自転車ツアーへ行っておりました。
道中、思いもかけずレザークラフトのある分野の第一人者と知り合い、自分の作品を見てもらうという幸運に恵まれました。
わたしにとってのその人は、芸術論の実践にと革という素材を選んで2年と少しの、若輩もいいところの自分にとっては雲の上のような存在の方ですが、とても熱心に製作工程まで遡って見てくださり、なおのこと激賞までいただいてしまったとあっては、満足にお返しする言葉すらなく、ただただ呆然とするばかりでした。
人生とは不思議なものです。
数年前、失意のうちにある学会を出ることがなければ、
それでも日本の文化を本質的に前進させることだけは諦めきれなぬのでなければ、
また寂しさの中での旅で手持ちの革ケースが水に濡れて縮んだのを見ていなければ、
至らぬ技術で作った作品のオーナーが喜んで使ってくれているのでなければ…
という、ありとあらゆる「でなければ」がひとつでも欠けていれば、この日という時も訪れなかったのだな、という思いが、いま頭の中を駆け巡っています。
このことだけでも細い細い綱の上を渡るようなものであるのに、たまたま通りがかった地方の商店街で、ふと目についた個展に足を運んだということが、これほどまでの転機となろうとは、三文小説家でも書くことを躊躇するほどの、あまりにも出来過ぎた話です。
わたしの動きの鈍い頭では、まだまだ満足にことの事情が飲み込めずにいるのですが、しかしともかく、まったくの偶然、たまさかの僥倖にだけその身を委ねているわけにゆかないことだけは確かです。
世にある、人知れず本質への道の努力を続けておられる人たちのためにも、この仕合せにあぐらをかかず、両の足でしっかりと前に進み、確かな文化と理論を残してゆこうと祈念する次第です。
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さて、今回見てゆくのはたいしたものではないのですが、冒頭の写真のとおり、大型のバッグです。これは、キャンバス(画板)を入れて持ち運びデッサンするためのものですね。
こう書くと、熱心な読者のみなさんは、「あれっ、たしかにここでは革細工はよく見るし、去年は彫刻もやっていたと言っていたが、平面造形のデッサンもしているとなると、それは立体造形とどういう関連性があるのかな?」と思ってくださったかもしれません。
新しい読者の方は、単に「へえ、色々やるものだなあ」という感想かもしれませんね。
前者の疑問をいきなり抱かれた人は相当な人物だとお見受けしますが、結論から言えば、デッサンというものは、芸術にかんする基礎修練のうち、平面でも立体でも変わらずいちばん必要なものだ、と言っても間違いにはならないと思います。
そもそもデッサンとは何かといえば、鉛筆や絵コンテで画用紙にただ描く、というものでしかなく、平面造形の素描のようなイメージがあり、作品が完成したときにはもはや姿が見えなくなってしまうので、「ある程度できればよい」という捉え方をされることもあるでしょう。
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しかし、自らの専門分野がどういうものであろうとも、その上達の方法を正面に据えて扱うのなら、「完成すれば素描は消える」という見た目だけの現象に惑わされることなく、上達のためには一体「何」を、「どのように」取り組むべきなのか、ということを、その構造に立ち入って考えておく必要があります。
今回はせっかくデッサンのお話になったので、上達論のほんの入口として、少し考えてみましょう。
上達論のない人は、やってもやっても上手くならないどころか、やればやるほど下手になる場合すらあるのですから、実は、とてもとても大事なことなのです。
美大の実技を通るためだけにデッサンをする場合には、ただそれなりに上手ければよいという論法になりがちですが、先ほども言ったようにここでは、そういった見た目上のことがらではなく、その構造に目を向けてゆきたいところです。
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正しいデッサンとは、単に(筆の運びが)上手いデッサンのことを言うのでしょうか?
いいえ、そうとは限りません。
デッサンをするためには、そこには対象となるものを正しく認識することと、それを表現へと正しく写しとるための技術が要るからです。
ここで注意すべきなのは、この二つの構造は相対的に独立しているということです。
この結果、見えてはいても表現できなかったり、大して見えていなくても表現はできてしまったりすることが出てきます。
たとえばりんご一筋40年の農家のおじさんは、対象となるりんごを一目見て、その色・艶・形を、品種や味の良し悪しまで判別できるレベルでよく見ることができますが、その認識に鉛筆の運びという技術がついてくるとは限りません。
それとは逆に、美大に入るためにりんごのデッサンは毎日のようにしていたので、何も見ずともそれを描けるまでになってはいても、ただただ技術を磨くことに忙しく、またそれに満足してしまい、対象をよく見るという姿勢や習慣が失われてしまっている場合もあるでしょう。
これらの相対的な独立を見るという実力を養っているのでなければ、美術家としては、単に絵が上手い「だけ」の人になってしまったり、美術実践の指導者としては、学生のデッサンのまる覚えの惰性的な繰り返しを見抜けず、両者の性質が相まって、芸術に絶対的に必要なはずの創造性を欠いた学生を育ててしまうことにもなりかねません。
ひとつの対象を見てそれをデッサンするということは、単に鉛筆を走らせる技巧や、練り消しゴムの先を尖らせてうまく光沢を表現するといった技巧、つまり技術の側面だけに限ることではなく、「対象をよりよく見る」ことに、もっと主眼が置かれるべきなのではないかと思いますし、なおのことそこを、より目的的に取り組む必要性が理解されるべきではないかと思います。
単純化して言えば、認識できないものは表現しようもないのですから。
その意味で、水彩画・油絵などの平面造形の場合はもちろん、立体造形の場合にも、扱う対象をよりよく見るために、認識する力を高めることは必要なのであり、またそれを高めるための指導が必要なのであり、その基礎修練としてデッサンは大きく必要とされるはずのものです。
ここでの記事を、本当に熱心に読んでくれる方は、このように考えてゆく姿勢を、自らの専門分野を歩むために、ここで扱われている対象の扱われ方、つまりその論理構造に目を向けて読み進めてくださっている方であると思いますので、今回もそういう意味で役立ててもらっていれば、いちばんの役目が果たせて嬉しく思うところです。
認識と表現の相対的な独立の構造を、自身の専攻する分野の上達の問題として考えてみてください。
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さて、今回はたいして書くこともないと思っていたら脱線が高じてここまできたのですが、バッグ自体はいたってシンプルです。
余った革と余った帆布を組み合わせて、創作活動に必要なものを作っただけですから。
強いて考えてもらえるところがあるとすれば、ひとつには、バッグの表情になっている部分のデザインが、どのような根拠に拠っているのか、というところでしょうか。
コンチョつけないと気持ちが入らないのです。 |
上の写真を見ると、長めにとられた肩掛けベルトの留め具が、やや傾いて着けられていますね。
このボタンが2つずつ、正面には合計4つつけられていますが、このボタンと中央のコンチョはどういう位置関係にあるでしょうか。
また、コンチョがより上だったりより下だったりした場合には、どのような違いが現れてきたと思いますか。
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もうひとつ考えるべきところがあるとすれば、バッグ上部の両サイドにつけられたミミの部分です。これにはどんな機能があるかわかるでしょうか。
ヒントとしては、次の写真です。(猫は関係ありません)
帆布は生成りなので、絵の具がついて汚れてくると実に良い感じになるはず。 |
今回のバッグは素材となる帆布の大きさが限られていたのもあり、画板がややきつめに収納されるようになっていることがわかり、製作途中であわてて着けました。
ゆったりめなら必要なかったかもしれませんが、ミミがあるほうが便利なのは間違いないでしょうね。その機能を考えてみてください。
今回は軽い準備運動でした。
次回の記事では、残りの帆布を使ったものについて触れてゆきましょう。
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