2010/10/31

大力物語―菊池寛

大力物語―菊池寛

ノブくんの評論

 この作品では、幾人かの力持ちの女性、男性のエピソードが紹介されています。このいずれもが事実として存在するとは考えにくく、著者自身もこれらの物語は誇張されていると考えています。では、なぜこのような誇張された物語を作品として発表しようと考えたのでしょうか。
 この作品では、〈表現するとはどういうことか〉が描かれています。
 この作品に登場するエピソードの中の人々というのは、七尺の大きな岩を動かしたり走っている馬を手で止めたりと、明らかに人智を超えた力を持っています。ここから私達は、このような表現は大げさすぎる、きっと誇張しているに違いないと考えるはずです。それは著者も例外ではありません。では、何故彼はこれを表現しようとしたのでしょうか。何故物語は誇張されなければならなかったのでしょうか。実はこの作品の登場人物たちには、もう一つ共通点があります。それは、女性であったりと僧侶であったりと私達が力持ちとは想像し得ない人々ばかりということです。恐らく、彼らの力を間近で見た人々というのは、私達が想像している以上に驚いたことでしょう。これを必死に他の人々に話そう、表現しようとするうちに、その驚き、衝撃を理解してもうおうとするうちに誇張が加わってしまったのでしょう。それは著者も例外ではなく、「この話なども、蹴られて、積んであった材木の上にのっかっていた程度であろうが、それを話しているうちに、だんだんやぐらの上にのせてしまったのであろう。」と自身でもその事を認めています。
 この事実から、表現することと誇張することは同じであると言っても過言ではないかもしれません。


わたしのコメント


 この物語は、人並外れて力持ちの女性を主に扱った説話集の形をとっています。力士を鍛えた「大井子の大力」、浮気した夫を絞め落とした「近江のお兼」、盗人と闘った「尾張の女」、船を陸まで引きずった「尾張の女」、矢竹をにじりつぶすほどの力があった「大井光遠の妹」の話がそれです。筆者も言うように、「これらの大力物語のいずれも誇張に違いない」ものですが、その工夫が大げさすぎるために、むしろ「その誇張が空とぼけていて、ほほえましい」ものとなっているわけです。

 論者の言うとおり、おそらくこの物語の元となった出来事に遭遇した人は、それを誰かに伝聞しようとして工夫をするがあまり、その表現がつい大げさになったのでしょう。そこから、「表現することと誇張することは同じである」、という結論が導かれてきても、何らおかしな点はないかのように思えます。
 しかし、はたしてそうでしょうか。「誇張」ということには、「意図して」大げさに言うというニュアンスが含まれていますから、自分の経験を自慢したくてなにかを言う、という捉えられ方をします。
 さてそこまで考えてみて、「それでは、体験した出来事を割り引いて言う場合にはどうなるだろうか。それは表現ということばの中には含まれないだろうか」と考えてみることのできる姿勢を身につけて欲しいものです。

◆◆◆

 では、誇張というものは、どのような構造を持っているのでしょうか。少しつっこんで考えてみましょう。

 説話というものには、いくつかのパターンがあります。それを読む者に教訓を与えようとしたり、今回のもののように、教訓めいてはいないが、誇張された出来事の伝え方が、かえって読む者を楽しませるものです。後者のような説話をわたしたちが楽しむ時には、暗に陽に「伝聞」というものがもたらす作用に眼を向けているわけです。

 「伝聞」における誇張には、大きく分けて2つあります。
 ひとつに、その出来事を直接に目の当たりにした当事者が、第三者にそれを伝えるときに、つい大げさに話してしまったり、またその経験を自慢するために意図して話をふくらませてしまうことが挙げられます。この物語についていえば、筆者は「それを話しているうちに、だんだんやぐらの上にのせてしまったのであろう」という推測のなかで、「のせられてしまった」ではなく、「のせてしまった」という表現を使っています。ということは彼は、ある人物が主体的な意図をもってそうしたのだ、と考えているわけです。

 二つめには、当事者は正確に表現をしたつもりでも、それが数人の伝え聞きを経たころになると、はじめの言明とはかなりの隔たりを持ったものになる場合です。いわゆる「伝言ゲーム」も、ここに現れている誤り方を逆手にとった形になっています。ただし、少なくとも伝言ゲームでは、簡潔な言明しか用いられません。それに対して現実の複雑な言明を含んだ伝聞となると、伝聞によってどのような様変わりが起きるかは想像してみただけでもわかろうというものです。
 さてそうすると、伝聞における誇張のうち、こちらの誇張の場合には、ある体験をした当事者とそれを伝えた者たち、彼らに「特定の意図がないにもかかわらず」、誇張という現象が起きているわけです。そうすると、それはなぜ起こるのでしょうか。

◆◆◆

 問題を整理するために、人間の認識のプロセスを確認しておきましょう。まず、ある人が何か事物を見たあと、それを表現しようとする場合を考えてください。人間は、物質的な「対象」を、五感で受け止めた像を「認識」として結実します。その頭の中にしかない認識を、物質的な形で表したものが、「表現」と呼ばれているのです。

 対象→認識→表現

 そうして、あらゆる人間の労働一般が認識を経て行われるために、私たちは創作活動をすることができるのだし、発展の機会を持つことができるのです。ところが、認識を媒介として表現に至るという構造には、私たちが対象を自分勝手に改変できてしまう、という側面も含まれているわけです。

 ここでもし、ダヴィンチの描いた「モナリザ」を10人で模写することになったとしましょう。それを同時に模写する場合には、それほどの問題はおきないのですが、もしそれを、ひとりずつ模写することにし、次の人は前の人のものしか参考にできないとすればどうなるでしょうか。そうすると、10人目の作業が終わる頃には、はじめのオリジナルとはいくぶん違った模写になっていてもおかしくありません。
 この問題は、例えで示したような複数人で伝え合う場合だけではなく、まして模写という活動だけに限定されることでもなく、なにかを「独習する」という場合には、やはり問題として残ります。たとえば、ペン習字のことを想像してみてください。一文字目は手本を見ながら忠実に書き、さほどの狂いがなかったものでも、二文字目、三文字目と書き進むにつれて、文字が乱れ始めることは誰しも経験したことがあるのではないでしょうか。その原因は、書き進むと同時に、手本の書体ではなく、自分の書いた書体を参考にしてしまったことによるものです。

 はじめはわずかな差であったものが、それが積み重なることによって、結果としてまったく違ったものとして現れる、<量質転化>のひとつの例がここにあります。何事の修練にも、初心においては独習だけではなく、常にそれを先達の目から見てもらい、修正してもらうということが必ず必要になってくるのは、ここに落とし穴があるからなのです。

 この物語における「伝聞」の場合には、オリジナルとなった体験談が、言語化される際に、すでに認識を媒介とした改変が加えられていることに加えて、オリジナルそのものが明確な対象ではないことによって、あとで伝聞された人たちが拠り所とできるものが存在しない、というところに問題があったわけです。

◆◆◆

 さてそもそも、なぜいち評論に、ここまでくどくどと突っ込んだ話をしなければならないのか、という声もありそうです。その説明を一言で述べておきますと、理解の浅さが、言葉の端々に現れてしまっている、ということになります。
 論者は、この物語の一般性を<表現するとはどういうことか>と言っていますが、ここまで一般化してしまえば、どんな物語についても同じことを言うことができてしまいます。たとえれば、どんな物語についても、「この物語は<人間とはどういうものか>を描いている」と言っているのと同じです。しかしそんなことは、夏目漱石を読んだときにも、芥川や太宰でも、またダヴィンチの名画や建造物であるサグラダファミリアの感想を述べたときにも、ほかのどんな創造物に対しても同じことが言えてしまうのではないでしょうか。それは、この一般性の抜き出し方が、「一般的すぎる」ということに問題があるからなのです。
 たとえるなら、「怒ればワンと鳴き、喜ぶとしっぽを振る四本足の生き物」を、「動物だ」と答えてしまっている、ということになります。

◆◆◆

 そもそも論のついでながら、この評論という作業は、向き合った作品の論理を読み取り、それと同じだけの論理性を備えた作品作りに活かす、というところに主眼が置かれていますね。そのもっとも重要となるものが、一般性の抽出、という作業です。
 イメージの描き方として言うならこうなります。一般性とは、その物語にしっかりと向き合い、この物語の要点を一語で言うならばどうなるか、という問題意識に照らしながらある原石として抜き出し、その仮説を念頭において物語を再度読み進めてゆくなかで核だけが残り、あるひとつの宝石へと磨かれてゆくものです。
 それが完全な形になっているならば、たとえばその一般性を誰かに伝えたあと、彼がその一般性に沿って物語を読み進めるときに、物語の中にどんな表面上の逸脱があったとしても、必ずそこへもどってくることによって、その作品の要点を再度確認することができるはずのものです。これは、さまざまな動物を見てきた経験を一般化して、コリーであってもチワワであってもブルドッグであっても、「犬」という概念でくくれるのと同じことです。

 一般性の抽出という作業は、その生い立ちの中で、「目の前の現象に論理の光を当てて見てきたか否か」という経験が最良の訓練となっているものですから、それが自然に出来ていない場合には、やはり意識的に訓練をせねばなりません。


 ですから、あなたに必要な訓練を整理しておけば、以下のようになります。
 まず第一に、この物語をはじめとした評論という活動においては、自らが一般性の原石を抽出し、それを元にしながら再び作品に向きあって、その一般性の原石によって、その作品が確からしく読み解けるか、と確認してみなければなりません。そうして、原石が宝石となるまで、作業を繰り返すよう心がけてください。
 第二に、上記で考察したように、もし自分の立てた一般性によって物語が解けない場合には、「よりつっこんで考えてみる」ということが必要です。そのために、弁証法の三法則が助け舟となるはずです。私が冒頭で、「それでは、(「誇張」とは逆に、)体験した出来事を割り引いて言う場合にはどうなるだろうか。それは表現ということばの中には含まれないだろうか」と言ったことは、物ごとの両面を考えたという意味で、<対立物の相互浸透>ということができます。

 最終的には、意識的な鍛錬を経た論理性が、自然発生的な論理性を凌駕するのは必然です。そのことはいくら強調してもしたりないほどの必然性がありますから、日々の、「意図的な・目的的な」鍛錬を欠かさぬようにお願いしておきます。

3 件のコメント:

  1. 日々の弁証法の鍛錬、、か。

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  2. 虐げられている状況で、ユーモラスに暗に反抗しているのかな。
    登場する男の人たちが、草食系男子みたいに表現されていて
    カワイイww

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