2011/05/19

指導のための心構えとはどういうものか (補):自転車ツアーの論理的把握

◆余談◆

 こんな文字ばっかのBlogを見に来るという酔狂な読者のことをちょっと考えて、補論しておきます。


 まさかと思いますが、自転車ツアーについて学問的な理解をしたい方がいるかもしれないので以下の仮説を提示しておきます。論理をみてとれる方になら、以前にお話しした趣味のレベルを理性的な段階へと押し上げる際にも必要な考え方であることがわかります。


 この仮説をふまえようとすれば、
たとえば対象論における「安全」とは、自分自身の身を守るという対内的な対象であり、
たいする「良識」というのは自分以外の関係者・関係車との対外的な関係性としての対象であり、
そのどちらもが旅の過程を楽しむという目的論に照らして必要なのだ、
だから、目的地に着くということではなくて過程を「こそ」と示す必要があるのだ、
というふうに自転車ツアーについて一般的に理解したうえで、それぞれの区別と連関を意識しながら仮説として持ち、実践に向きあう中で理論を確かめ発展させてゆけると思います。

◆◆◆

 この一般論は、自転車ツアーに関してわたしが勝手に弟子入り(=私淑)した人物の背中を見ながら、「あれ?なぜそこで後ろを確認したのだろう?」、などと気づいたことを書き留め、ともにツアーを経験する中での「なるほど!」の連続の中から引き出してきたものです。わたしは、彼の背中から学び、足りない経験を記録の中から追体験して、自転車を使っての旅のすべてを教わってきました。
 そこでの結論は、自転車の旅といっても、その個々の過程の中にあるものは、「徹底して研ぎ澄まされた認識の、確かな組み立て方である」、というものです。

 批判に対していつ反駁してもよい机上の学問とは違って、刻々と変わりゆく状況の中での自転車の操作というのは、一瞬の判断の誤りが致命的な事故につながるのですから、実のところたいへんにシビアなのです。ここを後進ととものツアーともなれば、無事に帰ってきたからよかったよかったなどと、持ち前の運の良さに人命を預けることなど到底できません。わたしはこの一般論をはじめとした自転車ツアーの論理的把握によって、致命的な事故を未然に防ぎつつ、得難い経験をすることができてきました。わたしが勝手に学んできた自転車の師匠、ならびに、意識せずとも論理化に力を貸してくれている友人に恵まれ、幸せだと思っています。
 ともあれ、わたしたちの安全を保証してくれているのは、やはり認識とその組み立て方、つまり論理であったと思える段階にまで来たので、この自転車ツアー一般論は、仮説の段階ではあっても、前科学的なたたき台(=実践の中で試されることで科学的な段階へとなりうる)として的を射ているのではないかと期待しているものです。

◆◆◆

 実践的理論家・理論的実践家というのが、一般から見れば気狂いと呼ばれるのは、あらゆるものについて現象的理解で満足できず、ものごとの立体構造にわけいることの歩みを決して止めないからでもあります。

 ところが、指導のはずがナアナア主義や単なるシゴキになったり、自転車ツアーをしているつもりが目的地にゆくためだけの手段に転落したり、森羅万象の一般性を理解するべく哲学をしているつもりが個人的な思いを総合しただけの思想になったり、学問をしているつもりが個別の事象にとらわれて研究になったり、武道をしているつもりがルールありきのスポーツになったりするといったような陥穽が待ち構えており、さらにそれが無残な結果を残しているのを見ると、その失敗からの教訓として、是が非でも目指す道についての科学的な一般論を持たねばならないと決意を新たにさせられます。

 またこれは、後進の本質的な発展を願う、指導に責任を持つ者としての、基本的な姿勢でもあります。

(了)

0 件のコメント:

コメントを投稿