどのような表現となって表れたかといえば、それはマチの違いとなって顕れることになっています。
眼鏡ケースのマチは折りたたみ式の台形であることに対して、ペンケースのマチは少したわみはするものの素直な四角形です。
見た目は似ていても、中身に容れるものを入れ替えれば、同じような機能を発揮することはできなくなりますし、道具の使い方の違いに規定されるためそれが当然です。
あるひとつの道具に関わるものを本質的に考えてゆく場合には、「その道具はどういうものなのか?」とじっくりと、しっかりと問いかけて、その道具との浸透をより深く突き詰めてゆかなければなりません。
ケースの場合に話を限っても、道具の見た目が同じだからとか、ケースの見た目が同じだからとかいう理由で、他の用途として使われている道具のあり方を単純に横滑りさせてしまうと、場合によっては道具のあり方を損ねるような、実に使いにくいケースができてしまいます。
ものづくりにおいても、論理の力が必要だと繰り返し述べるゆえんが、ここもありますね。