2011/01/31

文学考察: 猿ヶ島ー太宰治

【修正】
読み返していると気になったので、細かな表現の修正を行いました。
大意としては同じです。


文学考察: 猿ヶ島ー太宰治


◆ノブくんの評論
 はるばる海を超え、ある島にやってきた「私」は、そこが何処であるのかを散策している最中、自分と同じ猿である「彼」に出会います。「彼」は「私」よりもこの島に長くからいるらしく、「私」に島に関する様々なことを教えてくれます。そして、「私」が人間たちをその島で目撃した時、「私」は「彼」の口からこの島の真実を聞くことになるのです。
 この作品では、〈甘んじるとはどういうことか〉ということが描かれています。
 まず、この物語の鍵を握るこの島の真実ですが、それは実は「私」を含む猿たちは人間の見世物になっており、島は動物園の敷地の中だったのです。これを知った「私」は「彼」共に危険を冒し、動物園を脱出しました。さてここで注目すべきは、行動だけを見れば2人共動物園を逃げ出した同じ脱走者なのですが、その動機には大きな違いがあるのです。
 はじめに「私」の動機ですが、彼は山で自分を捕らえ、無理やりここまで連れてきた人間に強い怒りを感じており、その人間に見世物にされていることを恥じています。そして人一倍プライドの高い「私」は自身の羞恥心に従い、動物園を脱出しました。
 一方の「彼」ですが、そもそも「彼」は動物園の暮らしに全く不満を感じていませんでした。むしろ、「ここは、いいところだろう。この島のうちでは、ここがいちばんいいのだよ。日が当るし、木があるし、おまけに、水の音が聞えるし。」とその生活に満足さえしているのです。ですが、その傍らでは「おれは、日本の北方の海峡ちかくに生れたのだ。夜になると波の音が幽かにどぶんどぶんと聞えたよ。」と自身の故郷を懐かしんでいます。「彼」は自身の故郷を懐かしく感じながらも、動物園から出る恐怖とその場の居心地の良さから、今の環境に甘んじているのです。そして、そんな「彼」が彼と行動を共にした理由はなんでしょうか。そもそも「彼」というのは、「私」が来るまではずっと一人ぼっちだったと語っています。そして孤独な毎日を送る中、ある日同じ日本出身の猿が同じ境遇を経て、この動物園にやってきたのです。それは「彼」にとってどれほど嬉しいことだったのでしょう。何しろ「彼」がこれまで苦労して築いてきた縄張りをあっさりと、「ふたりの場所」にしてしまったのですから。まさに、「彼」は「私」の中に自分と同じものを感じているのです。しかし、そんな中、「私」はこの島の真実を知ると、すぐに動物園から出て行くというではありませんか。「私」がいなくなれば、「彼」再び孤独になってしまいます。そして、「私」の制止に失敗した「彼」は孤独になることを恐れ、「私」と共についていくことにしたのです。
 このように、「彼」はその環境こそ変わりはしましたが、「彼」の中にある、何かに甘んじるという姿勢は対象を変えただけであり、根本は何も変わっていないということが理解できます。
 さて、この現象を現実に当てはまると、どのようなことになるのでしょうか。例えば、学校に遅刻しないで通学した2人の学生がいるとします。この2人は行動だけ見れば同じ遅刻をしなかった者同士ですが、それぞれの動機は同じとは限りません。一方は先生に叱られる事が嫌で、毎日真面目に通学している人だとします。そしてもう一方の学生は、自身の勉強に対する姿勢として、遅刻しないことなど当たり前だと考えている人です。そして、この2人の間にある大きな違いとは何も動機ではありません。最大の違いは、他人というものが関係ないということがいえるでしょう。前者は先生という第3者の存在があり、そのために遅刻を嫌っています。ですが、後者はいかなる状況においても、勉学をするのであれば、遅刻は絶対にしないでしょう。
 それでは、上記の例を踏まえて、もう一度物語を見てみましょう。すると、「彼」という人物は、環境に左右されやすく、たまたま「私」が脱走したから、ついて行ったに過ぎません。一方の「私」は自身の恥から、動物園を脱走しています。このように行動が同じなために、レベルが見えにくい場合でも、その動機によってそこには大きな違いがあることは確かなのです。


◆わたしのコメント
 前回のエントリーで、論者の思想性の減退を指摘しておきましたが、うまく受け止めてくれたようです。
 折よく今回扱った物語というものも、簡潔な表現の中にいわゆる「ドラマ」が、多種にわたり詰め込まれている作品なので、良い教材となってくれています。
 一般に「ドラマ」というものは、論理の面からいえば、ある人物と他者との関わり合いの中で、彼ら、彼女らが影響を与え、また受け止めるという、影響の与え合いを指すことがほとんどです(<量質転化>的な<相互浸透>)。育ちも目的も違う他者同士であれば、表面化するにしろしないにしろ、互いの間のの矛盾は避けられないものですから、そこでの関わり合い方がどのようなものであるかを描くことが、直接的に物語におけるドラマという形態をとっています。また、そこには矛盾が解消する場合の他に、その懸隔がより広がる場合、良い解消、悪い解消など、様々なパターンが存在していますから、一般的には人の気持ちに関わる<矛盾>、と一口に言ってしまえる構造にも関わらず、多様なドラマが展開されているように現象するわけです。

◆◆◆

 今回の『猿ヶ島』という作品で描かれるのは、大まかには次のようなドラマです。
 ある島に連れてこられた「私」が、そこで出会った「彼」と打ち解けてゆくうちに、あるとき「人間」と遭遇する。はじめは「彼」の説明を真に受けて、それを面白い見せ物として楽しんでいたものの、しだいに見せ物という位置づけが、彼らに対してではなく、彼らから自分たちに向けられたものであることに気づいてゆく。驚いた「私」は自分を騙していた「彼」を罵るものの、彼の口から告げられた思いやりに気付かされ涙する。その気づきをきっかけにして、むしろより「彼」との絆が深まった「私」は、ともに旅立つことを決意する。

 この物語には、いくつかの種類の猿が描かれていますが、人格を持った主人公はといえば、擬人的な二「人」のニホンザルたちだけです。ですから、そういう意味では、論者がその二人のうちに、種族という同じ性質と、異なる物の見方という違った性質の両面を見ていたことは、ドラマを受け止める前提としては正当です。そのような文脈でいえば、表現はまずいながらも(後述)、論理的な把握を前面に押し出した論じ方は、ようやく評論らしくなってきた、と一定の評価を与えてもよいものになってきています。

惜しむらくは、論者は、「甘える」と「甘んじる」という言語表現を混同しているようで、それに引きずられて論証が強引になってしまっています。「甘える」というのは、主に対人関係で、相手に極度に依存することであり、「甘んじる」とは、自らが置かれた状況を受け入れる、という状態を指していますから、明確に別の概念として取り扱わねばなりません。
 そういった言語表現を厳密にすることの他に、〈甘んじるとはどういうことか〉という一般性の捉え方では、まだ絞り込みが足りません。まず自らの書いた問いかけ、つまり一般性に目をやり、それを念頭において自分の文章を読み返してみてください。その上で、自分の書いた評論は、自分の立てた問いに、しっかり答えられているだろうか、と。今回の場合であれば、「甘える(?)」という概念一般を説明するのだ、と言明しているわけですから、「果たしてこの内容で、『甘える(?)』ということを一般的な意味で論じられているだろうか?」と問い返してみれば、まだまだ一般的すぎる、ということはわかるはずです。そうすると、より焦点を絞った表現にせねばなりません。
知識的にも、論理的にも精進を重ねてください。自らの表現は、それが書かれた時点で手を離れて対象となるのですから、それは、「読者の立場から」読まれねばなりません。作品を書くときも読み直す時も、書き手としての自分を出ることができず、結果として作品を客観視できないから、自分の作品の欠陥に気付けないのです。

◆◆◆

 さて、ある失敗について、それを重ねて批判することは本意ではありませんが、前回のエントリーで一喝したことでここまでの実力が発揮できるということは、逆にいえば、他者に指摘されなければ手を抜いてしまう、という思想性の低さを露呈していることにもなっています。そのことはご自分でいちばんよく反省していることでしょうから、これ以上は触れませんが、自分の気質面の不足、認識の像の作り方の浅さを理解しておいてください。
 以前に、トレーニングを例にとって「常に全力で取り組んでいなければ、自分の実力もわからないし、次の目標も立てようがない」と言ったのは、まさにこのことです。自分を信用せずに、「どうせやらないだろう」と日々を過している場合にも、その日の終わりには、「やはり今日もやらなかった」という、悪い意味での安心感が得られてしまっている、ということはわかっておいてほしいものです。その悪い安心感が、当人をどう作ってゆくかもわかりますね。

 論者の場合は、言語表現をはじめ、対象にたいする「認識の像の薄さ」というものは、以前から指摘してきたとおり重大な欠陥であり、いまだ解消されてはいませんから、単発的な文などではなくて、意味のある文のまとまり、とくに接続詞でしっかりつながった「文章」、それも一流のものを、ジャンルに関わらず浴びるように読む、という努力を怠ってはいけません。しかもその努力というのは、強い問題意識を通してなされなければなりません。言葉を変えれば、「目的的に取り組む」ということです。

幼少の頃から、良い教材と教育を与えられており、美しい言語表現が身についている人間が、感性的な捉え方で美しい文章を書けるのとは逆のコース、つまり理性的なやり方で、論理的な土台の上に、目的的に築き上げた美的な認識を持って、美的な表現を加えてゆかなければならないのですから、並大抵の努力では敵わないことを知っておかねばなりません。「生い立ちに言い訳をしない」ということは、そういう努力を含めてのことのはずです。

 弁証法という論理の存在を意識でき、また身近に触れられることは、確かな土台をつくるためにはこれ以上ない経験ですが、それが努力を怠ってもなんとかなる抜け道、魔法の杖である、などという馬鹿な幻想は棄てねばなりません。短期的には、原理的な物の見方よりも感性的な認識のほうが、技よりも体力に任せた喧嘩殺法のほうが、画材よりもデジタルイラストのほうが、見た目の上では上回ることも少なくないのですから。

◆◆◆

 余談ではありますが、今回の太宰治『猿ヶ島』には、上で挙げたドラマ的な要素の他にも、「あれは人妻と言って、亭主のおもちゃになるか、亭主の支配者になるか、ふたとおりの生きかたしか知らぬ女で、もしかしたら人間の臍というものが、あんな形であるかも知れぬ。」といったような、ユーモアにあふれた人間の職業評も見所と言えるでしょう。「人妻」や「学者」のほかの職業を、ここで言われたものと同等の表現を使って表すと、どのようになりますか。そこではどのような論理が働いているかも含めて考えてみてください。また行間を多めにとり、読者の二次創作に委ねるという行間をうまく使った表現が用いられていますので、大いに参考にしてください。

◆◆◆

 課題として、今回の経験から、「思想性」というものが、上達論のなかでどのような役割を持っているかを整理しておいてください。

2011/01/26

どうでもよくない雑記

ご無沙汰しています。


前回更新から数週間の間が空いてしまったことをお詫びします。
年を明けてから、この3ヶ月で達成する新しい目標の設定と下調べに負われているので、
今月いっぱいはこのような更新頻度になってしまうと思います。

ともあれ卒論シーズンはようやく終わったので、連日にわたる昼も夜もないような生活は避けられそう。
ただ、新しいことを始める、というときには、その分野全般の知識を網羅的に下調べするので、
Blogで書き記すようなことはほとんど出てこないんだね。


指導に「手」が行き届かずに歯がゆいのだけど、
アドバイスができるかどうかはともかく眼は通しているので、
学生のみなさんは手を抜かずに自らの道を突き詰めてくださるようお願いしておきます。

◆◆◆

毎度怒られ役をしてくれているノブくんに、
ここで言えることだけに限って述べておきます。

1月に入ってからの評論の修練について、全般的に言える欠陥は、
「読者を想定できていない」ことと、
「一般性の捉え方が大雑把すぎる」ことです。

この2つが欠けているというのは、文章を発表することの根幹に関わる重要事なので、
なんとしても深く反省してもらわねばなりません。

◆◆◆

論者の評論の形式は、このような形態を持っているのでした。

1. あらすじ
2. 物語の根幹を一言で表した<一般性>の指摘(多くは、問いかけの形)
3. 1と2を受けて、自らが提示した問題を解く。

◆◆◆

まず、一つ目の欠陥を修正するためには、
作品を知らない読者が、自分の書いた評論を読んだ時に、どんな感想を持つか、
という視点で読み返してください。

論者は、この観点がまったく欠けており、読者を困惑させる文章しか書けていません。
まず、1と2を読んだ時点で、「これは面白いな、この先はどうなるのだろう?」
と思ってもらえなければ、絶対に失敗です。

◆◆◆

二つ目の欠陥については、一般性の捉え方が、
もとの作品を丁寧に読んだ結果に提示されたものではなくて、
それを大きく捕まえただけの、一般的なものにとどまっているということです。

矛盾や相互浸透的な量質転化などというものは、
人間の心情を描いた作品であれば、当然に出てくるものなのであって、
そんなことを偉そうに指摘しても、読者にとっては何らの利益ももたらしません。

ある二人の登場人物が対立の果てに和合したり、
逆に友人どうしがあることをきっかけに袂を分かつというのは、
典型的な物語のパターンです。
そういった作品の「ドラマ」というものを、難しい言葉で置き換えたからといって、
新しいことを言えていると思ってはいけません。

◆◆◆

欠陥が大きすぎるだけに、個別のアドバイスをすることで、
かえって視点が低くなりすぎるのではないかと思いましたので、ここで指摘しておきました。

わたしの心情は表立って出さないように努めましたが、
とても焦っている、
とだけお伝えしておきます。

弁証法というものの見方を、
「当たり前の現象を、もったいぶって難しく論じた」という
一番悪い形で発揮しているので、
反面教師としては、他の読者の参考になるかもしれませんが…


以前に口頭で指摘したような、
結論ありきで論を展開するという「自分のストーリーの押し付け」は無くなりましたが、
この欠陥については、以前から常々言ってきたことです。


その日その日をいい加減な気持ちで送っているから、
誰かに毎日指摘されないと、背筋が曲がっていってしまうのではないですか。


日々の修練というものは、人の目の届くところにいるときだけ、
やっているように「見せる」ことを目的としているのではありません。

本日より、自らしっかりと戒めてください。

2011/01/07

どうでもいい雑記

眼が腫れちゃった。


正確には上まぶたが腫れて、ちょっと視界が狭いです。

毎日同じことをきっちりしていると、やっぱりどこかに出てくるもので、
素振りで手の皮がめくれたり、ランニングで足の筋を痛めたりするならまだしも、
石造りで冬場は0度を切る書庫で調べ物をしたり、
寝る時間以外をぜんぶ読書に充てたりするのを続けていると、
肺炎になったり目が腫れたりしてしまうことになる。

ついでに、動かなければ欝にもなりやすい。


わたしには気晴らしがたくさんあるから、
そこについての心配はそれほどないのだけど、
目が腫れるのだけは、どうも慢性化しているような気がする。

ってわけで、今日は仕事もそこそこに、革の細工。
Macのモニタもまともに見れない状態だから、
いつもみたいに長くならないはずです。

◆◆◆

まずひとつめ。紙でできた鞄の補修。

SIWAというブランドの鞄を買い物につかっているのだけど、
丈夫だとは言ってもなんせ紙製なので、やぶれると元に戻らない。

SIWAトートバッグ。わたしのは白。

辞書なんかの資料を運んでいたりしたのも災いして、取っ手がちぎれかかっている。
なんどか補修はしてみたけれど限界のようで、
買いなおしてもいいけど、なんとかならないだろうか…

そう思って、革の工作をはじめたことだし、思い切って取っ手をとっぱらってしまった。


で、革で取っ手を新調する。メカゴジラ式である。

取っ手だけを付けるとまた破れるので、縁を補強。

嗚呼、実家のこたつが完全に作業場に…
取っ手に3mmの革を使ったもので、ちょっと手に食い込むのが気がかりだけど、
とりあえず作業そのものは完了。

わりとそれっぽくなったかな?
まるめにくいし重心は悪いけど、軽さは十分に保たれている。
しばらく使ってみよう。


しかしこうやって破れてくるたびに補強してたら、
フランケンシュタインの怪物のようになってしまうかもしれない。
こうなると、初めから革で全部作ってもいいのかもとも思うが、
「使えるものは最後まできっちり使う」という気持ちでいると、落ち着くもの。


余談だけれど、こんな問題があったね。
ある船を半分修理して、その次に残りの半分も修理して、
結果的に全部部品が入れ替わってしまったとしたら、
その船はその船だと言えるだろうか?

こういうのが難問に思えた時期もあったっけ。
考えても明確に解けなければ、こんど聞いてください。

◆◆◆

さて次は、以前に作ったMacBook Airのケースの補修。

いま改めて見ると手直ししたいところだらけなので、若干手を入れることに。

そもそも革というのは、一旦切り離したら綺麗にはくっつけられないので、
それを細工するときにはビビってしまい、けっこう大きめにつくってしまうのだ。
このケースも例にもれず、10mmほど大きくなっており、スポスポ抜ける。

作った当時は、ついにできた、という達成感もあり気にならなかった。
たしかに質感は十分に良いが、それはあくまで革のおかげであって、
わたしの技術としては、やっぱりダメである。


で、とりあえず思い切ってバッサリ。周囲を10mm前後切る。

そうすると、全部縫い直す必要が出てくるので、
実のところ、完全に作り直したのと手間はあまり変わらない。

というわけで、できたのはこんな感じ。

切り離した残骸と。角の丸めかたも変えた。

けっこうぴったり。逆さまにしても落ちない。
◆◆◆

革細工で面白いのは、作った実物には、その当時の技術が顕れるのだけど、
もとにした「型紙」の方は、実物を作るたびにフィードバックを受けて、
より完成度の高いものへと磨かれてゆくことである。

論理的な推定と、現実への実践との矛盾を扱う学問の中で、
認識が、その現実的な適応(=表現)へ至る過程を見てゆくのが、
「技術論」という分野である。

こういった工作というのは、そういったことを一般的な形で意識するときには、
けっこうもってこいの題材なのだ。

頭の中で考え事をしているだけだと、認識のなかの像がとても薄くなってしまうから、
まるで思ったとおりになんでもやれるような幻想を抱きがちだからね。


ともあれ、論理を取り出して見る、という姿勢があると、
現実に目の当たりにしたり行動するあらゆるものは、
どんなことに取り組んでいる場合にも、相当に面白いものになるわけです。

2011/01/06

論理の光に照らしてみると、世の中はどう見えるか

年末にいくつか質問をいただいていたので、ここで解答。


「武道で習得したはずの技が、実践でかからないのはなぜか」。
そういう問題を解くときには、問題意識さえあれば、
普段の生活の中から解法のきっかけは得られるはずです、
と、ある人にお伝えしておいたのだった。

そのヒントとして、
たとえば、故障中のエスカレーターのことを考えてみてください、
と言っておいた。

そうしたら、「あなたの言うとおり考えてみて、
とても大事なことが潜んでいるような気がするが、
明確には意識できなくてもどかしい。もう一言を」、とのご連絡だった。

ほかにも年末に、数人の方に同様の話を少ししたので、やや突っ込んでみてゆこう。
ただし、詳論はできないので、一般的なところまでである。

◆◆◆

一般の読者のみなさんも、
故障中のエスカレーターを歩いてみたことがおありなのではないだろうか。

エスカレーターとは、言ってみれば「動く階段」である。
(上下の階に移動するときに、垂直に動く箱型の機械のほうは、「エレベーター」ですよ。)

それが故障するのだから、いわば「止まった「動く階段」」、
という状態になっていることはおわかりであろう。

普段動いているはずのものが止まっているのだから、
これは通常の意味での「階段」と同じ、ということになりそうである。
これが、観念的に想定してみた予測ではなかろうか。

◆◆◆

しかし、いざ「実際に歩いてみると」、どんなことが言えるだろうか。

一歩一歩と歩みをすすめるたびに、なんだかふわふわとした違和感を覚え、
躓きそうになったはずだ。

そうすると、「観念的な想定」と、「実際の体験」のあいだに、
<矛盾>があることになる。


わたしが着目して欲しかったのは、そのようなことであった。
もったいぶった言い方をして、ヒントだけを提示させていただいたのも、
それを自分で解くという過程、その思考の過程の中にこそ、
ほんとうの進歩というものがあるからだ。


ここまでご説明すると、「そうそう、そこまではなんとなくわかった!それで?」
と、続きを催促された。

◆◆◆

いちおう断っておくと、こういう反応は、とてもめずらしい。

身体の運用と共に精神の陶冶を目指すという、
本来の意味を失っていない武道にとってはまだしも、
スポーツ化された現代の武道においては、その専門家といえば、
「武道に科学など…」とハナから理論的な意味付けを一笑に付したり、
いいところ「宇宙との合一」を最終目標に掲げたりという姿勢がほとんどである。

そこで顕れるのは、極端な経験至上主義か、実践で使いようもない極意論だ。

それらは実のところ、同じ拒否反応・思考停止の両面でしかないのであるが、
恥ずかしいことに、最高の論理を養うべき学問の世界においても、
同じような精神性は蔓延りつつある。
やや冷静な人たちは、結局はその両方が必要で、最終的には中道、バランスが必要なのだと説明したりもするが、それが答えになっていないことは、当人がいちばんご存知のはずである。

◆◆◆

それがなぜかと察するに、おそらく、「解き方」がわからないのだ。
ついでにいえば、実践の中で得た問題の、解き方がわからないから、
結局はその「問いかけ」そのものが間違っていたのだ、というところで思考停止してしまう。

では、この問題を、どう解いていけばいいのだろうか。

冒頭で、武道の技の掛かり方は、故障中のエスカレーターの歩行経験が手がかりになる、
と言ったことは、ここに理由があるわけだ。

わたしに連絡をくださった方は、ここになんらかの意味が含まれていることは
おわかりになったが、どういう意味なのかがうまく説明できない、と率直におっしゃった。


それを解く鍵は、いつも言っていることと同じで、「論理性」ということである。

◆◆◆

上で挙げた二つの現象に共通するのは、
大きな意味では「観念的な想定」と、「実体験」における<矛盾>である。

道場では相手に掛かっていたはずの技が、実践では使えない。
そうすると、どこに問題があるのだろうか。
そういう疑問を、論理の光を照らして考えてみよう。

論理というのは、言うまでもないことながら、
わたしたちの目の前に見えている現象を、「一般化」することだ。
そこでは個別性・特殊性が捨象されているから、
当人の認識の中で、「思っていたとおりに、現実ではならない」
というレベルにまで上がった問題意識として持たれることになる。

そうすると、その問題意識を持ちながら日々の経験を見てゆけることになってゆく。

そんな問題意識の中で日常を過ごしていると、
故障中のエスカレーターを歩いた経験が、「おやっ?」
という違和感、感性的な認識となり、それが考えてゆくうちに、
ふだん動いていたものが止まっていると、調子が狂う、
そうすると、これは物質的な面から解こうとしてもダメで、
精神的なことも含めて考えていかなければならないのか。
これは、武道とも一脈通じているかもしれない…!
という気づきへ、理性的な認識へと繋がってゆくわけである。

◆◆◆

これを結論から振り返って見れば、
「あのとき私は、「観念的な想定」と、「実体験」における<矛盾>を、
無意識のうちに掴んでいたのだ。」
ということがわかる。


ここを手がかりに、その過程に潜む構造をつっこんでみてゆくと、最終的には、
技というものは、道場の畳や板の間で必死に磨いていても、
直接使える実態技としては完成してゆかない、という論理が導かれる。

そうすると、実態技の修練には、身体面での修練のみならず、
そこに「認識」という観点が絶対に欠かせないことが見えてくるから、
当然にそれを踏まえた修練が必要であることが明確に意識できる。


それは最終段階であるからさておくとして、ここでは、
現象を「一般化」して、「論理」のレベルから見る、
ということの重要性をお伝えしておきたい。

これが、どんな専門を生業にする人においてでも、
一流の仕事を目指すならば、どうしても「論理性」というものが欠かせない、
と、恥をしのんでくどくどご説明するゆえんなのだ。

武道でもスポーツでも、一般には身体運用がすべてだと誤解されている事柄でも
事情はかわらないどころか、むしろそこでは高度な論理が必要である。

◆◆◆

この方は、思慮深く、考え方のとても柔軟な方であったようで、
「そうか…ということは、大事なのは、答えではなくて正しい「問いかけ」か。
そうすると、武道にも、最終的には知識というか…智慧のようなものが、
必要になってくる、という理解でいいのかな?」
とお答えくださった。

この飲み込みの速さからすると、相当な問題意識を持って生きておられる方なのだな、
と心底感心しきったものだ。
わたしは、同じような物の見方と論じ方で、思いもかけず周りの人たちから、
「頭の硬い奴」という位置づけにされてきたから、これは非常な驚きであった。

もしかすると、そういう、「誤解を恐れずにあえて申した」、
という<あえて>の感情も、この方は読み取ってくださったのかもしれない。
類まれな大器であると思う。


わたしの専攻は学史からの論理性の抽出なので、
専門外の知識を、それが自ら深く試されていないのなら、
もし知っていたとしても、自分の口から言わないことにしている。

そういう理由を説明して、前に深く学んだ武道書を1冊ご紹介したが、
この方ならば、そこからさらにご自身で深めていってくれるはずである。

◆◆◆


どこの学問が、「身体と精神」の関わり合いを明確に説明できるだろうか?
そしてこの先、それらを解明することのできる学問があるだろうか?
机の上で考え事をしているだけでは決してわからない問題は、
一般の通念では、理論など無関係だと信じこまれている場所からこそ、
解かれていかねばならないのである。

一例を上げれば、単純に見える「ランニング」という修練ですら、
きわめて大きい問題が潜んでいる。



開始当初には、「横っ腹も痛くなるし寒いし雨に濡れるから嫌だな」と思っていたそれを、
長い期間毎日続けることによって、
「ランニングしないと、かえって身体がおかしくなる。気持ちも整理できないし…」
という感想になっていったとしたら、そこにはどんな論理が潜んでいるだろうか?

これが重大な論理だと認識できないのは、ひとえに論理性が足りていないからである。

実は、この時点ですでに、「自分の好きなことは変えることができない」、
という形而上学、とくに形而上学的観念論では絶対に解くことのできない大命題を解く、
第一歩目の手がかりが得られているのである。


というわけで、
バカでいてもなんとかなる仕事をしている人が、そういう立場だからこそ、
<かえって>文化を大きく前に進める機会に恵まれていることを、知っておいてください。

…さて、ここで働いている論理は、どういうものでしたっけ?

2011/01/04

Mac初心者指南

というわけで、ひさびさにMacの話題です。


後輩のひとりにわたしの愛機を譲ったのだけど、
時間がさっぱり無しですっぴんのまま渡したので、
いまさらながら使いこなせているだろうかちょっと不安になってしまった。

とはいえ、詳しい説明をしていると、
どんどん話題が多くなっている
=進みの遅いシリーズのエントリーがある、
当ブログの進行がさらに遅れてしまうおそれがある。

で、画像を作ってベタッと貼っておいたので、適当に探してインストールしてくださいな。
どれもとりあえず導入しておいても損はないアプリばかり。
どれもインストールすれば、どう使えばいいのかがわかるはず。

それでもわからないことがあれば、また聞いてください。


Clutterは配布元が消滅しているので、根気良く探さないと見つからないと思う。

iTunesで再生しているアルバムのジャケットを、
デスクトップに散らかして(Clutter)置いておけるアプリ。

これほどMacらしいアプリもなかろうに、惜しい。

◆◆◆

余談だけれど、ウチに、新調したMacを持ってくる学生がとても多い。
きょう日企業は電話サポートにすら代金をとるので、
我が家はさながら、Apple非公式サポセンである。もちろん給料は出ない。

持ってきたら来たで、使い勝手の良いアプリを、
フリーウェアの範囲内でインストールして渡すのだけど、
設定を全部こっちがやってしまうもので、
学生自身のスキルがさっぱりついていないような気がする。

というわけで、手取り足取り説明しないのは、
わかんないところに自分でぶち当たってみたほうが、
新しいことにたいする免疫ができやすいのではないか、
と思ったからでもある。


そもそも好奇心というものは、、、
と書きかけて、これ長くなるなあと筆を止めた。

◆◆◆

ざっくり結論からいえば、コンピューターを使いこなせる人と、
そうでない人との差は、「コンピューターリテラシーにある」、
と言われて久しいが、そうではないということだ。

それらしい専門用語におきかえてみても、
"literacy"は「読み書きの能力」といった意味しかないのだから、
「リテラシーがないから使いこなせない」という言明は、
要すると、「能力がない(no ability)からできない(not be able to)」、
という意味しかない。

そんなの、当たり前じゃん。

だいたい、社会についての学問に必要なのは、
現実を「私はこう思う」と声高に主張することではなくて、
いまある現実は、「どういうものか」と掘り下げて過程にある構造を探ることである。

◆◆◆

それでは、ああいう差を生んでいるのはどういうことなのかと言えば、
「自分の知らない新しいもの」にぶつかったときに、
「わあ、こんな知らないことがあったんだ、楽しそう!」と受け止めるか、
「知らないことかあ、やだな…」と尻込みしてしまうか、
という「姿勢の違い」、もっと言えば、「認識のあり方の違い」なのだ。


わたしが学生を見ていて思うのは、この、いわゆる「好奇心」があるか否かが、
人生を分けていると言っても過言ではないほどの開きを生んでいるということだ。

だって、好奇心のある人って、ひとりで勝手に調べを進めて、
次に会ったときにはすごくまっとうな質問をしてくるもの。

彼女や彼をつき動かしているのは、
「ここまではわかったけれど、ここから先がわかんないんだよね。
どうやっているんだろう?」
という衝動である。

問題意識があるから、質問が的確になるし、習得がとんでもなく早いのだ。

◆◆◆

実生活でいえば、好奇心がない場合には、企業から声がかかるまで待っている。
好奇心がある場合には、自分で好きな企業を見つけて調べて、本社前で出待ちする。
後者の学生さんについては、誰かに命じられたわけでもなく、
楽しいから、ただ知りたいからやっているのである。
なにか反応があればラッキー、といった具合だ。

しかしそれでも、世の中は人の世なのであって、
彼は、面接をせずに入社して、雑誌にも載った人だ。

なんでも、「ここに入れなければ仕事なんてしたくない」と思っていたそうな。
これはかなり極端だけれど、こういう人も実在するのである。


そういう、好奇心があるという人は、ほんとうの、ほんとうに少ない。
これがない人の習得過程は、まさに教えたことを繰り返しているだけ、
といった様相を呈してくる。

どちらが前にすすめるか、豊かな生き方をできるかはわかってもらえるかと思う。

じゃあ問題は、これがどうすれば身につくか。

◆◆◆

…ああ…また話題が増えちゃった。
「好奇心とはどういうものか」。
この記事、やっぱり要るかなあ。要望があれば…


当たり障りの無いことを言うつもりが、こりゃヤブヘビだったか。

正月もおしまい

前回はすみません。


入浴の後で更新しようと思っていたら、深夜に来客があったもので。
昨日はぶっ続けで議論したりしていたので、今日はトレーニング2日ぶん。
ランニングが終わった瞬間に目の前が真っ白になってしまった。ひさびさだ。
さすがに腕が上がらん&頭がまわらんわ。

年末にいろいろもらった質問へは、引き伸ばしてすみませんが後日。
明日は図書館が開かない(待ち遠しい…)ので、おそらく時間がとれるかと。


そんなわけで三が日はまるでゆっくりできなかったけれど、
年末からけっこうたくさんの人と会っていたので、
一般の人たちの意識がどういうところにあるのかがよくわかった。

自分に馴染んだ方法論というのは、改めて振り返ってみなければ、
「ああそういえば、習いたての頃はこういう法則を意識しようと頑張っていたっけ」
と確認することができない。

教育を度外視する場合には、骨肉化した技のままで放っておけばいいのだが、
それを少しでも考慮に入れた場合には、とたんに学習過程への反省を強いられる。
自分がつくり、登った山を一旦麓まで下って、後進たちが登れるように促す。
そうして、山の作り方を伝えると共に、登り方、促し方を教わる。

だから、教える方を練ることは、過程的構造の解明と直接的に同一だ。

そういうことを確認させてくれる後進たち、
周りの一般の人たちには、いつも感謝して止みません。
いちばん勉強しているのは、まぎれもなくわたしです。

今年もどうぞ、よしなに。

◆◆◆

さて、今年度からは生活スタイルがけっこう変わるので、
これまでの思想性を惰性ですり減らさずに把持できるかどうか。
自分と勝負。

目標は継続して、前年から、知力・体力共に1.1倍。
いまを1として、10年続けられていたら2.5。
20年で6.7、30年で17である。

1.1倍というのは結果としての目安だから、
努力の過程としては齢を重ねるほどにより上のものとなっていかねばならない。

「どうやって数値化するのか」と問われる方は、
全力を出し切っていないから、いまの実力がわからないのだ。
電車の中で足を踏ん張るトレーニングだけでも「真面目に、真剣に」試してみられれば、
初めは1分も持たないことがよくわかるはず。
そうすると、それが2分できるようになったことが、大きな前進だとわかるでしょう。


わたしの目標管理は昔からバリバリの原則論で、やりかたは単純。

目標の期限を1ヶ月に設定した場合。
単語1600個を覚えるとなると、一日54個は覚えなければならない。
平泳ぎ25mを6かきで終えるには、2週間で1かき減らさねばならない。
ホルストの木星ソロをひと通り覚えるには、2週間で2章節ずつやらないと終わらない。
全部そんな感じ。

かなり無茶なように見えるが、よっぽど無謀な計画でない限り、これでなんとかなる。
ピアノなんかは、期限も5分前というときに突然弾けるようになったのだから、
人間にとって目標というものがいかに大事かがわかる。
言い換えると、問題意識を持って生きる、目的的に生きることが如何に大事かわかろうというもの。


だから、同じ志を持って切磋琢磨できるライバルがいる方は、ほんとうに幸せだと思う。
それが叶わぬ時には、自分の中に神様(=世の中で一番厳しい見張り番)をつくるか、
後進を自分の実力以上の人間に育てるしかない。どっちも大変です。

◆◆◆

ついでに、昨日考え事をしながらちょちょっと作った筆箱をついでに載っけておきます。

年末に頼まれて作ったものは3mmの革だったけど、今回の要望は2mmで。


ベースにしたのは、愛用している無印良品のヌメ革ペンケース。

あいにく部品のジッパーの持ち合わせがないので、ボタン式に。
そうすると、側面のくぼみに指を突っ込んでボタンを止める形になる。
ボタンは端っこにつけるしかないから、ナマズのような顔になる。


しかし参考にできるベースモデルがあるものは、
しょっぱなからけっこういい仕上がりになるね。

これも毎度のことで、作ったあとコバ磨きをしてオイルを塗ったら、
すっかり手放したくな(略)。


まだまだ修行が足りませんね。

2011/01/01

あけましておめでとうございます

ランニングしてきました。


元旦から寒い日の雨だったので、
今日はどうだろうか、と思っていたけど、
いつものメンバーはそんな心配をよそに、修練に励んでおられた。

いつものメンバーと言っても、
「いつも同じ池の周りをランニングしている」
ということ以外には何も知らず、あいさつすらしたこともない方たちなのだが、
それでもやっぱり、さすがだと思う。

自ら定めた道を歩む者にとって、例外などない。
そのことを確認させられる。


良い年明けになりました。
本年も、どうぞよしなに。

年末にいくつか質問をもらったので、お風呂のあとで追記します。
(ずいぶん長い入浴になってしまった。。エントリ分けましょうか)