「武道で習得したはずの技が、実践でかからないのはなぜか」。
そういう問題を解くときには、問題意識さえあれば、
普段の生活の中から解法のきっかけは得られるはずです、
と、ある人にお伝えしておいたのだった。
そのヒントとして、
たとえば、故障中のエスカレーターのことを考えてみてください、
と言っておいた。
そうしたら、「あなたの言うとおり考えてみて、
とても大事なことが潜んでいるような気がするが、
明確には意識できなくてもどかしい。もう一言を」、とのご連絡だった。
ほかにも年末に、数人の方に同様の話を少ししたので、やや突っ込んでみてゆこう。
ただし、詳論はできないので、一般的なところまでである。
◆◆◆
一般の読者のみなさんも、
故障中のエスカレーターを歩いてみたことがおありなのではないだろうか。
エスカレーターとは、言ってみれば「動く階段」である。
(上下の階に移動するときに、垂直に動く箱型の機械のほうは、「エレベーター」ですよ。)
それが故障するのだから、いわば「止まった「動く階段」」、
という状態になっていることはおわかりであろう。
普段動いているはずのものが止まっているのだから、
これは通常の意味での「階段」と同じ、ということになりそうである。
これが、観念的に想定してみた予測ではなかろうか。
◆◆◆
しかし、いざ「実際に歩いてみると」、どんなことが言えるだろうか。
一歩一歩と歩みをすすめるたびに、なんだかふわふわとした違和感を覚え、
躓きそうになったはずだ。
そうすると、「観念的な想定」と、「実際の体験」のあいだに、
<矛盾>があることになる。
わたしが着目して欲しかったのは、そのようなことであった。
もったいぶった言い方をして、ヒントだけを提示させていただいたのも、
それを自分で解くという過程、その思考の過程の中にこそ、
ほんとうの進歩というものがあるからだ。
ここまでご説明すると、「そうそう、そこまではなんとなくわかった!それで?」
と、続きを催促された。
◆◆◆
いちおう断っておくと、こういう反応は、とてもめずらしい。
身体の運用と共に精神の陶冶を目指すという、
本来の意味を失っていない武道にとってはまだしも、
スポーツ化された現代の武道においては、その専門家といえば、
「武道に科学など…」とハナから理論的な意味付けを一笑に付したり、
いいところ「宇宙との合一」を最終目標に掲げたりという姿勢がほとんどである。
そこで顕れるのは、極端な経験至上主義か、実践で使いようもない極意論だ。
それらは実のところ、同じ拒否反応・思考停止の両面でしかないのであるが、
恥ずかしいことに、最高の論理を養うべき学問の世界においても、
同じような精神性は蔓延りつつある。
やや冷静な人たちは、結局はその両方が必要で、最終的には中道、バランスが必要なのだと説明したりもするが、それが答えになっていないことは、当人がいちばんご存知のはずである。
◆◆◆
それがなぜかと察するに、おそらく、「解き方」がわからないのだ。
ついでにいえば、実践の中で得た問題の、解き方がわからないから、
結局はその「問いかけ」そのものが間違っていたのだ、というところで思考停止してしまう。
では、この問題を、どう解いていけばいいのだろうか。
冒頭で、武道の技の掛かり方は、故障中のエスカレーターの歩行経験が手がかりになる、
と言ったことは、ここに理由があるわけだ。
わたしに連絡をくださった方は、ここになんらかの意味が含まれていることは
おわかりになったが、どういう意味なのかがうまく説明できない、と率直におっしゃった。
それを解く鍵は、いつも言っていることと同じで、「論理性」ということである。
◆◆◆
上で挙げた二つの現象に共通するのは、
大きな意味では「観念的な想定」と、「実体験」における<矛盾>である。
道場では相手に掛かっていたはずの技が、実践では使えない。
そうすると、どこに問題があるのだろうか。
そういう疑問を、論理の光を照らして考えてみよう。
論理というのは、言うまでもないことながら、
わたしたちの目の前に見えている現象を、「一般化」することだ。
そこでは個別性・特殊性が捨象されているから、
当人の認識の中で、「思っていたとおりに、現実ではならない」
というレベルにまで上がった問題意識として持たれることになる。
そうすると、その問題意識を持ちながら日々の経験を見てゆけることになってゆく。
そんな問題意識の中で日常を過ごしていると、
故障中のエスカレーターを歩いた経験が、「おやっ?」
という違和感、感性的な認識となり、それが考えてゆくうちに、
ふだん動いていたものが止まっていると、調子が狂う、
そうすると、これは物質的な面から解こうとしてもダメで、
精神的なことも含めて考えていかなければならないのか。
これは、武道とも一脈通じているかもしれない…!
という気づきへ、理性的な認識へと繋がってゆくわけである。
◆◆◆
これを結論から振り返って見れば、
「あのとき私は、「観念的な想定」と、「実体験」における<矛盾>を、
無意識のうちに掴んでいたのだ。」
ということがわかる。
ここを手がかりに、その過程に潜む構造をつっこんでみてゆくと、最終的には、
技というものは、道場の畳や板の間で必死に磨いていても、
直接使える実態技としては完成してゆかない、という論理が導かれる。
そうすると、実態技の修練には、身体面での修練のみならず、
そこに「認識」という観点が絶対に欠かせないことが見えてくるから、
当然にそれを踏まえた修練が必要であることが明確に意識できる。
それは最終段階であるからさておくとして、ここでは、
現象を「一般化」して、「論理」のレベルから見る、
ということの重要性をお伝えしておきたい。
これが、どんな専門を生業にする人においてでも、
一流の仕事を目指すならば、どうしても「論理性」というものが欠かせない、
と、恥をしのんでくどくどご説明するゆえんなのだ。
武道でもスポーツでも、一般には身体運用がすべてだと誤解されている事柄でも
事情はかわらないどころか、むしろそこでは高度な論理が必要である。
◆◆◆
この方は、思慮深く、考え方のとても柔軟な方であったようで、
「そうか…ということは、大事なのは、答えではなくて正しい「問いかけ」か。
そうすると、武道にも、最終的には知識というか…智慧のようなものが、
必要になってくる、という理解でいいのかな?」
とお答えくださった。
この飲み込みの速さからすると、相当な問題意識を持って生きておられる方なのだな、
と心底感心しきったものだ。
わたしは、同じような物の見方と論じ方で、思いもかけず周りの人たちから、
「頭の硬い奴」という位置づけにされてきたから、これは非常な驚きであった。
もしかすると、そういう、「誤解を恐れずにあえて申した」、
という<あえて>の感情も、この方は読み取ってくださったのかもしれない。
類まれな大器であると思う。
わたしの専攻は学史からの論理性の抽出なので、
専門外の知識を、それが自ら深く試されていないのなら、
もし知っていたとしても、自分の口から言わないことにしている。
そういう理由を説明して、前に深く学んだ武道書を1冊ご紹介したが、
この方ならば、そこからさらにご自身で深めていってくれるはずである。
◆◆◆
どこの学問が、「身体と精神」の関わり合いを明確に説明できるだろうか?
そしてこの先、それらを解明することのできる学問があるだろうか?
机の上で考え事をしているだけでは決してわからない問題は、
一般の通念では、理論など無関係だと信じこまれている場所からこそ、
解かれていかねばならないのである。
一例を上げれば、単純に見える「ランニング」という修練ですら、
きわめて大きい問題が潜んでいる。
開始当初には、「横っ腹も痛くなるし寒いし雨に濡れるから嫌だな」と思っていたそれを、
長い期間毎日続けることによって、
「ランニングしないと、かえって身体がおかしくなる。気持ちも整理できないし…」
という感想になっていったとしたら、そこにはどんな論理が潜んでいるだろうか?
これが重大な論理だと認識できないのは、ひとえに論理性が足りていないからである。
実は、この時点ですでに、「自分の好きなことは変えることができない」、
という形而上学、とくに形而上学的観念論では絶対に解くことのできない大命題を解く、
第一歩目の手がかりが得られているのである。
というわけで、
バカでいてもなんとかなる仕事をしている人が、そういう立場だからこそ、
<かえって>文化を大きく前に進める機会に恵まれていることを、知っておいてください。
…さて、ここで働いている論理は、どういうものでしたっけ?
高校時代に、歯ぐきから血が出たので、歯医者にいって診てもらったら、「ビタミンC 不足です。」て言われ、それから毎日生野菜のサラダを無理に食べるようにした。現在は自分からすすんで食べている。因みにその後、別の歯医者に歯ぐきのブラッシングの指導を受け、それを実行して、やっと出血がなくなった。
返信削除ここでは、「嫌いで食べない」を否定して、目的意識的ー出血を止める為に食べ続けた ( 相互浸透に量質転化 )。その結果
再び否定がおこり、嫌いでなくなり普通以上に食べるように、な
った。
明石の展望台のときに言ってた、
返信削除計算され尽くしても誤差とかトラブルが起こるのに
〉「観念的な想定」と、「実体験」における〈矛盾〉
もっと誤差が大きそう。。。