2013/06/27
『道は開ける』の一般性はどのように引き出されたか (1):<世界観>はどのように二分されるか
読者並びに学生のみなさん、
お待たせしてしまいました。
ここのところ個別の問い合わせが多いこともあって、不明な箇所をひとつひとつ並んで歩くように理解してゆく、ということをやっています。
こう書いてしまうと恐縮されるかもしれませんが、みなさんが現実にある精神や社会の問題に実際にぶつかって、それをなんとか解こうとすることを手伝うということは、わたしにとってこれ以上ない勉強になりますから、無用なお気遣いとお心得ください。個人的な事情についてはもちろん他言しませんので、ご安心ください。
ただ、ある種の問い合わせにはお伝えしておいたとおり、内容のない罵詈雑言のたぐいに返事をするのは3度までと決めてあり、その姿勢が改めてもらえない場合、それ以上は無視するよりほかありません。
そういったものに心揺るがされるようなヤワな鍛え方はしていませんので実質的にも無用ですし、なによりご当人のためにもなりませんから。
自分で表現したものを、いったん目の前においてみたうえで、「これを受け取る人はどう感じるかな?」と考えるという認識の持ち方は、身につかないうちは困難であることもわかります。しかしこれなくして、ひとりの人間は社会性をまともなかたちでは持ち得ないのです。
社会性など要らぬという開き直りが脳裏に浮かんだときには、では人間とはどういうもので、どう生まれどう育つのか、どう生まれさせられどう育てられるのか、という問題を頭の片隅に持っておき、自分の過去を振り返ったり折にふれて思い出して考えてみられることです。
これは表現するときの思いや考えをいったん棚上げした上で、他人の立場になって自分の表現を改めて見る、ということであり、これがすなわち<客観視>という、認識のあり方です。学者や理論的実践家に芸術家、ひろく文化人として生きるのであれば、その実践に直接影響を与えるとともに、それに相応しい人格たろうとするならばなおのこと、いのいちに必要とされて良いはずのものです。時間はかかっても、思うところが出てきたときには自分の言葉でその旨伝えてもらいたいものです。
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さて以下は、先日行われた勉強会での議論の内容を、ひとつの流れとして読めるように整理してゆくものです。ここでの内容も、<客観視>と関わることですので参考にしてください。
まず、毎度のこと前置きが長くなりますがそれでも、数回分の記事を使ってお断りしておきたいのは、「研究会」ではなくて「勉強会」とある理由について、です。
あくまでも学問的な段階を目指して研究をしようと志すのなら、その前段階として論理を見る目を養っておかねばならないのですが、その「論理を見る目」というものは、何度も何度も目の前の現実や本の中の出来事(=対象)から引き出す訓練をしておかないと、どうしても高まってゆかないのです。
そしてまたここで重要なのは、この何度も何度もの繰り返しというのは、あくまでも「正しい道筋で」繰り返さねばなりません。
それを終えられたと判断したときには、遠慮なく「勉強」ではなく対等な立場で様々な分野の「研究」を持ち寄る場、と言うことができるということです。
この前の一連の記事のうち、とくに「人を動かす」一般論はどう引き出すか (2)において厳しくお伝えしておいたことは、整理して言えば実のところ、観念論への転落を防ぐことと、形而上学への転落を防ぐこと、だったのでした。
これがわからない読者の方は、「何をそんなに目くじらを立てることがあるのか?」といぶかしく思われたことでしょうから、まずは少し説明することにしましょう。
さて、今回の議論で中心となってくれたのは、このBlogでは文学評論で登場してもらうノブくんと、先ほど述べた記事、少し前に『人を動かす』の一般性の導出の際に、果敢にも課題に挑戦してくれたOくんです。
いま改めて、その記事の際に強調しておいたことは何だったでしょうか、と聞けば、「一般性というものは、一般的すぎてもいけないし、具体的すぎてもいけない、ということですよね」という返事があると思います。ごく簡単に常識的な範囲でまとめればそれでもよいのですが、学問的な段階から言えば、この答えではいけないのです。こここそが、今回取り組んでもらいたかった大きな問題なのでした。
以下、少し長くなりますが、下線や傍点などの強調ならびにベン図などもあえて用いませんので、必要ならば各自工夫して基礎的な概念について理解していってください。
ではその、論理というものを学問を目指す段階へと引き上げる際に浮上してくる問題は何か?と言えば、ひとつに<世界観>の問題と、もうひとつに<論理性>の問題、ということになるのです。
◆<世界観>はどのように二分されるか
はて<世界観>とは?と言えば、文字通り「世界をどのような立場で眺めるか」ということですが、これを正しくわかるには哲学史を振り返らねばなりません。これには2つの世界観があり、あくまでも歴史的・過程的に見ようとすれば、一方から他方が生まれ独り立ちするようになると、それは生みの親である一方と対立する関係となり、やがて互いにせめぎ合い、影響を与え合い渦巻く中でお互いの世界観を明確にしてきたという流れがあります。
ここを説明するととても大きく横道に逸れてしまうので、上の伏字に何が入るかが分からなかった人は、まずはもう一度三浦つとむ先生の著作を読みなおすことでおさらいしてもらうとして結論だけ言うことにすると、学問の世界には歴史的に、それを大きく二分してきた二つの世界観があった、ということを思い出してもらいたいということです。それは、<観念論>と<唯物論>の立場なのでしたね。
わたしたちはどうなのかと言えば、あくまでも現実を揺るがぬ対象として眼前に据え、そこから論理を引き出し理論化した上で体系立てて理論化し、最終的には現実の問題をこそ高度に解くための指針としようという立場にありますから、これはとりもなおさず、<唯物論>という世界観に立って自らの専門分野を探究しようとしているわけです。
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しかし実際に、学問とは何かを学問の歴史から学んだうえで、学問的な段階を踏み外すことなく研究しようと志するのであれば、アレッ、これはもしや、とおぼろげながらでも気づけるはずのことがあります。
それというのは、この二つの世界観は、「ワタシは精神が大事だと思うからこっち」、「ボクは精神はモノではないと思うからあっち」、といった感性のレベルで選択してしまえるようなものでは絶対にあり得ない、という非常に厳しい事実です。
さらにもしここで、唯物論の立場に立って自分の道を探究していこうということになると、現実をありのままに見ると言ったところで、あまたある事実のうちどこから・どのように論理を引き出せばよいかが皆目見当もつかない、というさらに厳しい現実が待ち受けているのがわかるでしょう。
このBlogの記事の中で、文学を実践・専攻するノブくんという人物がわたしから、「現実を論理的に見て、そこから構造を引き出すということは、あらかじめ用意した物事の見方を現実に押し付けた上で好き勝手に解釈するということではありません!」と、何度も何度もこれでもか、というほど厳しく指導されてきたことを見てこられた方もおられるでしょう。
あの指導の繰り返しがどうしても必要であったのは、まさに学問レベルの実践にはこういった落とし穴に嵌りつつある自らを客観視し得る能力をつけなければならなかったからであって、一言で言えば、唯物論の道を歩いているつもりが、なんらかのきっかけで少しでも足を踏み外すといとも簡単に観念論になってしまう、という恐ろしさがあったからなのです。
机の上だけで勉強ばかりしている人は、この恐ろしさを現実の構造に即して脳裏にありありと浮かべることがとても難しいと思います。
そういう方は、雪山を進む一歩一歩の足元の先に、どのようなクレバスが待ち受けているかを、ありったけの五感を総動員した集中力・注意力でもって歩み「続ける」ことの厳しさ、とでも例えればイメージしやすいでしょうか。(これとは逆に、身体を動かす実践を趣味にしろ仕事にしろ取り組みつつ座学もこなすという人は、理論が現実離れしたときになんとなくでもあれっ、これは何か変だぞ、と気づけることが多く、地に足の着いた論理を作りやすいというのも、身体と精神の浸透のあり方を考え始めるときにはとても大事な気付きです。より進んで、思春期を座学・受験勉強一辺倒の生活で過ごすことの危うさも考えてみてほしいものです)
こういう問題があるというのに、ほとんどの方は、学者としての死に直結する落とし穴がそこらかしこに空いている、とは考えてもみなかったのではないでしょうか。そうでなければ、ゾンビやミイラが学問の世界を闊歩している理由が説明できませんので…。
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今回の記事は、基礎的な事項も書いてあるので、検索の利便を考えていつもより節を多めに区切ることにしましょう。
次回の記事は、今日の18:00には公開される予定です。
(2につづく)
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