2011/07/05

どうでもいい雑記:道路はどこを歩くべきか (2)

(1のつづき)


このように、「社会的な約束が存在すること」と、それが、ほかでもないその社会を構成しているはずの「当人に認識されていること」とは相対的に独立しています。

つまり、規範があっても当人が知らない場合もある、ということです。

これが、法律や交通法などとして明文化されている場合にはまだしも、それが暗黙のうちの規範である場合には、当人がどれだけ目的意識的にそれを読み取ろうとしているかによって、その認識の度合いが異なってきます。

たとえば、わたしたちは日本の道路が左側通行であることは知っていますし、当人の自由意志を押し通して逆走でもしようものなら、国家意志を執行する警察に追われることにまでなるでしょう。

ところが、同じ規範でも明文化されていない場合、たとえばエスカレーターの上り下りについての暗黙的なルールを知らない場合には、関西圏での「急ぐ人は左側を歩く」というルールを他の地域に持ち込んだりすると、他の通行人の妨げになってしまいます。
こちらは法律として明文化されていないので、これがかどで罰せられたりはしませんが、規範が十分に理解できていなかったことによって問題が起きた、ということは事実です。

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こういった暗黙のルールは、自分の赴く先での見聞や、実際の経験をとおして知ることになってゆきますが、それを習得するにもある程度の目的意識が必要になってきますね。

わたしたちが日々やっているような、「道路を歩く」という行動ひとつとっても、目的意識的に見ることができれば、そこでの規範を読み取ることができるようになってきます。

車道については、自動車という乗り物が人間自身の力を大きく越えていることから、明確化されたルールに従わねば危険が伴うものですが、歩道についてのルールについては通行人たちに任されているようにも思えます。
とくに国土の限られていることに伴って道路幅も狭い日本にあっては、自転車の位置づけが明確ではないために、歩行者のためのものであるはずの、歩道での自転車の走行が珍しくありません。

そういうことから、歩行者どうしのすれちがいや追い抜きならば問題が起こらないはずのところを、歩行者は歩道を歩く際にも、人間の力を越えるものの存在をあるていど意識しておく必要があるわけです。

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ここではあまり複雑な事柄に触れることはしませんが、たとえばわたしのばあいは、町中では誰かと2人で横に並んで歩く、ということをしません。

しない、というよりも、日々注意していることなので、誰かと横に並んだとたんに居心地が悪くて仕方がなくなるために、(そういう動き方を)できない、と言ったほうが正確かもしれないほどです。

同じく町中では、正面から背後にのびる縦の向きの、いわゆる「導線」と呼ばれる規範についても、やはり同方向に進んでいる人や自転車と、同じ側を歩くようにしておくのが基本だと考えています。

そのほかにも細かなことを言い出せばきりがありませんが、わたしの場合は些事にわたってこんなふうですから、とにかく町中では、心休まる瞬間というものがまるでありません。
人だけが多いところはこういう疲れ方はしません(他の疲れ方はする、ということです)が、人と自転車が混在しているところでは、疲れないほうがおかしいと思います。

とにかくはやくそこから抜け出して、どこかの店内に入って座るか、公園にでもたどり着かない限り、身体の横の広がり、縦の広がりは常に明確に意識するようになってしまっています。

こういうことを意識していると、もし誰かと横に並んで歩いたときには、その人のふるまいかたを通して、当人の注意力が自分と比べてどのようなものであるか、ということがわかります。
これは注意力が高いか少ないかというよりも、「注意する気があるか、ないか」という言い方の方が正確だと思われるほどに、明確な差があるものだからです。

横に並んで歩く人と同じほどではないにしろ、道行く人たちの注意力も、その視線や身のこなしといった振る舞い方から、やはりある程度は読み取れます。

こういったことを手がかりにして、武道家ならば、街中では周囲の人間が一斉に斬りかかったときにでも対処できるような身のこなしを常に想定しているところですが、そこまでしなくとも、「前からくる自転車は動きに安定感がない。道路状況の変化には対処できないだろう」と把握しておけば、目の前にある並行段差にも注意しておくことができます。

◆◆◆

ともあれ、ここまで論じてくることに若干の空しさを感じざるを得ないのは、わたしから見たときに、「注意力のある」という人物には、ほとんどお目にかかれないからです。

そういうことが理由で、いつもはトレーニングの行き帰りの、往復30分強の自転車での移動ですら、交通量の少なくなってくる21時過ぎを選ばざるをえないわけです。

ずいぶん遅くに走られるのですね、と言われますが、なにも日焼けしたくないからではありません。
交通状況が、わたしから見て危なすぎるからです。

曲がり角を全速力で駆け抜けてくる自転車や、
歩道を横3列に並んで走る自転車、
無点灯かつ携帯電話をいじりながら走行する自転車などなど、
まったくとても正気とは思えない、と言うと言いすぎでしょうか。

◆◆◆

道路を人々が移動するときの規範というものを、自分の認識の中に像として持っておくためには、道を行き交う人々のふるまい方を目的意識を持って見ることを通して、「交通とはどういうものか」という一般像として把握しておかねばなりません。

道行く人々のそれぞれに、ここまでの理解が不可能だとしても、せめて
「自分と同じくらいの注意力の人間が、曲がり角から同時に曲がってきたらどうなるか」
くらいのことは想像してみてほしいところです。

原因は様々でしょうが、最近になって、自転車が関わる重大な事故が問題視されていることは、現代人の身体運用能力と、注意力の低下が著しいものであることと無関係ではないはずです。

これまで述べてきた「規範」は、どんな形をとっていようと社会的なものですから、問題が立て続けに起きれば、社会の成員が暗黙的なルールですませていたところを、明確な取り決めとして整えねばならなくなります。

今回の場合であれば、自転車の運転技術が審査されるということが免許として制度化されるわけですが、その内容如何によっては現在当たり前のように運転している大部分の操者が、運転することができなくなってきます。

人間というものは、望む望まぬに関わらず社会的な存在ですから、自分の振る舞いがいかなる規範をつくりあげてゆくか、ということは、意識しておきたいものです。

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