時間の経つのは実に早いもの、という月並みな言い方が、自分の人生と直接関わりのあることばとして実感できるようになってきたものです。
社会に出られたばかりの学生さんなら、そのときの素直な実感として、時間の経つのがとても早い、という感想を持ったことをまだ覚えておられることと思います。
学生の頃と比べてそうならざるをえないというのは、社会では時間というものを、人と人との調整にとられがちである、広くは時間が社会化される度合が大きい、という理由が大きいのではないでしょうか。
人が好むと好まざるとにかかわらず社会性を帯びているという事実は、遡れば精神ですらその中で育まれてきたことから考えても至極当然のことですが、サルからヒト、人間に至りその調整に本能がほとんど何の役割も果たさないところにまで社会が発展する段になると、それにふさわしい目的意識とそれなりに高度な調整の能力がなければ、小さな組織ですらまともには回らない、ということさえ起きてきます。
試しに周りを見れば、人と人とが協調するどころか互いに足を引っ張り合って社内政治に勤しんでいるというようなところがどうしても目につきます。
ある明確な目標のためには個としては1の力でしかないところを不足とし、協調のうえで1たす1が3にも4にもなるために組織を作ったのはずであるのに、いざできてみればかえってマイナスになってさえいるのでは、と皮肉のひとつも言いたくなるような光景があふれていますね。
職人的な気質を多分に持つ人間からは、こうした状況は滑稽であるばかりか無駄でしかないものであると映りますから、いきおい、結局は一人で良い仕事をすることが唯一最善の生き方なのだ、結局人間は一人で生き、一人で死ぬのだ、といったような結論さえ出されかねません。
しかし、人とのいざこざを嫌って職人的に人類文化を前進させることに人生を掛けるにしても、ひとり孤高で一里塚を築いたとて、それがいかなる内容を持っているにせよ、決められた形式の束縛はやはり大きいものです。
学問の世界は抽象度が高く難しいですから、目に見える表現をとる文芸でたとえると、たとえば油絵は油絵であり、クラシック音楽はクラシック音楽であり、彫刻は彫刻であり、それ以上でもなくそれ以下でもありません。
こういったすでに確立した文化のジャンルにおいて、新たな第一歩を進める、というときには、たとえば日本画から学んで油絵を描いたり、クラシック音楽にロック調のアレンジをかけたり、彫刻する素材を変えたりといった向きも、あるにはあります。
しかしこの方向性の価値は言ってみれば、既存のジャンルを掛け合わせるというさじ加減と、そのアイデアの妙にかかっているのですから、その限界や、いわゆる賞味期限、大衆からの注目を引いておける期間というものは、いわば出発の段階から定まっており、多くの場合極めて短命なものとして決められているのです。
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ここでわたしたちが考えなければいけないのは、自分が、どうあがいても一回限りでしかないこの生涯をかけてなんらかの事業に取り組む時に、そこに「付け加えるべき第一歩」がどういうものであるべきなのか、どういうレベルのものであるべきなのか、ということなのです。
わたしは去年の一年間、これからの10年を、何をどのレベルで目指して日々を送るのかということを、走り続けながら考えてみて、人類の築き上げてきた文化遺産を継承し未来へとつなげてゆくための現在という時代性と、そこにいるこの個としての存在が交わる必然性がいかなるものであるかを位置づけてみたときに、やはりどうしても、いま始めなければどうにもならない、ということがあることに否応なく気付かされることになってゆきました。
そのひとつに、1たす1が3にも4にもなるような、本来の意味での組織をつくる、ということがあります。
そのためには、それぞれの成員の認識に、共通の土台をつくること、ひとつの目的を共有し続けること、をしなければなりません。
ひとつの場所にいるのに、持ち寄った成果を統一しようとしても1たす1が2よりも多くならないのは、前者が欠けているためです。
たとえば構造主義と記号論を持ち寄ってひとつの思想を作ろうとしたり、象徴主義と反自然主義をちゃんぽんして新しい文学を作ろうとしても、どだいまともな成果が出るわけもなく、待っているのは政治的な抗争と、感情的な確執のあげくの内部分裂、ということになります。
後者が欠けているのは、そもそも組織化した意味を問われるほどに組織としては論外ですので、これまた外形を保っていられるのはほんの一時期のみ、ということになります。
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ともあれ、ものごとの本質的な確からしさ、ひいては歴史の風雪に耐えうるだけの価値というものは、一にも二にも「体系化」ということにかかっているのですから、土台が揺らいでいるようではなにも始まらないどころか、始めないほうがマシ、ということにもなりかねません。
これが1年や2年でなんとかなると考えるほど甘くはないのですが、いつまで経ってもなんともならないと思うほど悲観的でもありません。
議論が軌道に乗るために10年、成果が出るのは30年先であれば御の字、でしょうか。
人の作る表現を見るときに、「これはこの先何年残ってゆくものだろうか?」と問い続けている人にとっては、文化ですら資本主義化・経済化してゆく現在という時代は、目を覆いたくなるような惨状であることはまぎれもない事実です。
(これはいずれしっかり述べねばならないことですが、お金が嫌い、とかいう感性的な反発のようなものではなく、文化創造の「質」に直接関係のある、相当に根本的な問題です。)
しかし、多かれ少なかれ人の世というものはままならぬもの、というのも事実。
目の醒めた人間にとっては悲劇ですが、悲劇は突き抜ければ喜劇です。
正気を突き抜ければ狂気にも映ります。
どのようなかたちになるかはまだわかりませんが、いずれにしろ長い旅のこと、よろしくご笑覧のほど。
というわけで、来週から溜まっている記事を公開してゆきます。
昔、私は自分の組織を創り、カリスマ的指導者になりたい!と想った時期がありました。でも…
返信削除最近、気付けた事は、私の心の奥の底には、根源的自己不信=人間不信が存在している、という事です。
この存在の為、組織を創る事も、それに属する事も…難しいようです。
そんな不信感を持ち続けて、それでも信じようと生きてゆこうとする事…
それを楽しめる認識を持って生きてゆけたら…と思う~今日この頃です…
~♪♪♪~記事の更新を楽しみにしています~♪♪♪~