2010/10/20

芸術ぎらい―太宰治

http://blogs.yahoo.co.jp/earthsea_quartet/26221800.html


◆ノブくんの評論
 この作品では〈何が芸術でないものとは何か〉が描かれています。
 この作品での著者の主張は、「生きる事は、 芸術でありません。自然も、芸術でありません。さらに極言すれば、小説も芸術でありません。小説を芸術として考えようとしたところに、小説の堕落が胚胎していたという説を耳にした事がありますが、自分もそれを支持して居ります。」というところにあります。つまり、芸術を突き詰めたところに真の芸術はないということなのです。それよりも、ただ「創作に於いて最も当然に努めなければならぬ事は、〈正確を期する事〉であります。」芸術的に、と芸術を突き詰めるよりもありのままを表現する方が、傑作により近づくことが出来るのです。


◆わたしのコメント
 作品中に筆者が、一般的な表現で記した主張を抜き出してきたようですが、これでは単なるあらすじであって、評論とは呼べません。
 こういった極めて短い随筆では、端的であるがゆえにその行間を読むことがかえって難しくなるものですが、再読を繰り返せば、少なくともどこが最も大きな問題として横たわっているかには気づくことができるはずです。
 筆者は、創作にとって必要なのは、<芸術的>という「あやふやな装飾の観念」ではなく、<正確を期する事>であるとしています。それはこの作品をそのまま読めばよいだけの話ですから、これを指摘するだけでは、なんら新しい意義などないのだと思わねばなりません。この作品に向き当たって解かねばならない最大の問題は、下の部分にあります。筆者の表現を引用してみるとわかりやすいでしょう。曰く、「重慶から来た男」という映画は、「いやらしい『芸術的』な装飾をつい失念したから、かえって成功しちゃったのだ」、と。


 芸術的な趣向を凝らした映画よりも、そういったものを失念するほうが、<かえって>成功するものなのだ。筆者のこの主張は、いったいどんな論理を示しているのでしょうか。「ガラスの玉は、本物の真珠をきどるとき、はじめてニセモノとなる。」(ディーツゲン『人間の頭脳活動の本質』)という命題を手がかりにしながら読みといてください。まずは、「ガラスの玉」、「本物の真珠」、「ニセモノの真珠」が、文中ではどれにあたるのかを考えてみましょう。それが整理できれば、それらの間の関係について調べられるようになりますから、全体の構造が見えてきます。次回までの課題とします。

3 件のコメント:

  1. 「芸術的な」という形容詞を自らつけると自負感が漂うような気が、、
    部分的なことかもしれませんが、戒めを伝えてくれているような。。

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  2. 「芸術ぎらい」読んでみました。
    はじめに思い浮かんだのは、京都で催されていた
    ヤン・シュヴァンクマイエル展でした。
    1/中旬に予約しているシュルレアリスムの本が
    楽しみに思えます。

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  3. 芸術的を求めて自身の認識と異なったモノを創り上げた場合は芸術とはなり難い。
    芸術的形を追求しても、そこに芸術的心・感性のないモノは芸術にはなり難い。

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