2011/12/20

文学考察: 破落戸の昇天(修正版ー2)

三度目の正直になるでしょうか。



◆ノブくんの評論◆

文学考察: 破落戸の昇天(修正版ー2)
破落戸(ごろつき)であるツァウォツキイは、妻と2人でとても貧しい生活をしていました。そんな彼は、自身が破落戸であるために妻に貧しい思いをさせている事に関して、日々心苦しさを感じていました。ところが、彼はそうした自分の気持ちを妻に素直に伝える事が出来ず、どういう訳か、それが罵声となって表れてしまいます。
ある時、彼はこうした現状を自分なりに解決しようと、賭博に持っていたお金をすべて使ってしまいます。その挙句にお金は全て騙し取られてしまい、途方に暮れた彼は自らの命を断ってしまいます。
その後、自殺を図ったツァウォツキイが辿り着いた場所は死後の世界でした。そこで彼は自分の中にある、悪の性質を取り除く光線を浴び続ける罰を課せられることとなります。同時に彼はそこで、一日だけ娑婆に帰り、やり残した事をやり遂げる権利を与えられたのです。彼はこの権利を一度は断ります。ですが、罰を与えられ続けた末、生きているうちに見れなかった自分の娘をこの目で見たいと思うようになり、やがて自らそう申し出てきました。こうしてツァウォツキイは、実の娘と対面するチャンスを得ることになります。しかし、肝心の娘は彼の事など知る由もなく、突然現れた見知らぬ訪問者に、彼女は玄関の戸を閉め拒絶しようとします。この娘の行動に彼は我を失い、怒りを顕にし、なんと彼女に手をあげてしまいます。そして、我に返った彼は恥ずかしい気持ちになりながら、もといた世界に帰り、やがてその行動が仇となり、地獄へと送られる事となったのです。
 
この作品では、〈表現の中に何か別のものが含まれている事は分かっているものの、それを上手く言葉で説明できない事への悩み〉が描かれています。 
まず、上記のあらすじにもあるように結果として、ツァウォツキイは他人に優しくすることが出来ず、地獄へと送られてしまいました。ですが、彼自身全く妻や娘に対して、優しさそのものがなかった訳ではありません。事実、彼は貧しい生活をしている妻に対して、不憫にすら思っていたのですから。しかし、それをどう表していいのか分からず、それがどういう訳か罵声や手を打つ等の表現に変わっていったのです。そして、そんな複雑な彼の気持ちとは裏腹に、死後の世界の役人などの周囲の人々は彼のことを、「ツァウォツキイという破落戸は生きているうちは妻に罵声を浴びせ、死んでも尚娘に手をあげるどうしようもない下等な人間」とみなしていました。
ですが、一方で彼の気持ちを「ある程度」理解できた人々もいました。それは、彼に罵声や暴力をふるわれた、妻と娘に他なりません。娘はツァウォツキイに手をあげられながらも、その事に関して「ひどく打ったのに、痛くもなんともないのですもの。(中略)そうでなけりゃ心の臓が障ったようでしたわ。」と、奇妙な印象を持っているのです。そして、それを聞いた彼の妻も、声を震わせているあたり、その人物がツァウォツキイだと直感したのでしょう。まさに彼女たちに起こっているこれらの現象は、彼の気持ちを「ある程度」理解していたからだと考えて良いでしょう。そして、ここで「ある程度」と断らなければ、彼女たちが、暴力(表現)の中にツァウォツキイの彼女たちへの優しさがあった事は突き止めることはできていますが、その中身(何故ツァウォツキイが暴力的にならなければならなかったのか)を特定することが出来なかったからという一点に尽きます。だからこそ妻は、彼の葬式で彼が死んだことを周囲の人々にあれこれと言われても、反論は出来なかったのです。また、娘が手をあげられた事件が起こって以来、彼女たちはその事に関して閉口していましたが、この事に関しても、上記と同じ理由が当てはまります。つまり彼女たちは、表現の中身が特定できず、死人故聞くに聞けなかった為、結局本心が分からず口を紡ぐしかなかったのです。


◆わたしのコメント◆

初出の評論、書き直しから考えると、文章そのものの質はずいぶん良くなりました。
ここでの「質が良い」というのは、丁寧な語り口の中に、作品や筆者にたいする敬意が感じられる、という意味です。

一般的な指摘はあとで述べるとして、まずは個別的なアドバイスからはじめましょう。(記事を独立させました。師事するための認識的な欠陥については、明日公開の記事で述べます)

今回の作品を読解する鍵は、「主人公である「ツァウォツキイ」が、衆目からは破落戸(ごろつき)と見做されていること」に対して、「妻や娘からは感情表現が下手なだけで、心底の悪人ではないことが知られていること」のあいだに、矛盾があることにあります。

ここが、<非敵対的矛盾>であることは前回お話してきたとおりですが、そうすると、この両者はなんらかの形で<矛盾の統一>をはかってゆかねばなりません。
どんなときにも、本質的な前進がなされるときには、一見したところの矛盾を、単に「あれかこれか」と考えて、避けられない対立、二律背反のように受け止めてはいけないのです。

「矛盾とは相容れないものである」という素朴な常識が通用しなくなるのはまさにここにあるのであって、あれもこれもが正しいようだと判断されるとき、つまりそれらが<非敵対的矛盾>であるとみなされるときには、その構造に目を向けた上で、その矛盾を統一する形に持ってゆこうとする発想がなければ、ほんとうの意味での前進は達成し得ないのです。

◆◆◆

今回の矛盾が、いかにして統一されるかを答えから言えば、ツァウォツキイの振る舞いにたいして、衆目はその表現だけを読み取っているのに対して、妻と娘は、その表現の裏に隠された認識や人柄に目を向けようとしているのだ、ということです。

論者はそれを、〈表現の中に何か別のものが含まれている事は分かっているものの、それを上手く言葉で説明できない事への悩み〉と表現しました。
なにやら奥歯にものを挟んだような言い回しですが、これはわたしが、「学問用語を評論中に使ってはいけない」と言っているために、表現が制限されているように考えたせいかもしれません。

前回指摘しておいたような、作品の一般性を、「〜という男」といったような「登場人物の主体」に置き換えて探し回るという誤り方からは、ようやく抜けだす兆しが見えているようにも思うのですが、やはり作品の一般性を「〜という悩み」という「主体が持っている気質」に帰してしまっているように見えることについては、しばし静観して注視せねばならないところです。

一般性は、あくまでも作品全体の本質を取り出したものでなければならず、登場人物がどうであるかや、その者がどんな気質を持っているかなどを書き抜くものではありません。
「表現の中の何か別のもの」という言い方についても、「対象→認識→表現」という、表現における一般構造をあれほどくどくど説明されている側からすれば、「表現の中の何か別のもの」は、表現の受け取り手がとらえた表現者の「認識」なのだと判断できてもよさそうなものです。

◆◆◆

わたしがこの作品について<一般性>を与えるとなったときには、この作品は<ある人の表現は、その本心をそのままに伝えているとは限らない>ことを言いたいのだ、と表現するでしょう。

やや一般的すぎるような印象を受けるかもしれませんが、筆者が冒頭に、こういうときに読んでほしい作品だと書いていることからも根拠付けられていることがわかります。抜き出してみましょう。

「これは小さい子供を持った寡婦がその子供を寐入らせたり、また老いて疲れた親を持った孝行者がその親を寝入らせたりするのにちょうどよい話である。」

小さい子供にとっては、大人から叱られたことをそのままに受け止めてしまい、心から叱った相手にさえもずっと苦手意識を持ってしまうこともありますから、この物語は、その経験を苦いままに放っておかない手助けにもなるでしょう。
また老いて疲れた親が子どもからこの物語を聞かされるときには、「あのとき叱られたことの本当の意味が、今ならよくわかります」というメッセージを受け取るのと同じことなのですから。

ここで引き出した一般性から、「誰かに叱られたときには、その人がほんとうになにを伝えたかったのかを考えてみなさい」といった教訓も、特殊性として引き出すことができますね。
叱り方ひとつとっても、優しさゆえの叱責があり、恋心ひとつとっても、秘す恋がありうることは、いくらわかりにくく、理解できる人間が限られているにせよ、人間にとって見過ごしてはならない事実であり、そのことを鮮やかに描き出すことが文学者としての使命でもある以上、正しく読み取らねばならない構造を含んでもいるわけです。

◆◆◆

さて、一般性についての検討は以上のようなものですから、今回の評論の評価としては、まだ合格点には達していないものの、次回以降については期待が持てるまでに本道には戻ってきつつある、というのがふさわしいところでしょうか。

ただ、先程も言ったように、文章全体にたいする心配りは、少なくとも論者の今いる段階に照らしてよく成されており、一般性を引き出したあと、それに従って全体を何度も繰り返し読んだ上で、細かな表現にこだわりを持って評論に取り組んだという形跡は十分に見ることができます。
たとえば、妻や娘が主人公の表現を「ある程度」は理解していた、としたうえで、「さらにそれはどの程度なのか」というところにまで考えを進めて、納得の行く自分なりの答えを考察しているところは評価できます。

ただし、こんな回りくどい言い回しをしなくとも、前述のように、妻が周囲の人々とは違って、主人公の「表現」だけにとどまらず、「表現」を遡って彼の「認識」にまで立ち入ろうとしたからこその理解なのだ、と言ってもよかったのではないでしょうか。
そこで、妻の、他者の感情に対する認識力と、その人を理解しようとする姿勢を明確なことばで表現できたのなら、その妻が、夫のいない間に娘をどのように育ててきたからこそ、一目も見たこともない父への娘の理解力が発揮されることになったのかという過程的な構造を、さらに深く掘り下げて理解できるようにもなったはずなのです。

次回以降の評論について、期待することにしましょう。

◆◆◆

また評論中には、作品を誤解している箇所がありますので指摘しておきます。

・あらすじ中に「その挙句にお金は全て騙し取られてしまい、途方に暮れた彼は自らの命を断ってしまいます。」とありますが、主人公はあくまでも自分の悪い企みによって命を落とすことになったのであって、人に騙されたというような事実はありません。

・最後の解釈について、妻と娘が、死んだ夫の来訪をそのあと口外しなかったのは、なにも彼の本心をすべて理解できなかったからではありません。細かな表現として、論者は「閉口」という言葉の意味も大きく誤解しているので、辞書をきちんと調べておいてください。意味のわからない言葉は使ってはいけません。

文中に、「その後二人はこの時の事を話さずにしまった。二人は長い間生きていた。死ぬるまで生きていた。」とある後ろの二文は、自殺してしまった主人公と違って、現世に未練のない生活をさいごまで送ったことを指しているのですから、妻も娘も、死んだはずの夫の来訪とそのふるまいについては、自身がわかるようにわかったことで満足していたと理解するのが自然なところでしょう。

冒頭に筆者が、「小さい子供を持った寡婦がその子供を寐入らせたり」するのにもってこいだと言っているのは、この物語の最後が、主人公のふるまいを含めて幸せなものに落ち着いたのだということをもって、安心して眠りなさいね、というメッセージを伝えたかったからでもあるのですから。
最後まで読むと、妻は主人公の葬式で、周囲からの「あんな人間は死んだほうがあなたのためだったのだ」、という発言に(あくまでも発言者の立場に二重化して)一定の理解を示してはいるものの、それでもやはり、「あの人は振る舞いは悪くとも内心は良い人なのだ、最後までなにも言ってくれなかったけれどきっとそうだ」、という一念を捨てきれなかったために、最後の娘の発言に、「「わかってよ」と、母は小声で云って、そのまま縫物をしていた。」と答えるシーンがとても印象深く残ることになっているのです。

ここで、妻は16年も心に抱えていた、「夫は悪人だったのだろうか」というわずかばかりの疑念が晴れたとともに自らの直感が正しかったことを知り、「ああ、やっぱりあの人だ」とわかったことが、論者には鮮明に描けているでしょうか。
だからこそのハッピーエンドなのだと読み取れているでしょうか。

どうですか、まだまだ不明瞭だったところがあるでしょう。
自分のわからなさがわかったのであれば、答えは近いのですから、精進あるのみです。

◆◆◆

また青空文庫に掲載されている作品中に誤りがあります。(こちらは当然ながら、論者の落ち度ではありません)
・主人公の名前は正しくは「ツァウォツキイ」のようですが、「ツァツォツキイ」という誤りが1度、「ツォウォツキイ」という誤りが2度あります。

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