2012/05/13

文学考察: 牛鍋ー森鴎外

ひさびさの評論記事です。


たいへんおまたせしました。


◆文学作品◆
森鴎外 牛鍋

◆ノブくんの評論◆
文学考察: 牛鍋ー森鴎外
ある食卓で1人の男と女、そして7つか8つの、男の死んだ友達の子供(以下少女)が牛鍋を囲んでいました。その時男が黙々と肉を食べている最中、少女も肉に箸をつけようとします。ところが男は少女に対して、「待ちねぇ。そりゃあまだにえていねえ。」と言って、なかなか肉を食べさせようとはしません。ですがどうしても肉を食べたい少女は、どの肉もよく煮えだした頃に、少し煮えすぎたものや小さいものを口に運んでいきます。そしてそんな少女の姿を見て、男はとうとう箸をとめてしまうのでした。 
この作品では、〈他人の子供であるにも拘らず、少女にある優しさを見せる、ある男〉が描かれています。 
この作品は上記にあるように、他人として互いに少女と肉を巡って争っていた男が、少女の必死で肉を食べようとする姿に憐れみを感じて、やがて争う事をやめるところまでが描かれています。
そして著者はこうした男の姿と親子で餌を奪い合う猿の親子の姿を比較することで、この男の行動から人間としての特殊な部分を引き出そうとしています。というのも、著者はこうした餌を巡る争いと譲り合いは猿等の世界にも存在しているものの、人間のそれは動物のそれよりも一線を画していると考えているようです。では、動物と人間ではどこがどのように違うのでしょうか。
まず、著者が着眼した箇所は動物は親子でなら食べ物の争いを無闇にはせず、多少自分の食べたいという欲求を抑えて子供に餌を分けることもありますが、人間の場合は他人という、もっと広い範囲でそうした譲り合いが起こっているというところです。では、何故人間は動物よりも、より広い範囲で他人の為に自分の欲求を抑えることができるのでしょうか。それは、ひとつには人間には動物よりも複雑なコミュニケーション能力を持っており、それを使う範囲が動物よりも遥かに広いという事が関係しているのでしょう。というのも、動物の場合も人間の場合も声を出して他人になんらかの情報を発信することが出来ますが、その表現の幅は人間の方が明らかに広いのです。動物は「逃げろ」や「餌がある」など単純な事は説明できますが、その理由などは説明できません。一方、人間は動物よりも遥かに複雑な「言葉」を用いて現在の自分の状況やある場所での出来事を細かに説明できます。また、その活用の範囲においても、動物は餌の事や天敵の存在の事など、使う状況は限られていますが、人間の場合は特にそうした生命に関わる事でなくとも、互いに自分たちの近況を話していることだって頻繁にあります。ですから、人間は自分の状況や状態を動物よりもより細かに伝える事ができ、そうした情報を得る機会も多いのです。更にそうして集めた状況を私達は自分たちの頭の中で想像し、鮮明に描こうとします。そして、こうした情報のやり取りと想像が私達に他人への同情の心を与え、他人に対して優しさをおこすのです。

◆わたしのコメント◆

この物語の登場人物は、次の3人です。
・三十前後の「男」
・男と懇意にしている「女」
・七つか八つ位の「娘」

この物語では、牛鍋をつつきあう「男」と「娘」が描かれています。
男の妻であろうかと思われる「女」については、男のことをしきりに気にかけて、彼のために酒を注いでいるばかりで、男と娘のあいだにあるせめぎあいに目を向ける余裕すらありません。そのために、主だった登場人物は彼女を除いた二人であるとしてよいでしょう。

この作品の構成はといえば、大きく分けて2つの段落があります。
前半では、娘と、彼女が鍋から牛肉を引き上げようとするたびに、「待ちねえ。そりゃあまだ煮えていねえ。」とそれを制止する男の姿が描かれています。
後半では、彼らの姿と浅草公園の猿の母子とを対比させて、筆者は「人は猿より進化している」と記しているのです。

◆◆◆

物語の焦点はといえば、筆者が「人は猿より進化している」としているその論拠にありますから、論者の引き出した一般性では物語の主意を捉え損なっていることになります。

しかし、この物語の一般性、ひいては森鴎外作品の一般性を取り出すのは、なかなかに難しいことであることも理解できます。

論者の修練のあしあとを見ると、先日まで菊池寛作品に集中的に取り組んだあと、次にこの作品の筆者である森鴎外に白羽の矢を立てているのですが、論者の立場になって森鴎外の作品を見ると、これはさぞかし面食らってしまったのではないかな、と思わせられます。

というのも、菊池寛の作風が、登場人物の人情を鮮やかに描き出しながら、さいごには一定の落とし所を見出す、つまり明確な「オチ」がつくものが多いため物語全体の流れを把握しやすいのに比べると、森鴎外作品というのは、ただ淡々と情景を描いているだけに見えるからです。

(文学専攻のひとたちへ:
ひとつ注意すべきことは、だからといって森鴎外が極端な写実主義者や客観主義者だと考えるのは誤りです。彼は自らを理想主義者と規定しており、坪内逍遥との没理想論争などを起こしたほどですから。このあたりの事情については、大まかには知識的にも知っておく必要があり、また歴史性を担わんとする諸氏においては「文学とは何か」という大きな流れを捉え返しての文学者としての論理性の把持が必要ですから、日本の文学史には自らの責任で触れるようにしてください。インターネットで集められる情報は、ゴシップ的なものが多いために、細かな知識は手に入っても大きな流れを踏まえ難いものが多いため、まずは薄い本でかまいませんので通史的な書籍を探した上であたってください。)

◆◆◆

そのような事情があって、森鴎外作品の一般性を引き出すとしても、その作品のどこにも訓示的なものが見当たらず、またこれといった落ちも見当たらず、といったところで右往左往してしまうのも無理のないことだと言えるでしょう。

それは今回の場合でも多かれ少なかれ同様の作風なのですが、だからといって、論者の言うように、特別な記述のない価値観を押し付けて物語を解釈してしまってはいけません。
作中の男はなにも、「少女にある優しさを見せ」たから、娘に牛肉を取ることを許したわけではありません。

わたしは常々、「行間を読む努力をしてください」という表現を使いますが、これは当然のことながら、記述されている事実的な表現を、自分の頭の中にあらかじめ用意した価値観に照らして解釈しなさい、と言っているわけではありません。
あくまでも向き合う対象(作品そのもの)に忠実に読むことを通して、「直接の表現としては描かれていないが、このときこの人は確かにこのような気持ちであったはずだろう」などといった感情や情景を自らの脳裏に描いてみることができなければならないのです。

(学習の進んだ人たちへ:
このように、「論理的な事実を引き出すこと」と「あらかじめ用意した価値観を対象に押し付けて解釈すること」は質的に違うものなのだ、といくらいっても、頭の堅い人たちは、行間を埋めるのが主観であることに変わりはない以上、作品や人間真理をどのように読んでも読み手の勝手である、などと屁理屈を言ったりする場合があります。


しかしこのような発想は、古代ギリシャの哲学者、とくにプラトンがソクラテスの名で語らしめている産婆術が、人類が持っている論理性の原基形態であることを見落としていることからくる誤りです。
そうであるからには、この誤りに落ち込んでしまうというのは、その当人の論理性を2000年前まで後退させてしまっている、ということなのです。


ひとつの表現を正しく理解するというのは、ある表現を「表現者の認識をたどり直す」という客観的な関係が結ばれていることをもってはじめて成立するものです。(参考文献:三浦つとむ『芸術とはどういうものか』)
屁理屈を言ってみるのも、もとの立場に戻ることさえ出来れば有意義なこともありますが、ミイラにならないように気をつけてください。)

◆◆◆

余談が多くてすみません。
色々な段階におられる読者の方々に向けて文章を書くことにすると、どうしてもこのような表現形式をとらざるをえないことがあります。どのような読み方であっても、落とし穴に嵌った「ままに」なってほしくないという思いを込めての表現ですので、ご容赦いただれば幸いです。(何回も言いますが、頑なでさえなければ、屁理屈をこねてみることも時には上等の修練になるのです。これは観念的な反面教師であり、論理性からいえば対立物の相互浸透、否定の否定です。難しければ遠慮なく聞いてくださいね。)

それでは、ということで、この作品の焦点、筆者が「人は猿より進化している」と主張する論拠はなにかを考えるにあたって、どうすれば作品に忠実に理解することができるのか、と考えてゆきましょう。

まず物語の前半部で、男と娘の牛鍋をめぐっての争いが展開されますが、そのとき男は、娘にたいして優位な立場にあります。娘が牛肉をとろうとするときには「そりゃあまだ煮えていねえ。」と遮るわりには、自分はせっせと肉を口に運んでいるのですから。ここには、論者の言うような「優しさ」はありません。
しかし娘も、男の振る舞い方に、子供相手でも遠慮がないことを驚きの目をもって読み取ると、男の食べた横の肉を取るなどの工夫をしながら、自らの取り分を確保するようになるのです。

◆◆◆

前述したように筆者は物語のさいごで、これを猿の母子と比べています。その箇所を書き抜いてみましょう。
母猿は争いはする。しかし芋がたまさか子猿の口に這入(はい)っても子猿を窘(いじ)めはしない。本能は存外醜悪でない。
箸のすばしこい本能の人は娘の親ではない。親でないのに、たまさか箸の運動に娘が成功しても叱りはしない。
人は猿よりも進化している。
四本の箸は、すばしこくなっている男の手と、すばしこくなろうとしている娘の手とに使役せられているのに、今二本の箸はとうとう動かずにしまった。
永遠に渇している目は、依然として男の顔に注がれている。世に苦味走ったという質(たち)の男の顔に注がれている。
一の本能は他の本能を犠牲にする。
こんな事は獣にもあろう。しかし獣よりは人に多いようである。
人は猿より進化している。
ここに、同じフレーズが2回でてきていることに気づいてもらえたでしょうか。
それは、「人は猿よりも進化している。」という箇所なのです。

たしかに表現は同じですが…

とまで言えば、「あっ、もしかして!?」と、大きな手がかりにまた気づいてもらえたでしょうか。

論者の現在の実力と問題意識からすれば、このヒントで答えに近づいていってくれるのではないかと思います

そういうわけですので、いいところですが、いったん筆を止めることにしましょう。
わかったところまでを教えてください。

この作品を独力で正しく読めれば、筆者の他の作品についての読み方も自ずと浮かび上がってくるはずです。

2 件のコメント:

  1. >作品や人間真理をどのように読んでも読み手の勝手である、などと屁理屈を言ったりする場合があります。
    >屁理屈を言ってみるのも、もとの立場に戻ることさえ出来れば有意義なこともありますが、ミイラにならないように気をつけてください
    >頑なでさえなければ、屁理屈をこねてみることも時には上等の修練になるのです。これは観念的な反面教師であり、論理性からいえば対立物の相互浸透、否定の否定です。

    昔は父から「お前は、いつも…ああ言えば~こう言う~」
    今は家内から「私が何と言おうが…○○○さんは、絶対に黙っていないで、必ず反論する!でしょう。」
    と言われている私です( 家内は私のことを○○○さんと呼びます )。
    今後も~感情的になり過ぎて「元の立場」を見失わないよう~気を付けます。

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  2. 追伸:
    父の言葉は「お前は、いつも…ああ言えば~こう言う~こう言えば~ああ言う~」でした(ミスりました)。
    最近の父は、私が屁理屈で返したり、かわしたり、逃げたり、するほどのきつく鋭いことは、言わなく?言えなく?なってしまい、今の今まで正確に覚えていませんでした(スミマセン)。

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