2011/05/15

指導のための心構えとはどういうものか (2)

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(1のつづき)


 精神的に「人の上に立つ」という場合には、すでに「人柄」として当人に定着したような性質なども大きく左右してきます。
指導というものを命がけで突き詰めている人ならば、眼が合っただけで後進が泣き出したり、感極まってへたれこんだりといった経験がいくらかあるのではないかと思います。しかしそういった属人的な要素は、とりあえず考慮しないことにしましょう。指導者についての理論でも、こういった、いわゆる資質特性論というものは、被指導者との関係性を考慮しないという致命的な欠陥によって、現在では顧みられることはありません。

 さて人柄といった、指導者当人の属人的な要素を捨象することにすると、必要なのは、人間とはどういうものか、という人間一般論です。今回は、「人間とは、対象に目的意識を持って働きかけるものである」というとても大きな規定でとどめておきましょう。ここまででも、十分に指導について考えてみることはできるからです。
 またその人間観という土台の上に、指導者としての条件として、上で述べてきたような、指導者は「個人としてではなく被指導者との関係性を大事にするものである」という仮説を加味しておきましょう。

 ここをあわせたうえで崩して言えば、「指導者とは、高い目標を目指し、積極性を持って、被指導者を引き上げつつ歩んでいこうとする人間である」ということになります。
ここまで一般的な言い方であれば、ほとんど反論の余地はないはずです。
もし、「いやウチでは、私だけがガンガン前に進んでも周りはついてきているよ」と言った反論がありうるとするなら、その場合に被指導者がついてくるのは、組織的な権威や暴力的な統制力によって従わされているだけであり、そういう意味では優秀なのは指導者ではなくて被指導者なのではないですか、と皮肉の一つも言いたくなるところです。

 さて、この原則があれば、論理的帰結として、指導者はワンマンではない、個人的な発展ではなく組織全体としての前進を再優先する、手段は選ばないといったような倫理観に欠けることがない、などといった個別的な特質も導き出せることを覚えておいてください。わたしが「論理的帰結」と言うのは、原則を踏まえれば、自ずと導き出せる個別の結論のことです。似たようなことばに「論理的強制」がありますが、あちらは消極的な意味を強調した言い方です。こうしたやり方で考えることができれば、やや複雑な要件を考えてみても、被指導者を引き上げるためになら、表面上の厳しさをも厭わない、ということも引き出せます。

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 このような方向性で「指導」ということを考えるとするなら、
相手がいかなる鈍才であろうとも、被指導者が伸びないことを彼女・彼のせいにはできないのですから、
どんな障壁があったとしても、それは指導者自身の努力によって乗り越えねばならないことになります。
(ここには、被指導者の意欲の向上を試みる、どうしても振るわない場合は除名する、などといった具体的な方策も含まれてきますから、「指導者独りでがんばれ」ということではありません。)

 ですから、自分がいかに経験があり、被指導者の振る舞い方を見ていてあれやこれやの欠陥が目についたとしても、
いちいち指摘していては本人を混乱させてしまうことを、相手の立場に立って考えられなければなりません。
つまり少し引いた視点で眺めてみて、当人の最も根本的な欠陥を指摘できなければならない、ということになります。
ここはたとえば、自動車の運転であれば、被指導者のハンドル操作が安定しないことを見てとって、「近くではなくてもっと先を見なさい」とアドバイスしたり、けん玉のやりかたであれば、数撃ちゃ当たるのまぐれ当たりに頼ろうとする当人の姿勢をみてとって、「腕ではなくて膝を使いなさい」とアドバイスしたりする、という表象段階の指導へと繋がってゆきます。
弁証法が身についている人であれば、個別的なあれやこれやの知識ではなく、失敗の原因となっている大本を指摘することが本当の上達へつながるという意味を見てとって、「ああここは<否定の否定>だな」と受け止めてくれるでしょう。

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 ここを学問的に整理して言えば、指導を考えるに当たっては、それを受ける被指導者の立場に立って、指導者が目指している過程的構造の理解に、被指導者がどれだけ追いついてきているか、と問わねばならない、ということをわたしは述べているわけです。
とくに初学者にとっては、指導者の指導の意図を精確に読み取ることはどうしても不可能ですから、彼女・彼らなりの実力で想像したものを指導者の力であると勘違いしてしまい、「これくらいやっておれば点数をもらえるだろう」と無意識のうちに手を抜いてしまいがちです。そこでの根本的な甘えに加えて、とにかく評価されたいあまりに「点数がとれさえすれば過程はなんだっていいだろう」という思惑が働いてしまいがちでもあるのです。
ですが同じダーツの80点でも、素人がはじめて投げてとった80点と、プロが経験を活かして打ったところの80点では、まるで意味合いが違います。
ですから指導者はなおのこと、弟子たちがそのときにとった成績に一喜一憂するのではなくて、その過程はホンモノであったか、と問うてみることのできる実力がなければなりません。

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 わたしにも、こんなことがありました。
 ある人に太極拳を教わったときに、型についての全体像がわかってきましたから、自分なりにそれを噛み砕いて理解しようと試行錯誤したときのことです。わたしはそれまでにもあるところで武道の心得があったので、そこからの類推として、技が身につくためには人間体に頼って力任せに突くのではなくて、その過程に含まれている複雑な動きを、毎回同じ速さ、動作で再現できなければ武道にはならない、という問題意識をもってことにあたっていました。現象としては、先生の動きを、できるだけ遅い動作でなぞってみることになったのですが、ある学生さんがそれをみて、「なんとも弱そうな突きをしていますね!」と笑って評されたのでした。わたしはその感想も無理もないことだと思いましたから、「そうだね。まだまだ修行が足りないよ」と一緒になって笑っていたのですが、あとで知人が、「お前は昔、なにかやっていたろう」と指摘してきたのです。彼は中国出身で、国境警備隊(軍隊の中でも最も厳しい部隊のひとつです)をした経験がある人でしたから、わたしの意図していることが見えたのでしょう。そのあと二人で、それぞれの経験について話したところ、彼がなるほど、死ぬ一歩手前のシゴキを受けていた経験を持っていたことがわかりました。

 彼のいた部隊では、手のひらを握り合って作ったこぶしで、手の甲の骨が見えるまで腕立て伏せをしたりするようで、訓練全般がそのような肉体も精神もすり減らすような厳しさを持っているために、死傷者には事欠かないというのです。命を失った同期の亡骸にすがってわんわん泣く両親の姿を見ていると、明日は我が身か、残された病気の母親はどうなるのだろう、と気が気ではなかったと言っておられました。しかしわたしたちはたとえどんな場面であっても、こういった意味でのシゴキはされたくありませんし、させたくもありません。そしてまた、する必要もありません。
こういった指導は、被指導者の内面を見るという手順を飛ばしてしまって、厳しいシゴキのなかで優秀な成績を残したものだけを篩にかけてしまえばよい、というやり方です。
芸術、学問、武道をはじめ、あらゆる道の上達の過程においては、どうしてもシゴキは必要ですが、その目的はなにも、落伍者を発見して潰しにかかることにあるのではなくて、「あなたの想像しているよりも、もっと上の技がありますよ、あなたの考えている努力ではまるで足りませんよ」ということを、身に染みて実感させ、全身に・脳髄に叩き込むことにあるのです。

 そういった、どこまでが必要なシゴキであるかを把握するための前提として、被指導者の本質的な発展を願うならば、どうしても彼女・彼らの認識についての理解が必要になってきます。
これは、本質的な段階では、どんな道においても一致しています。

(3につづく)

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