2011/04/26

このBlogはなにを伝えたいのか(1)


※このエントリは、下のエントリに補足が必要であると思いましたので、
その続編という位置づけにもなっています。
Buckets*Garage: 新しい季節をおくる諸君へ:趣味はどう選ぶべきか


いつぞやの評論で、太宰治がこんなことを言っていました。


「発表した作品にたいしてあとで説明を付け加えるのは、恥だと思っている。」

わたしも、その通りだと思っています。
恥だと思うというのは、ある作品を、その作品そのもので完結する形で書ききったのならば、余分な説明をごちゃごちゃ付け加えて、読者にはこう読んでほしい、こう評価してほしい、と後付で弁解するような姿勢は作家として未熟であり、人間としても見苦しい、という意味合いだったと理解しています。

◆◆◆

わたしとしては、ここで書き散らかしている散文というのは、もっと公に公開するために書く文章と比べて、また違った意義のあるものになっていると思っているのです。
それというのは、より公式的な場で発表する文章が、一言一句誤りのない、精確で緻密な文章表現を要求されるのに対して、こういった、面識のある人たちを中心としながらも公に向けて広がりを持たせられるコミュニティの中で発表する文章というのは、実生活に即した事例を例えに引きながら、砕けた表現を使えるからです。
それはとりもなおさず、読者の理解の助けになるという利点がありますから、わたしはそういう意味で大事にしていますし、読者からの反応も楽しみにしています。

もちろん、だからといって誤字脱字があってもよいなどとは考えてはいませんが、これとて、たとえばここにある内容を書籍化するときには、再三再度の読み直しと突き詰めた表現の修正が必要になってきますから、もしそういったクオリティが要求されるのであれば、ここでやっているような、週に数本といったペースではとても発表できなくなってしまいます。

◆◆◆

なぜこんなまえがきが必要になっているかと言うと、最近のエントリの反応を見ていると、
人によって読み方は様々なんだなあ、
と思わせられるところが多くなってきたからです。

もっとぶっちゃけて言うと、論理的に読んでくれている人と、そうでない人の開きが大きくなってきたなあ、ということです。
そうすると、どうしても、「あの時の自分はこういうことが言いたかったのだ」と言わなければなりません。

たとえば、これはあえて指摘されなかった例を使って説明するのですが、わたしは以前に、「趣味はどう選ぶべきか」と題した文章の中で、「趣味は、あまり多くないほうがよい」、と言いました。

これなどは、ここだけを知識的に受け取ってしまうと、とくにわたしと直接面識のある人であれば、こんなふうに思ってしまうかもしれません。

「あれ、あの人って前に、私にこう言わなかったっけ。『あなたの今までやってきたことは、ある時にすべて活かすことのできる瞬間が来ますから、どれもあきらめないで、ずっと大事に持っていてくださいね』と。そうすると、これって矛盾してるんじゃないかしら。」


そもそも、このエントリのきっかけとなった学生さんからのご質問は、
「なにか新しいことをしようと思うのですが、どんな趣味を選べばいいでしょうか?」
というものであったのに、わたしはそれに対して、
「あなたは自転車に乗るべきです」、「そっちのきみには水墨画が向いているでしょう」
などといった、どんな趣味をすべきか、という具体的な答えは出していません。

この答え方を、小学校の「こくご」のような見方で採点すると、赤点になってしまいますね。

◆◆◆

では、わたしはこういった意味で、食い違う内容と形式を含んだ文章を発表しているのでしょうか。
ここについて、今回は恥を忍んで補足して説明しておきたいと思いますが、
これは、まったくの誤解です。

上で述べた理由によって、細かな誤りが含まれていようとも、
時間の許す限り自分なりに見なおしていますし、筋は通った文章しか発表していないつもりです。
ですから、この箇所については、「意図してこう書いたのだ」と理解してくださると助かります。
より進んで、「意図して書いたとしたら、その意図の中身はどういうものだったのだろう」とまで考えてもらえれば、いちばんうれしい読み方をしてもらっていることになります。

そしてこういった読み方をしていただくためには、
どうしても、目の前にある文章を、「論理的に読む」という姿勢を持っていただくことが、
どうしても、どうしても必要なのです。

これはどれだけ強調しても、わかろうとしない姿勢を固めてしまった人たちには
単なるあてつけにしか見えないところなのですが、論理は直接は目には見えないために、
どれだけの地位を持った人間であろうとも、見ようとしなければ見えないことも少なくないのです。

◆◆◆

たとえば、こんな話でわかっていただけるでしょうか。

ある人が、「生命は常に大事だ」という信念を持っているとしましょう。
この人は、ごく近しい人たちにたいしてのみならず、道行く人が困っていれば助け、
傷ついた動物がいれば仕事を休んででも治療に連れてゆくような人です。

この人が、あるとき災害に遭って、妻と娘と、飼い犬とで
限られた食料を分け合わねばならなくなりました。
飼い犬というのは、あるときに飼いきれずに捨てられていたところを、
この人が不憫に思って助けた犬でした。
そのまま無常にも時は過ぎ、食料が今日のぶんもあろうかといった段になったとき、
この人がとった行動は、「妻と娘のためにだけ、食料をとっておく」という選択肢だったのです。

さてそうすると、この人がとった行動からすれば、
彼は「生命は常に大事である」という信念を、曲げたことになるのでしょうか。
原則に文字通り従おうとすれば、自分はともかくとして、
妻も娘も飼い犬も、すべてに等しく食料を分け与えるべきだ、
ということになるかもしれません。

◆◆◆

しかしこういった原則論は、
「私も妻も娘も飼い犬も、すべては生命を持っているという意味では同じ価値なのだ」
という判断によるものですね。
この判断というのは、私・妻・娘を一括りにして「人間」だとし、同じように飼い犬も種別の上では「犬」だとしたうえで、さらに「人間」も「犬」も生命体として生命現象を営んでいる、という一般化を行ったことで、「どれもが生命を持っている」という結論にたどり着いたのです。
これを「家族」という範囲にとどめても、やはりすべての対象は同じ扱いになります。

こう言った判断は、後世には美談として残るものですから、
第三者からみた後日談ふうに言えば賞賛に価する態度に映るかもしれないのですが、
そこには当事者のそのときの意図がほとんど汲み取られてはいないのですから、この場合には
「もし自分が当事者だとすると、飼い犬のために妻と娘を犠牲にできるか」
と考えてみなければなりません。

この選択に、どんな場合にでも当てはまりうる答えを出すことはできませんが、
もし彼が、断腸の思いで飼い犬に食料を回さなかったとしても、
責めることができないことくらいは感じとってもらえるのではないでしょうか。
それは、わたしたちが人間の社会で育てられたことと同時に育まれた規律に照らした判断といえます。

これは常時は意識しにくいことですが、
わたしたちは常々、目の前に起こっている物事を抽象化・一般化するにあたって、
「実践上の必要で」、「生活に照らして」、判断しているのです。

つまり今回の例で言えば、
家族の構成員を、「人間と犬」の段階でとどめておくか、「生命」という段階まで上げて考えるか、
という抽象化にあたっては、その人の「人間観」を基礎として行われているということです。

ここを、「どんな場合であっても」生命は大事なのだ、等しく守られねばならない、
という原則論を現実に押し付けようとするときには、
つまりこのような的はずれな一般化が認められるときには、
浸水を避けて家に上がってきた蟻にも、食事を分け与えなくてはならなくなります。

それは差がありすぎるというのなら、カラスが子連れのカモを襲うのを見て、
カラスをほうきで追い払うご老人のことを想像してみるといいでしょう。
同じ「鳥類」なのに、なぜあれほど扱いの差があるのでしょうか。

わたしたちが当たり前にしている抽象化という作業においても、それがどのような論理のレベルで行われているかを見つめておくことが、正しい判断のためにはやはり必要です。

◆◆◆

こういったたとえは、文字の上では極端に過ぎるように見えるものですが、それでも、「正しく抽象化して論理をつかむ」ということが、ものごとを正しく把握するためには、どうしても必要になってくることに変わりはありません。
「正しく」抽象化する、と断るのは、とにかく抽象化しさえすればなんでもよいというわけではないのだ、抽象のレベルをどこまで引き上げるかが大事なのだ、ということを強調したいからです。

今回の場合であれば、それとは逆に、抽象化された論理的な表現をどうすれば正しく受け止められるか、という向きにも、抽象化がどのようなレベルでなされているのかを見抜く目が必要になってきます。

わたしはそのことをわかっていただきたいがために、
常々、「ものごとを見る目を高く持っていてほしい」という意味を込めて、
どんな立場でどんな生活をしてどんな仕事をするにあたっても、
「論理は大事なのだ。正しい実践のためにこそ必要不可欠なのだ」、と言っているわけです。

ここでいう本当の「論理」というものが、
読者のみなさんが「ああそうか、あの論理ね」というふうに、
ごく一般的に持っておられるイメージとは、あまりにかけ離れているのですよ、
ということをこそわかってほしいための、くどいまでのメッセージなのです。
だからこそ、形而上学に対する弁証法という論理を強調するのです。

しかしここを、「ああその論理ね、もう知ってるよ」といった姿勢で読まれては、
「論理的に考えてほしい」と言ったことを、知識的に受け取っていることにしかならないのです。
その姿勢では、わたしがこのBlogで強調したいことすべてが、まるで読めたことにはならないのです。
どうか、そこのところを、わたしの顔を立てると思ってでも、
いい大人になるためにやってみるかと思ってでも動機はなんでもいいですから、
もう一度ゆっくり噛み締めていただけたらうれしいな、と思うのです。

ここで書いてある文章を理解するにあたっての方針として簡単にいえば、
内容を書かずに考え方という形式だけを述べたり、行間が空いているようなところについては、
「ここには隙間があるようだけれど、これを書いた人間はほんとうはどういうことが言いたいのかな」
と問うてみてほしい、ということです。

(2につづく)

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