正確には上まぶたが腫れて、ちょっと視界が狭いです。
毎日同じことをきっちりしていると、やっぱりどこかに出てくるもので、
素振りで手の皮がめくれたり、ランニングで足の筋を痛めたりするならまだしも、
石造りで冬場は0度を切る書庫で調べ物をしたり、
寝る時間以外をぜんぶ読書に充てたりするのを続けていると、
肺炎になったり目が腫れたりしてしまうことになる。
ついでに、動かなければ欝にもなりやすい。
わたしには気晴らしがたくさんあるから、
そこについての心配はそれほどないのだけど、
目が腫れるのだけは、どうも慢性化しているような気がする。
ってわけで、今日は仕事もそこそこに、革の細工。
Macのモニタもまともに見れない状態だから、
いつもみたいに長くならないはずです。
◆◆◆
まずひとつめ。紙でできた鞄の補修。
SIWAというブランドの鞄を買い物につかっているのだけど、
丈夫だとは言ってもなんせ紙製なので、やぶれると元に戻らない。
SIWAトートバッグ。わたしのは白。 |
辞書なんかの資料を運んでいたりしたのも災いして、取っ手がちぎれかかっている。
なんどか補修はしてみたけれど限界のようで、
買いなおしてもいいけど、なんとかならないだろうか…
そう思って、革の工作をはじめたことだし、思い切って取っ手をとっぱらってしまった。
で、革で取っ手を新調する。メカゴジラ式である。
取っ手だけを付けるとまた破れるので、縁を補強。 |
嗚呼、実家のこたつが完全に作業場に… |
とりあえず作業そのものは完了。
わりとそれっぽくなったかな?
まるめにくいし重心は悪いけど、軽さは十分に保たれている。
しばらく使ってみよう。
しかしこうやって破れてくるたびに補強してたら、
フランケンシュタインの怪物のようになってしまうかもしれない。
こうなると、初めから革で全部作ってもいいのかもとも思うが、
「使えるものは最後まできっちり使う」という気持ちでいると、落ち着くもの。
余談だけれど、こんな問題があったね。
ある船を半分修理して、その次に残りの半分も修理して、
結果的に全部部品が入れ替わってしまったとしたら、
その船はその船だと言えるだろうか?
こういうのが難問に思えた時期もあったっけ。
考えても明確に解けなければ、こんど聞いてください。
◆◆◆
さて次は、以前に作ったMacBook Airのケースの補修。
いま改めて見ると手直ししたいところだらけなので、若干手を入れることに。
そもそも革というのは、一旦切り離したら綺麗にはくっつけられないので、
それを細工するときにはビビってしまい、けっこう大きめにつくってしまうのだ。
このケースも例にもれず、10mmほど大きくなっており、スポスポ抜ける。
作った当時は、ついにできた、という達成感もあり気にならなかった。
たしかに質感は十分に良いが、それはあくまで革のおかげであって、
わたしの技術としては、やっぱりダメである。
で、とりあえず思い切ってバッサリ。周囲を10mm前後切る。
そうすると、全部縫い直す必要が出てくるので、
実のところ、完全に作り直したのと手間はあまり変わらない。
というわけで、できたのはこんな感じ。
切り離した残骸と。角の丸めかたも変えた。 |
けっこうぴったり。逆さまにしても落ちない。 |
革細工で面白いのは、作った実物には、その当時の技術が顕れるのだけど、
もとにした「型紙」の方は、実物を作るたびにフィードバックを受けて、
より完成度の高いものへと磨かれてゆくことである。
論理的な推定と、現実への実践との矛盾を扱う学問の中で、
認識が、その現実的な適応(=表現)へ至る過程を見てゆくのが、
「技術論」という分野である。
こういった工作というのは、そういったことを一般的な形で意識するときには、
けっこうもってこいの題材なのだ。
頭の中で考え事をしているだけだと、認識のなかの像がとても薄くなってしまうから、
まるで思ったとおりになんでもやれるような幻想を抱きがちだからね。
ともあれ、論理を取り出して見る、という姿勢があると、
現実に目の当たりにしたり行動するあらゆるものは、
どんなことに取り組んでいる場合にも、相当に面白いものになるわけです。
船は、、、
返信削除、、その船でない、こともない??
強引に「否定の否定」を乱用してしまいました(x x)