もっと砕けた話もしたいのだけど…
どうでもいい話のあいまに本日の革細工。 |
わたしが使ってるこのBlogは、GoogleのBloggerっていうサービスを使っているのだけど、
編集画面を見ると、書きかけの記事がずらっと並んでいる。
実を言うと、続きものの連載は、前もってほとんど仕上げたあとで、
「予約」という機能を使って、自動で公開されるようになっているのだ。
まあそうはいっても、読者のみなさんからの反応などを見ながら、寝る前に読み返してちょこちょこ手を入れたりしているうちに長くなったり、また独立した記事を書く必要が出てきて、けっきょくそんな記事ばっかりになってしまっているわけだ。
論理、理論、認識、弁証法、うわあ。
◆◆◆
まえに、友人に頼まれて名刺ケースつくったら、 ほかからも「私も、ワタシも」と言われてこうなった。 |
「なにやら小難しい理屈でもって、無駄な解釈を付け足している」
というように見えるらしい。
しかしそれは事実とは逆なのであって、
論理というものは、複雑な現象を、実践上の必要に照らして
「捨象」(必要なものだけを残して他を棄てる)しているのだから、
むしろものごとはシンプルになっているのだ。
なにも、付け足さず、なにも、引かない。
本質というものはシンプルなのだ、
そのことに気づいた人にとっては、わたしの文章なんかは、
「ああまたおんなじことを言ってやがるな」
という印象でしかないであろう。
とくに、ここでは込み入った議論はできないものね。
それでも、ここでこんなに手を変え品を変え、
ただひたすらに同じことを述べているというのは、
それでもやはり、「論理というものを見える」までには、
飽くことのないただひたすらの思考実験の繰り返しが必要だからである。
要は、読者のみなさんを、なんとかしてそこまで運んでゆきたいのだ。
ここに託したわたしの歩みというのは、その一念だけに支えられている。
◆◆◆
模様がつながってるでしょ。 となりあった革素材からつくったからだ。 きょうだいであっても違いがわかるように、縫い目を少し変えた。 |
友人がほしいから、といってしまってもよいかもしれない。
友人と言っても意味は広いのだけれど、
わたしにとっては、一発ずつ頬をひっぱたき合ったあとで、
同じ方向を向いて、わははと肩を組んで笑いあえるような間柄である。
もっとも、うしろからレンガでゴツンとやるようなのは、喧嘩とは言わない。
もちろん、大先達のなかには、そういった対等な喧嘩相手であったひとたちも、
これからもおそらくずっとそういう付き合い方をしてくれる人もいる。
もしかしたら、わたしのまだ気づいていない人たちだっているかも知れない。
しかしながら、彼女や彼らがどこにいるかというと、ほとんどが本の中なのだ。
まあそれでもいいじゃん、ってことなのかもしれないが、
仮にも教育やら指導やらに手を突っ込んでいる関係上、
自分の敵ひとりくらい作れなくてなにが指導か、ということも言える。
◆◆◆
こっそり、コバのところに模様を入れた。 渡した相手は気づいてなかったようだけれど、それでいい。 細部の工夫というのは、使っているうちに浸透してゆくものだから。 |
「ああ、頼むから、もうちょっとがんばってついてきてね。
ほら、山の頂が見えてきたような気がしない?
いやいや、あそこまで行ったら見えてくるって!」
というメッセージを、ちょっとずつ入れているのだが、
はたしてうまく、伝えられているか、どうか。
はたしてうまく、だまくらかして、おんなじ山頂まで、あわよくばその先まで。
わたしがここや、他のところでことばや作品を発表しているということは、
その望みをいまだに捨てきれないからである。
まあ、100年経ってから、
「なんだ、あのおかしなヤツもわりとまともなこと言ってたんじゃん」
ってことになっても、それはそれで誇り高いことだけれど、
目の黒いうちにそういう人物と出逢えて、
対等に喧嘩できたのなら、人間として、身に余る、しあわせ。
0 件のコメント:
コメントを投稿