春になり、新しい読者が見に来てくれているようです。
いきなり最新のエントリから入ると、
「さっぱりわけわからん!なんじゃこの文字ばっかのブログは!?」
となってしまうと思いますので、
過去のエントリも拾い読みしながら理解してもらえたらうれしいな、と思います。
ただ最近の内容は、学問としては入り口であるとしても、
それでも初学者には難しいものであることに変わりはありませんから、
適宜質問をしていただければ、出来る範囲でお答えいたします。
いまはこんなものものしい文体のおっそろしい閻魔帳になってしまったものの、
書き始めたころには、「本日のデス映画」なんていうコーナーもあったのです。
わたしの好きなB級映画に大人気なくツッコミを入れるというものでしたが、
映画よりも学問的なものごとの見方を深める方が楽しくなってしまってご無沙汰、というわけです。
たまには砕けた話もしたいなあとは思うのですが、なにぶん余分な力はありませんし、
いい加減なことを言って未来ある後進にインチキを吹き込む大人をどうしても許せないタチであることも災いして、
どうしても力のこもった言い方になってしまうことも多いかと思います。
そんなときは、ああまたはじまったよ、とそれなりの距離感をとってにこにこ眺めていただけると嬉しく思います。
◆◆◆
さて今回は、前途ある後進からこんなご質問をいただきました。
「なにか新しいことをしようと思うのですが、どんな趣味を選べばいいでしょうか?」
といっても、以前からの知り合いなので、わたしがどういう生活を送っているかはわりとご存知の学生さんです。
彼に言わせると、わたしという人間は、
なんにでも興味があって死ぬまでにすべての娯楽を触り尽くしてから死にたい、
という印象だそうです。
でもこれについてひとこと言っておきたいのですが、
表面上、いろいろなことに手を出しているようにみえても、
それが一つのことをやっているだけ、ということもあるのです。
たとえば、わたしの家の本棚には、社会科学、自然科学と精神科学というあらゆる分野についての本があります。
旅行ガイドも画集もありますし、図鑑も子供の頃から読み返してぼろぼろのものを置いています。漫画も、大事なものは譲らずにとってあります。一定の文化レベルに達したと思える映画やTVゲームもあります。
もちろん、表面上の専門はいちおうありますから、すべてがまんべんなく揃っているわけではありませんが、
一見するとなんにでも手を出しているように見えるでしょう。
少し見る目の肥えた人なら、「こいつはいろいろとつまみ食いしているだけだから、モノにはならない人間だな」
と思うことだと思います。
◆◆◆
ただこのことについてはひとつ大きな理由があり、わたしの基本的な方針というのが、
「ある分野の歴史から流れを捉え返して、そこからその分野の論理を取り出す」
ということだからです。
そうすると、表面上はあらゆる分野についてバラバラの書籍がありながら、
本質的にやっていることは、いわば「学史に潜む論理」という観点で、筋が通っていることになります。
わたしはこの筋、つまり自らの道の一般性に照らして本を選びますから、
自分自身としては、決して乱読していたり、つまみ食いしているわけではありません。
ですから、ある道を突き進んでいる方から見れば、我が家の本棚は、
「ああなるほど」と思っていただけるのではないかと思います。
◆◆◆
わたしも大学時代は、とにかくたくさんの国に旅行に行ったり展覧会に行ったり、
たくさんの映画を見たり、たくさんの分野の人の講演会に行ったりした時期がありました。
あの時期は毎日あらゆるジャンルの本を1冊は読みましたし、3ヶ月に一つは資格を取りました。
でもそんなことも、それほど長くは続かなかったと思います。
その中からいくつかを、やはり力点を定めて取り組むことになってゆき、
いまでは形として残っているのは、3ヶ月にひとつ大きなテーマを見つけて取り組む、という決まりごとくらいです。
映画や音楽、旅行やデザインなんかの個別的な知識については、
誰かに話題をふられればそれなりに受け答えできますが、
新しい事情についてはさっぱりなので、「話を聞けるくらいの知識」しかありませんし、
特別な事情がない限り、自分から情報収集もしません。
そうして絞りこめていったのは、やはり、「自分の目指すもの」が、おぼろげながら見えてきたからです。
それとともに、「一流とはどういうものか」というアタマの中の像が、ある明確な形として見えてきたからです。
それは、いま取り組んでいることとも、明確に一致していることです。
◆◆◆
ですから、とにかく多趣味の人間としてわたしを見ておられる学生さんには、
ちょっとガッカリさせるかもしれませんが、こう言いたいと思います。
「趣味は、あまり多くないほうがよい」。
あらゆるジャンルについて知るということは、人間の深みを知るにあたっては大事なことですが、
それはなにも自分で取り組まなくとも、その道を真剣に歩んでいる人物との出会いがあれば、
「その人のことばの深みをしっかり受け止められる」くらいの知識や想像力はつくものです。
ある道をしっかりと深めていっておられる方と話せばすぐにわかるとおり、
深いところでは、あらゆる道がひとつのところに通じています。
ですから、あらゆることを知ろうとせずとも、一流の人、これはなにも有名でなくても、
自分のこれは、と思う人を見つけて、その人が「なにを見ているのか」と問うていればいいわけです。
そこまでたどり着くためには、積極的な意味のない、
いわば趣味レベルの趣味は、むしろ無いほうがよい、とさえ言ってしまおうと思います。
「消極的な意味しかない趣味」というのは、だらだらテレビを見たり音楽を聴いたりする、ということです。
そもそも人間が動物と本質的に異なるとされるのは、ある物事に向かって目的意識をもって向きあい、
対象を変えることによって自らの生活と自分自身を変えてゆくことができるからです。
そうすると、ただ口をぽかんと開けて上から降ってくる先人のおこぼれにあずかるというのは、
まさに動物レベルですから、こういった姿勢は人間的な嗜みではありません。
ただ、表向きはただテレビを見ている場合にも、それが強い問題意識を含んでいる場合には、
しっかりとした趣味になり得ます。
テレビ局のプロデューサーならば、より良い番組作りを目指すために番組のザッピングは欠かさないでしょう。
それは、立派に人間的な営みと言えます。
もし職業上のつながりがない場合には、自分が見聞きしたことの記録を残すことを強くおすすめします。
音楽を聴いたことについて、美術館に行って見聞きしたものについて、評論を書いたり、実際に模写をしてみるのです。
そうすると、自分の進歩が眼に見えてきますから、次に取り組もうという意欲や、
当たり前に見えるけどここにはすごい工夫があるのだなといった問題意識もより明確なものとなってきます。
そしてまた、こうして、知識や知恵を自分のものだけにしておかず、社会性を確保するということは、まさに最高と言ってもいいほどに人間的な労働です。
◆◆◆
また「積極的な意味」をまともに受け取ろうとしても、いろいろな意味あいをふくんでいますが、
ひとつの目安としては、「外面上をとりつくろうための趣味」は止すべき、ということは言えます。
たとえば異性の気を引きたいとか、友だちに自慢したいとか、親に褒められたいとか、そういう動機で選ぶ趣味のことです。
以前に流行ったことば、「マイブーム」といったようなことですね。あれは止すべきです。
流行が、生涯を貫く道のきっかけになる場合もありますが、
物心ついたあとには、すでにどうしても合わない趣味が増えてきていますから、
ピンと来ないものに手を出しても、ものになることはほとんどありません。
もしそういうことでも新しいことをやるぞ、というときには、
それをやらなければ身体がムズムズするくらいの習慣になるまで、決して止めてはいけません。
わたしは身体をガタガタに壊したときにランニングとピアノをはじめましたが、
いまだに3ヶ月毎にテーマを決めて取り組んでいます。
そのときに一つの筋をとおしているのは、一言で言えば「技術」という観点から見ているということです。
たとえば音楽でいえば楽譜は理論ですが、
その理論を現実に適用して、実際にピアノが弾けるようになるまでには、
それこそ気の遠くなるほどの研鑽過程が必要ですね。
最高の楽譜を手に入れたから一流のピアニストになったのだ、などというと病院に連れていかれるでしょう。
そうするとそこには、理論と実践の大きな隔たりが矛盾として存在しているわけですから、
その一般性に照らして言えば、絵画、ランニングなど、あらゆるものが一般的には同じ論理として取り出せるはずです。
ですから一言で言えば、ピアノやランニングを媒介として、技術論を確かめている、ということです。
こういう見方ができるようになると、その技術論を念頭において新しいジャンルに進んでゆくことができますから、
これほど面白いことはない、というほど新しいことに取り組むのが楽しみになってきます。
◆◆◆
ここまで述べてきたことを一言で言うならば、
自分にとって積極的な意味のある分野を探して、
そのことについて調べたり、考えたりすることが習慣になるくらいにしよう。
ということでしょうか。
そのことが、人間として意味のある趣味ということです。
そしてこれはもはや、単なる趣味の域を超えて、我が道そのものになりうる営みです。
みなさんには、人間としての大道を、背筋をまっすぐに伸ばして歩いていってもらえるよう、心の底から願っておきます。
残念ながら、まっすぐに生きようとする人間の足を引っ張る趣味の大人もいますし、僻みや嫉みなどを浴びることも少なくありませんが、まっすぐな生き方をしている人間でなければ、決して見えてこない高みというものが、現実にははっきりと存在しています。
できうるなら、まわりの人間が暗い情熱に取り付かれてそういう落とし穴に引きずり込まれそうになったときには、その手をしっかりと握りしめて引き上げてあげることのできる人間にまで、なってほしいと思います。
みなさんにも一刻も早く、森羅万象の圧倒的な広がりの中で生まれた生命現象が、精神を持った人間となるところにまで育まれ、ここまでの高みに上り詰めたという事実を見ていただきたいと願ってやみません。
そうして同時に、ここまでの高みにあるからこそ、同じだけの責任をもって、最大の自負とともに歩んでいかなければならないのだ、ということも、身を持った実感としてふまえておいてほしいものです。
0 件のコメント:
コメントを投稿