2011/12/15

【メモ】自然・社会・精神の重層構造について

先日の記事で、弁証法の概念規定について確認しなおしたので、前にレジメにつかった図表を貼っておきます。


それぞれの歴史の区分と時代区分は便宜的なもので、わたしがそれぞれの歴史をA3のレジメ1〜2枚で説明しきれるようにわけたものですが、それなりに合理的だと思っています。(各レジメについては、まだ完成版ができていないので公開するかどうかすら未定です。)


それぞれの歴史のなかの赤い線の長さは、それに含まれている歴史の長さに対応しています。


たとえば、137億年ぶんの「宇宙の歴史」内にある赤い線は、46億年分の「地球の歴史」がそこに入れ込まれていることを示しており、続く歴史も同じようになっていますから、わたしたち人間の歴史が、宇宙や地球の歴史に比べればいかにわずかな歴史しか持っていないことがわかりますね。

もし地球が生まれてから現在までの歴史を1年間のカレンダーで例えると、
・3/4に最古の生命が、夏前に光合成をする生物が生まれ、
・11/19にカンブリア爆発と呼ばれる無脊椎動物種の爆発的な増加が起こり、
・12月の中頃から恐竜が栄えたあと12/26に恐竜が大絶滅し、
・12/31の昼過ぎ12:35には人類が誕生し、
・12/31の深夜23:37に、やっとホモ・サピエンスが誕生したことになります。
(学研の図鑑より)

わたしたちの暮らしている地球は、こういう時間をかけて育まれてきたところです。
こう考えると、地球の資源やエネルギーのことも、少しは身近に感じられるのではないでしょうか。

◆◆◆

専門家が土台なしのセクト主義に走るばかりの現代においては、「一般的に知る」ということを、単なる雑学の寄せ集めや、大雑把な素人知識、といったように考えてしまう傾向は根強く、学問をするにあたっての<基礎教養>の必要性がほとんど無視といってもよいほどに軽視されています。

それでも、身近な例については、土台から考えなおすための基礎教養としっかりとした論理性があれば、なぜそんな論争が起きてしまうのかが客観的に整理でき、核心的な問題を追い詰められることがほとんどです。

たとえば、地球は温暖化しているのか寒冷化しているのか、といった議論があるようですが、地球とはそもそも、火星と共に太陽から振り飛ばされた惑星なのですから、とてもとても熱かったものが、しだいに冷えて固まりつつあるというのがいちばんの基本線です。
それでも地球は、火星と違って月が媒介となって太陽からの熱をちょうどよい具合に受け止めることができたという幸運のために、冷えると共に冷え切らないという運動を持つことができたことによって、現在の生命に満たされた独自の力を身に付けていったわけです。

そうすると、あの問題は、地球は基本的には冷えてゆく運命にあるが、それでも太陽のおかげでとても緩やかなものなのであり、さらには一定の周期を持っているのだ、ということが言えることがわかります。
議論を闘わせている両者は、それぞれ長期的に見た時と、短期的に見た時のデータから自分の主張を引き出してきているのですから、実のところ、どちらも限られた範囲では正しいのですが、ただ弁証法的にあれもこれも、と考えられないために、相手を排斥する向きにエネルギーを使ってしまっているのですね。

◆◆◆


さて脱線しましたが、もし「弁証法は、自然・社会・精神を貫く普遍的な法則」である、と出てきた場合には、一般的にでも上に載せた図のような像が描けていなければなりません。

ここで注意しなければならないのは、現時点から見た時のイメージのまま「自然」と「社会」と「精神」を別々のものとして、すでにあるものとして扱うのではなく、すでに生成して発展してきたその過程をこそ探求して、自然から社会が、社会から精神から生成されてきたところからその流れを、つまり過程的な構造の中から論理性を把握してゆかねばならないということなのです。

言い換えれば、社会には自然が土台となった重層的な構造があり、精神には自然を土台とした社会が土台となった重層構造があり、現在ではそれらのあいだに相互浸透が起きているというわけです。

◆◆◆

ひとつの道の探求というものを、受験勉強よろしく個別的なバラバラの知識のまる覚え的にイメージしてしまうと、あらゆる本を死ぬまで読み続けなければなにもわからない、それどころか死ぬまで読んでも結局なにもわからないままで死ぬのだ、という諦観にもたどり着きかねません。そうでなくとも、今こうしている間にも自分の知らないところで自然も人間の世の中も変化し続けているわけですからね。

たしかに、ゆく河の流れは絶えずして、というように、世の中は変わり続けています。
弁証法でも、すべてのものは変化するのだ、変わらないものは何もないのだと教えますが、それと同時に、それがひとつの河であるということも同じく真実なのだということも教えます。

変わりゆくはずの現象を捕まえて、ひとつの名前を付けられるのはなぜか、明確な概念規定をすることができるのはなぜかといえば、わたしたちは現象の中からその構造や、その本質を引き出して、アタマの中の像として持つことができるからです。

わたしはいつも、現実が複雑で解き明かすことができないように思える時にこそ、その土台にあるものは何か、それが今の形にまで生成し発展してきた過程はなにかと問いかけるように言いますね。
その相互浸透のあり方は、変わりゆく現象があるからこそ変わらぬ本質があるのであって、そしてまた、現象の「変わり方」・「流れ」がどういうものであるかを把握することが、つまるところ歴史性、歴史的な論理性であることを示しているわけです。

専攻する分野の専門知識は当然ながら必要ですが、基礎的なところでもったいない踏み外しをしないように、基礎鍛錬をこそ欠かさぬようにしましょう。
学問をとおして人を幸せにしたいと望むなら、それがいちばんの近道です。

1 件のコメント:

  1. 宇宙の歴史~人類史まで、そんな中では存在がほとんど確認できない自分。ちっぽけな自分。
     でも私にとっては自分が世界の全て…。自分なしには私の世界は存在できない!のである。

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